『アンテルナシオナル・レトリスト』 訳者改題

 ここにはレトリスト・インターナショナルの最初の機関紙『アンテルナシオナル・レトリスト』紙(1952年11月−54年6月)全4号のうち最初の3号を翻訳した。第4号(1954年6月)は機関紙というより1枚のビラで、おそらくパリの街を歩くドゥボールら4名の写真と「自由の戦争は怒りとともになされねばならない」というスローガンが書かれただけのものである。
 第1号は、ドゥボールらレトリスト左派がイズーら設立当初からのレトリストと分かれ、レトリスト・インターナショナルを結成する契機となった事件であるチャップリン訪仏糾弾行動の経緯を伝えるパンフレットの形式をとっている。テクストには日付はないが、内容から1952年11月に発行されたものと考えられる。第二次大戦期の『殺人狂時代』や『独裁者』などの作品により非米調査委員会の赤狩りの対象にされていたチャップリンは、1952年9月18日、メロドラマ『ライムライト』のイギリス公開のため家族とともに欧州行きの船に乗るが、翌日、米国司法長官マグナラリーは、反米的言動を理由に再入国を許可しないことを発表、その後、チャップリンは米国を追放されてスイスのローザンヌに居を構えることになる。この旅行の途中で、チャップリンはフランスに立ち寄り、フランス国民の熱烈な歓迎を受けた。ドゥボールらはその犯罪性──映画的後退、スター性、警視庁長官からの叙勲など──を攻撃の対象にし、パリの高級ホテル、オテル・リッツに押しかけて糾弾のビラを撤いたが、イズーらはその行動を日和り、チャップリンを擁護する大衆迎合的な弁明をヨンバ』紙に発表した。このことが直接のきっかけになって、ドゥボールらはイズーらを除名し、レトリスト・インターナショナルを結成するのだが、その底には、創造者としての芸術家を「神」と同一視するイズーの神秘主義的思想への根深い反発が作用していた。
 第2号は、固有名詞も文の頭もすべて小文字のタイプで打たれ、急ごしらえのビラといった体裁である。このテクストにも日付はないが、内容から1952年11月中旬以降に発行されたものと考えられる。レトリスト・インターナショナルのメンバーとして、第1号の署名者(「レトリスト・インターナショナルの立場」に署名したドゥボール、ブロー、ベルナ、ヴォルマンの4名)の3倍の12名の署名があり(「マニフェスト」)、彼らの陣営が拡大していったことがわかる。
 第3号は、大きな1枚の紙にさまざまな種類の活字で印刷されており、かなり立派な新聞といった体裁である。これには1953年8月」の日付があり、発行責任者はB=D・ブローで、編集長はG=E・ドゥボールである。また「50フラン」の定価が付けられ、「法定献本1953年 第3四半期」の記述もあって、合法的に販売された形跡を装っている。この号では、「レトリスト・インターナショナルアルジェリア・グループ」の結成、シュルレアリストとイズーに対する糾弾行動、『サドのための叫び』、『アンチコンセプト』に続く彼らのさまざまな映画の製作、「転用」による物語の製作、新しい演劇活動などについての記事があり、レトリスト・インターナショナルの多方面での活動が精力的になされていることがうかがえる。また、スペイン革命への訴えやアルジェリア人民への連帯など、政治的立場も明確にして、レトリスト・インターナショナルの方向性が定まってきたことがわかる。この立場は1954年6月に発行される第4号の「自由の戦争」すなわちアルジェリア独立戦争への呼びかけに通じているが、これはアルジェリア民族解放戦線(FLN)が蜂起を開始する1954年11月に先立つものであった。

第1号   

第2号   

第3号