サイバネティクス研究者との往復書簡

訳者改題

アブラハム・A・モール──便箋のレターヘッドから判断すると、文学博士(哲学)、科学博士(物理学)、技師、教授助手(ストラスブール大学)、EOST教授──は、1963年12月16日、次にあげる、『シチュアシオニスト・グループヘの公開書簡』を送ってきた。

 拝啓
 私は、同僚であり友人であるアンリ・ルフェーヴルを通じて、シチュアシオニスト・グループの存在を知りました。したがって、私が「シチュアシオニスト」という言葉に付与する意味は、大部分、彼が私に話してくれたことと、あなた方の機関誌の何冊かの読書に由来します。その定期講読をお願いしたく思います。
 私が「状況」という言葉から取り入れる解釈は、ここではもっぱら個人的なものであり、あなた方の解釈とはおそらく一致しないかも知れません。私たちがそれぞれ自分のものとして感じている、科学技術(テクノロジー)の疎外という個人的なドラマを前にして、また、芸術作品という言葉の意味すら破壊してしまう芸術作品の抑制のきかない消費を前にして、そして、麻酔の幸福とか、ヴェインス・パッカードに親しい、〔新法規に〕組み入れられた訴権消滅時効といった、いくつかの概念を前にして、ゴルドマン氏が言うところの、電気掃除機の神秘性をともなったり、ともなわかったりする、冷却された社会の、どこに創造的な独創性を位置づけることができるのか、何人もの個人が自問しているように思われます。テクノクラートサイバネティクス研究者たちが──私もその1人なのですが──30億の昆虫のデータを次々をカードに整理していくにつれて、その隙間の自由は、少しずつゼロに帰着して行くのです。
 日常生活は状況の連続です。これらの状況はかなり限定されたレパートリーに属しています。このレパートリーを拡大することができるでしょうか? 新しい状況を見つけることができるでしょうか? ここで「シチュアシオニスト」という言葉が意味を持つと思われます。私は、1つの状況とは、短期的な反応のシステムに結びついた感覚のシステムであると思います。確かに、あなた方の出版物の中に、あなた方が「状況」と呼ぶものについての研究があればいいと思っているのですが。何らかの理由で地面でなく、むしろ天井を歩く人は、新しい状況の中にいるのでしょうか? 綱渡り芸人は珍しい状況にあるのでしょうか?
 2つの特徴が、この概念を高く評価することを許すように思われます。まず第1に、私たちが知っている状況全体に比べて、与えられた状況の新しさがあります。旅行者にとって、外国語はたくさんの新しい状況をもたらします。そして、そこには明らかに距離の偉大さがあります。つまり、彼が外界で感じる「奇妙さの量」です。私たちは、日常的に、そのために1つの行動を創造しなければならないような少しだけ新しい状況を生きています。この単語〔新しぃ状況〕は、ここでは単なる統計的な性質しか持っていません。Xに当てはまることは、Yには当てはまりません。しかし、その中で、個人が、「少しおかしな(スライトリー・クイアー)」行動や知覚を組織的に探究する「マージナルなシチュアシオニスム」というものもありえると思います。
 新しい状況の重要な源泉が、非常に多くのありふれたミクロ状況の途方もない集積から生まれるでしょう。これが、グレアム・グリーンの執筆テクニックの価値をなすものです。彼は、引き締まったシークエンスの中に非常に多くの平凡な行為を寄せ集めるのですが、それらの行為は、その集積によって並はずれたものになるのです。外界に、正確にか、合理的にか、あるいは慣習的に結びついた基本的な立場の1つ1つは、完全に普通に見えるでしょう。何千人ものブルジョワが、各瞬間ごとに、そのような立場にいます。状況の特殊な集合は、並はずれて大きなものです。なぜなら、状況がこの順番に継起することは、「いつもはない」ことだからです(『恐怖省』、『イスタンブール特急』、『第三の男』)。情報の理論家たちは、このようなシステムがもたらす新しさの量を(まったくの理論上)計測することができるということをお知らせしておきます。
 さらに、本質的に珍しい状況というものもあります。たとえば、同性愛は、統計的に幼椎でまっとうな性愛よりも稀です。3人でするセックスは、合法的な交接より稀です。1人の男──あるいは女──を殺すのは珍しい状況であり、それゆえ興味深いものです。社会的自由の範囲の外へのある程度の逸脱〔=遠出〕によって計られる、状況に付与される量は、交通規則に対する一連の軽い違反よりも大きくなります(ドストエフスキーを参照してください。というのも、この分野で推理小説は、シチュアシオネル(!)で、おまけに虚構の統計しかもたらさないと私には思えるからです)。科学技術(テクノロジー)が、全員による全員の管理や、基本的な行為の母体や、各人の瞬間ごとの思考内容を記録する機械をもたらした暁には、私たちの隙間の自由は、まもなくゼロに帰着するでしょう。
 たまに規範から大きく逸脱するか、あるいは、しばしば、ほんの少しだけ逸脱するか。この点で、状況の2つの「次元」が現れてくるのが見えます。つまり、その本質的新しさと、その集積の希少さです。
 社会は、この前者を、社会道徳とかファイルとか資料カードとか薬局での処方箋などを結びあわせた武器によって、ますます管理しています。社会は、後者をまだ十分にうまく管理していません。平凡な小さな逸脱の新しいパターンによって、シチュアシオニストの意味で、「独創的な」生をまだ生きることができると思われます。シュルレアリストたちは、シュルレアリスムの最大の敵は、肉体的疲労か、知的勇気の貯えの枯渇であり得るということを発見したとはいえ、その日常生活において、このことをすでに予感していました。
 しかし、自動車や冷蔵庫や電話といった、私たちの生きている科学技術文明を、私たち自身が受容することに対して、意見の不一致がない限り、科学技術の方向においてこそ、私たちは新しい状況を探究しなければならないと思われます。あなた方の運動がこのことをどこまで受け入れるか、私は疑問に思っています。技術の変化を土台とする新しい状況を定義することは、非常に簡単なことのように思われます。その変化の物質的諸条件は、すでに実現されているか、実現可能なものか、理性的に構想可能なものだからです。たとえば、無重力で生きること、水中に居住すること、天井を歩くこと、もっと一般的に言えば、奇妙な環境の中で生きることは、古典的な意昧での技術によって、私たちにもたらされた状況です。
 技術は私たちの日常生活から遠く離れていると考える人もいます。しかしながら、それは、サーモスタットのついたレンジを持っている夫婦は新しい状況を生きていることを理解しないことになるでしょう。このような例から、明らかに、シチュアシオニスト哲学にとって重要なのは、ある状況の心理的影響です。
 ここで、1つの方策が見えてきます。それは、慣例主義の社会的原動力はどこにあるのか、社会学者に尋ねることです。最も明らかなものの1つに、性的行動があります。これは確かに、多くの新しい状況をもたらすことができます。二対の乳房を持つ女の製造は、生物学的に考案可能ですが、疑いもなく伝統に対する生物学の提案です。伝統的な2つの性に加えて、1、2、3、n個の異なる性の創出は、置換の定理に従う性的組合せを提案し、急速に巨大化する数(nの階乗)の恋愛状況を示唆します。
 変化の、ゆえに状況のもう1つの源泉は、私たちの感覚の開発に立脚しうるかも知れません。たとえば、「嗅覚」芸術は、もっぱらひどく性的にされた記号体系の中でしか、発達してきませんでした。それも、むしろ両性間の闘争の武器としてであって、決して抽象芸術としてではありません。芸術の領域では、近い将来、技術の諸能力から、他にも非常に多くの状況が生まれるでしょう。もし、アメリカの監督が、シネラマを、まして、サークロラマをどうしていいのかわからなくても、そこに、新しい芸術の源泉を期待することは、おそらく正当なことでしょう。〈全体芸術〉の夢は、芸術的想像力の貧困によって制約されています。
 マイケル・ヤングが「功績主義体制(メリトクラシー)」と呼ぶものを土台とする社会階層を含む社会では、何か起こるでしょうか? そこでは、社会階層が、国家の法律の中に書き込まれているのです。確かに、それを予示するのは、社会学的フィクションの任務です。事実、私たちが知っているような日常生活は、無視できるように見えるかもしれない逸脱によって、無限に新しい状況を提案することができます。私は、たとえば、先験的(アプリオリ)には偶然ですが、決定的な類別に基づいた男と女の間の大きな区分のことを思い浮かべます。生物が、その生存中に性を変えることは、もはやまったく考えられないことではありません。すると、まず始めは、個人的な性格を持った、次いで、社会的な性格を持った新しい状況は、完全に構想可能です。こうした状況を研究することは、シチュアシオニスト・インターナショナルの役割の1つであると思われます。ただ単に、女に対する男の魅力のベクトルと男に対する女の魅力のベクトルが、現在の統計学的規則である一時的な非対称ではなく、対称であると仮定するだけで、劇や映画や文学や具象芸術の90パーセントは、取り替えられなければならなくなるでしょう。
 この列挙は限りなく続けることができるでしょう。しかし、一言で言えば、もし私がよく理解しているならば、シチュアシオニスムが自らに課している目的の1つであるらしい、新しい状況の探究は、比較的容易であると思われます。また、それは、なかでも、さまざまなタブーのせいで、実際上、手付かずのままになっている生物学的技術がもたらすものの研究と結びつけられねばならないように思われます。
 要約すると、
1 あなた方の運動に対する私の関心は、科学技術(テクノロジー)による幸福を強いられている社会の中で、新しい状況を探究するという基礎理念に由来するものです。
2 「状況」という言葉は、あなた方に固有の展望の中でもっとうまく定義されるか、再定義されるべきでしょう。あなた方の教義の中でこの言葉を関係づけることが、必要なように思われます。とくに、ある状況の新しさという価値の尺度は欠かすことのできない基準であると思われます。
3 たくさんの新しい状況を見つけることは難しくありません──私はここに一ダースほど列挙しました──が、推論をもっと先に進めることができます。新しい状況は次に挙げるものから生じるかも知れません。
a 合法的な自由の場の内部で、とりわけ、性的領域と生物学的領域において、私たちの実際の自由をいまなお拘束しているタブーの侵犯から
b デュルケムの社会学の意昧での「犯罪」から
c 規範の近くでのわずかな幅の多くの奇妙な逸脱から
d 最後に、科学技術(テクノロジー)、すなわち、自然の法則に対する人間の権能から

敬具


モールヘの返事、1963年12月26日

 愚か者め、
 われわれに手紙を書くのは、まったく無駄なことだった。みんなと同じように、すでに確認していたことだが、おまえの直接の機能の行使から抜け出るようにと、おまえを誘う野心は、常に失敗をもたらすのだ。なぜなら、何であれ、他のことについて考える能力は、おまえにプログラミングされていないからだ。
 したがって、おまえがシチュアシオニストの読書から、何も理解しなかったということを知らせる必要もないくらいだ(明らかに、そのために必要な基礎がすべて、おまえには欠けていたのだ)。終了。おまえの計算をやり直せ。モール、おまえの計算をやり直せ。それが、どんな実証的な結果が出ても、決しておまえからは奪われない満足感なのだ。
 われわれにとっては紛失〔=錯乱〕していたが、さまざまな人々が読んだおまえの「公開書簡」を探していたのは、おまえのような類の存在から、われわれに宛てて差し出されるものは、侮辱の手紙以外ありえないと思っていたからだ。それですらなかった! おまえの手紙がおまえの鈍重さの平均値を忠実に反映したものなのか、それとも、時には冗談を狙ったものなのか知る必要はない。それは、まちがった設問というものだ。なぜなら、われわれの見るところでは、おまえにできることはすべて、おまえの存在そのものである、あの冗漫で下品な冗談に合まれているからだ。
 おまえのプログラム製作者が、おまえにまとわせた人間の見かけを知れば、おまえがn組の乳房を待つ女の生産を夢見ていることを理解するだろう。おまえがそれより少ないことで対にされる〔=交尾する〕のは難しいんじやないかと思う。おまえの個人的な立場はさておき、おまえの猥褻な夢想は、おまえの哲学的かつ芸術的主張同様に、情報に通じていないようだ。
 しかしながら、それよりもっとしくじったことが1つある。おまえの便箋にもかかわらず、おまえは、大学教授の役を演じることができるように信じこませるには、あまりに粗雑なロボットだ。多くの欠陥があるとはいえ、ブルジョワ大学は──おまえがかくも優美に体現しているサイバネティクスによる官僚体制の前までは──教師たちに、職業的客観性のいくばくかの余地を残していた。優秀な生徒たちが、試験官とは反対の意見を持った場合でも、彼らの研究の現実性が認められることがある。それにとりわけ、彼らに反対して、抑えつけられている大学外の不満の種が、それが引き起こす結果とともに、無邪気にも前もって言明されるということは、決してないのである。だが、おまえは、たまたま手に入った大量の権威に大喜びするような成り上がり者で、初めての復讐の機会を逃すことができないのだ。このようにして、惨めにも(「卑劣漢のように」という意味と「それは失敗だった」という意味で。1つの単語の反対結合的な価値について熟考せよ)、おまえは、短い足で全速力で走って、去る6月の試験で、われわれの若い同志の1人を落第させようとしたのだ。おそらく、おまえは、彼の知性と人間性を羨んだのだろう。おまえは、この攻撃に失敗したからといって、われわれが、おまえの行為を忘れるとでも思っていたのか? 誤りだ、モール。
 おまえのような機械たちが、公的な方法で、とうとう誰かの上に立ったとしよう。そして、そのばかげた決定を尊重させる権力を持ったとしよう。すると、彼らはちょっとした刺激で、自らを解き放つのだ。だが、出世欲に駆られてきた後で、この権力は、まだ何と弱々しいのだろう。われわれはおまえを嘲笑する。
 とはいえ、われわれは皆、おまえの今後の経歴を、それに値する注意で見守っていることを信じてくれたまえ。

ギー・ドゥボール


告知

 シチュアシオニストは誰も、毎日正午から1時まで散歩するほど、パレ・ロワイヤル公園を愛好する趣味は持ち合わせてはいないので、われわれに会いたいと思う出版社や資金提供者や映画のプロデューサーなどは、パリの私書箱75−06号に手紙を送ってほしい。
 それが純粋な無私無欲からであろうと、いくつかの賢明な投資に帰属する超過利潤を期待してのことであろうと、それはわれわれにとって問題ではない。われわれは、いかなる場合も、われわれの本、雑誌、映画、あらゆる種類の作品の内容あるいは形態について、話し合う必要はないということを知るだけで十分である。その完全な自由は、SIにしか釈明されえない。


PRINTED IN FRANCE

Ch−ベルナール印刷社、パリ18区、クロワ街27番地

定価 3フラン。季刊(年間購読料 10フラン)

法定献本 2/3/64−2827