アンテルナシオナル・レトリスト 3

訳者改題


スペイン戦争を再開せねばならない

 もう15年ものあいだ、フランコが権力にしがみつき、われわれがスペインとともに失われるままにしたわれわれのあの未来の一部分を汚し続けている。われわれの友人たちがこの国で燃やした教会は再建され、円環はわれわれの最良の者たちの上で再び閉じられてしまっている。国境の地点から中世が始まり、われわれの沈黙がそれを強化している。
 この状況をセンチメンタルなやり方で考察することをやめねばならない。もうこれ以上、左翼のインテリどもに好き勝手にそれを愚弄させておいてはならない。この状況は、ただ単に力の問題なのである。
 プロレタリアートの革命的政党に対して、われわれは、つい最近、バルセロナでの大虐殺(ポグロム)に終わった新しい革命*1を支援するための武装介入を組織するよう要求する。この革命は、今度こそ、その目的を反らされないものとならねばならないだろう。

レトリスト・インターナショナルのために

P・J・ベルレ、ブル・D・ブロー*2、ハジ・ムハンマド・ダフ、ギー=エルネスト・ドゥボール、ガエタン・M・ラングレ*3、ジャン=ミシェル・マンシオン、ジル・J・ヴォルマン


言語の諸次元

 物語(レシ)はあらゆる方向〔=意味〕にたどることができる。メタグラフィックなエクリチュールの最初の粗描の後に、ジェイムズ・ジョイスが成し遂げた言語の爆発をさらに超えて、われわれには無限の表現が差し出されている。
 写真や新聞の断片をラムのビンに貼り付けて作られたG=E・ドゥボールの三次元小説『武勲の歴史』は、さまざまな思索の続きや、同時に生じるさまざまなエピソードの迷宮の失われた糸を、読者が自由に作り上げられるようにしてある。
 ブル・D・ブロー*4の『空間小説』は、概念のダイナミズムの諸ベクトルの構成要素を発見している。運動力学的な文字が概念の可逆性の存在論的性格を予示し、「偶然のたまものである文字の集合秩序を超えて、概念の身体そのものである質的文字を見分けねばならない」(ブロー)。
 ガエタン・M・ラングレは『美しいお針子』のさまざまなパラグラフを明らかにすることによって、コミュニケーションの未来にとっておそらくこの上なく決定的なわれわれの成果、すなわち文の転用という成果の方に大きく踏み出した。


新しい演劇の原理

 われわれの同志ハジ・ムハンマド・ダフがセティフでの虐殺*5に関して行った勇気ある発言は忘れるべくもないが、その彼がこのたび、北アルジェリア方言の芝居『孤児たちのセーターだけを攻撃する衣蛾』を完成した。これは演劇の上演〔=表象〕を完全に転覆するもので、そこでは文章が劇の単位と見なされている。


ニヒリストの安逸と手を切るために

 われわれは新たな現実はすべてそれ自体が暫定的なものであり、われわれを満足させるには常にあまりに僅かなものであることを知っている。われわれがこの現実を擁護するのは、よりよいやり方があるとは思えないからであり、要するに、それがわれわれの任務だからだ。
 だが、現在の息の詰まるような諸価値を前にして、われわれには無関心は許されない。それらの価値が〈牢獄社会〉によって保証され、われわれが牢獄の門の前で生きているからには、そうなのだ。われわれはいかなる代価を払っても、参加したいとは思わない。沈黙することを受け入れたいとも思わなければ、ただ単に何かを受け入れたいとも思わない。
 たとえ思い上がりからであろうと、あまりに多くの者たちと似ることはわれわれには不快である。
 赤ワインやカフェで行われる否定、絶望の基本的真理、これらのものは、沈黙の罠や100通りもある整理法に対して防衛し難い生活の成果にはならないだろう。常に変わらず感じられるこの欠如感の彼方で、われわれが愛したすべてのものの不可避でありかつ許しがたい衰退の彼方で、遊びはいまも行われ、われわれは存在している。それゆえ、あらゆる形態のプロパガンダが許されるだろう。
 われわれは、われわれに関わる蜂起を、われわれの要求に応じたかたちで、促進せねばならない。
 われわれはある種の幸福観の証人となるべきである。たとえ、その幸福観が潰えたものであることを知ったとしても。この幸福観にこそ、すべての革命綱領はまず従わねばならないのである。

ギー=エルネスト・ドゥボール


自分で見に行きたまえ

 『アンチコンセプト』*6(ヴォルマン)、『サドのための叫び』(ドゥボール)、『日常生活の小舟』(ブロー)のあとに、レトリスト・インターナショナルは現在、4本の新たな映画を撮影している──
 ジル・J・ヴォルマンの『私にはこの男が必要なの』と『弔辞』。ブル・D・ブロー『砦』。監督ギー=エルネスト・ドゥボール、助監督ガエタン・ラングレによる『うるわしの青春』。


レトリスト・インターナショナル結成への追加文書

 6月はじめに、「ポール・ヴァレリー美学研究国際サークル」がバガテル・ダンスホールで矛盾に満ちた会議を組織していた。イズーはそこで自己弁護を披露することになっていた。発言に対するピケ隊が前衛のエルヴェ・バザン*7がホールに入ることを阻止していたため、レトリスト・インターナショナルは討論に加わることを拒否し、次の宣言文を読み上げさせた。
 われわれは、今われわれに提案されている議論を拒否する。人間関係は情熱を、さもなくば、〈恐怖(テロル)〉をその基礎に持たねばならない。
 イジドール・イズーは、さもしい警察の場にわざと身を置くことによって、あらゆる対話をできなくした。
 われわれは彼の芸術批判の価値を認めたが、その次々と変わる神秘主義的動機を疑いながらのことであった。
 この公衆便所のカフカエピゴーネン〔イズーのこと〕がかき混ぜようとしている既に乗り越えられた諸問題も、われわれを目的から反らすにはいたらない。〈美学〉の決定的転覆と、〈美学〉を超えてあらゆる行動様式の転覆という目的から。

レトリスト・インターナショナルのために

ブル・D・ブロー、ギー=エルネスト・ドゥボール

ガエタン・M・ラングレ、ジル・J・ヴォルマン


トーテムとタブー

 1952年2月11日に初上映され、依然としてはっきりしない理由から検閲局によって直ちに禁止されたジル・J・ヴォルマンの映画第1作『アンチコンセプト』は、以来、非商業的な上映形態ですら再び見ることはできない。
 映画芸術の決定的転回点を画すこの映画は、一家の父と憲兵隊長とで構成されたある委員会によって公衆への公開を禁じられている。
 批評家たちの職業的頑迷さにポリ公どもの権力を付け加えて、この馬鹿者どもは自分に理解できないものを禁止しているのだ。
 『アンチコンセプト』は、本当は、『クルーゾーの報酬』*8のつまらないトラックよりもずっと大きな知性の爆弾を積んでおり、ヨーロッパであれほども長期にわたって恐れられてきたエイゼンシュテインの映像よりも今日ずっと攻撃的である。
 だが、このような作品の最も公然たる脅威は、あの一家の父と憲兵隊長どもの規準と滅ぶべき態度とに真っ向から異を唱え、傀儡の検閲官が忘れ去られる頃になって、将来訪れるさまざまなトラブルの起源として残ることにある。

ギー=エルネスト・ドゥボール

 スキャンダルは人が自殺することにあるのではなく、われわれがこんなやり方で生かされていることにあるのだ。

ジャン=ミシェル・マンシオン



レトリスト・インターナショナルアルジェリア・グループのマニフェスト

 飢えや、渇きや、生活で死ぬ者は1人もいない。人が死ぬのはただ諦めからである。
 現代社会はポリ公の社会である。われわれが革命的であるのは、警察がこの社会全体の最高の力だからだ。われわれが別の社会に賛成しないのは、警察がこの社会全体の最高の力だからだ。われわれがニヒリストではないのは、われわれが何の力もあてにしていないからだ。われわれが今のところレトリストであるのは、それより仕方がないからだ。われわれはあらゆる賃金労働が極めて退行的な性格を持っていることを意識した。複雑な諸問題を解決しないでいることが待機の時期を引き起こすが、その時期にはあらゆるプラグマティックな行動が卑劣な行為になる。というのも、その時、人生は漸近的で無報酬のものでなければならないからだ。
 要するに、われわれは天才である。そのことを今度こそはっきりと知るべきである。

アルジェ、1953年4月

ハジ・ムハンマド・ダフ

シェイク・ベン・ディーヌ

アイート・ジャフェール


漸近線を求めて(フラグメント)

 今から数週間前に、新聞が5、6行の記事で、ある条件下で手に入れた印画紙を研究した結果、アメリカの大学研究者のグループが光の速度が変化することを確認したと知らせていた。
 1950年2月にアインシユタインは科学の不確実性を嫌悪して、スピノザの調和の神を採用することにし、『相対性の意味』第3版の序文で、「神が宇宙(コスモス)とサイコロ遊びをする」ことは認められないと宣言した。
 「量子」の理論から出発してヴェルナー・ハイゼンベルク*9は不確実性の原理を確認し、連続性、決定論因果律というあらゆる科学の三位一体──それは永遠不変だと考えられていた──を破棄するにいたった。
 科学的探究の唯一の原理は、結局のところ、蓋然性の計算になってしまった。いわゆる厳密科学は、それぞれの発見の後すぐに、おくればせながら陵辱され、認識の方法として回りくどいユーモアを採用している(これらの科学にはエヴァリスト・ガロワ*10という彼らなりのロートレアモンがいたではないか)。
 パヴロフ*11の生物学とミチューリン*12の遺伝学はあらゆる規則を覆し、それらの学説のなかに造形芸術家の職人的経験論を導き入れている。文学流派が新しい美の概念をもたらすたびに、問題になっているのはレトリックの領域──と考えることができる──であるにもかかわらず、そのマニフェストが笑いの材料を提供する。その文学流派には、この真理の転覆を前にしてどのような態度が似合うのか。
 哲学は、思考の組み合わせから言葉の組み合わせに変わってしまった。「もはや思考するのではなく、積み重ねるだけだ。もはや創造するのではなく、空虚な言葉を照合するだけである。あらゆるシステムは同義語とトリックによって互いに翻訳し合うことができる」。哲学は死んだ科学になってしまった。あらゆる活動が、有効性の段階にある〈アヴァンギャルド〉のものとなった。容認〔聖別〕(理解の1段階)とは点的であり、練り上げられてきたものから消費されるものへの、個人のものから大衆のものへの瞬時の移行である。
 シェーンベルク*13の無調性はエディ・ワーナーのマンボに再発見され、ピカソによる〈対象物(オブジェ)〉の炸裂はコラン*14のポスターのなかに見つかり、エリュアールの詩法は広告の文句に見いだせる。
 表現と行動様式についてある考えを持つわれわれが〈美学〉を探究したとしても、それは恣意的な選択によるものではなかった。数学と物理学が僅かな真面目さを保持していたならば、われわれは数学者か物理学者になったことだろう。

ブル・D・フロー


ガエタンのための中国女たち

ガエタン・M・ラングレ


特別の放浪癖

 私服刑事の男女のように情交のにおいをぷんぷんさせ吐き気を催させるデデ・ブルトン*15と「青年の蜂起」派*16の連中は、かなりのところまで浮気を重ねている。これは、シュルレアリストの情報誌に載ったフランソワ・デュなんとか*17という男のある記事によってずっと前から始まっていたことだが、浮気なデデ(デデ=レ=ザムレット)が「蜂起」派と協力することによって継続することになった。
 ナジャに代わってベイロが現れると*18、それでもう狂気の愛というわけだ……。1927年にシュルレアリストはサッコとヴァンゼッティ*19の釈放を叫んでいた。1953年には彼らは、総合情報局とアメリカ大使館から助成金をえているある広告と関わり合っている。
 レトリストはすでに1947年にこう書いていた、「(……)その上、ブルトンはこれまで一度も有能な戦略家であると主張したことはなかった。彼と彼の世代の者は、あらゆる信仰に、あらゆる希望に、あらゆるブティックに身を差し出してきた。ただ、だれもその彼を取り上げることができなかったので、売れずに残ってきただけだ」。
 だが、帰還の途にある年老いた美青年の行状などわれわれにはもう関心はない。黄金時代のシュルレアリスム槍玉に挙げることが問題なのではない。ただ、マッカーシズムを信奉する禿頭の老いぼれどもやローゼンバーグの虐殺*20で儲けた株主どもの行動の、すでに歴史上のものとなったいくつかの価値を区別せねばならないだけだ。

レトリスト・インターナショナル

*1:バルセロナでの大虐殺に終わつた新しい革命 1951年3月1日、バルセロナで反政府学生ストに突入、9日には鉄道労働者も呼応し、30万人のストライキに発展した。これは、50年代から60年代を通しての長い反フランコ闘争の開始を告げるものとなった。

*2:ブル・D・ブロー ジャン・ルイ・ブローのことと思われる。

*3:ガエタン・M・ラングレ レトリスト・インターナショナルのメンバー。1954年除名。

*4:ブル・D・ブロー ジャン・ルイ・ブローのことと思われる。

*5:セティフでの虐殺 セティフはアルジェリア北部コンスタンチーヌ県の穀倉地帯の街で、アルジェの東約200キロにある。1945年5月8日の戦勝記念日に、アルジェリア各地で戦争終結の祝賀行事に集まったアルジェリア人が自然発生的に新体制を求める暴動を引き起こした。これに対して、軍隊と警察は無差別に発砲し、多数の死傷者が出た。セティフはこの時の虐殺で4万5干人とも言われる最大の犠牲者を出したことで知られる。

*6:「アンチコンセプト」 ジル・ヴォルマンのレトリスト的手法による実験映画。叫び、独白、会話、生理的音響、雑音などから成る非物語的なサウンド・トラックに、球状スクリーンの上で明滅するリズミカルな光が呼応するという形態のもので、1952年2月11日、パリの人類博物館のシネマテークで初上映されて物議をかもした。

*7:エルヴェ・バザン(1911−) フランスの小説家。代表作に『子馬の死』、『立ち上がって歩け』(共に1952年)など。

*8:『クルーゾーの報酬』 アンリ・ジョルジユ・クルーゾーの映画『恐怖の報酬』(1952年)のこと。メキシコ近くの山上の油田火災を消火するため、ニトログリセリンを積んだトラックで4人の男が山道を走る。カンヌ映画祭グランプリを獲得。

*9:ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901−1976年) ドイツの物理学者。量子力学創始者不確定性原理を根拠に、電子の軌道、周期などの模型的概念を捨て、観測可能な量の間の関係から出発して、すべての力学的な量を量子数の関数として表そうとした。

*10:エヴァリスト・ガロワ(1811−1832年) フランスの数学者。純粋数学の精緻「ガロワ群理論」の創始者で、近代高次方程式理論の先駆者。1830年の革命に関係してエコール・ポリテクニックを放校となり、過激な共和派として2度投獄された。出獄後、恋愛事件が原因で決闘をし、21歳で死亡。

*11:パヴロフ(1849−1936年) ソ連の生理学者。消化腺生理学の研究により有名な条件反射学説を提唱、人間の大脳生理学研究の先鞭を付けた。

*12:ミチューリン(1855−1935年) ソ連の植物育種家。果樹栽培において、環境が生物に与える影響を重視し、品種改良、接ぎ木、遠縁交雑などを行った。これらの技術はルイセンコによってミチューリニズムとして推奨され、一時期ソ連の生物学会を支配した。

*13:シェーンベルク(1874−1951年) オーストリアの作曲家。調性を捨て、12音技法を生み出すことによって、セリー音楽など20世紀の前衛音楽に大きな影響を与えた。

*14:ポール・コラン(1892−1985年) フランスのポスター画家。芝居の舞台装置や雑誌『ルヴュ・ネーグル』(1925年)で有名になった。キュビスムの絵画にどことなく似た、デフォルメされ図案化された画風を採用し、生涯に1200点以上のポスターを製作した。

*15:デデ・ブルトン アンドレ・ブルトンのこと。デデはアンドレの愛称。

*16:「青年の蜂起」派 1950年にイジドール・イズーモーリス・ルメートルが作った体制変革的な青年組織。現代世界においては青年は必然的に反体制的になるとの認識の上に、ブルトンにも共闘を求めるが拒否された。イズーは『核経済論──青年の蜂起』を著し、モーリス・ルメートルがそれに呼応して雑誌『青年戦線』を創刊し、「青年戦線」を名乗る30名ほどの者が、オートゥイユの孤児院を襲撃し、そのうち数名の者が逮捕されるという事件も起こしている。だが行動の派手さに比べて、彼らの実際の綱領は穏健なもので、優秀な学生には跳び級を可能にせよとか、短期で卒業させよとか、創造的活動への政府奨学金を与えよというものまであった。

*17:フランソワ・デュなんとか レトリストのフランソワ・デュフレーヌのことと思われる。フランソワ・デュフレーヌ(1930−82年)は、1946年から54年までレトリストとしてイズーとともに活動、その後、55年にイズーのもとを離れ、「ウルトラーレトリスト・クリリトゥム Crirythmes Ultra-lettristes 」という活動に没頭する。「叫び」 Cris と「リズム」rythme を合わせた造語「クリリトゥム」とは、テープレコーダーに吹き込まれた即輿の言葉から成り、声と身体器官のすべてを活用した音響詩で、晩年のアルトーの叫びのエクリチュールシュルレアリスムオートマティスム、ピエール・アルベール=ビロの「叫びと踊りのための詩」、70年代の身体パフォーマンスなどが混合したような世界を実現した。また、1957年以降、文字の書かれたポスターやちらしの裏面を重ね合わせ、糊を通して、あるいは引っかいた部分から表の文字が透過するようにした作品を作成しはじめる。この作品によってイヴ・クラインらに接近、1960年以降、クラインらとともにヌーヴオー・レアリスムのほとんどの活動に参加した。1970年代にはレトリスト的なエクリチュールの絵画を製作した。代表的な音響詩やクリリトゥムに、『アルジェリアに平和を』『ピエール・ラルースの墓』(共に1958年)、『トゥリプティクリリトゥム』(66年)など、ポスターの裏面を使った造形作品に『精神的な裸の語』、レトリスト的文字=絵画に『麻薬中毒の語のカンタータ』(72−77年)など。

*18:ナジャに代わってベイロが現れると それでもう狂気の愛というわけだ…… 『ナジャ』はブルトンの1928年の小説で、ナジャという1人の女との「客観的偶然」を巡る物語。『狂気の愛』はブルトンの1938年の小説で、さまざまな女との愛の記録。ナジャが最後には精神病院に送られるのに対して、『狂気の愛』では「浮気」を重ねて次々と女を変えるという内容にかけて、パリ警視総監ベイロ(248ぺージの注を参照)の時代になって、節操なくレトリストのイズーらに近づくブルトンを揶揄しているのである。

*19:サッコとヴァンゼッティ 1920年、米国マサチューセッツ州で起きた武装強盗殺人事件の容疑者として、イタリア移民でアナキストの製靴工サッコと魚行商人ヴァンゼッティが逮捕され、翌年、証拠なしで死刑判決が下された。有罪判決の後、冤罪事件として、アナトール・フランスやアインシユタインなどの支援を得た抗議運動が世界的に巻き起こったが、1927年8月に電気椅子に送られた。この日、パリでは共産主義者アナキストらが大規模な抗議行動を行い、パリの街は暴力的なデモ隊と群衆によって騒然たる雰囲気に包まれた。シュルレアリストもこの抗議行動に参加したものと思われる。

*20:ローゼンバーグの虐殺 ジユリアス・ローゼンバーグ(1918−53年)とその妻エセル・ローゼンバーグ(1915−53年)は、1950年2月、戦時中に原爆機密をソ連に漏洩するのに協力したというかどで逮捕される。夫妻は一貫して潔白を主張したが、51年4月、死刑判決を受ける。この事件は、1949年にソ連が原爆を保有し、アメリカの原爆独占が破られたことに対する政治反動としてでっち上げられたものであるとして、米国内でもヨーロッパでも強力な抗議運動が巻き起こり、世界中の著名人からの処刑中止の要請も相次いだが、マッカーシズムの吹き荒れるアメリカは聞き入れず、53年6月、電気椅子によって死刑が執行された。