ポストフォーディズムのもとで革命に忠実であるために──非生産的労働をめぐる覚え書き 田崎英明

  1. ポストフォーディズムにおいて、労働は一種のパフォーマンスとなる。フレキシブルな生産体制において重要なのは、偶然性が支配する(社会学でいうダブル・コンティンジェンシー)環境の中で、コミュニケーションしつづけること、コミュニケーションの回路から排除されない能力が労働者に要求される。
  2. このようなコミュニケーション労働は、これまでの労働とはいささか性格を異にする。あるいは、アーレントが人間の活動に関して行った区別(行為、仕事、労働)でいえば、単純に労働とは括れないものになっていく。なぜなら。コミュニケーション的労働は、必ずしもその活動の結果が活動自体の外にある(「制作」の定義)わけではないからである。コミュニケーション的な労働(マルクスのいう非生産的労働)では、パフォーマンスのよさが評価の対象になる。
  3. たしかに従来も、このような、活動自体が評価される領域(さまざまなサーヴィス労働の分野)がないわけではない。だが、ポストフォーディズム体制のもとでは、そのような労働が特定の産業部門として独立しているのではなくむしろ、ありとあらゆる労働現場でコミュニケーション能力が要求されてくる。
  4. マルクスは資本制の根幹に労働力商品化を見出したが、それに倣っていうなら、ポストフォーディズムの根本にはコミュニケーション能力の商品化がある。
  5. 現代イタリアの哲学者たちが、ドゥボールアーレントをならべて論じるのはこのようなポストフォーディズム批判の視点からである。社会のスペクタクル化とは、商品のフェティシズムが人間のコミュニケーション(自然とのコミュニケーションから自己とのそれまでも含めて)の全領域を覆い尽くすことである。現在では、自分自身を他者へと提示するパフォーマンス、アーレントにとっての公共領域を構成するはずの活動さえ、商品化され、また、商品によって媒介されている。
  6. アーレントのいうところの行為と労働の区別が、ポストフォーディズムのもとでのコミュニケーション的労働(職場の生産性向上のために労働者自身が積極的に提案し、議論し、現場で決定を重ねていく)では曖昧になっていく。アーレントの考える労働とはその活動それ自体よりも、活動の結果産み出される消費の対象のほうが重視されるような人間の活動であるが、ポストフォーディズムでは人間のどのような生産活動も、コミュニケーションそれ自体の持続のための活動によって補完されている。その活動ではその結果が労働者とは別のモノに具現されるのではなく、あくまで労働者自身の自我、あるいは、その同一化の対象である企業や学校、国家などにその成果は蓄積されていく(コミュニケーション能力の物象化)。しかし、その自我は、絶えず変転する環境に対応することを求められているので、作品として自分の自己を仕上げるというようなものではない。つまり、アーレントのいう仕事(作品)のように始まりと終わりをもつ過程ではない。ポストフォーディズムにおけるコミュニケーションのためのパフォーマンスは、労働と同じくただ繰り返される。それは、日々、自分がある共同体に帰属していることを確認していく情動の労働なのである。
  7. 職場で、クライアントとの打ち合わせの場で、他の企業との競争において、あるいは、学校でも、人々は自らを他者にプレゼンテーションするという労働に従事しなければならず、そこでコミュニケーション能力に欠けるとされる(他者を誘惑し、もっと話を聞きたい、一緒に何かをしたいという気にさせるようなパフォーマンスができない)者は、その共同体から追放され、よりインフォーマルなセクターへの移動を余儀なくされる。
  8. 私たちの社会(新自由主義的な世界資本主義における国民国家)は、このようにしてその成員各個人を判断の主体=審判者とし、「日々行われる国民投票」の世界を実現したのである。各個人が他者を判断し、同時に他者から判断され、それを通じて実現する「国民」への包含とそこからの追放。
  9. 私たちは、新自由主義から利益を得る者とそうでない者を選別する労働に、日々、従事しているのだ。その労働とは、他者に対する自己提示のパフォーマンスであり、また、他者のパフォーマンスの評価である。私たちは、今日、単に観客であるだけではすまない。自らパフォーマーであることを求められる。これはスペクタクルの社会の克服を意味しているのだろうか。
  10. スペクタクルは分離すると同時に統合するものであるとドゥボールはいう。おそらく、私たちは、今日、自らが映画のフィルムであるとともにその観客でもあるような生を生きている。パオロ・ヴィルノベルクソンによる既視感の経験の分析を手掛かりに今日のスペクタクル状況を論じている。既視感という現象では、初めて経験しているはずの現在をすでに記憶しているように感じるばかりではない。この後どうなるかも自分は思い出せるという感じがある。自分のこれからの行動が記憶と一致していると感じるのである。つまり、既視感においては、人間は自分の行動に対してただ受動的な観客の位置を占めることしかできず、時間の流れに対して自分が能動的に介入できるという感覚をもてない。そこでは何も始まらない。
  11. 今日、「よいパフォーマー」とされるのはどのような存在だろう。それは複雑性を瞬時に縮減できるような選択能力を備えた、一種の自動機械のようなものではないか。それは、選択はするが、何も始めない。それが属すのは、始まりのない、それゆえ終わりもない世界である。
  12. 高度な選択能力、あるいは、コミュニケーション能力を備えた者たちが互いにパフォーマーとなり観客となる。相互に自分たちの能力と共同の帰属を承認し合う。新しい世界の秩序。
  13. 労働力という能力が実体化されるのは労働力の商品化によってである。同様に、コミュニケーション能力が実体化されるのもその商品化によってである。資本と国家は、能力というものを操作可能にすることによって、可能性というものそれ自体を自分のもとに包摂しようとする。
  14. フォーディズムのもとでは、個々の労働者は、自分の労働力が現実化される過程のコントロールを他人に委ねていたが、ポストフォーディズムでは、自分の能力の現実化の過程に自分で責任をもたなければならない。これは自分の活動を自分で管理できるということではない。自分の活動を潜在的な能力の現実化として捉えるかぎりで、一人一人は、総資本および国家の代理人として自分の活動を見張っているのである。
  15. パリ・コミューンロシア革命、イタリアの工場占拠運動、シチュアシオニスト、68年、アウトノミア…。具体的な、ある時間と空間とを占拠し、社会の中でのその機能を逸脱させてしまうこと。評議会の核心は、そのようなローカルな時空間の占拠にこそあるのではないだろうか。
  16. 貨幣が商品一般の交換可能性の物象化であるとするなら、スペクタクルとは、人間のコミユニケーション可能性、つまり、人間が他者(他の人間であれ、自然であれ、あるいは、自分自身に対してであれ)に曝されているということの物象化であるだろう。それは人間の有限性の物象化であるといってもいい。人間はスペクタクルの観客となることで自分の有限性から疎外され(、絶対者とな)る。
  17. 国民国家は、有限性が死に、絶対者として復活する場所である。それは、いっでも歴史の終わりに位置している。つまり、(これから起こることも含めて)一切の出来事をスペクタクルとして回想する主体のポジションを、それは、占めるのである。
  18. すべてはすでに起こってしまった。すべてはあらかじめ定められた台本/プログム/可能態の上演=現実化に過ぎない。すべての「歴史的事件」は茶番である。こういったシニシズムの感覚、歴史や社会は、すべて──自分自身の行動を含めて──スペクタクルであって、自分はその観客に過ぎず、そこに能動的に関与することはできないという感覚をシチュアシオニストは批判したのだし、革命は、現に、そのようなスペクタクル化を──一時的ではあれ──粉砕したのだった。
  19. たとえば、マルチメディアの双方向性は、それだけでは行為者と観客との分裂を克服するものではないし、官僚的組織の内部での決定権限の分散も、グローバル資本主義における競争へと接続されているかぎりで、むしろ、各個人のコミュニケーション能力のより一層の物象化をもたらすだろう。
  20. ヴィルノたちは、「要綱」のマルクスから「一般知性」という概念を引っぱり出してくる。ここで彼らが考えているのは、もちろん、「一般意志」との対決である。政治的な領域を意志と合意形成から切り離そうというのである。今日政治的なものは、その根本において「同意を与える」という身振りによって思考されているのではないだろうか。1人の具体的な個人(主権者)に対してであれ、政府に対してであれ、あるいは、合法的な手続きに対してであれ、各個人が同意を与えることで正統性を付与し、また、そのような同意を与える主体となることで各個人は「市民」として(他の市民なり、政府なりから)承認される、だが、それはどの商品を購入するか、誰に自分の持っているもの(「労働力」を含め)を商品として売るかに関して同意を与えることと通底している。政治的なものと経済的なものはこのかぎりで見分けがつかない。社会のスペクタクル化とは、人間が他者(他の人間および自然)と関わらなければ生きていけないという人間の条件を、すべてスペクタクル=商品への同意を与える能力(そのかぎりでのコミュニケーションの能力の物象化)へと置き変えてしまうことである。そして、スペクタクルの社会の、コミュニケーション能力の物象化における政治的なものと経済的なものの一致、「行為」と「労働」の一致は、今日の新自由主義グローバル資本主義とそれに対応するポストフォーディズム体制のなかで、日々の「国民投票」、あるいは「オストラシズム」(B・コリア)として実現する。ヴィルノたちは、政治的なものの原理をこのような「同意を与える」という身振りから引き剥がそうとしているのである。
  21. イタリアの哲学者たちは、マルクスの「一般的知性」の系譜を、アヴェロエスの「知性の単一性」から始まり、スピノザの「実体」概念を経て、さらに、マルクスを超えて現代のアーレント(『人間の条件』と『精神の生』とをクラッシュさせながら)にいたるまで辿ってみせる。そのとき要となるのは群集 multitude の概念である。群集は、いわば、社会契約に対して同意を与える以前の存在であり、逆にいえば、社会から同意を差し引いたものである。群集から政治的なものを再構築するならどうなるか。そこでは、政治的対立の軸は、群集から同意を取り付けようとする権力技術の総体と、同意を差し引くことの組織化とのあいだに設定されるだろう。
  22. 評議会とは、同意を差し引くことの組織化ではないだろうか。しかし、これは矛盾してはいないか。どうやって同意抜きに組織化することができるというのか。それが、一般知性によって、あるいは、知性の一般性によって可能になるのだとしても、そうだとしたら、意志と知性ないし思考との関係を考えなければならない。スペクタクル化によって、私たちは、自分の意志を、あるいは、同意を与える能力をすべて、資本へと譲渡=疎外してしまった。私たちの手元に残っているのは何か。
  23. すでに私たちの存在からは、同意は差し引かれてしまった。だが、私たちのもとに留まっている残りものは、まだ組織化されていない。もしかしたら、この組織化とは、スピノザのいう「第三種の認識」のようなものなのかもしれない。

付記:68年以降の、とりわけ、ネグリからヴィルノにいたるイタリアでの左翼の運動と理論の展開については、酒井隆史による『〈運動〉以降』(『現代思想』1997年5月号)の見事な整理を参照していただきたい。拙稿もこの酒井論文に多くを負っている。ヴィルノたちの議論のより正確な理解のためには酒井論文を参照していただきたい。

その他の参照文献
Giorgio Abamben: "Violenza e sperenza nell' ultimo spettacolo", in AA. VV. I situazionisti 1997, manifestolibri
Paolo Virno: Le souvenir du présent essai le temps historique ( tr.fr. par M. Valensi ), 1999, l'eclat
 上野修:精神の眼は論証そのもの デカルトホッブズスピノザ 1999、学樹書院