あとがき

 本書はシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)・フランス・セクションの機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号(1969年9月)の全訳である。SIの機関誌は、第1号から第11号まで、全セクションの編集によってフランスで出版されていたが、1968年になり各セクションが地域の独自性に合わせた活動を行うようになり、アメリカ、イタリア、スカンディナヴィア各セクションがそれぞれ独自の機関誌を発行することになった(とはいえ、その内容は半分以上が、過去の『アンテルナシオナル・シチユアシオニスト』誌の翻訳だが)ため、この第12号は「フランス・セクション」だけの機関誌となり、編集委員も編集長ドゥボールのほか、ハヤテイ、リーゼル、セバスティアーニ、ヴァネーゲム、ヴィエネと、すべてフランス・セクションの人間である。この第12号は、原文で全118頁と、過去のどの号よりも分厚いもの(過去最高の頁数を持つ第10号のほぼ1.5倍)であるために、付録資料はすべてカットせざるをえなかった。とりわけ、1、SIと1968年5月革命との関わりを示すさまざまな資料、2、1969年から72年までのSIの解体の過程を記した1972年の文書「インターナショナルにおける真の分裂」( La Véritable scission dans l'Internationale, circulaire publique de l'Internationale Situatiionniste,Edition Champ Libre, 1972; Edition augmentée, Libraire Arthème Fayard, 1998 )、3、その間の内部論争を書簡・内部資料で再現した『元シチユアシオニスト・インターナショナルの方針論議( Débat d'orientation de l'ex-situationniste intwrnationale, Centre de recherche sur la question sociale, 1974 )について、これらを翻訳することは断念した。ただ、1については、注の中でいくつかの文書の概要を紙幅の許す範囲で記し、2、3については年表の中でその経緯を簡単に追った。しかし、SIの解体の経緯とその意味を理解するには、これだけではまったく不十分である。筆者としては、これらの翻訳が近い将来、何らかのかたちで刊行されるよう努力する(すでに、そのうち、2のメイン・テクスト『シチュアシオニスト・インターナショナルとその時代に関するテーゼ』≪Theses syr l'Internationale situationniste et son temps »の翻訳は、本書に収めるつもりで翻訳を完成させたが、分量上の問題でここに収めることはできなかった)が、ここで、69年から72年までのSIの解体の経緯を簡単に書いておくことにする。

 SIの解体の最初の徴候は、1968年5月の2年前、1966年7月にパリで開催されたSI第7回大会でのドゥボールの「報告」の中にすでに現れていた。「SIの理論は少なくとも次の一点についてははっきりしている。すなわち、それを使用しなければならないということだ」という言葉で始まるこの「報告」で、ドゥボールは、シチュアシオニストの理論の実践的「使用」を強調して次のように述べている。
 「われわれがいっしょにいるのは、実際に何を行うためなのか? この問いが現実にはっきりと提示されるのは、SIの理論の全体が、何らかの知的専門化とは正反対のものとして、比類のない重要性を備えたかなり複雑な諸要素をカバーしているからであり、とりわけ、われわれの間での合意の起源が単に理論的なものであっても、その現実はすべて最終的にはわれわれがその理論の使用をどのようなやり方で構想し実現するかにかかっているからである。われわれ自身にとって、また他の者たちに対して、この活動はどのようなものでなければならないのか? この問いは唯一不可分の問いである。これに対する間違った答、すなわち、われわれは全体性に対する直接の直観を持っており、このことはすでに全体的な質的態度であって、それによってわれわれはあらゆることについて見事なやり方で述べることができるのだというような答は、明らかに前−ヘーゲル的な観念論の現れだろう。なぜなら、そうした考え方には真剣さも否定の作業も欠けているからである。われわれの活動はそのような絶対、すべての牛が徹底的に黒いそのような閤──それはまた、すなわち停止状態〔=休息〕でもあるが──ではありえない。われわれの共通の理解がいまだに部分的に不活発なままであり、個々人の活動がそれを甘受している者たちによっていまだに部分的に無理解に曝されているとすれば、それは1つの同じ動きによる。われわれがSIについての正しい判断を持っていなければ、それと比例して他のすべてについても間違えることになるだろう。」( «Rapport de Guy Debord a la Ⅶe Conference de l'I.S. a Paris ( extraits )»、in La Veritable scission dans l'Internationale, pp.121-122 )
 1966年7月というこの時点でドゥボールが批判している「部分的〔な〕不活発」と「部分的〔な〕無理解」とは、半年後にストラスブールで分派活動を両策してSIを除名される「ガルノー派」と呼ばれる数名のシチュアシオニストのことを指してのものである。アナキストの系統にある彼らは、シチュアシオニストの理論を十把ひとからげに称賛し、SIに加わったが、具体的な活動は何もせず、この年の11月にシチュアシオニスト・シンパのストラスブール大学の学生らがフランス全学連(UNEF)に対して起こした反乱「ストラスブールのスキャンダル」によってSIが全国的に注目されるや、運動のヘゲモニーを奪って華々しい舞台に上るためだけに、パリから派遣されたムスターファ・ハヤティ(スキャンダルの原囚となったパンフレット「学生生活の貧困」の直接の著者)に関する嘘を触れ回り、それが暴露されると居直ってSIを除名されるのである。この「カルノー派」は、それまでのSIの除名者や脱退者(彼らは何らかの独自のアイディアをSIに持ち込み、やがて変節してSIと離反していった者たちである)と異なり、SIがその理論的・実践的活動によって反体制派の内部で次第に注目されるようになる60年代後半に出現してきた新種の者たちであり、SIを全面的に贅美してその活動を模倣し、SIからそのことを指摘されるや、一転してSIと敵対するのである。彼らはシチュアシオニストの「思想」を一種のイデオロギーとして受け取り、SIという「スペクタクル」を「観想」する観客として行動していたのだと言えるだろう。こうしたSIの観客は、その後、68年5月革命でのSIの活躍を目にした者たちの間から「プロ−シチュ」(親−シチュアシオニスト)として大量に発生し、一種のSIのブームをもたらす。まさにこの「プロ−シチュ」現象こそが、やがてSIという組織を危機に追いつめることになるが、そのことについては、後に詳しく述べよう。ともあれ、「ガルノー派」は、SIから除名されたことを隠し、自分たちこそが本命であるとして、その後もシチュアシオニストを名乗ってストラスブールで活動を続けることになる。
 先の「報告」の少し後の部分でドゥボールはまた、「最近数ヵ月間にわれわれの間で断片的な形で持ち上がってきた議論」と、「われわれが全員でかなり容易に肯定するものを実践的に翻訳する問題を前にして一種の武装解除を頻繁に表してきた何人かの個人の不確かな態度」を考察し、それらの議論と態度から生まれてくるSIに対する2つの立場を挙げている。1つは「SIに対する疑似的批判」で、これはSIが「SIに出会う者たちの生の全側面を魔法のように変貌させてくれない」と言って不平を述べるものであり、もう1つは「SIに対するまがい物の称賛」で、ドゥボールは、それには「幻想の権力の一種のイデオロギーがすでに含まれている」がゆえに、いっそうたちが悪いとして、こう述べている。「この称賛はSIが『存在した』瞬間からすでにそれは実際にそれがそうあるべきすべてのもの(一貫性など)であると信じさせようと努めるだろう。このような幻想は、結果として、今日すでにSIの長所として数え上げられている想像上の基礎から生まれて発展するものとして、SIがこれから先どうなるべきかについて突飛なまでの幻想に行き着く可能性がある。」
 SIに対するこの「まがい物の称賛」と「SIに対する疑似的批判」は、「同じメダルの表裏」であり、容易に一方から他方に転化するともドゥボールは述べているが、「ガルノー派」の取った態度はまさにその通りのものであった。彼らの除名によってSIの組織自体はひとまず理論的実践的一貫性を保ったが、その後、66年11月の「ストラスブールのスキャンダル」から、68年1月以来のナンテールの〈怒れる者たち(アンラジェ)〉の活動、68年5月革命へと至る過程で、SIが果たした重要な役割がかつてない爆発的な注目を集めるようになるにつれて、再び同様の現象が、今度はSIの外部に現れ、大量の自称シチュアシオニスト「プロ−シチュ」が発生した。その数は、ラスポーとヴォワイエ( Jean-Jacques Raspaud, Jean-Pierre Voyer, L'Internationale Situationniste, Protagonistes / Chronologie / Bibliographie ( Avec un index des noms insultés), Champ Libre, 1972, p.14 )によると、68年5月以降には数千人に達したというから、S I への「まがいものの称賛」に基づいてSIの外部でその理論を変質させる「プロ−シチュ現象」に対するドゥボールの危機感がいかに大きかったかが推し量れる。同時に、SIの組織内部でも、5月革命以降、新たにSIに加入した数多くのメンバーの中から、SIの理論的実践的活動の現実的諸条件を具体的に見ることなく、個人的にも自らは何一つ新しい考えを提示しえず、ただ他人といっしょになってSIについての抽象的な称賛を重ねるだけの者が現れ始める。SIの組織内部の「プロ−シチュ」とも言うべきこうした待機主義者、それをドゥボールは「観想派」と呼び、後に次のように述べている。
 「SI内の観想派は完成されたプロ−シチュだった。というのは、彼らはSIと歴史によって確認された自分たちの想像上の活動を見ていたからである。プロ−シチュとu>、プロ−シチュの社会的立場についてわれわれが行った分析は、彼らにも完全に当てはまり、その理由も同じである。SIのイデオロギーは、自分の力でSIの理論と実践を導くことのできなかったすべての者によって担われるのである。1967年に除名された「ガルノー派」はSIそのものの内部でのプロ−シチュ現象の最初の代表的な例だったが、その後、それはいっそう拡大した。世俗的プロ−シチュの羨望に満ちた不安に代えて、わが観想派たちは一見穏やかな楽しみを味わっていたように見える。だが、彼ら自身の非存在の経験は、SIのなかにある──その過去にあっただけでなく、現在の闘争の拡大によって多様化されている──歴史的活動の要請と矛盾するようになり、そのため、彼らは不安のなかでその本心を隠すようになってゆき、そして、外部のプロ−シチュよりもいっそう居心地の悪さを感じていった。SIの中に存在していた位階(ヒエラルキー)的な関係は、新しいタイプの、逆転した関係だった。その関係の中にあった者たちは、それを隠していたのである。彼らは、その関係が終りに近づきつつあるのを前にして恐れと動揺を抱き、偽りの陶酔と偽の無邪気さを装って、できるだけそれを長続きさせるように望んでいた。というのも、多くの者が何らかの歴史的報酬の時が訪れるような気がすると信じていたからだが、しかし、そうした報酬を彼らが手に入れることはできなかった。」(『シチュアシオニスト・インターナショナルとその時代に関するテーゼ』のテーゼ42、in La Veritable scission dans l'Internationale, p.68 )
 この「観想派」の出現を防ぎ、SIのメンバー間の思考と実践における位階的な不平等をなくすために、ドゥボールは1969年7月、SIの各メンバーに手紙を送り、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌の編集責任者を辞し、その第13号を名実ともに集団編集とすることを決定する(この第13号は、ヴェネツィアでのSI第8回大会の後に、フランソワ・ド・ボーリュー、ルネ・リーゼル、クリスチアン・セバスティアーニ、ルネ・ヴィエネの4名の共同編集にすることが決められるが、雑誌は結局出版できなかった)。しかしながら、この試みにも関わらず、SI内部の待機主義や代行主義は収まらず、その2ヵ月後、1969年9月二25日から10月1日までヴェネネツィアのジウデッカ島で、大量のプロ・シチュにとりまかれ、警察が監視するなかで開催されたSI第8回大会でも、最終的にこの危機は解消されなかった。フランス、イタリア、アメリカ、スカンディナヴィアの各セクションから18名が出席したこの大会では、欧米の政治分析とイタリアでの社会危機に対する予見と介入の方針について有意義な議論がなされたものの、68年以降のまったく新しい質の労働者の運動の高まりに対して、SIがなすべき理論的実践的活動については、抽象的で空虚な議論が繰り返されるだけで、独創的で具体的な方針を提出する者は誰一人いなかった。ドゥボールは、この大会について、後に「1969年から1971年までのSIの歴史に役立てるためのノート」の中で次のように書いている。
 「だが、確かに、そうした議論はこの上なく過激で、この上なく事情に通じている政治的集団がその時に世界に存在して活動しているということを示してはいたが、根本的な理論としての、生の総体における批判と創造としての、あるいは単に自律した個人の間での現実の対話の能力としてのSI──『各人の自由な開花が万人の自由な開花の条件であるような結社』──が同時に何を意味するかについては、より良い側面が見られることはまったくなかった。『プロ−シチュ』精神が、ヴェネツィアで、大々的に姿を現したのだ。何人かの同志はヴァネーゲムを真似て何についても慎重な沈黙を守ったのに対して、参加者の半数は4分の3の時間を使って、この上なく断固とした口調で、ぞれぞれ、前の演説者が述べたばかりの同じ漠然とした一般的な事柄を繰り返した。そしてそのすべてが、英語からドイツ語、イタリア語、フランス語へと順繰りに翻訳されていったのである。これらの雄弁な同志たちの誰もが持っていた目的は、自分は他の者とまったく同じようにシチュアシオニストであるということを強調することだけであり、ある意味でそれゆえ、この大会への出席を正当化することだけだったのである。あたかも自分はその場所に偶然に居合わせたかのようにして、しかし同時に、すでに保証されているはずの大会での明確な認知をただ追求するだけで、あたかも後世のより歴史的な正当化までもが放棄されずに残るかのように。要するに、シチュアシオニストはそこに18名いたが、彼らの精神は4人分しかなかったのである。」( «Notes pour servir a I'histoire de I'I.S. de 1969 a 1971», in La Veritable scission dans l'Internationale, pp. 86-87 )
 このSI第8回大会のすぐ後、1969年12月に、イタリアのミラノとローマで数多くの爆弾が爆発する「事件」があった。これは、当時、イタリアで続発する山猫ストと工場占拠によって「忍び寄る5月」と呼ばれる社会危機を生み出しつつあった運動をつぶすために、イタリアの秘密警察が行った陰謀だった。1969年1月にミラノで結成され、労働者・農民・学生のさまざまな運動やイタリアの政治に関する正確な情報と的確な分析を載せた機関誌やパンフレット・ビラの発行によってイタリアでの運動に大きな寄与を果たしていたSIイタリア・セクションは、この時も、ナチスによる国会放火をもじったタイトルのビラ『国会議事堂(ライヒスターク)は燃えているか?』を撒いて、この権力の陰謀を即座に告発したが、逆に警察から爆弾事件の容疑者とされて、全員がフランスに亡命せざるをえなくなった。
 「プロ−シチュ」現象の拡大、第8回大会で露呈したSIの各メンバーの理論的実践的停滞、権力の弾圧……こうした出来事がすべて重なりSIは結成以来の組織的危機に陥った。これを打開するためSIは、1970年の始めから、外部に対しては機関誌を始めあらゆる文書の公表停止という形で「沈黙」を貫き、内部では新しい時代に見合ったSIの形態と運動の内容についての「方針論議」を開始する。さまざまな手紙のやり取りと、カフェや誰かのアパートで頻繁に行われる会合によって、この「方針論議」は約1年間続けられ、その間、SIの組織の性質──理論家集団なのか自律的な個人の集まりなのか、それともそれらとは別のまったく特殊な集団なのか──についての識論、「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第13号の内容に関する提案、『共産党宣言』に倣った『シチュアシオニスト宣言』の起草をめぐる議論、『SIの歴史』やSIの「選文集」の執筆についての議論、68年5月革命の契機となった「ストラスブールのスキャンダル」を工場で新たに引き起こす提案、そのための『山猫スト・ハンドプック』の製作についての提案など、さまざまな意見がそれぞれのメンバーの間を飛び交った。これらの議論の内容はきわめて錯綜し、ここで要約することは困難だが、具体的で独創的な提案と呼べるものは、ドゥボールのものを除いてほとんど出されず、多くは抽象的な意見の表明にとどまり、SIを機能不全にまで追いやった。ドゥボールは1970年3月17日にフランス・セクションとイタリア・セクションの合同集会に提出したメモの中で、「われわれはみな、われわれの共同の活動を選び、判断(ジュジェ)せねばならない。しかし、唯一の活動が審判(ジュジェ)であるということなら、それは決して受け入れられない」( Dédat d'orientartion de l'ex-internationale situationist, p.6 )と、具体的な行動の伴わない態度を批判し、さらに7月27日付の『今日のSIに関する見解』というタイトルの長い文章の中でも、「すでに4ヵ月にわたる方針論議を行ってきたが、われわれは理論的な相違を見ることはなかった。このことは十分予想できたことだ。むしろ、これらのテクスト──それらは同じ方向に向かっており、その多くは優れた点を含んでいるが──が、同数の独白として山のように積み重ねられても、それらはほとんど用いられることはないのではないかと自問することができる」( Ibid., p.45 )と書いて、誰もが同じ正しいことを口にしながらそれを行動に表さないSIのメンバーの無能力状態を告発している。
 一方、この過程で、ドゥボールらの求めるような理論的実践的水準に達しない新しいメンバーや、ヴェネツィアでの第8回大会で改めて整備されたSIの組織原則に逸脱した者たちの問で除名と脱退が相次いだ。フランス・セクショッでは、まず、1969年9月の第8回大会でムスターファ・ハヤティが、パレスチナ解放民主人民戦線(FPDLP)に加盟するため、「二重加盟」の禁止の規則に従ってSIを脱退した(ハヤティは、パレスチナ解放闘争内で「評議会組織」を結成するため、その後、ヨルダンに赴いて活励するが、パレスチナ人活動家内での現実的基盤の欠如やヨルダンでのフセイン政権とPLOの二重権力の崩壊などが原因で、この試みに失敗し、数ヵ月でフランスに帰ってくる)。次に、1969年10月3日、アラン・シュヴァリエがSIの資金を個人的な旅行に流用したことを理由に除名され、70年にはフランソワ・ド・ボーリューとパトリック・シュヴァルの2名がそれぞれ厳密性の欠如とメンバー(ルネ・リーゼル)への暴力を理由に脱退を余儀なくされた。アメリカ・セクションでも4名のうち2名、ロバート・チェイシーとブルース・エルウェルが70年1月に組織原則の逸脱を理由に除名され、イタリア・セクションではに70年春にクラウディオ・パヴァン、エドゥアルド・ローテの2名がまず除名され、残った2名ジャンフランコ・サングイネッティとパオロ・サルヴァドリのうち後者が個人的恨みから理由なく前者を除名したことにSIの他のメンバーが異議を唱え(理由なき除名はSIでは認めていない)、最終的に9月18日にサルヴァドリが逆に除名され、サングイネッティは除名を取り消されフランス・セクションに移り、イタリア・セクションは消滅した。
 こうしたなか、9月21日に、アメリカ・セクションに残っていた2名、ジョン・ホアリックとトニー・ヴェルラーンが、ドゥボールに手紙を送り、「SIの救済」のために自分たちといっしよになって「派」を結成すると同時に、68年以前の旧メンバーをSIに復帰させて運動をやり直す提案を行う。この「派(タンダンス)」の結成は、ヴェネツィアでのSI第8回大会で採択された「SIの暫定規定」(先にも述べたように、SIの新たな組織原則に──全員参加の総会に最高決定権を与える一方で、具体的な行動については各セクションの自律性を認め、それぞれのセクションの活動を調整しコミュニケーションを保証するため、従来の「中央評議会」に代えて各セクションから選出される代表による会議を行うことや、「二重加盟」の禁止などの原則──を定めた全14条から成る規定)の第8条に定められたもので、SIのメンバーが理論的実践的問題について他のメンバーの多数と相容れない状態が続いた場合に、SI内部で「派(タンダンス)」を結成し、自分たちの意見を公表する権利と、この意見の対立が解消されない場合には最終的には「分裂」する権利を与えていた。ドゥボールは、このアメリカ・セクションの提案に対して、「派」結成の決断自体は評価したが、旧メンバーの復帰によるSIの救済には強く反対し、彼らの提案を受け入れなかった。ドゥボールがこの提案を拒否したのは、大量の「プロ・シチュ」からスペクタクルの対象として凝視される一方で、組織内部では新しい時代の闘争に適応できず麻痺状態になり、完全に1個のイデオロギーと化してしまったSIというものを破壊することこそが、今の最大の課題であると彼が考えていたからにほかならない。SI第8回大会以降の議論の中で、このアメリカ・セクションの提案とよく似た意見──新しいメンバーをSIに入れることで、SIの内部の無能者を一掃しようという意見──が出た時にも、ドゥボールは、それは結果的にSI内部の新たな従属関係を生むと同時に、何よりもSIを強化することになるとして、それに反対していた。「この危機と新しい時代に関してすでに描かれてきた最も一般的な理論的結論は、逆に、SIを弱体化させるべきだという確信にわれわれを導いていた」とドゥボールは後に書いている( «Notes pour servir à I'histoire de I'I.S. de 1969 à 1971», in La Véritable scission dans I'Internationale, p.91 )。
 この「派」の結成と、SIの最終的解体に向けた闘争は、1970年11月11日にドゥボール、リーゼル、ヴィエネの3名の署名による「宣言」の発表によって公然と開始される。その中で、ドゥボールらはSIの他のメンバーの「無関心」と「責任」放棄、「無活動」と「無能力」を糾弾し、「SIのイデオロギーを完全に断ち切る」意志を明確に示す。そして、「SIの組織の中での集団的活動と実際に可能な民主主義の正確な定義」と、その「実際的な適用」をこの「派」が実行し、他のメンバーに対して、これまでのような「抽象的な回答」によって問題をはぐらかすのではなく、具体的な行勁によって答えることを要求する。すなわち、この「派」は、「それを述べている者の現実の存在と矛盾したいかなる回答」も認めず、彼らに「はっきりとした責任のもとにはっきりとした行動」で自分の態度を表すことを求め、それが実現できなければSIの「分裂」を「最も適当な条件の下で」可能にするような手段を採ると最後通告を行うのである( Débat d'ex-internationle situationniste, pp. 55-57 )。この「派」結成の「宣言」に対して、ただちにサングイネッティが賛同し、ドゥボールらに合流するが、ヴァネーゲムとセバスティアーニはSIの脱退という形で答えた。ヴァネーゲムの方は、11月14日にドゥボールらに手紙を送り、「1つの共同のプロジェクトを行っているという意識において、かつてあれほど情熱に満ちていたものが、いかにして、一緒にいることの苦痛へと変わってしまったのか」と、SIの活動に魅力を見出せないことを述べて、ドゥボールらの「派」は「私を脱退者と見なすべき」で、「その必然的結果として、われわれが再び出会うことは決してないことを、私は受け入れる」と、SI脱退の意志を明らかにする( «Lettre de démission de Raoul Vaneigem», in La Véritable scission dans l'Internationale, pp. 131-132 )。このヴァネーゲムの対応に対して、ドゥボールらは12月9日、「ヴァネーゲムに関するSIのコミュニケ」と題する長い声明を発表、「SIとは何であるのか、それは何をなすべきかについて、ついにまじめに何らかの正確なことを発言せざるをえなくなって、ラウル・ヴァネーゲムはすぐさまSIを全てひっくるめて捨て去った。この瞬間まで、彼は常にその全てに賛成してきたのにである」( Ibid., p.133 )と彼を断罪し、さらに「ヴァネーゲムは、最初を除き、SIの生を愛したのではなく、その死んだイメージを愛しただけだ。それは彼の取るに足らない生にとっての栄光に満ちたアリバイにすぎず、抽象的な全体性に貫かれた未来の希望にすぎなかったのだ」( Ibid., p.142 )と、ヴァネーゲムの「全体性」理論の没歴史性、極度の抽象性を徹底的に批判する。ヴァネーゲムはここにおいて、かつて「ガルノー派」が陥ったのと同じ観想的な態度を暴露したのであり、それは、ヴァネーゲムの著書「若者用処世術概論」が、プロ・シチュに最もよく読まれた本であり、彼のまわりに最も多くの「ファン」が行き来していたことと無関係ではない。一方、セバスティアーニはドゥボールらに送った11月19日付けの手紙で、自らの理論的活動における無活動性や生活における言行不一致を自己批判し、直後にSIを脱退する。しかし、このセバスティアーニについては、ドゥボールらはヴァネーゲムに対するような全面的な糾弾は行わず、「1968年5月の最も美しい落書きの多くの作者」である彼の欠点は、確かに「執筆作業」の欠如と、自分の才能をSIの組織の運営に主体的に用いなかった点にあるが、彼はいかなる意味でも「プロ・シチュ」ではなく、「われわれの間では常にオープンに話をし、勇敢で広い心を持って」いて、「その人生の尊厳によって尊敬すべき人物であり、気持ち良く付き合える」人間である、と人格的評価を与えている。ちなみに、ドゥボールは以来、ヴァネーゲムとは決して会うことがなかったのに対して、セバスティアーニとは、彼がハイメ・センプルン、ジャック・フィリッポノーらとともに1984年以降89年まで刊行していた雑誌『有害物質百科事典(アンシクロペディア・デ・ニュイザンス)』に協力する関係にあった。
 アメリカ・セクションに残っていたホアリックとヴェルラーンは、11月18日付けの手紙で、すでにSIを除名されていたド・ボーリューとローテとともに新しい「派」を結成することを提案するが、ドゥボールらの「派」は、SIの除名者を再統合するという、でたらめなこの提案は受け入れられないとして、12月29日付けの手紙で、アメリカ・セクションとの「分裂」を宣言する。アメリカ・セクションは、その後、SIの看板を降ろし、新たに〈クリエイト・シチュエイションズ〉と名乗って、SIのテクストの翻訳だけの活動を続ける。
 この「分裂」によって、SIにはドゥボールらの「派」を除き、ほとんど誰もいなくなったが、この「派」でも、まず1971年2月、ヴィエネが「個人的都合」を理由に脱退し、同じ年の9月にはリーゼルが除名される。ヴィエネの脱退の理由の詳細は今もって不明だが(ただ、彼はその後、いくつかの転用映画を製作した後、台湾に行き、中国語の力を生かしてフランスの原子力発電所プラントのセールスの仕事をしていると言われている)、リーゼルについては、ドゥボール( Ibid., p.97 )は次のように説明している。1968年に「17歳で革命家」になったリーゼルは、SIのメンバーが次々と去るなか「19歳になる前に年寄り」になってしまった。彼は、自分の「待機主義」を隠しながら過激な言動を行ってきたが、理論的・実践的な面での自らの実際の「無活動性」と自らのイメージの大きさとのギャップから、周囲の者に嘘をつき、加えて、SIの資金を自分の個人の生活に流用するようになった。こうしたことが露見して彼は71年9月に除名されるのである(リーゼルはその後、農民となって〈欧州農民連盟〉という農民運動を組織、遺伝子組み替え作物に対する最初期からの最も強硬な反対運動の中心人物として知られ、最近──1998年1月──も、遺伝子組み換え作物を生産する企業ノヴァルテイスの工場と倉庫を攻撃・破壊して、ジョゼ・ボヴェ、フランシス・ルーとともに罰金50万フランの有罪判決を受けている)。
 最後までSIに残ったドゥボールとサングイネッテイにとって残された仕事は、もはやSIの解体の最終的な仕上をすることだけである。それゆえドゥボールは、全部で61のテーゼから成る『シチュアシオニスト・インターナショナルとその時代に関するテーゼ』を執筆し、それにサングイネッテイの署名を添えて、1972年4月、『インターナショナルにおける真の分裂』に収めて出版するのである(ここにサングイネッティの名が記されたのは、ドゥボールの妻アリス・ベッケル=ホーに筆者が聞いたところでは、当時、権力の弾圧によってフランスから国外追放されたばかりのサングイネッティに対する「贈り物」として、ドゥボールがその名をここに併記したためである)。これが、69年から72年のまでのSIの解体の「歴史」である。論争、分裂、除名、脱退……ほとんどそれだけで書かれたこの「歴史」は、それにしても、何という壮絶な「歴史」だろう。ここにシチュアシオニストの運動の「失敗」を見るべきなのだろうか? 断じて否である。69年から72年という時期に、SIの活動停止とは逆に、「シチュアシオニスト思想」──その理論と運動スタイル──はフランス、イタリアを初めとする世界各地──「ミラノの工場でも、コインブラの大学でも」、「カリフォルニアからカラーブリアまで、スコットランドからスペインまで、ベルファストからレニングラードまで」(テーゼ2、Ibid., pp.12-13 )──で、スペクタクル化された政治と文化への根源的批判という新しいタイプの運動として、社会の全部門において拡大しつつあった。既存の組織や枠組みを拒否し、もはや「指導者も、家族も、国家も」持つことを拒んだ「若者、労働者、有色人種、ホモセクシャル、女性、子供たち」が、「疎外された労働」そのものに異を唱え、「賃金労働の撤廃」を掲げて、「小学校に始まり、公共交通機関や、精神病院、監獄にいたるまで」(テーゼ2、Ibid., p.22 )社会空間のあらゆる場を新しい闘争の場として闘っているるこの新しい時代の運動は、68年5月のフランスの「占拠運動」が全面化させたものであることは、今日、多くの者が認めることだろう。ドゥボールもまた、この「占拠運動」において現れた新しい質の運動の意味を、「外見のスペクタクル的組織化によって維持されている無知とまやかしの安全の諸条件〔の〕転覆」(テーゼ6、Ibid., p.17 )、「経済の乗り越え」と「生きることへの要求」、「自分自身の歴史を作る決意」(テーゼ8、Ibid., p.17 )として、全面的に評価する。そしてこれらの意味を体現した「占拠運動」の思想こそ、「シチュアシオニストの思想」だったのだと主張するのである。実際、SIは、60年代の初めから、「状況の構築」、「日常生活の革命的批判」、「分離」──すなわち疎外──の批判、労働の批判、経済の乗り越え、資本主義、官僚主義双方の「スペクタクルの社会」の批判などの「理論」と、独自の「転用」スタイルの実践的運動によって、68年5月の「占拠運動」の思想を先取り的に実践してきたことはまぎれもない事実である。SIが68年の「占拠運動」の爆発において見たものは、まさに、自分たちが十年来主張してきたことの全面化にほかならない。その意味で、ドゥボールが「占拠運動は「シチュアシオニスト」革命の萌芽だったが、それは、革命の実践としても、シチュアシオニストの歴史意識としても、萌芽にすぎなかった。まさにそのとき、一世代全体が、国際的な規模で、シチュアシオニストになり始めたのである」(テーゼ7、Ibid., p.19 )と書くのは誇張ではまったくない。
 こうした「シチュアシオニスト思想」の一般化の中で、「プロ・シチュ」という特殊な現象が生まれていった。「プロ・シチュ」とは、シチュアシオニストの理論を自らのものとして実践する者たちではなく、SIという組織をスペクタクルとして熱狂的に眺め、SIの理論を1つのイデオロギーとして消費する観客である。本人は善意によってそれを行うが、彼らの持っているものはその「普意」だけである。プロ・シチュの多くはラディカルであることを自認する学生で、シチュアシオニストを名乗ることなくシチュアシオニスト思想を体現して現実の闘争を行っているプロレタリアートとは逆に、革命的な社会において最も非活動的で、最も疎外されているが、そのことに対しては無自覚である。彼らは、Slとその理論を1つの全体として──抽象的に──唯一の活動として観念的な言辞を弄し、ものを書いたりしているが、それはあくまでも抽象的なものにとどまり、自らの苦痛に満ちた生を幻想によって逃れるための逃避であり、プロレタリアートが現実の闘争の中で一挙に学び取るような生の批判的考察ではない。プロ・シチュの「社会的基盤」は、高度資本主義が生み出したブルジョワジープロレタリアートとの中間形態としての「管理職(カードル)」層(サーヴィス業、第三次産業部門の管理者)の息子や娘たちであり、ブルジョワジーへの昇進を果たすことを、生きる目的としている。商品の「販売と維持と称賛」という「本来的にスペクタクル的」な部門に生きる彼らは、典型的な消費者であり、典型的なスペクタクルの観客である。彼らは、貴族階級を模倣した伝統的な諸価値(宗教・幸福な家庭)を守ることで自らの生の平板さを隠蔽していた19世紀までの小ブルジョワとよく似た社会的立場に立っているが、宗教の代わりに、スペクタクルの提供する最新の流行を追い求め、革命もまたそうした「イメージ」の1つとして称賛するのである。まさに、「プロ・シチュの行動の仕方は、管理職(カードル)のこの存在の構造のなかにすべて書き込まれている」(テーゼ37、Ibid., p.61 )のである。
 シチュアシオニスト思想が世界化し、スペクタクルの社会がそれを「回収」しようと攻勢をしかけてくるなかで、こうしたプロ・シチュが増大することは避けえないことである。ドゥボールもそのことを認めている。「SIの歴史的成功の避けがたい一部分によって、今度はSIの方が観想〔=注視〕されるようになったが、そうした観想のなかで、存在するすべてのものに対するまったく仮借ない批判が、自ら親−革命派となった無能者たちのますます増え続ける一群から積極的に評価されるようになっていった。スペクタクルに対抗して活用される否定的なものの力が、同時に、観客たち(スペクタトゥール)から盲従的に称賛されていたのである」(テーゼ22、Ibid., p.38 )。だが、SIという組織が、他の多くの左翼あるいは極左組織と異なる点は、こうした称賛者をいかなる形でも自らの内に取り込んで、自らの組織をボルシェヴィキ的なやり方で拡大しなかったところにある。「SIは大量のプロ・シチュをSIの外部に放っておいた」(テーゼ33、Ibid., p.52 )が、それは、彼らを取り込むことで、SIの内部に「位階性」を生み、SIの理論が変質することを避けたからである。それ以上に、「組織」というものについて、SIがきわめて独自の考え方を持っていたことが、その根底にある。SIという組織は、古典的な革命組織でも単なる理論家の集団でもなく、自らの文化−政治批判の理論を現実の闘争に自らの実践を通して伝達し、その闘争が「自発的」に発展することを誘発するための「前衛」組織であり、その際、それらの闘争に対していかなる意味でも「分離された権力」となることを拒否するのだということは、SIの結成の当初から、ことあるごとに彼ら自身が述べ、実行してきたことであるが、それはこの『テーゼ』でもこう繰り返されている──「シチュアシオニストは明確な党を形成しない。(中略)彼らはプロレタリアート全体の利害から離れた利害を持たないのである」(『社会革命の今日的可能性についてのイタリア・プロレタリアートへの公告』1969年11月19日、テーゼ43、Ibid., p.69 に引用)。そして、このSIの組織観は、次のような革命組織観に基づいている。長くなるが引用しよう。
 「プロレタリアート時代の革命組織は、闘争のさまざまに異なる瞬間のすべてによって定義され、その闘争において、そのたびにこの組織は成功を収めなければならないが、同時に、それらの各瞬間に、分離した権力とならないことにも成功しなければならない。今ここでそれが作用させているさまざまな力を捨象したり、その敵の同様の行動を捨象したりすることによって、この革命組織を論じることはできない。革命組織とは、それが行動することができるそのたびに、実践と理論を統一し、たえず一方から他方を生じさせる組織であるが、それら2つの完全な融合の必要を単に主意主義的に宣言するだけでそれを達成できるとは決して思わない組織である。革命がまだとても遠い時期に、革命組織の困難な任務はとりわけ理論の実践にある。革命が開始されると、その困難な任務は、次第に実践の理論となってゆく。だが、革命組織はその時、まったく別の様相を帯びることになる。革命以前には、ごくわずかな人間だけが前衛なので、その彼らは自分たちの一般的プロジェクトの一貫性と、そのプロジェクトに精通し、それを伝えることを可能にする実践によって、自らの前衛性を証明しなければならない。革命が開始されると、労働者の大衆が時代にふさわしいものになるので、その労働者たちは、自らのすべての理論と実践の武器の使用を支配し、とりわけ、分離された前衛に権力が委譲されることはすべて拒否することによって、その時代の唯一の所有者であり続けなければならない。革命以前は、10人ばかりの有能な人間がいれば、1つの時代──それは、その時代にとってまだ未知の革命、存在せず存在しえないとどこででも思われている革命を内包している──の自己説明を開始するのに十分かもしれないが、革命が開始されると、議決権と執行権を持つ恒常的な総会──それは旧世界とその世界を守っているすべての力の形態を何一つ、いかなる場所にも残さないものである──へと自己を組織することによって、プロレタリアート階級の大多数があらゆる権力を手にし、それを行使しなければならない。」(テーゼ47、Ibid., p.72-73 )
 いまや、プロ・シチュからスペクタクルとして観想され、組織内部にも「純粋な組織観の虚像的存在」と「外在的実体と化した即時的革命組織」を信奉する「観想派」が生み出され、そうしたプロ・シチュ現象を悪化させる事態に陥ったSIという組織は、ドゥボールの考える「組織観」の論理的必然として、解体されるしかないだろう。それゆえ、ドゥボールはSIを解体するが、それはSIという組織そのものがスペクタクルとして保存されることを拒否し、SIの「死んだイメージ」ではなくSIの「生」を救い出す唯一の方法でもあった。「テーゼ」の最後の5つのテーゼでドゥボールが述べることはそのことである。
 「それまでの浄化が、より不利な歴史的状況において、SIを強化することを目指さねばならず、実際、そのたびにそれを強化してきたのとは逆に、今回の浄化はSlを弱体化させることを目指していた。至高の救済者などどこにもいない。いま一度それを示すのは、まさにわれわれの役目であった。この浄化の方法と目的は、当然、われわれが接触を保っていた外部の革命分子から、いかなる例外もなく賛同を得た。Slが相対的な沈黙を守ってきた最近の時期──それはこのテーゼのなかで説明されている時期であるが──に行ったことは、革命運動に対してSlが果たした最も重要な貢献の1つであることは、すぐに理解されるだろう。どれほど極左主義的な政治家であれ、どれほど進んだインテリゲンチャであれ、われわれが彼らの取り引きや敵対行為や交際に巻き込まれたことはかつて一度もなかった。しかし、われわれがこの悪党どもの間でこの上なく不愉快な名声を獲得したと自慢できる今となっては、われわれはよりいっそう近寄りがたいもの、よりいっそう深く地下に潜行したものになることにしよう。われわれのテーゼが有名になればなるほど、われわれ自身はますますとらえがたいものになってゆくことだろう。」(テーゼ57、Ibid., pp. 79-80 )
 「SIにおける真の分裂は、無定形で広大な現在の異議申し立て運動のなかで、まさにいま起きなければならない分裂であった。一方での時代のあらゆる革命的現実と、他方でのそれについてのあらゆる幻想との間の分裂である。」 (テーゼ58、Ibid., p.80 )
「SIの欠陥の責任をすべて他人に押しつけたり、それらの欠陥を何人かの不幸なシチュアシオニスト心理的特性によって説明したりすることを望むのではなく、われわれは逆に、これらの欠陥もまたSIの行ってきた歴史的活動の一部として、それを引き受けよう。ゲーム〔=賭け〕は他の場所で行われたのではない。SIを作り、シチュアシオニストを作った者が、その欠陥も作ったに違いない。時代がそれ自身にできることを発見するよう助ける者は、将来生じるかもしれないより有害な出来事に関して潔白ではないが、それ以上に、現在の欠陥から逃れることもできない。われわれはSIの現実の全体を認める。そして、結局、われわれはSIがその通りのものであることを喜んでいる。」(テーゼ59、Ibid. )
 「われわれがわれわれの時代を超えた存在であることができるかのように、われわれを称賛することはやめてもらいたい。そして、時代が、自らのそのあるがままの姿に見とれつつも、自らのその姿に戦慄を覚えるようになってもらいたい。」(テーゼ60、Ibid. )
 「SIの生を考察する者は、そこに革命の歴史を見出す。何もこの歴史を変質させることはできなかった。」(テーゼ61、Ibid., p.81 )