シチュアシオニスト情報

 SIオランダ・セクション(住所 アムステルダム・C、ポラクラーン25番地)は、シチュアシオニストの慣例に従ったテープレコーダーによる講演と、たいへん活発な討論をともなう2つのデモンストレーションを組織した。ひとつは、4月に建築アカデミーで、もうひとつは、6月に市立(ステデリク)美術館で行われた。オランダ・セクションは3月、芸術界から要請されているアムステルダム証券取引所の修復に対する反対を決議し、遂に「証券取引所を取り壊し、跡地を地域住民の遊び場として整備すること」を提案した。そして「過去の遺物を保存するのは、新しい建築を恐れるのと同様、現在の無気力の証拠であるが(……)、アムステルダムの中心は美術館ではなく、いま生きている人間の住居であること」に注意を喚起していた。
 8月には、オランダのシチュアシオニストは、雑誌『フォーラム』の特集号(第6号)で、芸術の統一と芸術の日常生活への統合にかんするシチュアシオニストの立場を明らかにした。コンスタントの紹介論文は、このテーマにかんするいろいろな無駄話を斥け、のっけから次のように宣言する。「社会構造と芸術的創造性の全面的な変革が、統一に先立たなければならない」。

                   

 SIのドイツ・セクションは現在、次の住所に組織をおいている。ミュンヒェン、カウルバッハ通り2.ドイツ・セクションは、第3回大会の予備討論のために、2つの資料「アムステルダム宣言」と「文化革命のためのテーゼ」を翻訳・出版した。

                   

 本誌第2号に掲載されたシチュアシオニストの平均年齢にかんする覚書は、それ以後に記録された変化によって補足しなければならないと同時に、使用された統計の解釈──統計そのものは間違っていない──について修正される必要がある。覚書には、SI結成当時の29・5歳という平均年齢が、たった1年で32歳をわずかに上回るまでになったと記されている。この急激な高年齢化の過程を明らかにするために、またシチュアシオニストが50年代初頭の「レトリスト」の前衛的運動を受け継ぐものとしてして広く知られていることを考慮して、覚書では、29・5歳という数字が、わずか4年前の「1953年夏に」レトリスト・インターナショナルの平均年齢であった21歳未満という数字と比較されていた。
 ここで、この数字の変動と、この変動と新たな運動参加者の変化との関係について、より詳細に検討しておくのがよいだろう。1952年、まだ統一されていたレトリストの運動の平均年齢は、24・4歳であった。分裂時には、──レトリスト左派は一般にもっとも若い先鋭分子を集めていた──、レトリスト・インターナショナルの平均年齢は23歳にまで下がる。この運動はその後、ますます文化的経済から分離した過激な活動へと向かい、非常に若い分子を迎え入れたため、事実、平均年齢は、1953年夏に20・8歳まで下がる(これが第2号の覚書のもとになった数字である)。
 このように1952年の24・4歳という数字を出発点とすると、自然の年齢増からいって、1957年の平均年齢は当然29・4歳になるわけである。実際には、数字は、コシオ・ダローシャでの大会時に29・53歳になっている。このアナロジーからわかるのは、除名された旧い分子が、さまざまな前衛的潮流に出自をもつ同じ世代の別の層と入れ替わったということである。1953年に青年だった者たちは、まるごと、この新しい専門家だちと入れ替わったのである。SIができて1年の後、平均年齢は(1952年を出発点にとれば30・4歳、コシオ・ダローシャでの数字を出発点にとれば30.53歳になるのが普通であるのに対して)32・08歳まで上がった。これは、かつて戦後期の実験芸術に参加した分子の結集が続いたことを示すものであるが、たしかに実に著しい高齢化である。もっとも、6年間での高齢化としては、前号の分析に見られるような破局的な率とは程遠い。とはいえ、より若い部分による刷新が行われていないことは懸念に値するかもしれない。
 こうした世代交替の兆候は1959年にはじめて現れた。というのは、ミュンヒェンの大会後、SIの平均年齢は30・8歳になっており、これは前年の数字(32・08歳)からみてかなりの低年齢化であるばかりでなく、1952年夏を出発点とした自然の年齢増(31・4歳)からみてもかなりの低年齢化である。
 いずれにせよ、この低年齢化は、その原因が主としてドイツに地理的に限定されているだけでなく、7年という期間を考えれば、わずかな若返りにすぎない。また、もっとも先進的な文化的探究においては、全体として若い世代が1952年世代と交替したとはまだいえない。

                   

 『ポトラッチ』の新シリーズ第1号(1959年7月15日)の覚書(「知性のゴミを除去することについて」)は、ハンス・プラチェク*1が、「王党派ダダイスト」の雑誌『パンデルマ』と共謀していたかどで2月に除名されたことに触れ、「プラチェクは、SI結成以来、たかだか6件めの除名にすぎない」ことを強調している。比較のために、レトリスト・インターナショナルが、最初の2年間で、すでに12人のメンバーを除名していたことを指摘しておこう。

                   

 1959年の6月から10月の間に、『シチュアシオニスト・インターナショナル』編集部は127通の匿名の手紙を受け取った。これらの手紙はすべて、同じ人物たち、──ずっと以前に除名され、昔の不運を水に流すこともできず、かといって、どこかで何らかのかたちで再加入することもできないでいる人物たちによって書かれたものと思われる。

                   

 古典的レトリストの生き残り連中──イズーがもっとも有名であるが──は、何人かの古くからの弟子たちを厄介払いできずにいる。その弟子たちは、方法にできるかぎり忠実でありながらも、自分たちの「創造性」のために、今やすべてをやり直そうという野心を抱いている。イズーは、(『ポエジー・ヌーヴェル』*2誌 第8号で)彼がX…と呼ぶ非常に謎めいた人物と論争しながら、彼らを引き裂く葛藤のなかで陥った苦境について考えを述べている。
 「それから、X…はわたしを独学者扱いしています。でもわたしは、だいたい彼と同じだけ卒業証書をもっていますし、彼の運動仲間よりはもう少し多くの証書をもってるんです。その仲間たちは、大学入学資格(バカロレア)さえもっていませんからね。
 X…は、このわたしよりも先に、最後の付け足しの卒業証書を手に入れたところです。ところがわたしは、いま、ほかの証書の準備しているところなんですよ。じきにわたしは彼よりたくさんの証書を手に入れるでしょう。
 しかし、われわれの何人かは、文化的紛争を解決するのに刃物を使うようになっています。わたし弟子の何人かは、敵を静かにさせるためにピストルを買おうとまで考えています。この点にかんしては、わたしは出ていって反対します(……)。流血というこの一線を越える必要があるのかもしれませんが、人種差別やファシズムが息を吹き返しているこの世界、そしてまた、ビュッフェ*3フランソワーズ・サガンや『エル』やヌーヴォー・ロマンが『現代文化』を代表しているようなこの世界にあって、前衛的創造者であり、ある意味で革命家でもあるわれわれが、仲間うちでこの一線を越えなければならないとは思いません。」


                   

 11月にアルバの〈実験工房〉によって配られたビラのなかで、シチュアシオニストのアイシュ、フィッシャー、ネレ、ピノガッリツィオ、プレム、シュトゥルム、ツィンマー*4、は、スペインの画家クイサルド*5に対して公然たる憎悪を表明している。クイサルドは、自分がサン・パウロ絵画大賞を受賞するのをより確実にしようと、同国人のサウラ*6タピエ*7共産主義のかどで告発するということをやってのけたのである。2人が「その国の警察機構に対して極めて困難な立場に追い込まれる」おそれを承知の上でである。
 
 17区の状況地図の第1段階は本誌次号に発表予定。

             

*1:ハンス・プラチェグ SIドイツ・セクションのメンバー。1959年2月除名

*2:『ポエジー・ヌーヴェル』 イジドール・イズーが発行していたレトリストの雑誌。

*3:ベルナール・ビュッフェ(1928-) フランスの画家。ステレオタイプの絵や版画を量産し、商売をした。

*4:エルヴィン・アイシュ、ロッター・フィッシャー、ルネ・ネレ、ハイムラート・プレム、ヘルムート・シュトゥルム、ハンス=ぺー夕ー・ツィンマー いずれもドイツの「シュプール」グループのメンバーで、1959年のミュンヒェン大会からSIに参加。全員、1962年に除名。

*5:モデスト・クイサルト(生年不詳) 前衛絵画の画商ルネ・ドゥルアンが、当時、サウラ、タピエスらとともにフランスに積極酌に紹介していたスペインのアンフォルメルの画家。

*6:アントニオ・サウラ(1930-) スペインの画家。独学の画家で、当初はシュルレアリスム風の絵を描いていたが、1953年パリを訪れ、アンフォルメルに深い影響を受けた。スペインに帰ってからはバルセロナで、タピエスとともにグループ「エル・パソ」を結成し、あらゆる定形を破壊する暴力的な画風を確立した。

*7:アントニ・タピエス(1923-) バルセロナ生まれのスペインの画家。1948年、クイサルトらとシュルレアリスム的傾向の「骰子の7つの目」誌グループを結成し、個展を開いた後、50年代に入り、パリに留学しアンフォルメルに参加して、ベネツィアビエンナーレ(52年)など数々の国際展に出品し、賞を得て世界的脚光を浴びる。57年以降、バルセロナアンフォルメルのグループ「エル・パソ」を結成。その画風は、砂や布など様々な素材を用いたもので、幼年期に見たスペイン市民戦争の最中のバルセロナの町の土壁(タピエス)を喚起させると言われている。