当たり前の基礎事実 その4
ルンペンプロレタリアートに対して方々から浴びせかけられる呪詛の言葉は、ブルジョワジーがルンペンプロレタリアートを利用していたそのやり方に起因する。ルンペンプロレタリアートは、ブルジョワジーに対して、権力のための調整役であるのに加えて、警官、たれ込み屋、手先、芸術家といった、いかがわしい治安部隊にもなっていたのである。しかしながら、そのかげには、労働の社会への批判が、かなりラディカルな度合いで存在する。ルンペンプロレタリアートが公言する下男と親方への軽蔑には、疎外としての労働へのもっともな批判も合まれているが、この批判は、今までまじめな考察の対象になったことはなかった。その理由は、ルンペンプロレタリアートがさまざまな曖昧さが交錯する場であったからであり、さらにまた、自然的疎外に対する闘争と快適さの生産とが、19世紀と20世紀初頭においてもまだ、もっともな口実に見えていたからでもある。
消費財の豊かさとは、生産における疎外の別の一面でしかないことが、ひとたび知れわたると、ルンペンプロレタリアートは新たな次元を獲得する。つまり、彼らは、組織された労働に対する軽蔑を解き放つのである。この軽蔑は、「福祉国家」の時代に、少しずつ、要求の比重を増してきたが、この要求を指導者だけがいまだに認めようとしていない。権力が浴びせかけるさまざまな回収の試みにもかかわらず、日常性に関して、すなわち日常生活を構築するために実行されてきたああらゆる実験は、現在のところ、疎外的な労働に対する批判と、強制的な労働に屈することへの拒否によって具体化されてえいる(そのうな実験は、封建制権力のもとでは制限され、一部の者だけに許されていたものだが、その権力が壊滅して以来、非合法な歩みをたどってきた)。その結果、新しいプロレタリアートは、自らを「強制労働に反対する戦線」という否定のカにおいて(ネガティヴ)定義する傾向にあり、この戦線のもとに、権力による回収に抵抗するすべての者が結集している。これこそまさに、われわれの行動の場を決定するもの、われわれが権力の狡知に反対して歴史の狡知を働かせる場所を決定するもの、われわれが、組織された労働と組織された生を──意識的か否かはともかく──拒否する労働者(冶金工であれ芸術家であれ)に賭け、権力の命令のもとで労働することを──意識的か否かはともかく──受け入れる労働者に反対する闘争の場を決定するものなのである。こうした展望においては、オートメーション化と新しいプロレタリアートの意志によって、労働が専門家だけに委ねられ、経営者と官僚が一時的な奴隷身分にまで落とされるような過渡期を予見するのも、あながち独断とは言えない。オートメーション化が広く普及するようになれば、「労働者たち」は、機械を監視する代わりに、サイバネティクスの専門家を関心を持って見守ることになるかもしれない。この専門家は、ある種の生産を増大させるだけの役割に還元された専門家であるが、その生産とは、力と展望の転倒によって生き延びよりも生を優先させることに従うために、〔経済の〕優先部門であることをやめてしまった生産なのである。
かつて神は、統一的社会を定義する座標軸にほかならない空間と時間の保証人であった。神は、すべての人間に共通の参照点だったのだ。神のなかで諸々の存在が自らの運命と1つになっていたように、神のなかで空間と時間は1つにまとまっていた。細分化の時代には、人間は時間と空間の間で引き裂かれたままであり、どのような超越性も、中央集権化された権力の媒介によってこの時間と空間を統一しに来ることはない。われわれは、どんな参照点もどんな座標軸も欠いた、乖離した時−空間のなかで生きている。すべてがそうするように誘っているのに、まるで、われわれはわれわれ自身と接触してはならないかのようである。
人が自分を作りあげる場と、人が自分を賭ける時間が存在する。日常生活の空間は、人が現実に自己を実現する場であるが、あらゆる操作にとり巻かれている。われわれを規定するものは、われわれが実際に自己を実現する狭い空間であるにもかかわらず、われわれはスペクタクルの時間のなかで自己を規定している。あるいは、さらに言えば、われわれの意識はもはや、神話と神話−のなかの−個々の−存在に対する意識ではなくなり、スペクタクルとスペクタクル−のなかの−個々の−役割に対する意識なのである(私は前のところで、あらゆる存在論が統一的権力に対して特っている絆のことを指摘したが、ここで存在論の危機は細分化への傾向とともに現れるということを喚起しておいたほうがよいだろう)。あるいは、別の言葉でそれを表現すれば、あらゆる存在とあらゆる事物が位置する時−空間の関係のなかで、時間は想像のもの(同一化の場)となってしまった。一方、空間は、われわれが想像のもののなかで自己を規定し、想像のものがわれわれを主観性として規定するにもかかわらず、われわれを規定しているのである。
今のわれわれの自由は、権力の言語によってわれわれが名付けられている抽象的な時間性の自由のことであり(それらの名前とは、われわれに割り当てられた役割のことである)、その際、われわれに選択の余地として残されているのは、公式に同意語として認知されるような同意語を自分で見つけることぐらいである。逆に、われわれの本当の自己実現のための空間(われわれの日常生活の空間)は沈黙に支配されている。生きた体験の空間を名付ける名は、詩のなかにしか、すなわち、権力の支配から解放された言語のなかにしか存在しないのである。
統一的権力は、個人の実存を集団的意識のなかに解消しようと努めてきた。その結果、社会を構成するそれぞれの単位は、油のなかに浮きながら重量はまったく一定の分子のように、主観的に定義されることになった。各自は、ただ神の手だけが、容器を揺り動かし、すべてを神の計画のために用いているという自明の理のなかに、自分が浸っていると感じとらねばならなかった。当然、この神の計画は、個々の人間の理解を越え、崇高な意志の流出物として押し付けられ、ほんのわずかな変化にも神の意味を与えるものであった(しかも、〈四界〉、〈運命の歯車〉、神々から遣わされた試練などの、どんな動揺も、調和に向かって昇り降りする1本の道でしかない)。集団的意識と言えるのは、それが、それぞれの個人にとっても万人にとっても同時に存在し、神話に対する意識であると同時に神話−のなかの−個々の−実存に対する意識でもあるという意味でである。幻想の力は非常に強力なので、本当に生きられた生も、生ではないものの中から、その意味を汲み取るほどである。その結果、聖職者は、生が純粋な偶然性、あさましい物質性、無益な外見、そして、神話による組織化を逃れるにつれてますます堕落してゆく超越性の最低の状態にまで切り縮められているとして、生を断罪するのである。
かつて神は、統一的社会を定義する座標軸にほかならない空間と時間の保証人であった。神は、すべての人間に共通の参照点だったのだ。神のなかで諸々の存在が自らの運命と1つになっていたように、神のなかで空間と時間は1つにまとまっていた。細分化の時代には、人間は時間と空間の間で引き裂かれたままであり、どのような超越性も、中央集権化された権力の媒介によってこの時間と空間を統一しに来ることはない。われわれは、どんな参照点もどんな座標軸も欠いた、乖離した時−空間のなかで生きている。すべてがそうするように誘っているのに、まるで、われわれはわれわれ自身と接触してはならないかのようである。
人が自分を作りあげる場と、人が自分を賭ける時間が存在する。日常生活の空間は、人が現実に自己を実現する場であるが、あらゆる操作にとり巻かれている。われわれを規定するものは、われわれが実際に自己を実現する狭い空間であるにもかかわらず、われわれはスペクタクルの時間のなかで自己を規定している。あるいは、さらに言えば、われわれの意識はもはや、神話と神話−のなかの−個々の−存在に対する意識ではなくなり、スペクタクルとスペクタクル−のなかの−個々の−役割に対する意識なのである(私は前のところで、あらゆる存在論が統一的権力に対して特っている絆のことを指摘したが、ここで存在論の危機は細分化への傾向とともに現れるということを喚起しておいたほうがよいだろう)。あるいは、別の言葉でそれを表現すれば、あらゆる存在とあらゆる事物が位置する時−空間の関係のなかで、時間は想像のもの(同一化の場)となってしまった。一方、空間は、われわれが想像のもののなかで自己を規定し、想像のものがわれわれを主観性として規定するにもかかわらず、われわれを規定しているのである。
今のわれわれの自由は、権力の言語によってわれわれが名付けられている抽象的な時間性の自由のことであり(それらの名前とは、われわれに割り当てられた役割のことである)、その際、われわれに選択の余地として残されているのは、公式に同意語として認知されるような同意語を自分で見つけることぐらいである。逆に、われわれの本当の自己実現のための空間(われわれの日常生活の空間)は沈黙に支配されている。生きた体験の空間を名付ける名は、詩のなかにしか、すなわち、権力の支配から解放された言語のなかにしか存在しないのである。
神話の聖性を剥奪し、神話を細分化しながら、ブルジョワジーは、自分たちの要求(思想の自由、報道の自由、研究の自由などの要求、教条の拒否、を想起すること)の筆頭の意識の独立をかかげてきた。その結果、意識は多少なりとも神話を反映していた意識であることをやめる。それはスペクタクルのなかで次々と果たされる役割に対する意識となるのである。ブルジョワジーが何よりもまず要請したものは、組織されたスペクタクルのなかでの役者と端役の自由であるが、そのスペクタクルは、もはや神や、神に仕える警官や司祭によって組織されるのではなく、自然法則と経済法則によって組織されている。これらの法則は、「気まぐれで冷酷な法則」だが、われわれは、その法則に再び警察と専門家が奉仕するのを見いだすのである。
神は、無用になった包帯のように、引きはがされてしまい、傷はぽっかり口をあけたまま残った。確かに、包帯は傷口が閉じるのを妨げていたが、それは苦痛を正当化し、モルヒネ数回分に匹敵する意味をその苦痛に与えていた。今では、苦痛はもはや正当化されなくなり、モルヒネも高くつく。〔包帯と傷口との〕分離は、具体的なものとなったのである。誰でも、それ〔=傷口〕を指摘することができ、薬に関して、サイバネティクス社会がわれわれに提案できるものと言えば、壊疸と腐敗の見物人(スペクタトゥール)、生き延びの見物人になることだけである。
ヘーゲルが語っている意識のドラマも、それ以上に、ドラマの意識である。ロマン主義は、身体から引き抜かれた魂の叫びとして鳴り響いているが、その苦痛は、聖なる全体性の崩壊とすべてのアッシャー家の崩壊〔ボーの短編小説の題名]に直面して誰もが再び孤立しているだけに、いっそう鋭いものとなる。
全体性とは、実現というかたちでしかその運勤のなかに主観性を組み込むことができないような、客観的現実のことである。日常生活の実現でないものはすべて、生き延びが凍結(冬眠)されて、断片に切り分けられるスペクタクルに行きつく。本物の実現は客観的現実のなかにしか、全体性のなかにしか存在しない。その他のものはすべて、カリカチュアなのである。スペクタクルのメカニズムのなかで行われる客観的(オブジェクティヴ)実現は、権力によって操作された物の成功でしかない(これが、有名芸術家やスターや名士録に載っている人物たちの言う、「主観性のなかでの客観的実現」というものである)。外見の組織化のレヴェルでは、どんな成功も──さらに、どんな失敗も──、あたかも唯一の成功か唯一の失敗であるかのように、情報によって、ステレオタイプになるまで水増しされ、通俗化される。権力の下す判決は圧力に屈したものであるのに、今まで、権力は自分を唯一の裁判官だと信じてきた。彼らの基準は、スペクタクルを受け入れ、そのなかで役割を果たすことに満足している者にとってしか価値がない。この舞台の上では、もはや芸術家は存在せず、端役だけが存在するのである。
かつて私生活(ヴィ・プリヴェ)〔=剥奪された生〕の時−空間は、神話の−空間のなかで調和を保っていた。この倒錯した調和に呼応するのが、フーリエ*1の言う普遍的な調和である。神話が、聖なるものに支配された全体性のなかに、個人的なものと部分的なものとを包み込まなくなるや否や、個々の断片が全体性に格上げされる。事実、全体性に格上げされた断片とは、全体主義的なものである。私生活を構成する乖離した時‐空間のなかでは、時間は、スペクタクルの自由にほかならない抽象的な自由という様式に基づいて絶対化され、自らの乖離そのものを通して、私生活の空間的絶対条件、すなわちその孤立とその狭さを強固なものとする。疎外的スペクタクルのメカニズムは、非常に大きな力を発揮するので、私生活は、スペクタクルを欠いたものとして定義されるまでになり、〔自分が〕スペクタクルの諸範疇にもさまざまな役割にもあてはまらないという事実が、余分に加えられた剥奪として、また、権力が日常生活を取るに足らない身振り(座る、体を洗う、ドアを開ける)に切り縮める口実にする不安として、感じられることになるのである。
生きた体験に自らの規範を押しつけるスペクタクルの源は、生きた体験のなかにある。スペクタクルの時間は、次々と変わる役割のかたちで生きられ、本当に生きられた体験の空間を客観的な無力の場にするが、他方で、それと同時に、客観的な無力、つまり、専有の操作に起因する無力は、スペクタクルを潜在的な自由の絶対条件にする。
生きた体験のなかから生まれた諸要素は、スペクタクルのレヴェルにおいてしか認識されない。そのなかで、これらの要素はステレオタイプのかたちで表現されるが、一方、そのような表現は、本当に生きられた体験のなかで、そしてそのような体験によって、一瞬ごとに異議を唱えられ、打ち消される。生き延び者──ニーチェ*2が「小人」とか「最後の人間」と呼んでいた者たち──のモンタージュ写真があるとすれば、それは次のように理解された可能と不可能の弁証法のなかでしか考えられない。
a スペクタクルのレヴェルで可能なもの(抽象的な役割の多種性)は、本当に生きられた体験のレヴェルでの不可能なものを強化する。
b 不可能なもの(すなわち、現実に生きられた体験に対して、専有が押しつける限界)は、抽象的に可能なものの場を決定する。
生き延びには、このように2つの次元がある。こうした還元に抗する勢力として、あらゆる人間にとっての問題を構成するもの、つまり、生き延びと生の弁証法を強調しうるような勢力とは何かあ。SIがこれまでそこの賭けてきた明確な勢力によって、生き延びと生という対立物を乗り越えることが可能になり、空間と時間が日常生活の構築のなかで結び合わされることになるのか、それとも、生も、生き延びも、緩和された対抗関係のなかで動脈硬化を起こし、最終的には混ぜ合わされ、貧困に落とし込まれることになるのか、そのどちらかである。
生きられた現実は、細分化され、さまざまなカテゴリ──生物学のものであれ、社会学のものであれ、あるいはそれ以外のものであれ──に分けてレッテルを貼られる。これらのカテゴリーは、コミュニケーション可能なものに属するが、そこでコミュニケーションされるのは、本当のかたちで生きられた内容を取り除かれた事実でしかない。この点で、専有の客観的なメカニズム(容認−排除のこと、第3節を見よ)のなかに各自を閉じ込める位階秩序化された権力は、主観性を独裁的に支配するものでもあるのである。まさに主観性に対する独裁者として、この権力は個人の主観性それぞれに対して自己を客観化するよう、すなわち、権力によって操作される物〔=客体〕となるよう強いるのである。そこには、極めて興味深い弁証法があるが、それについては、より子細に分析することが望ましいだろう(主観性のなかでの客観的な実現──権力による実現──と客観性のなかでの客観的な実現──日常生活を構築し、権力を破壊する実践に含まれるもの──とを想起すること)。
ところで、諸々の事実は、コミュニケーション可能なものの名において、抽象的な普遍性の名において、各自が逆の方向で自己実現するような倒錯した調和の名において、その内容を剥奪される。このような展望において、SIはサド、フーリエ、ルイス・キャロル、ロートレアモン、シュルレアリスム、レトリスムを経由する異議申し立ての線上に位置する。少なくとも、SIの最も知られていない潮流──最も極端であった渦流──においては、そうである。
全体性に格上げされた断片においては、どの部分も、それ自体が全体主義的である。個人主義は、感性、欲望、意志、知性、良い趣味、下意識そして自我についてのあらゆるカテゴリーを絶対として扱ってきた。今日では、社会学が心理学上の諸カテゴリーを豊かなものにしているが、役割にいくらヴァリエーションを加えても、同一化という反射運動の単調さをいっそう強調することにしかならない。「生き延び者」の自由は、自分をそれに切り縮めることを「選択」した、抽象的な構成要素を引きうけることにあるだろう。1度、現実的実現をすべて遠ざけてしまえば、後に残るのは、社会心理学のドラマツルギーだけである。そこでは、内面性は、身につけた衣を日常的な見せびらかしのなかに吐き出すための排水口の役目を果たすのである。生き延びは、機械的に複製される思い出という様式で組織された生の、最も完成された段階なのである。
現在まで、全体性へのアプローチは偽造されてきた。人間と自然の間に、まるで不可欠な媒介のように、権力が寄生的に挟み込まれる。ところで、ただ実践だけが、人間と自然との間の関係を基礎づける。実践こそが、神話と神話の代用品によって首尾一貫性が表現されようとしている嘘の層をたえず打ち破るのである。たとえ疎外されたものであっても、実践とは、全体性との接触を維持するものである。実践は、自らの断片的な性格を露わにしつつ、同時に、現実的全体性(現実)を暴露する。実践は、自己とは逆のものを通して、すなわち断片を通して、自己を実現する全体性のことなのである。
実践の展望においては、どんな断片も全体性である。実践を疎外する権力の展望においては、どんな断片も全体主義的である。権力の努力の真剣さを過小評価してはならないが、サイバネティクス権力が実践を神秘のなかに包み込むために発揮する努力を阻止するには、これだけで十分であるにちがいない。
実践であるものはすべて、われわれの計画に含まれている。実践の疎外的部分も、権力の不純性も合わせてそうである。だが、われわれは濾過することができる。われわれは、隷属化のためのさまざまな策動を明らかにするとともに、拒否の身振りの持つ力とその純粋性をも明らかにするだろうが、それは、マニ教的二元論の展望(ヴィジョン)のなかで行われるのではない。それは、敵どうしが、いたるところで、あらゆる瞬間に、夜の闇のなかで、癒す薬のない不安のなかで、接触を求めて行き当たりばったりに格闘しているあの戦いを、われわれ自身の戦略を通して進展させることによって行われるのである。
日常生活は、外見の生のために常に空虚にされてきたが、外見には、神話的凝集力という点で、日常生活を決して話題にさせないだけの力が十分にそなわっていた。資本主義のさまざまな変種のすべてとブルジョワジーのさまざまな変種のすべてを通して浮かび上がる貧困、すなわちスペクタクルの空虚は、ある種の日常生活(避難所としての生活だが、しかし、何のための、何に対する避難所なのか?)の存在を暴露するとともに、日常生活の貧困をも暴露してきた。物象化と官僚支配が強化されるにつれて、スペクタクルと日常生活双方の虚弱な性格が唯一の自明な事実になってしまっている。人間的なものと非人間的なものとの衝突もまた、外見の面に移ってきた。マルクス主義が1つのイデオロギーとなるや否や、マルクスが生の豊かさの名において行った、イデオロギーに対する闘争は、イデオロギー的な反−イデオロギーに、反−スペクタクルのスペクタクルに変形されてしまった。(それは前衛文化において、反−スペクタクル的なスペクタクルの不幸が役者たちの間にだけとどまっていることにあり、反−芸術的な芸術が芸術家によってしか行われ理解されないのと同様である。このようなイデオロギー的な反−イデオロギーと、レーニン主義における職業的革命家の機能との間の関係を考察しなければならない)。こうして、マニ教的二元論は、しばらくの問、息を吹き遂すことになった。なぜ、聖アウグスティヌス*3はあれほど激しくマニ教徒だちと戦ったのだろうか。それは、彼が、悪に対する善の勝利という1つの解決しか提供しない神話がどんなに危険であるかを予測したからである。こうした解決策の不可能性が神話の構造全体を瓦解させて、神話の生と本当の生との関の矛盾を前面に押し戻しかねないということを、彼は知っていたのだ。キリスト教は、第3の道、つまり、聖なる混同という道を提供する。キリスト教が神話の力によって成し遂げたものが、今日では、事物の力によって成し遂げられる。ソヴィエト化された労働者と資本主義化された労働者の間には、もはやどんな敵対関係も存在しないし、スターリン主義の官僚の爆弾と非−スターリン主義の官僚の爆弾の間にも、もはやどんな敵対関係も存在しない。もはや、物象化されたさまざまな存在の混同における統一しかないのである。
責任者はとこにいるのか。打倒すべき人間は、どこにいるのだろうか。われわれを支配しているのは、1つのシステム、1つの抽象的な形式なのである。人間性と非−人間性の程度は、受動性の純粋に量的な変化によって測られている。質はどこでも同じなのだ。つまり、われわれはみな、プロレタリア化されている、あるいは、プロレタリア化される途上にある。伝統的な「革命家たち」は何をしているのか。彼らはそれぞれの段階を還元し、どのプロレタリアートも、プロレタリア化されているという点では同じであるようにしてしまうのである。プロレタリアートの終焉を綱領に掲げた党とはいったい何だったのか。
生き延びの展望は、耐えがたいものとなった。われわれの上にのしかかっているのは、真空のなかの事物の重さなのである。これこそまさに、物象化というものである。どの存在もどの事物も等しい速度で落下し、どの存在もどの事物も風袋のように等しい価値を持つのである。等価値が君臨することによって、キリスト教の計画が実現されたのだが、それは(パスカルが推測していたように)キリスト教の外部で実現された。しかも、とりわけ、パスカルの予見とは逆に、神の亡骸の上に実現されたのである。
等価値の君臨するところでは、スペクタクルと日常生活とが共存する。存在と事物は互いに交換可能である。物象化の世界は、この世界の舞台背景(デコール)である新都市のように、中心を欠いた世界なのである。現在という時間は、恒久的な未来──過去の機械的な拡張でしかないような未来──に対する約束を前にして、消え去る。時間性そのものが中心を欠いているのだ。犠牲者と拷問者が同じ仮面をつけているこの強制収容所的宇宙のなかでは、拷問の現実だけが本物である。こうしたに拷問を、いかなる新たなイデオロギーも軽減することはできない。全体性(〈ロゴス〉)のイデオロギーにも、ニヒリズムのイデオロギーにも、それはできない。それらは、サイバネティクス社会を支える松葉杖にすぎないからだ。この拷問こそが、たとえどれほど隠された権力でも、どれほど組織された権力でも、位階秩序化されたあらゆる権力の欠陥を証明する。SIが更新しようとする敵対関係は、最も古くからの敵対関係であり、根源的な敵対関係であるが、そうであるからこそ、それは、さまざまな反乱の運動や偉大な個性が歴史の流れに委ねてきたすべてのものを、再び引き受けるのである。
ほかにも改めて採り上げ、転倒すべき当たり前の事実が数多くあるかもしれない。最良のものには、決して終わりがない。これまでに書いたことは、凡庸な精神の持ち主には3度目にやっと理解できることであるが、それを読み直す前に、次のテクストに注意を注いだ方が良い。この覚書が、他の覚書と同様に断片的であるため、議論と説明を呼ぶだけに、いっそうたゆまぬ注意力が必要だ。要は、SIと革命権力という中心的な問題なのである。
SIは、大衆党の危機と「エリート」の危機を一緒に考察することによって、ボルシェヴィキ的なCC〔中央評議会〕を乗り越える(大衆党の乗り越え)と同時に、ニーチェ的な企図をも乗り越える(インテリゲンチャの乗り越え)ものとして自らを定義しなければならないだろう。
a 権力は、革命への意志を指導するものとして自己を提示するたびに、革命の権力をアプリオリに浸食してきた。ボルシェヴィキ的なCCは、自己を集中であると同時に代表として定義していた。ブルジョワ権力に対抗する権力の集中と、大衆の意志の代表として。この二重の特徴によって、ボルシェヴィキ的なCCは、早晩もはや中身が空っぽになった権力、何も代表しない権力にすぎなくなるように決定されていた。そして、その結果、共通の形式(官僚支配)のもとで、ブルジョワ権力──そちらもまた、ボルシェヴィキ的なCCの圧力によってよく似た進化を遂げた──と合流するよう決定されていたのである。SIが自分たちは質を握っており、自分たちの理念は誰にでも理解できると念を押すとき、それは、集中した権力と大衆の代表のための条件がSIの中に潜
在的に存在するということだ。しかしながら、われわれは、権力の集中も代表する権利もともに拒否する。それは、今この瞬聞から、われわれが公に採るべき態度(というのも、われわれには、ある程度までスペクタクル的なやり方で自らを知らしめることが避けられないからだ)は1つしかないということを意識しているからである。この態度は、われわれの理論的、実践的立場に基づいて自己を発見する者たちに、革命権力を、無媒介の権力を、万人の直接行動を含み持つ権力を、与えうる唯一の態度であるだろう。そのモデル・イメージは町から村へ移動して、ブルジョワ的要素を一掃し、労働者に自己の組職化をまかせたドゥルッティ旅団かもしれない。
b インテリゲンチャは、権力の鏡の間である。権力に異議を申し立てながらも、インテリゲンチャは、どの行為を通しても現実の異議申し立てを示している者たちの受動性に対して、カタルシス的な同一化を提供するだけである。しかしながら、「121人」宣言*4のなかに見て取ることのできたラディカリズム──行為のラディカリズムであって、理論のラディカリズムではないことは明白だが──は、これまでとは異なるいくつかの可能性を示した。われわれにはこのような危機を加速することはできるが、それができるのは、われわれがインテリゲンチャのなかに(しかも、彼らに反対して)権力として入り込むことによってでしかない。この位相は、aの部分で描写された位相に先行し、そこに含みこまれるはずのものだが、われわれは、この位相によってニーチェ的な企図という展望のなかに置かれることになる。事実、われわれは、全体的人間の実現に着手する、ほとんど錬金術的とも言える小実験集団を構成することになるだろう。このような企てをニーチェは、位階秩序の原理の枠内でしか構想していない。ところで、われわれが事実上、位置することになるのは、そうした枠の中なのである。それゆえ、われわれとしては、まったく曖昧さを残さず、自己を提示することが最高度に重要になってくるだろう(集団のレヴェルでは、中核を浄化し、残滓を除去することは、今や成し遂げられたと思われる)。われわれが自分の置かれている位階秩序的な枠組みを受け入れるのは、われわれが我慢しきれず、われわれの支配する者たち、われわれ自身の認識基準に基づいてしか支配できない者たちを撲滅するようになる場合だけである。
c 戦術面では、われわれのコミュニケーションは、多かれ少なかれ隠れた中心から放射状に発されるものでなければならない。われわれは、物質化されていないネットワーク(革命軍の到着以前の共産主義者の扇勘者が行ったような、直接的関係、エピソード的関係、非束縛的な接触、漠然とした共感関係と理解関係の発展)を確立するだろう。われわれは、ラディカルな行為(行動、著作、政治姿勢、作品)を分析しながら、それらの行為を自らのものとして要求する。そして、われわれの行為やわれわれの分析を最も多くの者から要求されたものとみなすだろう。
かつて神が過去の統一的社会の参照点を構成していたのと同じように、われわれは、今ようやく可能になった統一的社会に対して、中心的な参照点を提供するための準備をしている。しかし、この参照点は、決して固定的なものではないだろう。非人間性の過去の中からサイバネティクス社会が汲みとっている、常に反復される混同とは逆に、それが表しているものは、すべての人間の遊戯であり、「未来の揺れ動く秩序」なのである。
ラウル・ヴァネーゲム
*1:シャルル・フーリエ(1772−1837年) フランスの空想的社会主義者。商人としてフランス諸都市を巡り、資本主義の現実を観察する中で、独学で「ファランジュ」と名づけたたユートビア的未来社会を構想した。人間の本能を12に分類、それを伸ばす調和的世界を理想とし、それに反する文明を悪として、物質的・有機的・動物的・社会的の『四運動の理論』を社会的運動法則として発見した。その考えは、フランスの社会主義運動・協同組合運動に影響を与えた。著書に『四運動の理論』(1808年)、『産業的社会的新世界』(22年)など。
*2:フリードリッヒ・ニーチェ(1844−1900年) ドイツの哲学者,ギリシャ悲劇、ショーペンハウアーの意志哲学の影響を受け、リヒャルト・ヴァーグナーの総合芸術的文化運動に共鳴。普仏戦争に従軍後健康を損ね、大学を辞し、狂気のなかて死んだ。著作に永劫回帰思想による生の肯定と超人の理想を説く『善言の彼岸』(88年)、権力意志を生の原理とする『権カヘの意志』(84−88年)など。
*3:聖アウグスティヌス(354−430年) 初期キリスト教会の教父・哲学者。ヌミディア(北アフリカ)に生まれ、青年時代に遊学したカルタゴで放縦な生活をしたが、それを悔いてマニ教に帰依 その徹底した善悪二元論に惹かれたが、やがてキケロを読み、マニ教の宇宙論に懐疑を抱くようになり、マニ教に捨てて、後にキリスト教に回心する。聖職に就いてから、まず最初に著書と論争によってマニ教の二元論的世界観を激しく攻撃した。著書に『告白』、『神の国』など。
*4:「121人」宣言 1960年9月5日、フランスのアルジェリア戦争政策に反対し、アルシェリア人の独立戦争を支持するために、フランスの知識人121名が行った宣言。アルジェリア人民に武器を取ることの拒否、フランス人によるアルジェリア人支援の正当性、植民地廃絶の大義という3点を掲げたこの宣言は、モーリス・ブランショ、ディオニス・マスコロ、クロード・ランズマン、マルセル・ペシュらが起草し、サルトルからシモーニュ・シニョレまで多くの知識人を結集し、署名者に対する警察の尋問など激しい弾圧を受けながらも、アルジェリアの独立のブロセスの中で大きな役割を果たした。本書 第2巻116ページの訳者解題を参照。