シチュアシオニストと政治および芸術における新しい行動形態

訳者改題

 シチュアシオニストの運動は、芸術の前衛であると同時に、日常生活の自由な構築をめざした実験的探究、そしてさらには、新しい革命的な異議申し立てを理論的実践的に打ち立てることに貢献するものとして姿を現した。今後は、文化における基本的創造も社会の質的変更もすべて、そうした統一的な歩みの進み具合にかかっている。
 疎外、全体主義的管理、受動的なスペクタクル的消費、これらのものでできた同一の社会が、イデオロギーと法律の偽装によっていくつかのヴァリエーションを持ちながらも、いたるところで支配している。この社会の一貫した姿は、全体的な批判なしに理解することはできない。この批判とは、創造力を解放するための逆のプロジェクト、すべての人間があらゆるレヴェルで自分自身の歴史を支配するためのプロジェクトによって照らし出された批判である。
 互いに切り離すことのできないこのプロジェクトとこの批判(互いが互いを目に見えるものにするのだから)をわれわれの時代にもたらすこと、それは、労働者の運動、現代の詩と芸術、ヘーゲルからニーチェまでの哲学の乗り越えの時代の思想、これらのものが保持していたあらゆるラディカリズムを即座に復興することを意味する。そのためには、まず、今世紀の最初の3分の1において起きた革命的なプロジェクトの全体が敗北したこと、そして、世界のあらゆる地域とあらゆる領域で、古い秩序を覆い隠し整備する質の悪い偽物に公式にそれが取って代わられたことを、そのすべての広がりにおいて、いかなる慰めの幻想も持ち続けることなく、認めなければならない。
 こうしたラディカリズムの再開には、当然のことながら、かつての解放の試みをすべてかなり深く探究することも含まれている。彼らの試みが孤立の中で未完に終わり、あるいは、世界的な欺瞞へと転倒された経験は、変革すべき世界の一貫性をいっそうよく理解させてくれる。そして、その一貫性を再発見することによって、最近、継続されている多くの部分的探究を救い出すことができる。それらの探究は、そのようにしてそれぞれの真理へと近づくことができるのである。世界のこの可逆的一貫性は、そのままの形で、あるいは可能な形で、中途半端なやり方の誤った性格を暴露するとともに、支配的な社会の働き方のモデルが──その位階秩序化と専門化の諸カテゴリー、そしてそこから派生したその習慣とその趣味とともに──、否定勢力の内部で再構成されるたびに、そこには本質的に中途半端なやり方があるのだという事実を暴露する。
 おまけに、世界の物質的発展は速度を速めてきた。世界は常に、ますます多くの潜在的な力を蓄積している。しかし、社会を指導する専門家たちは、受動性を保存するその役割そのものから、それらの力の利用の仕方を知らないでいることを強いられている。この発展は、また同時に、一般化した不満と致命的な客観的危険を蓄積し、それを長期にわたってコントロールすることは、専門化した指導者たちにはできないのである。
 シチュアシオニストが芸術の乗り越えを置くのはそうした展望の中にである以上、次のことはよく理解できるだろう。つまり、芸術と政治の統一的ヴィジョンをわれわれが語るとき、それが言わんとすることは、芸術を何らかの形で政治に従属させることをわれわれが勧めているということでは絶対にない、ということである。われわれにとって、そして、この時代を曇りない眼で見ることを始めているすべての者にとって、現代芸術はすでにもう存在していなかった。それは、ちょうど、30年代の終わり以降、どこにも、組織された革命的政治が存在していなかったのと同じである。それらが今、再来するとすれば、それは、それらの乗り越えでしかありえない。すなわち、それらが最も根本的に要求したものを、まさしく実現することである。
 シチュアシオニストが語る新しい異議申し立ては、すでにいたるところで立ち上っている。現体制によって組織された非−コミュニケーションと孤立の巨大な空間の中で、1つの国から別の国へ、1つの大陸から別の大陸へと、新しい種類のスキャンダルを通して、いくつもの口火が切って落とされ、互いの間での交換が始まっている。
 前衛──それが存在するどこででも──にとって重要なのは、それらの経験とそれらの人々を互いに結びつけることである。それぞれのグループを統一すると同時に、それらのグループのプロジェクトの首尾一貫した基盤を統一することである。われわれは、次の革命的時代のこれらの最初の行動を、知らしめ、説明し、発展させねばならない。そうした行動は、闘争の新しい形態と既存の世界に対する批判の新しい内容──顕在的か潜在的を問わず──を集中的に持っているために、容易に認めることができる。それゆえ、自らの絶えざる現代化を自画自賛している支配的な社会は、やがて話しかける相手を見出すことになる。というのも、この社会は、結局は、現代化された否定勢力を産み出すからである。
 野心家の知識人や、われわれを真に理解する能力のない芸術家がシチュアシオニストの運動に加わることを拒否し、[シチュアシオニスム」を自称するナッシストを最も最近の例とするさまざまな歪曲を拒絶し、告発する際に、われわれはかくも厳しい態度を見せてきた。しかし、それとまったく同様に、ラディカルな新しい行動の実行者をシチュアシオニストと認め、彼らを支持し、決して非難しないことを、われわれは決意している。たとえ、彼らのなかの多くが、今日の革命プログラムの一貫性に対して、まだ十分な意識を持っておらず、単に、その意識を獲得する途上にあるにすぎないにしてもである。
 われわれが完全に賛同できるいくつかの例だけに限って述べよう。1月16日、カラカス〔ベネズエフの首都〕の革命的学生たちは、武器を手にして、フランス芸術展を攻撃した。彼らは、5点の絵画を奪い去り、それを返還することと交換に政治犯の釈放を要求した。ウィンストン・ベルムデス、ルイス・モンセルベ、グラディス・トロコニスが発砲して防衛しようとしたにもかかわらず、絵画は機動隊によって奪い返されたため、数日後、他の同志らが、回収された絵画を移送中の警察のトラックに2発の爆弾を投げたが、不幸にも、それはトラックを破壊することはできなかった。これこそ、明らかに、過去の芸術の模範的な扱い方であり、それを再び生のなかに参加させ、生が持つ真に重要なものの上に置く模範的なやり方である。ゴーギャン(「私は、あえてすべてをやってみる権利を確立したいと思ったのである」)とヴァン・ゴッホが死んで以降、敵によって回収された彼らの作品は、このベネズエラ人の行為のように、彼らの精神に一致した称賛を文化界から受け取ったことは、これまで一度としてなかった。1849年のドレスデン蜂起の最中に、バクーニン*1は、絵画を美術館から外に出し、町の入り口に作られたバリケードの上に置いて、敵の攻撃部隊がそれに邪魔されて射撃を続けられなくなるかどうか見てみようと提案した。もっとも、その提案は最後まで追求されることはなかった。それゆえ、このカラカスの事件が先の世紀の革命的高揚の最も高い地点の1つをいかに正しく引き継いでいるか、それとともに、この事件がいかに一挙にはるかに遠くまで進んでいるかは明らかである。
 これに劣らず動機がはっきりしているように思えるのが、デンマークの同志たちの行動である。それは、この数週間に、数度にわたり、スペインヘの観光旅行を組織している旅行社に対して焼夷弾を投げつけるとともに、熱核兵器武装に反対する世論を喚起するために非合法のラジオ放送を行った。スカンディナヴィア諸国の快適で退屈な「社会主義化された」資本主義の枠組みの中で、自分たちの暴力によって、「人間化された」現体制を基礎づけているもう1つの暴力のいくつかの側面──例えば、情報の独占や、余暇や観光のなかで組織されている疎外など──を暴露する人間が出現したことは、非常に心強いことである。この快適な退屈には、恐るべき裏があり、それを受け入れるやいなや、さらにそれ以上の快適な退屈を受け入れねばならなくなる。この平和は単に生でないばかりか、核兵器による死の脅威に基づいた平和なのである。組織された観光が、訪れた現実の国々を覆い隠す貧弱なスペクタクルにすぎないだけでなく、中立的なスペクタクルに変形されて差し出されるその国の現実とは、実はフランコ*2の警察なのである。
 最後に、4月に「政府管轄地域シェルター第6号」の所在地と計画を暴露したイギリスの同志たちの行動は、国家権力がその領土の組織化においてすでにどのレヴェルにまで到達しているか、また、権力の全体主義的機能をどれほど進んで活用しているかを暴くという巨大な長所を持つものである。これは、単に戦争を展望しただけのものではない。むしろ、あらゆる場所で熱核兵器戦争の脅威を維持することである。この脅威こそが、東側でも西側でも、今からすでに、大衆を服従させ、権力のシェルターを組織するのに役立つのである。それは、支配階級の権力を心理的にも物質的にも防衛するのに役立つ。それ以外の地上の現代的都市計画も、同じ関心に従って行われている。われわれはすでに、1962年4月に、フランス語版のシチュアシオニストの雑誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第7号で、その前の年に合州国で建設された個人用核シェルターについて、次のように書いていた。「どのような恐喝についても言えることだが、ここでも防衛というのは単なる口実にすぎない。シェルターの真の使途は、人々の従順さを測り、それゆえそれを補強することであって、支配的な社会に好都合な方向へとこの従順さを操作することである。豊かな社会で消費しうる新食品の創造と同じく、シェルターは、これまでのいかなる商品にもまして、きわめて人工的な欲求を満たすために人間を働かせることができるということを示している。この人工的な欲求は、たえて欲望であったためしがなく、欲求にとどまる。〔……〕『団地』という形を取る新しい住居形態は、実際にはシェルター建築と切り離さすことができない。団地とは、単にシェルターの劣った段階を表しているにすぎない。ただ、団地のアパルトマンの1軒1軒は狭いだけだ。〔……〕強制収容所のような地上組織は、形成途上にある社会の正常な状態であるが、その社会を地下に縮小して再現したものは、過剰なまでの病理を表している。この病は、この健康の図式をよりうまく暴いている。」
 イギリス人たちは、この病の研究に、そしてそれゆえ、「正常な」社会の研究にも決定的な貢献をしてくれた。この研究は、それ自体が1つの闘争と切り離せない。その闘争は、「裏切り」という古くさい国家タブーを無視することを恐れずに、「情報」のインフレーションによる分厚いスクリーンの陰にある、多くの事柄についての秘密、現代社会において権力がうまく機能するためにきわめて重要な秘密というものを破る闘争である。警察の努力と数多くの逮捕にもかかわらず、破壊活動(サボタージュ)は日を追って広がってきた。それは、田園地帯に点在する秘密の司令部を急襲したり(そこでは、何人かの責任者の写真がむりやり撮られた)、極秘の電話番号──それもまた、暴露された──にひっきりなしに電話することで、英国諜報部のさまざまな機関の40本の電話ラインを組織的に麻憚させたりしている。
 社会空間の支配的なやり方での整備に対するこの最初の攻撃こそ、われわれが「RSG6粉砕」という示威集会をデンマークで組織することによって讃え、拡犬させたいと望んだものである。そうすることで、われわれはこの闘争を国際的に拡張しようと考えているだけでなく、地球規模の同じ闘争の別の戦線、すなわち芸術の側面へとこの闘争を拡張しようと考えている。
 シチュアシオニスト的と呼びうる文化の創造性は、統一的都市計画のプロジェクトや生活の中での状況の構築のプロジェクトによって開始される。それゆえ、その実現は、現在の社会に含まれている革命的可能性の全体を実現する運動の歴史と切り離すことはできない。しかしながら、差し追った行動──それは、われわれが破壊したいと望んでいる枠組みの中で企てられなければならない──において、今からでも、映画から絵画にいたる既存の文化的表現の手段を用いて、批判的芸術をつくり出すことは可能である。それこそ、シチュアシオニストが転用の理論によって要約したものである。内容において批判的なこの芸術は、その形式においても自己に対して批判的でなければならない。それは、既存のコミュニケーションの専門領域の限界を知ることによって、「今や、それ自身への批判を含み持つようになる」コミュニケーションである。
 「RSG6」に関して、われわれはまず、訪問者が最初に入る部屋の中に、核シェルターの空気を作り出した。訪問者はそこで考えた後、この種の必需品が徹底的に排除されたゾーンに出会うことになる。ここで批判的な仕方で用いられる芸術は、絵画である。
 ダダイスムによって頂点を極めた現代芸術の革命的役割は、芸術であれ言語や行動様式であれ、あらゆる慣習を破壊することにあった。芸術や哲学において破壊されたものも、だからと言って、当然、新聞や教会から具体的に一掃されたわけではなく、武器の批判はその時、批判の武器のある程度の前進にまだついてこれなかったために、ダダイスム自体は文化のモードとなって分類されてしまい、最近になって、ネオ−ダダイスト*3たちによってその形式だけが反動的な気晴らしに逆転されてしまった。このネオーダダイストらは、1920年代以前に発明されたスタイルを繰り返し、それぞれの細部を途方もなく膨らませて利用し、そうした「スタイル」を現在の世界を受け入れる方策として、また、その世界の装飾として役立たせることによって、出世を遂げるのである。
 しかしながら、現代芸術が持ってきた否定の真理は、これまで常に、それをとりまく社会への正当な否定であってきた。1937年にパリで、ナチの大使オットー・アベッツ*4が、絵画「ゲルニカ」の前で、ピカソに「これを作ったのはあなたですか」と尋ねたとき、ピカソはまったく正当にもこう答えた。「いいえ、あなたです」と。
 第一次世界戦争の経験の後、現代詩と現代芸術のなかにあれほど広がった否定──それと、ブラック・ユーモアも──は、確かに、第三次世界戦争のスペクタクル──われわれがその中で生きているスペクタクルに関して再び出現するべきである。ネオーダダイストが、かつてマルセル・デュシャン*5の行った造形上の拒否に(美学的に)肯定的な意味を担わせることを語るのに対して、世界が今、肯定的なものとしてわれわれに与えるものはすべて、現在認められている表現形態に果てしなく否定的な意味を担わせ続けるだけであり、その回り道を通して、この時代の唯一の表象芸術を作らせるにすぎないと、われわれは確信している。実際に肯定的なものが到来するのは別の場所であるだろう、そして、今から直ちに、この否定がそれに協力するのだ、そのことをシチュアシオニストは知っている。
 一切の絵画的な関心を越えて、そしてさらに、願わくば、多かれ少なかれずっと以前に滅びてしまった造形美の一形式への媚びを思い起こさせるあらゆるものを越えて、われわれはいくつかの完全に明確な印の痕跡をたどってきた。
 何も描いていないタブローや転用された抽象絵画の上に書き込まれた「指令」は、壁の上に書かれているのを眼にできるスローガンと考えてもらいたい。いくつかのタブローの政治声明形式のタイトルは、もちろん、伝達不可能な「純粋記号」の絵画に自分の基盤を置こうとする流行の気取ったスタイルと同じ愚弄的、罵倒的意味を持っている。
 「熱核反応地図」は、絵画における「新しい具象(ヌーヴェル・フィギュラシオン)」を求める骨の析れる探究のすべてを一挙に乗り越える。なぜなら、この「地図」は、アクション・ペインティングの最も自由な手法を、次の世界大戦の最中のさまざまな時刻の世界のいくつかの地域を表象することに結びつけたが、それは完璧に写実的な表象だと主張することもできるからである。
 「勝利」の連作で問題となっているのは、──そこでもなお、超−現代的な極端なぞんざいさを、オラース・ヴェルネのような細密な写実主義に混ぜ合わせることによって──戦争画を復活させることである。しかし、ジョルジュ・マチューとは逆に、また、彼が自分の宣伝のためにやっている取るに足らない騒動の基にある反動イデオロギーヘの回帰とは逆に、われわれがここで成し遂げる転倒は、過去の歴史をよりよいものへと、つまり、実際にそうでなかった以上に革命的で、成功したものへと訂正するのである。「勝利」は、ロートレアモンがすでに、大胆にも、贋物によって不幸の外見とその論理のすべてに反対することを約束した時に用いた絶対的楽天主義の転用を引き継いでいる。「私は悪を認めない。人間は完全である。魂は失墜しない。進歩は実在する。(……)今までのところ、人が不幸を描いたのは、恐怖、憐憫の情を起こさせるためであった。私は幸福を描いてそれらの情と反対の気持ちを起こさせよう。(……)私の友人たちが死なない限り、私は死について語ることはないだろう。」 

ギー・ドゥボール 1963年6月

*1:ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・バクーニン(1814−76年) ロシアのアナキスト革命家。40年からの独・スイス・伊への外追申に、48年、革命に出会い、プラハでスラヴ連邦樹立を図り、翌49年、ドレスデン暴動を指揮し、逮捕される。51年にロシアに送還され、シベリア流刑となるが、61年に逃亡し、日本、米国を経てロンドンに渡り、〈第1インターナショナル〉に加わるが、マルクスと論争、分派を作り、72年に除名される。73年の主著『国家とアナーキー』 によって、ロシアのナロードニキ運動のイデオローグとなる。

*2:フランコ(1892−1975年) スベインの軍人・政治家。36年人民戦線の選挙での勝利以降、反革命内乱を開始し、ドイツ・イタリアの軍事援助で39年人民戦線を壊滅させ、独裁制を確立。以後、47年の王位継承法により終身統領としてスペインを支配。

*3:ネオ−ダダイスト 50年代中頃から米国を中心に、それまでの芸術形式を破壊し、卑俗とされてきたものを積極的に用いて芸術作品を製作するネオ−ダダの芸術家たちのこと。53年以降、ぼろ切れ、印刷物、廃物などを集め〈コンバイン・ペインティング〉の名で作品を製作してきたロバート・ラウシェンバーグ、54年以降旗、標的などの絵画を製作したジャスパー・ジョーンズらがいる。

*4:ハインリッヒ・オットー・アベッツ(1903−58年) ナチス・ドイツの文化工作者。ゲッペルスのもとで対仏宣伝を担当、1940年フランス降伏後のヴィシー政権の対独協力を促進。戦後、戦犯として重労働に服す。

*5:マルセル・デュシャン(1887−1968年) フランスの画家。1914年、第一次大戦を機に米国に渡り、ピカビア、マン・レイとともにニューヨーク・ダダの中心人物として活動。17年のニューヨーク・アンデパンダン展に『泉』というタイトルを付けた男性便器をそのまま出品するなど、「レディ・メイド」の作品によって芸術作品と芸術家の概念を根底から覆す作品を作った。