当たり前の基礎事実 その3

前章までの要約


 今日、福祉国家は、快適さを提供する技術(ミキサー、缶詰、サルセル*1そして万人のためのモーツァルト)のかたちで、生き延びのための諸要素をわれわれに押しつけているが、そうした生き延びを維持するのに、最大多数の人々は、かつても今も、たえず全エネルギーを捧げ、まさにそのことによって、生きることを自らに禁じている始末である。
 ところで、われわれの日常生活のための物質的設備の分配はことごとく組織化されているため、それ自体としては、本来なら日常生活を豊かに構築するのに資するはずのものが、われわれを贅沢なほど多くの貧困のなかに陥れる。さらに、それらのものは、快適の要素のそれぞれが解放の出で立ちと隷属の重荷をともなってわれわれの上に襲いかかってくるだけに、いっそう疎外を耐え難いものにするのである。まさにこうして、われわれは、解放としての労働の奴隷になることを余儀なくされているのである。
 このような問題を理解するには、昼も夜も自明な事実と化した位階秩序化された権力に照らして、この問題を位置づけなければならない。しかし、アルコールが腐敗や成長を防ぐことによって胎児を護るように、位階秩序化された権力も何千年も前から人類を護っているのだと言うだけでは、おそらく十分ではないだろう。位階秩序化された権力は、専有〔=排他的所有 appropriaation privative〕の最も高次の段階を、しかも歴史的には、専有の始まりと終わりを表象しているのだということを、よりいっそう明確にせねばならない。専有について言えば、自然的疎外に対する闘争が社会的疎外を生じさせるのであるから、それを、存在の占有による事物の占有と定義することができる。
 専有という概念には、根元的な諸矛盾が隠蔽されるように外見を組織することが含まれている。つまり、専有において、奉仕者は、主人の堕落した反映として自己を認識し、そうすることで、虚妄な自由を映し出している鏡の向こう側で、ますます服従の度を強めて一段と受動的になるように、自ら手を貸さなければならないのである。主人の方はと言えば、自らを、神あるいは超越性に神話的なやり方で完璧に奉仕する者に同一化しなければならないが、その場合の神や超越性とは、主人の権力が行使されている当の存在と事物の全体性を、抽象的な聖なる形で表象するものにほかならない。そのような主人の権力も、主人による自己放棄という美徳があまねく信用を得ているだけに、なおさら現実的であり、異議を唱えられることも一層少ないのだ。実行者による現実的犠牲に、指導者による神話的犠牲が呼応し、一方が他方のなかで自らを否定し、奇怪(エトランジェ)なものが身近なものになり、その逆に、身近なものが奇怪なものになって、各自は逆の方向で自らを実現するというわけである。主人と奉仕者に共通に見られる疎外から、調和が生まれる。それは犠牲という概念に拠って根本的な統一性を持つことになった否定的な調和なのだ。この客観的な(そして倒錯した)調和を維持するものこそが神話であり、この神話という用語は、統一的な社会における外見の組織化を指し示すために使われてきた。統一的な社会とはすなわち、部族制であれ封建制であれ、奴隷制権力が神の権威を公式に戴き、聖なるものが権力による全体性への統制を許しているような社会である。
 ところで、もともと「自己の贈与」に基づいていた調和は、ゆくゆくは発展し自律して当の調和を破壊することになる1つの関係形式を包含している。このような関係は、細分化した交換(商品、金、製品、労働力……)に、すなわち自由についてのブルジョワ的な概念を基礎づけている自己の断片の交換に、依拠しているのである。この関係は、農業型の経済の内部で商業と技術が優勢になるにつれて生まれるのである。
 ブルジョワジーによる権力奪取にともない、権力の統一性は姿を消す。聖なる専有は、資本主義のメカニズムのなかで世俗化する。権力の統制から解放されることによって、全体性は、再び具体的な、無媒介的なものになった。細分化の時代とは、到達不可能な統丁壮を奪回し、聖なるものを代用品で蘇らせてその中に権力をかくまおうとする一連の努力にほかならない。
 革命の契機〔=瞬間〕とは、「現実によって提示される一切のもの」がその無媒介的な表象=代表(ルプレザンタシオン)を見いだす時のことだ。それ以外の時は、位階秩序化された権力は、魔術的で神秘的なその壮麗な装いからますます遠ざかりながら、全体性(これこそ、かつては現実にほかならなかったのだが!)から自分か詐欺師として告発されていることを忘れさせようと汲々としているのである。


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 ブルジョワ革命は、外見の神話的組織化に対して正面から攻撃をしかけたが、まったくその意に反して、統一的権力の急所だけでなく、いかなる形式であれとりわけ位階秩序化された権力の急所までもを攻撃した。避けることのできないこの過ちは、ブルジョワ精神の支配的な特徴の1つである罪悪感を説明するものなのだろうか。疑う余地がないのは、まさにそれが避けられない過ちであったということである。
 過ち、と言うのは、まず何より、専有を隠蔽している嘘の不透明性がいったん破壊されると、神話は砕け散り、常軌を逸した自由と大いなる詩によってしか塞がれることのないような空虚をあとに残すからである。確かに、狂乱的な詩が今日までのところ、権力を打倒した例はない。それに成功しなかった理由は容易に説明がつくが、そうした詩の曖昧な徴は、傷痕をふさぐと同時に、銃撃が加えられたことを示してもいる。しかしながら、かつての叫びや言葉や身振り──これらの収集は歴史家と審美家にまかせておこう──が再び権力にくまなく血を流させるには、思い出を覆っている瘡蓋(かさぶた)を剥ぐだけで十分なのである。思い出の生き延びをどんなに組織しても、そうした思い出が生きたものと化し、溶け出しはじめるにつれて、思い出は忘却のなかに消し去られてしまうだろう。われわれが自分の日常生活を構築するなかで、生き延びが消し去られるのと同じことである。
 避けることのできないプロセスとは、以下のものである。マルクスが示したように、交換価値の出現と、貨幣によるその象徴的置き換えとは、統一的世界のただ中に、潜在的で深い危機を開く。商品は、普遍性という性格(1000フランの紙幣は、私がこの金額で手にいれることのできる一切のものを表象している)と平等という性格(同等な物どうしにこそ交換がなりたつ)を人間関係のなかに導入する。この「平等主義的な普遍性」は、部分的には、被搾取者にも搾取者にも気づかれることはないが、両者ともこの平等な普遍性のなかで互いを認知しあっている。彼らが向かい合い、ぶつかり合うのは、かつての貴族の場合とは違って、もはや出生と神の系統にまつわる神秘のなかでではなく、理解可能な超趨性のなかでである。この理解可能な超趨性とは〈ロゴス〉というもので、万人にとって了解の可能な法の総体──たとえ、そうした丁解か神秘に包まれたままであっても──である。その神秘には秘儀参入者──まずは司祭がいて、彼らは神的な神秘神学の古聖所(リンボ)のなかでこの〈ロゴス〉を維持しようするが、やがて哲学者に、次に技術者に席を譲り、あわせて自らの聖なる使命の尊厳まで譲ってしまう。プラトンの共和国からサイバネティクス学者の国家になるのである。
 こうして、交換価値と技術(「手のとどく所にある媒介」と呼ぶこともできるような技術)の圧力のもとで、神話はゆっくりと世俗化する。しかしながら、次の2つの事実を銘記しておく必要がある。
a 神秘的な統一性から生じた〈ロゴス〉が確立されるのは、その統一性のなかでであると同特にそれに反してである。魔術的かつ類推的(アナロジック)な行動上の構造に、合理的かつ論理的な行動上の構造が重なり合い、前者の構造を否定すると同時に保存する(数学、詩学、経済学、美学、心理学など)。
b 〈ロゴス〉、すなわち「理解可能な外見の組織化」は、自律性を増すたびに、聖なるものから切り離され、細分化される傾向にある。その結果、〈ロゴス〉は統一的権力にとって二重の危険となる。聖なるものが金体性に対する権力の統制を表現しているということ、さらには、全体性を手に入れたいと欲する者はすべて、権力の仲介を経なければならないということは、すでに周知のとおりである。神秘家、錬金術師、グノーシス派を襲った禁止は、このことを十二分に証明している。このことによって、なぜ現在の権力が専門家を「庇護して」いるのかということも説明がつく。権力は、専門家に全幅の信頼を寄せているわけではないが、聖性を再び付与された〈ロゴス〉の宣教師を彼らのなかに漠然と認めているのだ。神秘的な統一的権力の内部に〈ロゴス〉の統一性を要求する対抗権力を打ち立てるためになされたさまざまな努力の証拠となるような徴は、歴史のなかに数多く見られる。神を心理学的に説明できるものにしたキリスト教の折衷主義、ルネッサンスの運動、宗教改革、そして〈啓蒙〉こそ、まさに、そうした徴に思われる。
 すべての主人は、〈ロゴス〉の統一性を維持しようと努めつつ、統一性だけが安定した権力を作りあげるのだということを十分に意識していた。19世紀および20世紀における〈ロゴス〉の細分化は、彼らの努力が無駄であったことを証明しているかに見えるが、より子細に眺めてみれば、その努力もそれほど無駄ではなかった。原子(アトム)化の運動か全般化するなかで、〈ロゴス〉は粉々に砕け散り、専門化された諸々の技術(物理学、生物学、社会学パピルス文書研究、後は省略)となってしまったが、それと同時に、全体性に回帰しようとする必要性が、以前にもまして強くなっている。忘れぬようにしてもらいたいが、全体性の計画的運用が実地に行われるには、そしてまた、〈ロゴス〉が未来の統一的権力(サイバネティクス権力)による全体性の統制として神話の後を維ぐには、テクノクラート的に全能な権力があれば、それで十分なのかもしれない。このような展望からすれば、百科全書派たちの夢(緊密に合理化された際限のない進歩)は、実現にいたるまでに、2世紀にわたって延期されるしかなかったのかもしれない。この意味=方向においてこそ、スターリン主義サイバネティクス学者は将来を準備しているのだ。この展望に立ってこそ、平和共存が全体主義的な統一性に着手するのだということを理解しなければならない。自分はすでにそれに抵抗しているのだということを、誰もが意識すべき時である。


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 戦場はわかっている。要は、技術なき全体性をそなえたパタフィジシャン*2と全体性なき技術をもったサイバネティクス学者との政治的交接が正式に祝福される前に、戦いの準備をしておくことなのだ。
 位階秩序化された権力の視点からすれば、神話の聖性を剥奪することが許容されたのは、〈ロゴス〉に、あるいは少なくとも、聖性を剥奪する〈ロゴス〉の諸要素に、聖性を再付与する場合だけであった。聖なるものを攻撃することは、同時に、──いつもながらの言いぐさではあるが──全体性を解放すること、したがって、権力を破壊することでもあった。ところで、ブルジョワジーの権力は、粉砕され、貧弱になり、たえず異議を唱えられながらも、ある曖昧さに依拠することによって、相対的な均衡を保っている。つまり、技術というものが、客観的には聖性を剥奪するものでありながら、主観的には解放の道具として現れるということである。聖性を剥奪することによってのみ、すなわち、スペクタクルの終焉によってのみ、現実的な解放が可能なはずであるのに、この場合の解放は、そのカリカルチュア、代用品、唆(そそのか)された幻覚なのだ。細分化された権力は、統一的な世界観によってあの世に投げ返されたもの(聖体奉挙のイメージ)を、明日の生活水準の向上(投−企のイメージ)のなかに書き込む。だが、その明日たるや、現在の汚物を乗り越えて燦然と歌い上げられてはいるものの、実は、これから生産すべき数多くのがらくたによって増殖した現在にすぎないのである。「神において生きよ」というスローガンから、「若々しく生きよ、長生きせよ」と言われるが、実際は「年老いるまで生き延びよ」ということにほかならないヒューマニスムの定式に変わっただけである。
 聖性を剥奪され細分化された神話は、その尊大さと精神性を失う。それは、貧しい形式となり、昔の特徴は保存してはいるか、それらを具体的で、粗暴で、触れることのできる仕方で示すようになる。神は演出家であることをやめたが、〈ロゴス〉が技術と科学という武器をたずさえて神の後を継ぐまでは、疎外の亡霊たちが、いたるところで物質化され、無秩序の種をばらまくのである。しかし、注意してもらいたい。それこそが、未来における秩序の前触れなのだ。これからは、演じる=遊ぶのはわれわれの方である。将来が生き延びという徴のもとに置かれるのを避けたいなら、あるいはさらに、不可能になった生き延びが根底から消え去ってしまう(人類の自殺という仮説) のを避けたいのなら、さらに、それとともに、日常生活の構築の実験も、明らかにそっくりそのまま消え去ってしまうのを避けたいなら、われわれが演じ=遊ばなければならない。日常生活を構築するための闘争の、死活に関わる諸目標は、位階秩序化されたあらゆる権力の急所である。一方を構築することは、他方を破壊することなのである。聖性の剥奪と聖性の再付与とが生み出す渦のなかで、われわれが何にもまして反対を表明する要素は、依然として次の3つである。すなわち、誰もがそのなかで自己を否定するスペクタクルとして外見を組織すること、私生活の基礎となっている分離(というのも、私生活とは、有産者と無産者との間の客観的な分離があらゆる面で経験され、反響している場だからである)、そして、犠牲である。言うまでもなく、これら3つの要素は、それに敵対する要素である参加、コミュニケーション、実現と同じく、互いに関連しあっている。それらのコンテクストである非‐全体性(不足だらけの世界、あるいは、コントロールされた全体性の世界)と全体性についても、同じことが言える。


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 かつては神の超趨性(言い換えれば、聖なるものを戴いた全体性)のなかに溶解していた人間関係は、聖なるものが触媒として作用することをやめるや否や、上澄みのように澄んで固体のように固まってしまった。そうした人間関係の物質性が暴露されると、経済の気まぐれな法則が神の摂理の後を継ぐようになる一方で、神々の権力の下からは人間たちの権力が透けて見えてきた。各自が神の陽光の下で演じていたかつての神話的な役割に対応して、今日、多種多様な役割が生まれている。それらの役割にふさわしい仮面は、人間の顔はしているが、神話的犠牲と現実的犠牲との弁証法に従って自ら自分の現実生活を否定することを、役者に対して──端役に対しても──要請し続けることには変わりはない。スペクタクルとは、聖性を剥奪され細分化された神話にほかならない。スペクタクルは、権力の甲羅(本質的な媒介と呼ぶこともできるようなもの)を構成するが、その場合の権力は、ありとあらゆる叫びが圧し殺されて調和するような不協和音のなかで、専有という自らの本性を隠蔽することがもはや不可能になるや否や、そしてまた、そうした本性によって多かれ少なかれ大量の不幸を万人に分配していることを隠蔽することがもはや不可能になるや否や、どのような攻撃に対しても脆くなってしまうのである。
 聖性の剥奪に蝕まれ細分化された権力の枠組みのなかでは、すべての役割が貧しくなってゆく。それは、スペクタクルが神話に対して貧困を刻印するのと同じようなものである。それらの役割は、その仕組みとトリックをいとも不器用に漏らしてしまうので、権力の方が民衆の側からのスペクタクルの告発にそなえるために持つ手だてとしては、大臣を変えるように役者を変えたり、いかにもそれらしい、あるいは都合よく仕立て上げられた演出家たち(モスクワ、ウォール街ユダヤ人支配、二百家族の代理人たち)に対する大虐殺を組織ししたりすることによって、それに上回る不器用さで、その告発を自ら率先して行うことしかない。このことはまた、人生の役者や端役がみな、その意に反して大根役者に席を譲ったということ、様式が手法を前にして消え去ったということをも意味する。
 かつて神話は、不動の全体性として、運動(その例は、不動性における達成であり冒険でもある聖地巡礼)を含んでいた。今では、一方で、スペクタクルが、全体性を1つの断片あるいは一連の断片(心理学、社会学、生物学、文献学、神話学におけるそれぞれの世界観(ヴェルタンショウウンク))に楼小化することによってはじめて全体性を把握し、他方で、そのスペクタクルは、聖性を剥奪する運動と聖性を再付与する試みとの合流点に位置している。したがって、スペクタクルが不動性を強いることができるのは、現実的な運動の内部において、それも、スペクタクルの抵抗にもかかわらず、それを変革するような運動の内部においてでしかない。細分化の時代には、外見の組織化によって、運動は不動の瞬間の線状の継起と化す(こうしたアプト式鉄道のような前進の完全な例は、スターリンの唯弁(ディアマト)〔唯物的弁証法(ディアレクティク・マテマティク)〕である)。われわれが「日常生活の植民地化」と呼んだものの枠組みのなかでは、断片的役割の変化以外の変化は存在しない。市民、一家の父、恋人の一方、政治屋、専門家、職人、生産者、消費者と、次々に、多かれ少なかれ差し迫った都合にしたがって、その役割を変える。しかしながら、自分か支配されていると感じない支配者などいるだろうか。時に一杯喰わすことはあっても、一杯喰わされるのが常、という格言が万人にあてはまる!
 細分化の時代は、少なくとも次の点について、いかなる疑いをさしはさむことも許さないだろう。つまり、日常生活こそ、全体性と、その全体性をコントロールするために全エネルギーを注いでいる権力とのあいだで戦いが交わされる戦場なのである。
 位階秩序化された権力に対して日常生活の権力を要請することで、われわれが要求しているものは、すべてである。われわれは、家庭内の言い争いから革命戦争にまでおよぶ全面的衝突のなかに自らを位置づけ、生きる意志に賭けてきた。このことは、われわれが反−生き延び者として生き延びねばならないということを意味する。われわれが本質的に関心を抱いているのは、生き延びの氷河期のなかで生がほとばしり出る契機〔=瞬間〕である(それらの契機が、無意識的であれ理論化されたものであれ、歴史的なもの──革命の場合がそうであるように──であれ個人的なものであれ)。しかし、明白な事実は認めなければならない。われわれはまた、権力による全般的な圧制によっても、われわれの闘争や戦術などの必要によっても、(革命そのものの契機は除いて)そのような契機の流れに自由につき従うことを阻まれてもいる。このような契機を拡張し、その質的射程を明白なものにすることで、そうした契機に付き物の「誤謬の割合」を埋め合わすための手段を見出すこともまた、同様に重要である。日常生活の構築に関してわれわれが述べることが、文化と文化の亜流(『アルギュマン』誌の連中、すなわち、有給休暇を使って問いを発する思想家たち)によって回収されないでいるのは、まさに、シチュアシオニストの理念のどれもが、1日が台無しにされた24時間の生にならないよう、一瞬ごとに、何千もの人々が素描した身振りを、忠実に引き延ばしたものであるからだ。われわれは前衛なのだろうか。そうだとしても、前衛であるということは、現実と同じ歩調で歩むことにほかならない。


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 われわれは、知性ではなく、まさに知性の用途を独占するつもりなのだ。われわれの立場は戦略的なものであり、われわれは、いかなるものであれ、あらゆる衝突の中心にいる。〔量ではなく〕質こそが、われわれの抑止力なのである。誰かが、鳥肌がたつという理由で、この雑誌〔『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌〕をドブに捨てたとすれば、その人は、この雑誌を読んで生半可に理解し、われわれに補足趣意書を依頼するより、ずっと豊かな行為をしたことになる。そんな補足趣意書を手に入れても、自分が知的で教養のある人間だということを、すなわち、馬鹿だということを自分に証明できるだけだろう。われわれの使う言葉や文章が現実に対してまだ遅れをとっていることを、遅かれ早かれはっきりと理解しなければならない。罰の言葉で言えば、われわれの表現方法(美術センスの持ち主が、まんざら嘘でもないが、「神経にさわる秘教的テロリズム」と呼ぶもの)に、歪みや不器用さがあるのは、われわれがその点でもまた中心にいる、つまり、権力によって不法監禁された言語(大衆操作〔の言語〕)と解放された言語(詩)との間で限りなく複雑な戦いが行われている不分明な境界線上にいるからだということを、遅かれ早かれはっきりと理解しなくてはならないだろう。われわれとしては、一歩遅れてわれわれの後をついてくる者より、われわれの言語はまだ本物の詩、すなわち、日常生活の自由な構築ではないがゆえに、辛抱しきれずにわれわれをはねつける者の方を好む。
 思考に関わる一切のものがスペクタクルに関わっている。大部分の人間は、自己に目覚めることの恐怖──それは、権力によって巧妙に維持されている──のなかで生きている。操作とは権力の特殊な詩であるが、それは、その支配権(権力に属する物質的設備のすべて、すなわち、新聞、テレビ、ステレオタイプ、魔術、伝統、経済、技術──われわれが不法監禁された言語と呼ぶもの──が操作のもとにある)をあまりに遠くまで押し広げるので、マルクスが支配されない部門と呼んでいたものをほとんど解体させ、別の部門に置き換えることさえある(後出の、「生き延び者」のモンタージュ写真を参照)。しかし、生きた体験は、一連の空疎な形象にそう易々と還元されるわけではない。生を外面的に組織すること、すなわち、生き延びとして生を組織することに対する抵抗には、これまで出版されてきたどのような詩句や散文よりも、ずっと多くくの詩が含まれており、文学的な意味での詩人とは、このことを少なくとも理解し、あるいは痛感した者のことである。しかし、そうした詩は、重大な脅威にさらされている。確かに、シチュアシオニスト的な意味合いでは、こうした詩は権力によって何かに還元されたり、回収されるものではない(ある身操りが回収されるや否や、それはステレオタイプ、操作、権力の言語になってしまう)。だからといって、詩が権力によって包囲されていることに変わりはない。権力が、還元不能なものを包囲しつつ維持するのは、孤立という手段によってであるが、しかしながら、孤立には生命力がない。それを締め付ける鋏の二つの切っ先は、一方が、崩壊(狂気、病気、浮浪者化、自殺)の脅威であり、他方が、遠隔操作による治療(セラピー)である。前者は、死を可能にし、後者は、ただ単に生き延びることだけを可能にする(空疎なコミュニケーション、家族あるいは友人どうしの結合、疎外に奉仕する精神分析、医療、作業療法)。SIは、遅かれ早かれ、治療として自己を定義しなければならなくなるだろう。われわれは、ただ権力(操作)だけによって仕組まれた偽の詩に対して、万人によって作られる詩を防衛する準備ができている。医者と精神分析家もまた、このことを理解することが重要である。さもなければ、彼らは、いつの日か、建築家と、生き延びを説く他の使徒とともに、自分の行為の報いを受けることになるだろう。


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 いまだに解決されていない、いまだに乗り越えられていない敵対関係はすべて、弱まってゆく。そうした敵対関係は、まだ乗り越えられていない古い形式(例えば、文化のスペクタクルにおける反−文化的芸術)に囚われたままであることによってしか、進化することができない。勝利していない、あるいは、──同じことだが──部分的な勝利しかしていないどんなラディカルな反対派も、少しずつ萎えてきて、改良主義的な反対派と化してしまう。細分化された反対派は歯車の歯のように、ぴったりと合わさって、スペクタクルや権力の機械を回すのである。
 かつて神話は、あらゆる敵対関係をマニ数的二元論の元型のなかに維持していた。今日、細分化された社会のどこに元型を見いだすべきなのか。実際、かつての敵対関係は、明らかに価値を失い非攻撃的になったかたちで理解され、その思い出が、今日、外見を組織するための最後の首尾一貫した努力として出現している。それほど、スペクタクルは、混同と等価値とを標榜するスペクタクルになってしまっているのだ。われわれは、古い敵対関係のなかに含まれている全エネルギーを、近い将来のラディカルな闘争のなかに結集させることによって、そうした思い出の痕跡をすべて消し去る用意ができている。権力に封じられたあらゆる泉から、世界の地形を変更するような大河がほとばしり出ることもあるのだ。
 敵対関係のカリカチュアである権力は、B・B〔フリジット・バルドー〕*3ヌーヴォー・ロマンシトロエンの4馬力自動車、スパゲッティ、メスカール〔メキシコの蒸留酒〕、ミニスカート、国連、古典教育、国営化、熱核戦争、ヒッチハイクに対して賛成か反対か、態度を決めるよう各自に迫る。誰もが、どんなに細かなことについても意見を求められるが、それは、全体性に関して誰もが意見を持つことを、一段と巧妙に禁じるためである。こうした策動を戸口から戸ロヘと紹介して歩くセールスマンたちが自分自身の疎外に気づいていなければ、たとえどれほど不器用なものであっても、その策動は成功するだろう。無産者の大衆に押しつけられる受動性に、指導者や役者たちのいや増すばかりの受動性がつけ加わる。彼らは、市場とスペクタクルの抽象的な法則に従って、世界に対してますます効力を発揮しなくなった権力を享受している連中なのである。すでに、役者たちあいだに、ある反抗の兆しが現れている。B・Bやフィデル・カストロのように、宣伝から逃れようと試みるスターや、自分自身の権力を批判する指導者が生まれている。権力の道具は磨滅するものである。彼らが道具であることから抜け出して、自由であるという身分を要求するかぎりで、彼らのことを考慮に入れておかねばならない。


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 奴隷の反乱によって権力構造が転覆の脅威にさらされ、超越性を専有のメカニズムに結び付けていたものが暴露されようとした時、キリスト教は、大がかりな改良主義を展開することに追い込まれた。その改良主義の中心であった民主主義的な要求は、奴隷を人間らしい生活の現実に近づけること──そんなことは、占有をその排除の運動において告発するのでなければ、不可能であっただろう──ではなく、幸福を神話のなかに汲み取るような実存の非現実に近づけること(あの世のためにイエス・キリストを模倣すること)にあった。何が変化したのだろうか。あの世への期待は、燦然と歌いあげられる明日への期待になってしまった。現実的で無媒介的な生を犠牲にすることが、外見だけの生を犠牲にすることが、外見だけの生における虚妄にみちた自由を買い取るために支払う価格なのである。スペクタクルとは、強制労働が同意の上での犠牲へと変形する場のことなのだ。労働が生き延びへの脅しである世界では、「それぞれが、その働きに応じて」という定式ほどいかがわしいものはない。欲求が権力によって決定されている世界では、「それぞれが、その欲求に応じて」という定式ほど疑わしいものはないことも、言うに及ばない。自律的な──つまり部分的な──仕方で自らを定義するつもりで、実は、万事が未解決のままの否定性によって定義されているのだということに気づかないような構築はすべて、改良主義的プロジェクトの部類に入る。そのような構築は、動く砂の上に立っているにもかかわらず、あたかもコンクリートの滑走路の上にでも立っているかのように言い張るのだ。位階秩序化された権力によって決定された文脈(コンテクスト)を侮り、誤認すれば、そうした文脈を強化することにしか行き着かない。逆に、いたるところで権力とそのスペクタクルに抗して姿を現しつつある自発的な行為は、あらゆる障害に対する警戒を怠ってばならず、敵の力とその回収手段を考慮した戦術を見出さなくてはならない。われわれが今から普及させようするこの戦術、それは転用という戦術である。


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 見返りなしに、犠牲を理解することはできない。労働者は、自ら現実的犠牲を行うのと引き替えに、自らの解放の道具(快適な設備、アイディア商品(ガジェット))を受けとるが、その解放は純粋に虚構としての解放なのである。というのも、すべての物質的装備の使用法を握っているのは権力の側であり、権力が、道具もその道具を使う人々も、自分自身の目的のために利用するからである。キリスト教の革命とブルジョワ革命は、神話的犠牲、すなわち「主人の犠牲」を民主化した。今日では、秘儀に通じている者の方が多数派で、彼らは自分の部分的な知の全体を万人に供することによって、権力のかけらを拾い集めている。彼らは、もはや「秘儀参入者」という名ではなく、いまだ「〈ロゴス〉の司祭」という名でもない。ただ単に、専門家と名付けられているだけである。
 スペクタクルのレヴェルでは、専門家の権力は異論の余地がない。サイコロ賭博の客もフランス郵政省の職員も、自分の2CV車のメカニックの凝り方について1日中こと細かに話す時には、どちらも専門家に同一化するし、生産部長が、単能工を手なずけるためにどれほどそうした同一化を活用しているかも、周知のことである。テクノクラートの真の使命とは、とりわけ〈ロゴス〉を統一することにあるだろう。もっとも、細分化された権力のさまざまな矛盾の1つによって、彼らが惨めな孤立のなかに閉じ込められ続けるのでなければの話だが。彼らは、自分たち相互の干渉から疎外されているため、細分化された1つの事柄のすべてには精通しているが、何も実現できないのである。原子論の技術者や、戦略家や、政治の専門家などが、核兵器に対してどんな現実的な統御力を行使しうるというのか。権力が、権力に反対して姿を現しつつあるあらゆる行為に対して、どんな絶対的な統御力を押しつけることを望めるというのか。舞台に登場する役者はあまりに数多いため、混沌だけが主人として君臨しているのだ。「秩序は君臨してはいるか、統治していないのである」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第6号の論説)。
 世界を操作し変形させる道具の製作に参加する限りにおいて、専門家は、特権者たちの反抗を誘発する。現在までは、このような反抗はファシズムと呼ばばれてきた。それは、本質的に、オペラ的な反抗であって、そこでは、長い間のけ者にされていた役者や、自分かますます自由ではなくなっていると考えていた役者たちが、突然、主役を要求する。ニーチェ*4は、ヴァーグナー*5のうちにそのような反抗の先駆者を見なかっただろうか。臨床医学的に言えば、ファシズムとは、スペクタクル世界のヒステリーが頂点にまで昂まったものにほかならない。まさにそのような頂点において、スペクタクルは、瞬時のうちに統一性を確保しつつも、同じその機会に、自らの根源的な非人間性をさらけ出すことになる。スペクタクルのロマン士族的な危機を構成するファシズムスターリン主義を通して、当のスペクタクルは、自らの本性を暴露するのだ。つまり、スペクタクルは、1つの病なのである。
 われわれは、スペクタクルの中毒にかかっている。ところで、解毒治療(これを、われわれの日常生活をわれわれ自身で構築すること、と翻訳せよ)に通じるあらゆる要素は、専門家の手に握られている。それゆえ、専門家はみな、もちろん異なる理由でだが、最高度にわれわれの興味を引く。例えば、絶望的な場合がある。つまり、われわれは、権力の専門家や指導者に彼らの錯乱ぶりがどこまで及んでいるのか、その範囲を示そうとはしないだろう。逆に、われわれは、滑稽なものであれ不名誉なものであれ、とにかく狭い役割に囚われている専門家たちの恨みを考慮する用意ができている。とは言え、われわれの寛容にも限度がないわけではないことは、認めてもらえるだろう。われわれの努力にもかかわらず、もし彼らが自分自身の日常生活を植民地化する操作をでっち上げ、執拗に自らの後ろめたさと苦悩を権力に奉仕させるのならばもし彼らが、真の実現よりも、位階秩字のなかの虚妄な表象の方を好むのならば、もし彼らが、自分の専門(自分の絵画、自分の小説、自分の方程式、自分の社会測定法(ソシオメトリー)、自分の精神分析、自分の弾道学の知識)をこれ見よがしに振りかざすのならば、最後に、もし彼らが、彼らの専門に関して、SIと権力の側だけがその使用法を握っていること知りつつ──それに、ほどなく、彼らはそれをもはや知らないはずはないとみなされるだろうが──ヘそれでもなお、彼らの無気力に力を得た権力から、権力に奉仕するために今まで選ばれてきたがゆえに、権力に奉仕することを選ぶのであれば、その時には、彼らがくたばらんことを! これ以上に寛大な態度を示すことはとてもできまい。どうか彼らがこのことを理解でるよう、とりわけ、指導的な立場にない役者たちの反抗は、これからはスペクタクルに対する反抗(「シチュアシオニスト・インターナショナルと権力」を参照)と結びついていることを彼らが理解できるよう、願おうではないか。


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*1:サルセル パリの北の郊外の町。1958年から1961年にかけて、パリ周辺では初めての大規模なあ団地が建設されたが、多くの批判を巻き起こし、問題のあるベッド・タウンのシンボルとなった。

*2:パタフィジシャン パタフィジシャンの本来の意味は、フランス20世紀初頭の詩人アルフレッド・ジャリの唱えたパタフィジック形而上学(メタフィジック)を超える学問で、「個と例外を研究し世界を多面的に把握するための想像力による解決の学問」)の実践者として、1948年にシュルレアリストレーモン・クノーらが1948年に結成した結社〈コレーゾュ・ド・バタフィジック〉のメンバーのことであるが、ここでは、本来の意味に加えて、通常の現象を通常とは逆の観点から見て表現する「超形而上学者」というニュアンスも付け加えて用いられている、例えば、「木の実が地面に落ちる」ことを、「地面が上昇して木の実に衝突する」と言うのがパタフィジシャンである

*3:B・B〔ブリジット・バルドー(1934−) フランスの女優。バリのブルジョワ家庭に生まれ、モデルを経て、1952年に映画デビュー。56年の『素直な女』でBB(ベベ)時代を作り、フランスを代表するグラマー女優となる。他の出演映画に『可愛い悪魔』(58年)、『私生活』(61年)など。

*4:フリードリッヒ・ニーチェ(1844−1900年) ドイツの哲学者,ギリシャ悲劇、ショーペンハウアーの意志哲学の影響を受け、リヒャルト・ヴァーグナーの総合芸術的文化運動に共鳴。普仏戦争に従軍後健康を損ね、大学を辞し、狂気のなかて死んだ。著作に永劫回帰思想による生の肯定と超人の理想を説く『善言の彼岸』(88年)、権力意志を生の原理とする『権カヘの意志』(84−88年)など。

*5:リヒャルト・ウァーグナー(1813−83) ドイツの作曲家・楽劇の創始者。44年『タンホイザー』、48年『ローエングリン』などのオヘラで成功を収めた後、49年ドレスデン暴動に参加して、その失敗後バクーニンとともに亡命。スイスで「芸術と革命」、『末来の芸術作品』などの論文で総合芸術論を展開、以降、4部作『ニーベルングの指環』(53−74年)、『ニュルンベルグマイスタージンガー』(67年)、『パルジファル』(82年)等の楽劇を完成、ドイツロマン派音楽の頂点を極めた。