シチュアシオニスト情報

 SIドイツ・セクションの機関誌『シュプール*1(足跡)』の創刊号が、1960年8月、ミュンヒェンで出版され、5月17日のシチュアシオニスト宣言のドイツ語訳がその巻頭を飾った。11月に出版された同誌2号は、その最も大きな部分をロンドン大会の報告に割いている。

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 ピノガッリツィオとG・メラノッテ*2が6月にSIから除名された。素朴さからなのか、それとも、出世主義からなのか、彼らは、イタリアで、イデオロギー的には受け入れがたい関係者たちと接触し、それから、協力する体たらくであったのだ。彼らには1度、非難をしておいた(批評家グアスコ──彼は周知の通り、イエズス会士のタピエ*3に結びついている──についての、本誌第4号の「シチュアシオニスト情報」を参照)のだが、彼らの政治を矯正することはできなかったしたがって、もうこれ以上彼らの言い分を聞くことなく、彼らを除名するという決定が下されたというわけだ。
 彼らの振舞いを正当な理由で告発したコンスタントは、しかしながら、このような決裂に満足しなかった。他方で、彼は、教会を建てる企てにうかうかと乗ってしまったオランダ・セクションの一部の建築家たちに対しても、われわれは数ヶ月前に同じ措置に訴えるべきであったと、嘆いたのだった。より深いレヴェルで言えば、コンスタントはSIと対立していたのである。なぜなら、彼は、統一的都市計画のいくつかのアンサンブルに見られる構造の問題に優先的に、かつ、ほとんど排他的に関心を寄せていたのに対して、他の数名のシチュアシオニストたちは、このような計画は、現段階では、その内容(遊戯、日常生活の自由な創造)を強調する必要があると、繰り返し言っていたからである。したがって、コンスタントの諸々のテーゼは、包括的な文化のどんな探求よりも、、建築形式の専門技術者を高く評価していた。しかも双方に対して要請された最小限の指導に関して、どちらも単純に同じような取扱いを受けたので、彼には処遇の厳しさに不釣り合いが生じたように思えたのである。それで、コンスタントは、同じ6月に、自分がSIの規律と不協和音をかなでている以上、一連の出来事が治まるまでの間、この点に関して自由を取り戻しておきたいと、宣言したのである。それに対するわれわれの返答はこうだ。すなわち、われわれは、SIの歴史に刻まれているさまざまな決裂に対して長い年月の間、実践的武器という意味を保証してきたわけだが、敵意とか落ち度といった観念を除けば、そうした武器によって許容されるのは、決定的に任務を放棄するか、それとも、このような圧力形式を断念するか、2つのうちのどちらかを直ちに選択することである、と。コンスタントが選択したのはSIを去る方であった。

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 6月に、『発明すべき風景のための手帳』誌の創刊号がモントリオールで出版された。その第1号には、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌から再録したおよそ10編の論文の他に、『手帳』誌の編集長であるパトリック・ストララン*4とカナダでの彼の仲間数名のテクストが載っている。これは、シチュアシオニストプロパガンダアメリカ大陸にまで及んだことを公然と宣言する最初の定期刊行物である。

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 かつてヨルンの『経済的政治批判』はクリスチアン・クリステンセン*5に捧げられていたが、そのクリステンセンが1960年6月10日、デンマークでなくなった。

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 7月20日、P・カンジュエールとドゥボールの校訂による、資本主義と文化に関する『統一的革命綱領の定義に向けた予備作業』がフランスで出版された。これはSIにおいて議論のたたき台となる綱領であり、労働運動の革命的活動家たちと提携を図るためのものだ。
 
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 ユトランド半島にあるシルケボア美術館*6──スカンジナヴィア諸国の中でも指折りの近代美術館であったが──は、つい最近、シチュアシオニスト図書館を創設した。この図書館はそれ自体がまた、次の3つのセクションに下位区分される。1つは、プレ・シチュアシオニストに関するセクションで、そこには、シチュアシオニスト運動を準備する上で何らかの役割を演じることのできた、1945年以来のさまざまな前衛運動についての望ましい資料がすべて集められている。2つ目は、本来の意味でのシチュアシオニストに関係するもので、SIのあらゆる定期刊行物を含んでいる。3つ目は、SIについてのさまざまな著作を収めるための歴史セクションだが、今のところ実際は、あちこちで出現し始めた反シチュアシオニストプロパガンダが収められているだけである。最後に、おそらく最も興味深い主導性を発揮した部門として、この図書館にコピー・セクションが開設された。そこには、われわれの友人たちの成果のどれかを模倣した作品がすべて保存されることになる。現在の芸術における彼らの奇妙な役割は、彼らがSIに所属しているというまさにそのことによって、容易に認めてもらえないのは明らかだからだ。誰にでもすぐアクセス可能なグラフによって、モデルとその後続のものが現れた日付──すでに何度となく、両者はほとんど間髪を入れず出現したことがある──が科学的な正確さでわかるだろう。こうして、シルケボア図書館は、「前衛芸術家たち」の間で戦わされたあのさまざまな下らない議論──シチュアシオニストたちはそれに参加したいと思ったことは一度もない──からは程遠いところに位置して、将来、文化における前衛のメートル原器を客観的に提供するだろう。数年後にはヨーロッパやアメリカ出身の、さらに後には、アジアやアフリカ出身の、専門の歴史家の多くが、新式のこの「ブルトゥーユの展示館」で資料を完成させ、検討する目的だけでのために、シルケボア旅行をするだろう。そのことをわれわれは信じて疑わない。
 さらに、シルケボア美術館が入念に練り上げている聡明な計画、すなわち、映画関係の別館──そこには、関係するそれぞれの映画のコピーが保管されるだろう──の建設によってこの図書館を完全なものにしようという計画は、その実現に必要なあらゆる物質的手段を獲得できることを、われわれは願っている。

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 9月の始め、ドイツのグループ「ラマダ」からSIに対して、今月の24日に開かれることになっているロンドン大会に1人、ないしは数名の代表者を派遣することによって集団SIに加盟してよいかどうか、問い合わせがあった。SIはドイツ・セクションに対してこの問題に関する報告を求め、それを聞いた後、ドイツに最初からあるセクションの他にそれとは独立した、多かれ少なかれ異なった、かつ、未知数でもある綱領を持つ2つ目のシチュアシオニスト組織を承認することは受入れ難い旨の結論に達した。しかも、「ラマダ」は、このような綱領上の違いはSIに入るには取るに足らないものであるが、同じドイツに置かれるとはいっても、はっきりと別グループとして組織する上では大きな違いであると、一方的に決定しているのだった。したがって、このグループには、ロンドン大会に招待することはできないということ、さらに、同グループの構成員たちが事によると、SIに加入できるようなことになるとすれば、それは、われわれのドイツ・セクションに個人的に加盟した上でのことだということを通知したのである。ただし、彼らのうちの1人は例外であって、彼はこれまでの個人的な立場がもとで、全く審査の対象にはなりえないだろう。 

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 アレクサンダー・トロッチ*7が3種類の麻薬を所持していたらしいところを警察に見つかったという、ただそれだけの理由によりギャングとみなされ、ニューヨークで逮捕されたことを知らされて、ロンドン大会は9月27日直ちに、彼を支援する決議文を採択し、現代芸術院に集まった公衆の前で読みあげられた。
 3人のシチュアシオニストが、同大会により与えられた権限を行使して、10月7日に配布されたビラ『アレクサンダー・トロッチに手を触れるな』に署名した。その文面は、とりあえず芸術家の自由ぐらいは弁護できる者に署名してもらえるように、かなり穏健なものであり、この具体的な法律事例に役立つよう、事実、意図的に芸術の領域に限定したものになっている。そしてそれは、この芸術家という身分をアレクサンダー・トロッチに当てはめることに異論をはさむことができるとすれば、それはたた「彼が新しい型の芸術家を代表するという唯一の理由」──もっとも、すべてのシチュアシオニストがそうなのだが──によってであると指摘している。シチュアシオニストを数に入れなくとも、このアピールはすでに、数ヶ国(イギリス、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、スウェーデンイスラエルデンマーク、カナダそしてアメリカ合衆国)から81名の芸術家、作家あるいは批評家を集めた。これまでのところ、同アピールがあまりにも危険と判断し、そのことを敢えて発言するものは2人しかいない。まだ自分の回答を伝えていない多くの者が、それを知らせて来る機会がきっと訪れるのもそう先のことではないだろう。われわれはこの事件の経過を、あらゆる種類の態度決定に関するあらゆる有益な詳細および注釈とともに、近くこの欄で公表することにしたい。

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 ドゥボールは、11月21日パリで刑事警察から「121人宣言」への参加のことで尋問され、同宣言が自分に伝えられるとすぐにそれに署名したと答えた。彼が署名したのは、9月29日になってからのこと、つまり、ド・ゴール政府が、署名者が受けることになる法的制裁を過度に重くすることによって、政府を弾劾する者たちに対してそれを口に出せるのならしてみろと挑発した政府命令の発表の翌日のことであった。また、ドゥボールは、誰からもその機会を提供されなかったので、宣言のテクストの起草あるいは配布には参加しなかったと答えた。さらに、しかし、今進行中の予審では他のものよりも責任の重い署名者を何人かあぶりだそうと躍起になっているようなので、供述書には、同宣言に署名したという唯一の事実をもって、自分は編集と配布の面で完全な責任を負うということを書き留めるべきであり、その責任は「署名者が個人的に認めようとする責任がどのようなものであろうと、すべての署名者の責任と等しい」のだと答えた。

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 ロンドン大会でSI中央評議会の形成とその構成が決定されたのを受けて、11月4日から6日までベルギーのブリュッセルの近くでその第1回会議が行われた。同評議会の審議事項は次の通りである。アレクサンダー・トロッチを支援するためのキャンペーン。ドイツ(道徳的秩序の名の下での鎮圧──すでに大学生デールが冒涜的な著作のために有罪になるにいたった──の開始)およびフランスにおけるシチュアシオニストの活動条件。革命的政治潮流に対するわれわれの関係。ユネスコに対してわれわれが介入するための準備(新しい職員募集のための質問票の発表)。英語によるシチュアシオニスト雑誌『ザ・シチュアシオニスト・タイムズ』の1961年発刊。
 同評議会は、都市計画におけるわれわれの構築の企ての合法的かつ実践的な組織化に関して、非常に重要な決定を数多く下した。おなじく、孤立したさまざまなミクロ社会において環境と出来事をシチュアシオニストがコントロールするためのいくつかの形式についての研究も行った。
 最後に、同評議会は、SIが記録した進歩と、SIに寄せられはじめた支持とを、遅滞なく利用して、あの似非新左翼(ゴーシスト)で体制順応のインテリの傾向のなかでも最も代表的な傾向、すなわちフランスの雑誌『アルギュマン』を見せしめにすることを決定した。彼らインテリは、これまでわれわれの周囲にせっせと沈黙を組織してきたが、あらゆる領域での彼らの任務放棄は、事情通の目には明らかとなり始めている。1961年1月1日以降『アルギュマン』誌に寄稿するものは誰であれ、それが将来のいかなる時期でも、いかなる場合にもシチュアシオニストの一員といては認められないということを、同評議会は決定した。このボイコット通知は、少なくとも今後何年にもわたる文化においてSIに保証されている──われわれにはそれがわかっている──重要性から、その威力を引き出すだろう。いかがわしい仲間に魅力を感じるなら、その当人が危険を冒して逆に賭けてみるがいい。

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 正確に言うと、『アルギュマン』誌の編集長であるエドガール・モランという男が、数名のシチュアシオニストに会おうとしたところ、彼らに言下に断られるか、それとも、今となってはあまりに遅すぎ里と返答されるかしたあげく、自分が公然たる軽蔑の的になり始めていること(シチュアシオニストたちが公式に主張したばかりのことは、現在の『アルギュマン』誌に参加してはどうかと請われた数名の者によって、すでに自発的に表現されていた。しかし、控えめに言って、このことは、是非とも必要なボイコットへの確固とした態度にとっては害になりかねなかった)に気づき、自分の件を擁護してくれるようにと実態のない噂を一心にふりまいているのだ。自ら主宰している元・革命雑誌の情けない変遷全体に対して、王党派で反ユダヤ主義者のジョルジュ・マチューとの共犯(「問題の芸術」についての彼のばかげた雑誌 第19号*8を見よ)に対して「121人宣言」のための署名活動──ドゴールの権力が大層な手段を使ってわれわれと戦っているその時にだ──を卑劣な仕方で妨害したこと(9月29日付の『オプセルヴァトゥール』誌に掲載された彼の論文を参照)に対して、彼が有罪を宣告されているのは誰の目にも明らかだというのに。問題のモランは、シチュアシオニストの1人が1959年に作りフランスでは1度も上映されなかった実験映画を、モラン自身が同じ年に携わっていた別の映画の中で剽窃したとして、シチュアシオニストからいたるところで告発されるかもしれないという噂を──相変わらず口から耳へと──ばらまいている。この噂は絶対に嘘である。SIでは誰にでも手に入る多数の細部に関してコピーされることにはかなり慣れているので、誰も、どれほど明白なコピーの場合でも、そのことを申告させるのが有益だなどと思ったことは1度もないだけに、なおさらモランの言うことは嘘なのだ。単に、1人のシチュアシオニストアスガー・ヨルン)が、いかがわしい(ルーシュ)モランの映画の仕事を非常に不正確に知らせてくれた第三者に語って、モランがシチュアシオニストの模倣をしているのではないかと口にしたことが1度あっただけのことだ。ヨルンの仮説は、彼がモランという人物の不誠実とみすぼらしい敵意について知っていたことで、十分に説明のつくものだった。それに、もしモランが映画を製作しなければならなかったのなら、彼の芸術の愚かしさからすれば、意識的か否かを問わず、誰かのコピーをしなければならなかっただろう。だが、この年〔=1959年〕に関しては、問題はなかった。映画を作ったのはモランではなくて、ジャン・ルーシュ*9だったからである。そして、陽動作戦の全く狡賢い専門家であるモランがこのことについて語ったのは、だれもが彼に認めざるをえない例の唯一の才能を使うためでしかなかったのだ。


 アレクサンダー・トロッチの投獄に関するシチュアシオニスト・インターナショナル第4回大会決議文


 シチュアシオニスト・インターナショナル第4回大会の代表は、友人のアレクサンダー・トロッチがアメリカ合衆国で逮捕され、麻薬を服用し売買したという嫌疑をかけられたことを知り、シチュアシオニスト・インターナショナルがアレクサンダー・トロッチに対してこれまで通り全幅の信頼を寄せることを宣言する。
 同大会は、トロッチがどのような場合でも麻薬を売買することなどありえないということを宣言する。これは明らかに警察の側からの挑発であり、シチュアシオニストはそのような挑発で怖じ気づいたりはしない。
 同大会は麻薬所持など重要ではないと、主張する。
 同大会は、アスガーヨルン、ジャクリーヌ・ド・ヨング*10そしてギー・ドゥボールに、アレクサンダー・トロッチを支援するため、即座に行動を起こし、可能な限り早い時期にシチュアシオニスト・インターナショナルに対しその活動を報告するように任命する。
 同大会は、イギリスで今日最も知的な創造的芸術家であることは全く疑いえないアレクサンダー・トロッチの釈放を要求するため、特にイギリス文化庁および、自由を重んじるすべてのイギリス知識人に訴える。

1960年9月27日、ロンドン。

*1:シュプール 〈シュプール〉は1957年、西ドイツ、ミュンヒェンで結成されたアヴァンギャルド芸術集団。最初のメンバーはエルヴィン・アイシュ、ハインツ・ヘフル、ハイムラート・プレム、グレーター・シュタードラー、ヘルムート・シュトゥルム、ハンス=ペーター・ツィンマーの6名。後にローター・フィシャーが加わった。1959年始めにSIに合流し、1960年8月から62年1月にSIから集団除名されるまで、機関誌『シュプール』全7号を刊行。

*2:ジョルス・メラノッテ SIイタリア・セクションのメンバーでピノガッリツィオの息子。1960年除名。

*3:ミシェル・タピエ(1909−87年) フランスの美術批評家。1948年、ブルトンジャン・ポーランと「生の芸術(アール・ブリユット)商会」を設立し、大戦直後から画家のデュビュッフェが実践していた「生の芸術」(幼児、精神疾患者、アマチュアの作品)の収集活動を推進する。それと平行して、デュビュッフェ、ヴォルス、フォートリエら大戦後の前衛的な非具象絵画を「アンフォルメル(非定形)」芸術と命名し、この運動の推進者にして中心的理論家として活動。また、サム・フランシスやアンリ・ミショー、フォンタナ、日本の具体派等も積極的に評価した。著書にアンフォルメルのマニュフェストである『もう1つの芸術』(1952年)がある。アンフォルメルの代表的画家ジョルジュ・マチューが熱狂的な教権主義右翼だったため、それを支持するタピエ派もシチュアシオニストは「バチカンの秘密諜報員」、「イエズス会士」などと呼んでいるのだろう。

*4:パトリック・ストララン カナダ人のレトリスト。レトリスト・インターナショナルのメンバーとしてドゥボール、ヴォルマンらとともに活動し、パリのギャルリー・デュ・パサージュで「戦争の前」と題した「影響波及的メタグラフィー」の展覧会にも出品。カナダのオーロール出版社から『ソクラ/クリ/ティック問題』、『謎の飢餓』(ともに1975年)などの著作がある。

*5:クリスチアン・クリステンセン(?−1960年) デンマークの革命家。今世紀初頭のデンマーク労働運動の理論家にして組織者。同姓同名のデンマークの政治家で閣僚を歴任した近代左翼運動の指導者ジャン・クリスチアン・クリステンセン(1858−1930年)とは別人。

*6:シルケボア美術館 アスガー・ヨルンが生まれ故郷のシルケボアに自ら作った美術館。そこには、コブラの芸術家の作品のほか、アントニオ・サウラ、ロベルト・マッタ、デュビュッフェの作品など、ヨルン個人のコレクションが展示されている。

*7:アレクサンダー・トロッチ イギリス国籍のシチュアシオニスト。SIのなかではセクション無所属で、1961年以降SI中央評議会のメンバーとして活動。1964年秋に自らが推進していた文化運動「プロジェクト・シグマ」の最初の刊行物発行に際して、SIを関わり合いにならせないために脱退。

*8:「問題の芸術」についての彼のばかげた雑誌第19号 モランが編集する『アルギュマン』第19号は「問題の芸術」というタイトルで、現代芸術(絵画・詩・音楽)の特集を組み、ユベール・ダミッシュ、ピエール・フランカステル、フランソワーズ・ショエ、アンドレ・デュ・ブーシェオクタビオ・パス、ロジェ・ムニエ、アドルノなど、芸術家、芸術批評家、詩人、哲学者など多様な視点からの論文、インタヴューなどを掲載している。そのなかにはジョルジュ・マチューの文章「形態の溶解について」も含まれている。

*9:ジャン・ルーシュ(1917−) フランスの民族学者、映画監督。マルセル・グリオールの元で人類学を学び、アフリカ各地を訪れ、1947年以降、研究上の必要から「シネマ・ヴェリテ」と名付けたドキュメンタリー風の映画を作り、人類学博物館にルロワ・グーランとともに民族学映画委員会を開設した。シネマ・ヴェリテの手法を用いた民族学的作品として、ビアリッツ 〈呪われた映画〉フェスティヴァルでグランプリを獲得した『憑かれた者たちの舞踏への参入』(1949年)、『狂った主人たち』(55年)、『人間のピラミッド』(59年)、『おれは1人の黒人』(59年)などがある。ここで話題になっているのはルーシュがエドガール・モランと協力して作った『ある夏のクロニクル』(61年)のこと。シネマ・ヴェリテの手法を現代の都市社会を対象に用いて、カメラによる1960年の夏のパリの街での社会学的アンケートを行ったこの映画は、ルーシュが民族学的関心から社会学的関心へと移行しつつある時の作品である。この作品の後、ルーシュは『罰』(62年)や『北駅(ガール・デュ・ノール)』(64年)なだ、モランとの映画で開発した「シネマ・ディレクト」と呼ばれる手法を用いた映画を数多く撮っている。1987年シネマテーク・フランセーズ会長に選ばれる。

*10:ジャクリーヌ・ド・ヨング オランダ国籍、SIオランダセクションのメンバー。1962年3月に除名。その後、1963年に「シチュアシオニスト・タイムズ」からアスガー・ヨルンと共同で「迷路」についての資料集(映画、音楽、詩、民俗学、建築など)を出版している。