『世界転覆の技術』訳者解題

 アレキサンダー・トロッチのこの論文は、最初「百万の精神の見えない反乱 lnvisible insurrection of a million minds 」という別のタイトルで発表された英語の論文から本誌のためにフランス語に翻訳されたものである。英語版とフランス語版は、わずかな追加(第6段落の「前衛が現在可能なものを」以下)と表現の違いを除いて、まったく同じ内容である。英語版は、イギリスのシチュアシオニストと、その影響を受けたと言われるさまざまな運動の資料を収めた『終わりなき冒険……終わりなき情熱……終わりなき宴』( A situationist Scrapbook, verso/ICA, 1989, PP.53‐57)に収められている。
 トロッチとドゥボールあるいはシチュアシオニストとの関係は古く、SIの前身レトリスト・インターナショナル(LI)の機関紙『ポトラッチ』第23号(1955年10月13日)にすでにトロッチの名が現れ、「即断即決」と題された短信に次のように書かれている。「最近まで北アメリカの前衛雑誌『マーリン〔魔術師〕』の編集長を務めていたアレキサンダー・トロッチは、レトリスト・インターナショナルの綱領に賛同して、このポストを辞した。彼は、即刻、自分のすべての友人に選択を迫り、不可避となった多くの絶縁を断行した」。ダダ、レトリスト、シチュアシオニスト、パンクを貫く「20世紀の隠れた歴史」を書いたグリル・マーカス( Greil Marcus, Lipstick Traces, Harvard university Press, 1989, PP. 385‐388 )によれば、1925年にグラスゴーに生まれたトロッチは、50年代にロンドンでオリンピア・プレスという出版社のポルノグラファーとして働きつつ、自ら小さな前衛雑誌『マーリン〔魔術師〕』を編集・発行していたが、1955年、パリ滞在時にドゥボールと出会い、その強い影響を受け、それまでの過去をすべて捨て去ってLIに参加した。『ポトラッチ』に書かれていたのは、この時の事情である。マーカスによれば、トロッチは、その後、56年にパリを去り、米国に渡ったため、1957年のSI結成には立ち会っていないが、ドゥボールが彼をシチュアシオニストとして認めたため、SIの設立時からのメンバーということになったようである。トロッチはその後、60年に『カインの本』という麻薬中毒者の日記の形式で書かれた自伝的小説を出版するが、おそらくこの本の出版が原因で、その年の9月、米国で麻薬所持の嫌疑をかけられて逮捕される。トロッチ逮捕の報を受けたSIは、ちょうどロンドンで開催中のSI第4回大会でその釈放を求める決議を行い、それを『アレキサンダー・トロッチに手を触れるな』というビラを配布し、SI内外の多くの者の力を借りてトロッチの釈放運動を行った。これをきっかけにトロッチはイギリスのボヘミアンのサークルで有名になり、釈放後、62年にロンドンで「プロジェクト・シグマ」なる計画を打ち上げる。これは、反体制的で実験的な文化実践を統一し、「内的空間(インナー・スペース)の宇宙飛行士」の国際的結社を作るというもので、そのためにトロッチは「シグマ・フォリオ」という通信形式の出版を行うことを企画していた。
 1964年にトロッチが出版した『ザ・シグマ・ポートフォリオ』の「寄稿者への通知」(An endless adventure… an endless passion… an endless banquer, p.85 )によれば「シグマ・フォリオ」とは、作家や写真家、芸術家がその創作をじかに読者に配布し、読者は受け取った作品や資料、情報をあらかじめ配布されたバインダーに閉じてゆくようになっていた。この交通は一方通行のものではなく、読者も自分の作品や情報をこの回路に乗せて配布することが求められ、さらに他の創作者に意見を述べ、作品の内容の変更にさえ関わることができる。これは「インターパーソナル」なプロジェクトであり、文字どおり拡張的(エクスパディング)な「作品」の生成であり、「フォリオ」はそうした「作品」の生成のドキュメントとなるのである。トロッチはそれを未来( future )を起点にした過去(antique )の資料という意味で「フューティック」なフォリオであると言っている。この「プロジェクト・シグマ」は、出版の形態、「作品」の意味の変更、送り手と受け手の関係の変革などの点で、シチュアシオニストのめざすものを1つの形にしたと言える。しかし、このプロジェクトは、できる限りオープンなものとなることをめざし、誰でもいくらかの料金を払えば参加できるものであったため、SIの組織の性格(非合法性、少数主義、理論・実践面での厳密性など)と相容れないものとなった。そのため、1964年8月に、このプロジェクトの最初の出版がなされた時に、トロッチは同意の上でSIを脱退した。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号の「SIの出版物について」と題された記事の中で、SIはトロッチのプロジェクトが「とりわけ合州国と英国において、この手段によってコンタクトを取りうるこの上なく気むずかしい個人との対話にわれわれが認める興味」にもかかわらず、「われわれの友人」のトロッチが「多くの点でわれわれが完全に承認する活動」を行うのは「もはやSIのメンバーとしてではない」と書いている。
 トロッチのSI脱退の理由はSIによるとこのようなものであったが、グリル・マーカスはそのことには触れず、トロッチは、コリン・ウィルソンアレン・ギンズバーグといった、ドゥボールが「神秘主義の大ばか野郎」と呼ぶ麻薬常習者だちと関係があったことを理由にSIを「除名」されたと書き、58歳のトロッチにインタヴューしてドゥボールに対して愛憎半ばする彼の複雑な心境を語らせている。確かにトロッチの麻薬癖はSIにとって好ましいものではなかったかもしれないが、トロッチはその麻薬癖そのものをSIから直接に問題にされたことはない。米国での逮捕時にSIが示した連帯の姿勢や、釈放後のトロッチが、61年9月、SIの性格を決する重要な決定「ハンブルク・テーゼ」*1に関わった事実、さらに、62年11月のSI第6回大会ではSIの中央評議会のメンバーに選ばれ、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第8号(1963年)の編集委員になったことなどを考えると、トロッチの麻薬癖がSI脱退の直接の原因ではなく、やはり、SIの言うように、「プロジェクト・シグマ」に現れた合法志向がトロッチを脱退に導いたのだと言うべきであろう。この合法志向は本論文のなかで提案される「アクション・ユニヴァーシティ」や「有限責任会社〈インターナショナル・カルチュラル・エンタープライゼズLtd〉」などのオプティミストすぎるとも思える計画にも見て取れる。「プロジェクト・ジグマ」のその後がどうなったかは不明だが、トロッチは、1984年に死去した。

   

*1:ハンブルク・テーゼ」 1961年9月の初め、ドゥボールコターニィヴァネーゲムが、イェーテボリでのSI第5回大会合の帰路に立ち寄ったハンフルクのとあるバーで行ったSIの理論と戦略に関する議論の結論のこと(トロッチは、その場に同席せず、後に意見を加えた)。ドゥボールが1989年に発表した「1961年9月のハンブルク・テーゼ(シチュアシオニスト・インターナショナルの歴史に役立てるためのノート)」によると、このテーゼは、SI外への流出に対する危惧から、文書としては残されず、署名もなされなかったが、SIのその後の方向を決定する重要な役割を果たした。テーゼ自体の内容は豊かで複雑なものだったが、その要点は、「SIは、今や、哲学を実現しなければならない」という文章に尽きる。