世界転覆の技術

訳者改題

 「そして、今の時代に、まだ地獄のような、真に呪われた何かがあるとすれば、それは、火あぶりにされようとして、薪の山の上で十字を切る死刑囚のように振舞う代わりに、いつまでも芸術的に、形態にかかずらっていることであろう。」

アントナン・アルトー『演劇とその分身』


 反逆は人気がない。何故かは容易に分かる。反逆と断定されたらすぐに、それを阻止する適切な措置が画策される。慎重な人間であれば、反道者と自認するのを避けるだろう。そんなことをしたら、自分自身の死刑宣告をしたも同然だからである。そのうえ、それは自分自身に枠をはめることである。
 われわれは、トロッキーレーニンのように国家を奪取したいのではなく、世界を奪取したい。その過程は必然的に、より複雑で、より全面的であるが、また、より段階的で、より地味でもある。われわれの方法は、遭遇する経験的事実──ここで今遭遇しているものもあれば、よそで後に遭遇するものもある──に応じて変わるであろう。
 政治的な反逆は、まさに政治のプロセスの支配的なレヴェルを奪取することをめざすという点で、何の成果も上げられないものであり、また、そうあり続けるにちがいない。現代文明のよどんだ沼の中では、それはアナクロニズムである。同時にまた、世界は破滅の危機に瀕しているのだから、われわれは追随者たちを待っているわけにはいかない。彼らと喧嘩するわけにもいかない。
 世界転覆は、最も広い意味で、文化的でなければならない。多数の技術者を使って、トロッキーは、陸橋、橋、電話通信、エネルギー源を掌握した。因襲の犠牲者である警察官たちは、クレムリン宮殿の老人たちの周囲で歩哨に立つことによって、トロッキーの輝かしい企てに貢献した。クレムリン宮殿の老人たちは、想像力が足りなかったので、自分たちが昔ながらの政府本部にいること自体が、どれほど非常識で、問題外であるかに気づかなかった。歴史は彼らを側面から衝いたのである。トロッキーは駅や発電機を握っており、一方、「政府」は、結局、自らの警察によって歴史からロックアウトされた。
 したがって、文化的反逆は、表現のネットワークと精神の発電機を掌握しなければならない。知性は、自らを自覚し、自らの力を悟り、そして、古くさい機能の域を超えて、思い切ってその力を全体規模で行使する必要がある。歴史は諸国の政府を、びっくり返すのではなく、側面から衝くだろう。文化的反逆は、新しい次元の事物の必要不可欠な支柱であり、情熱的な下部構造である。
 衡くべきものは、物理的な次元を特たず、季節の色彩とも関係がない。それは、港でも首都でも島でもなく、ダリエン山脈〔コロンビア・パナマ国境地帯にある山脈〕の頂上から見える地峡でもない。結局、それは、これらすべてのものである。もちろん、存在するすべてのものであるが、しかし、それらはただ道すがらに、避けがたいこととして出くわすのである。衝くべきもの──私は、私の話していることを正確に自覚する可能性のある、あちこちの(言ってみれば)百万人の人々、百万人の潜在的な「技術者」に、語りかけているのだ──、衡くべきもの、それはわれわれ自身である。今、今日、明日、ばらばらに配置されてはいるがきわめて重要な実験センターにおいて起こるべきことは、欺瞞の打破である。しばしば大衆の時代と見なされている今の時代において、われわれはえてして、歴史と進化を、われわれのコントロールの全く外で不可避的に働く力であると見なすことに慣れっこになっている。個人は、関与する力の巨大さを知ると、心底、自らの無力さを感じる。われわれ、あらゆる分野で創造的な人間は、そのような麻痺をきたした態度を捨てなければならないし、また、われわれ自身をコントロールする責を負うことで、人類の進化をコントロールしなければならない。われわれは、「万古不易の人間性」という因襲的な虚構を拒否しなければならない。実際、その種の恒常性は、まったくどこにも存在しない。生成だけがあるのである。前衛が現在可能なものをコントロールするということは、もちろん、より普遍的な発展に向けた前哨戦でしかない。そして、本誌の巻頭に表明されているように、知性の党は、「自らを抹殺することによってしか、自らの計画を実現できないだろうし、(……)自らを乗り越える党としてしか、実際に存在しえない」ということをわれわれは知っている。
 組織化、コントロール、革命。このような概念を前にすれば、私が話しかけている百万人の人々の誰しもが怖気づいてしまい、平常心を持って1グループ──その名が何であれ──と一体化することなどほとんど不可能だと思うだろう。それが普通である。しかしまた、それは同時に、誰にも責任があるとは言えない事件に直面した時の、知性の恒常的な無力さの理由でもある。事件、すなわち、迸るように氾濫する血染めの災難、つまり、大部分は意識もされずコントロールもされないままに人類の歴史を形成してきた数々の動きが複合して起きた自然な結果のことである。入念に打ち合わせた組織化がなければ、行動は不可能であり、限られた個々人やグループらのエネルギーは、数多くのまとまりのない要求の些細なジェスチャーになって散ってしまう……。こっちでは宣言、あっちではハンガー・ストライキ。おまけに、そのような抗議は、どれも共通して、社会行動は合理的であるという前提に依拠している。そんな前提は、その抗議のくだらなさを示すブランド・マークだ。断固として変化を成し遂げなければならないならば、人々は、何らかの方法で、自分たちの行動を社会的な枠組みに合わせる必要がある。そして、われわれの見解では、自らその任務に段階的かつ実験的に取りかかるならば、実り多い新思想を世に知らしめることのできる人々の核はすでに存在する。彼らがそれを引き受けるのを、世界が待っている。
 われわれはすでに、援護なしの攻撃という考えをいっさい捨てている。精神は、乱暴な力に対して、丸腰の戦いでは立ち向かえない。問題はむしろ、世界において現に働いている力──その相互作用から未来が生まれる──とは何かを、明確に先入観なく、理解することである。そしてまた同時に、冷静かつ沈着に、一種の精神的な柔術──それがわれわれのものであるのはわれわれの知性のおかげだ──によって、変更し、訂正し、巻き添えにし、逸らし、悪化させ、浸食し、向きを変えることである。つまり、見えない蜂起と呼びうるものの推進者になることである。そのような蜂起が起きるとすれば、それは、人民大衆にとっては、彼ら自身がそれに賛成票を投じたとか、公然とそのために闘ったとか、そのようなものとして起きるのではなく、季節の移り変わりのように起きるであろう。彼らは、その中にいることに気づき、そして、状況そのものによって、こう駆り立てられていることに気づくだろう。すなわち、そのような状況から出発して、つまりついに彼ら自身のものとなった内的かつ外的な歴史から出発して、自覚的にすべてを創造し直そう、と。
 明らかに、原則としては、現代世界において生産に難があるわけではない。難があるのは分配であり、分配は現在、しかじかの圏内で支配的な経済体制が持つ基準に応じて、きちんと(つまり、めちゃくちゃに)行われている。この問題は、世界的規模での行政問題であり、現存する政治的、経済的な対立関係が消滅しない限り、最終的な解決には至らないであろう。とはいえ、分配の問題は、国際機関よって世界的規模で、もっと合理的に把握されうるということは、すでに自明のことになっている。そのような組織、現在のところでは国際連合ユネスコのようなタイプの組織は、すでに、その任務のいくつか(食糧、医療など)を、さまざまな国の政府になりかわって担当している。もしもそれらの機関が諸国家の代理人そのものとは別の人間で構成されているとしたら、この種の権限移転のうちに、国家にとっての終焉の始まりを見出すのに、大した想像力もいらないであろう。また、そうだとしたら、われわれはその進行を速めるために全力を尽くさねばなるまい。
 さしあたっては、くだんの氏名不明の百万人は、「余暇」の問題に関心を集中すればよい。大げさに「青少年の非行」と呼ばれているものの大部分は、自分の余暇に適合できない若者の、言葉にならない反応である。それに結びついた暴力は、人間の自己疎外──産業革命が作り出したような自己疎外──の直接の結果である。人間は、遊び方を忘れてしまった。そして、それは驚くほどのことでもない。産業社会において1人1人に割り当てられた、気の入らない仕事のことを考えるならば、そのことからしても、また、教育が次第にテクノロジー的になっていき、普通の人間にとっては就職の準備の手段以外の何ものでもなくなっているという事実からしても、当然のことである。そういう人間は途方に暮れている。彼は、余暇がより長くなるのを怖がるほどである。むしろ残業をする方を好むだろう。そこから──このことも、資本主義世界においてなんら驚くにあたらないことであるが──オートメーションに対する彼の敵意が生まれる。創造性が萎縮してしまって、彼は完全に外を向く。彼は放心していなければならない。彼の労働生活を支配している諸形式が、彼の余暇の中に持ち込まれ、彼の余暇はますます機械化される。そういうわけで、彼は、機械のおかげでもたらされた余暇と闘うために、機械で武装するのである。
 けれども、そのすべてを埋め合わせるために、つまり、このテクノロジー時代の心理的な磨滅と傷を軽減するために、われわれに何があるだろうか。一言でいえば、気晴らしである。くだんの「人間」が、1日の仕事を終えた後、顔をひきつらせ、疲れはてて、流れ作業の組立ラインから、いささかの皮肉もなく「自由時間」と呼ばれているものの方へ帰る時、彼は何と向かい合っているのだろうか。家に帰る途中、バスの中で、彼は新聞を読むが、その新聞は、同じ要素の混ぜ直し(ルミクサージュ)という意味で、前日の新聞と同様である。すなわち、殺人4件、災害13件、革命2件、および誘拐かそれに類した何かの事件。前日の新聞もこれまた前々日の新聞と同様である。すなわち、殺人3件、災害19件、反革命1件、および、ひどく忌まわしいこととも思える何かの事件。そして、彼が真に例外的な人間、つまりくだんの百万人の「潜在的な技術者」のうちの1人でない限り、彼がこの暴力全体とこの無秩序の中で難渋することから引き出した代理的な楽しみのせいで、彼には、その「ニュース」全部の中に新しいものは何もないという事実が、分かりにくくなっている。そしてまた、彼がその楽しみを日常的に濫用しているせいで、彼は、現実に対する自分の意識を拡大するのではなく、その意識を危険なまでに収縮する方へ向かっているという事実にしても、そうだ。そのような意識の収縮は、人間の知性の繊細さとよりも、パヴロフの大の唾液分泌との方に多くの共通点のある心的過程の一種なのである。
 現代人は、放心している必要がある。彼の能動的な参加は、ほとんど存在しない。芸術は、どんな芸術であれ、大半の人がめったに思い浮かべることのない話題、ほとんど取るに足らない話題であって、彼らは時には芸術という話題に対して度し難い無知をひけらかすことを誇りにさえしている。この嘆かわしい事態は、現代の文化制度の自信に満ちた頑迷な愚かさによって、無意識のうちに、支えられている。美術館は、開館時間が教会とほぼ同じであり、同じ抹香臭さと同じ静寂がある。そして、そこにしまい込まれた作品を作った生身の人間とは精神の上で正反対に、尊大にスノビズムをひけらかしている。そのような静寂に満ちた廊下がレンブラントと、また「禁煙」の掲示がヴァン・ゴッホと、何の関わりを持つというのだろうか。美術館の外では、市井の人は、エレガントな商業システムによって、芸術本来の刺激的な影響から、完全に切り離されている。その商業システムは、付随的に、しかし経済的要請に応じて、いわゆる「芸術形式」の出現と定着に関して、一般に認められているよりも大きく関与している。生活と芸術の間に障壁を立て、芸術作品を敬うべき先祖の亡骸のように収集している文明にとっては、芸術は重要な意味を持ちえない。芸術は生きた体験を形成しなければならない。われわれが思い描いているのは、生活が芸術によって絶えず刷新されるような状況、1人1人がそれに創造的に反応できるように想像力と情熱によって構築された状況である。どんな活動であれあらゆる活動に、創造的行動をもたらすことが重要なのである。われわれはそのような状況を思い描いている。しかし、われわれこそが、今、そのような状況を創造しなければならない。なぜなら、そのような状況は存在しないのだから。
 現在の情勢ほど、このような展望に強烈なコントラストを与えうるものはないだろう。芸術が生者を麻痺させているのだ。われわれはある種の心理操作のただなかにおり、そこでは、生が芸術によってどんどん生気を奪われ、また、すべてが、偽りの光のもとに、センセーショナルなものや購買物として表される。それも、各個人の内に、受動的で慣例通りのやり方で反応したいという欲求、たえず、何でもいいからありきたりで自動的な同意を与えたいという欲求を吹き込もうという意図のもとに、そうされるのである。気力がなく不安げで、集中力のない普通の人間にとって、芸術作品は、スペクタクルのレヴェルで競わない限り、注目されえない。それは、一般に馴染みのないものや思いもよらないものをいっさい含んではならない。観客は、やすやすと何のためらいもなく主人公に同一化し、感情のジェットコースターの揺れる椅子にしっかり深々と座り、どんなわずかなコントロールもあきらめることができなければならない。そこに腰を据えているのは憑依であり、それも、理性を盲目にし批判センスを排除するという下劣の極みにある憑依である。私の知る限りでは、観客の内に判断力を失わせて憑依状態を引き起こすためには何でもするこのような上演様式の危険性に初めて注意を促したのは、ブレヒト*1である。現代の観客のそのような漠とした同一化傾向に反対するためにこそ、彼は、演出と上演のための異化の理論をまとめ上げたのであり、それは、より能動的で批判的なある種の参加を促すために計算された方法であった。残念ながら、ブレヒトの理論は大衆の気靖らしにいかなる種類のインパクトも与えなかった。操り人形(ゾンビ)は今もいる。スペクタクルはますます派手(スペクたキュレール)になっていく。私の友人の警句を自由に脚色して、私はこう言おう。「われわれが力を尽くすことを望むのは、世界の終焉のスペクタクルのためではなく、スペクタクルの世界の終焉のためなのである」(「芸術の消滅の意味」参照)。
 芸術において良質と呼ぶに値するものは、今日では、流行や産業や広告の手段を通じてしか、大衆文化に接触できないし、それゆえ、何年も前から、そのような企てに付きものの陳腐さに毒されてきた。それ以外のものについては、文学や芸術は、機械化された大衆文化と共存しているものの、あちこちで時たま見られる映画を別にすれば、大衆文化にほとんど影響がない。ただジャズだけは、出現してまもないゆえの自由奔放さと活気を持っているだけに、われわれは、ジャズにのみ、創造的な雰囲気から自然にわき起こる、おおよそ大衆的な、芸術を認めることができる。とは言っても、残念なことに、ジャズは、純粋になればなるほど、大衆的でなくなっていく。他の退化した形式が本物と見なされる。例えばイギリスでは、われわれは、馬鹿げた「トラッド*2」ブームを目の当たりにしている。それは、1920年代初めにニューオーリンズで、単純で、明瞭で、反復の多いものとして生まれたものの単なる混ぜ直し(ルミクサージュ)であり、現在ではその影で、チャーリー・パーカー*3が開いた新時代の生き生きとした伝統をほとんど完全に覆い隠してしまっているのである。
 今や何年も前から、最良の芸術家たちや優れた精神の持ち主たちは、芸術と生活の間にできた深い溝を嘆いている。その人々もたいてい、若いうちは反逆的であったが、壮年の頃になると、「成功」によって牙を抜かれてしまうのである。個人には力がない。それは必然である。そして芸術家は、自分の無力を心底から感じる。彼は挫折させられる。彼は呪われているのだ。カフカの著作にあるように、その恐ろしい疎外感が作品のなかに染み込む。確かにダダは、第一次世界大戦末期に、因襲的な文化に対して最も妥協のない攻撃を開始した。しかし、まもなく通例の防衛機制が働き、「反芸術」の製作物は、格式張って額に入れられ、『アテネの学堂』〔ラファェロ作のフレスコ画〕の隣に掛けられた。ダダは、資料室で去勢を受け、やがて、他の芸術流派とまったく同様に、歴史の教科書の中に安らかに埋葬された。トリスタン・ッァラほかは、正当に、政体の陰部に巣くう悪性潰瘍を告発し、風刺のプロジェクターを、一掃すべき偽善の方へ向けることができたにもかかわらず、彼らは、現存する社会秩序に対する創造的な代案を提出しなかった。モナリサに口髭を描いた*4後で、われわれは何をするつもりだったのか。チンギス・ハンがルーヴルを自分の馬の厩舎として使うことを、われわれは本当に望むつもりだったのか。そしてその後は?
 最近のエッセイ(「秘密の指揮」、1962年3月の『エンカウンター』誌*5 第102号に掲載)の中で、アーノルド・ウェスカー*6は、まさに芸術と大衆文化の間のギャップと、新たな接触の可能性とに関心を持ちつつ、1919年に脅威をもたらしたストライキロイド・ジョージ*7の演説に言及している。ストライキは政府を打倒しかねなかった。首相は言った。「あなた方は私たちを打ち負かそうとしています。でも、もしそうしたとして、あなた方はその結果を検討してみたことがありますか。ストライキは、国の政府に対する挑戦となるでしょうし、また、もしストライキが現実に成功を収めれば、私たちは最大級の政体の危機に陥ることになるでしょう。といいますのも、国家の中に国家そのものよりも強い権力が立てられたら、その権力は国家の機能を引き受ける覚悟がなければならないからです。さもなければ、その権力は国家の権威に降伏して退却する義務があります。紳士の皆さん、あなた方はそのことを考えてみたことがありますか。そして、考えてみたのなら、覚悟はできていますか」。
 ストライキ決行者たちは、周知のように、覚悟ができていなかった。ウェスカー氏はコメントを付けている。「風向きは完全に変わった。大勢の人々が、抗議以外のところに運を賭けた。そしてどこかでたくさんのロイド・ジョージが、自分の政権の成り行きを見て満足げにほくそ笑んでいる最中である。(……)どんな抗議も許されるし、親切に耳を傾けてもらえる。なぜならば、力──経済と文化の──は、しっかり守られた暗所に変わらず安置されているということを、だれもが知っているからである。そして同時に、この秘密の知識によって、芸術家と知識人の真の絶望が生まれる。われわれは、この知識によって麻痺させられている。われわれ1人1人がじつに頻繁に抗議するので、文化シーン──特に左翼の──の全体が『畏怖と無効力とからなっている』ほどである。1930年代における文化活動の衰退の理由の十分な理由付けとなるのは、この秘密の知識であったと、私は確信している。俗物だちと一緒に何をすべきかを、誰も本当に知らなかった。彼らは、全能で、友好的で、魅力的だった。病原菌が、思いもよらない方法で持ち込まれ、侵入した。この病原菌が、われわれの新たな文化的高まりを衰退させる原因になるであろうし、そうなり始めている。そうならないためには……。そうならないためには、当事者であるわれわれが、秘密の指揮を次から次へと執ることができるような新しいシステムを考案しなければならない」。
 ウェスカー氏のエッセイは、結局のところまったく期待はずれであるように私には思えるが、しかしそれは、イギリスでも他のどこでも、この問題にかかわっている人々のグループがあることを、私に確証してくれた。すでに見たように、西洋社会の政治経済構造は、創造的知性の運動が権力の歯車にからめ取られているという構造である。この知性の運動は、革新として実現することが禁じられているだけでなく、しばしば主義として相容れない(個別的利害に関わる)力に頼らなくては、試合に加わることもできないのである。ウェスカー氏の「センター42」*8は、そのような力関係を変えるための実践的な試みである。
 ここではっきり言っておきたいのだが、私はウェスカー氏との間に根本的な対立があるわけではない。彼の計画(実を言うとそれについての私の知識は非常に曖昧であると、私も認めるが)に対する私の唯一の批判は、その限られた国内的な性格に関するものであり、そのことは、歴史的背景の分析に反映されている。ウェスカー氏は、オズボーン*9の1956年の作品、例えば『怒りをこめて振り返れ』を、「われわれの新たな文化的高まり」の第1歩と見なしている。歴史的展望の重大な欠落、物の見方の島国性、こういった特徴は、計画全体の根底にあると思われる一種の宗数的慈善バザーの哲学を、より強めているのではないだろうか。芸術が肉体労働のように金になるとは期待できない。ウェスカー氏は、「続行するために金銭的成功に従わなくてもすむような」伝統を、懇望している。そしてその結果、彼は、組合の資金援助を求めるに至り、組合の後援のもとに一連の文化フェスティヴァルを企画し始めた。私はそのようなフェスティヴァルに何も反対しないとはいうものの、ウェスカー氏の当初の診断の切迫さから見て、私は、もっと根本的なレヴェルでの行動提起を期待していたのであった。きっと、そのような方針は、彼があれほど幸せそうに拠り所としているもの、つまり「秘密の指揮」を執ることに関しては、われわれを大した所には導かないであろう。しかじかのグループの公けの精神性に訴ええかけることよりもはるかに陳腐でない何かが、われわれの考えている大がかりな転覆にとっての至上命題であるだろうと主張しても、私は用心深すぎるとは思わない。
 しかしながら、依然として面白いこのエッセイのある箇所で、ウェスカー氏はレイモンド・ウィリアムズ*10氏を引用している。残念ながら私は、ウィリアムズ氏が誰か、また引用が何の著作から引かれているのかは知らない。ただ私は、どうしてウェスカー氏が次の文章を引用しておきながら、次にそれを無視して庇護者を探し求めることができるのかと、首をかしげるばかりである。「問題は、誰が芸術を庇護してくれるかを知ることではなく、芸術家が自ら自分の表現手段をコントロールして、市場や後援者(パトロン)よりもむしろ共同体と関係を持てるようになる形式として、どのような形式が考えられるか、である」。
 もちろん、こんなに短い断言に基づいてウィリアムズ氏が分かると言い張ったりするのは無謀であろう。私はただ、私自身にとってもヨーロッパとアメリカ大陸の私の仲間にとっても、右の文のキー・ワードは、「芸術家が自ら自分の表現手段をコントロール」する、であるとだけ言おう。芸術家がそのようなコントロールを実現した時には、芸術家と「共同体との関係」は、意義深い問題、すなわち、創造的かつ知的なレヴェルで定式化され解決される問題になるだろう。そういうわけで、われわれはこれ以上ぐずぐずせずに、われわれ自身で、そのようなコントロールを現在実行している社会機構をどうしたら内部から掌握できるのかという問題に取り組まなければならない。われわれの最初の行為は、商人を排除することでなければならない。
 この論考の冒頭で、われわれの方法は、遭遇する経験的事実──ここで今遭遇しているものもあれば、よそで後に遭遇するものもある──に応じて変わるであろう、と私は述べた。私は、特定の局面との関係におけるわれわれの活動のそれぞれの、主に戦術的な性格の試みについて、また、新しい文化基盤と呼べるものの国際的な構成についても、示唆した。もちろん、われわれの作戦行動のすべては、それが行われる社会に適合したものでなければならない。ロンドンで有効に利用できる方法が、モスクワや北京では、自殺行為であったり、単にあまり実際的でなかったりすることもある。戦術というものは常に、特定の時と場所のためにあるのである。しかし戦術は決して、狭い意昧での政治的なものではない。そのうえ、この論考そのものが、新しい基盤の一局面、計画に関する参考資料の1つであると、見なされなければならず、それは、ほとんどの場合まだこれから起きることを扱っている限りにおいて、砲火の洗礼を待ち受けているのである。
 どのように始めたらよいか。われわれは、時を選んで、ロンドンの市街からあまり遠くない田舎の空き別荘(水車小屋、修道院、教会または城館)で、一種の文化のジャム・セッションを醸成するであろう。そこから、われわれの自主大学のモデルが展開されるであろう。
 基本となる建物は、その地所──どちらかといえば川辺が良い──の奥深くに守られることになる。それは、(内的宇宙(インナー・スペース)の宇宙飛行士の)を先進的(パイロット)グループが、その建物──オルガスムと天才、それらの道具と夢見る機械、そして錯乱のための装置とその付属品──の中に自らを場所を定めることができるほど十分に巨大であり、軽工業を導入するのに十分な大きさの「工房」用の付属棟が付いている。敷地全体は、自由な建築と、場合によっては都市開発に適したものである。私がこの語に傍点を付したのは、「これまでしばしば語られてきた総合芸術なるものは、都市計画のレヴェルでしか実現できなかった」(ドゥボール『状況の構築に関する報告』)という事実をいくら強調してもしすぎることはないからである。1920年頃、ディアギレフ*11ピカソストラヴィンスキーニジンスキーは、1つのバレエを製作するために共同で行動した。このことは、われわれが、1つの都市を作るために一緒に行動する、より広範な同時代人のグループを想像しているのなら、きっと信じられる限界を超えているということにはならないだろう。われわれは、すべてが、意識的な状況の創造(と活用)のための、生きた体験の実験室であると考える。言うまでもないことだが、問題になっているのは、変形可能で変化を披る環境だけではない。人間もまたそうなのである。
 すぐさま言っておく必要があるが、われわれの「アクション・ユニヴァーシティ」(実践(プラクシス)の大学)のこうした簡単な素描は、漠然とした瞑想の産物ではない。何よりもまず、過去の状況に数多くの歴史的な類例があり、それらの状況は、偶然生じた場合もあればコントロールされた場合もあるが、それらの特徴のいくつかは、明らかに、まさしくわれわれの計画に適用できる。そのうえ、この10年間にわたって、われわれはすでに、準備という意味で十分な実験を推し進めてきた。われわれは行動する準備ができているのである。
 大英帝国イートン校の運動場で勝ち取られた、という話はよく聞く。18,19世紀の間、支配階級はもっぱらそのような私立学校で養成されていた。そして、それらの私立学校が人間に授けた行状は、当時のイギリスの発展にきわめて密接に結びついていた。残念ながら、イートン*12やそれと同種の学校における状況は、その固有の発展を生み出し続けはしなかった。無気力がそこに蔓延したのである。当初は実り多いものであった形式が、硬直化して、その時代との関係をなくすまでに至ったのである。相対性の時代にあって、われわれは、自主大学が、現代におけるきわめて重要な教育的役割を担うものであると考えている。
 イスラエルユダヤ人入植地は、砂漠を菜園に変え、世界中を驚かせた。すでに花を咲かせ、全部オートメーションによってに維持されている菜園の中で、同様の決意が少しでも人間の文化〔=栽培〕に応用されるならば、何の結果ももたらさないと言えるだろうか。
 他方、ノースカロライナには、実験的なブラック・マウンテン・カレッジ*13があった。その事例は、われわれにとって、2つの理由で直接的な重要性を持っている。第1に、考え方全体が、教育の見地において、われわれの考え方とほとんど同じである。第2に、ブラック・マウンテンのグループにいた人々のうち、何人かのとても経験豊かな中心メンバーが、今、われわれと連携して現在の冒険に取り組んでいる。彼らの協力は非常に貴重である。
 ブラック・マウンテン・カレッジは、合州国の隅々まで広く知られていた。いかなる免状も授与されなかったにもかかわらず、アメリカ全土の大学卒業者もそうでない者も、そこに滞在してみる価値があると思っていた。アメリカのきわめて優秀な人々のうちから、驚くべき数の芸術家や作家が、さまざまな機会にそこに来て、教えたり学んだりしたのである。そして、この15年間にアメリカ芸術に及ぼした彼らの影響の総和は、かなりのものであった。絵画の分野でフランツ・クライン*14、詩の分野でロバート・クリーリー*15の名を挙げるだけで、ブラック・マウンテンの重要性をざっと理解してもらうのに十分である。彼らはアメリカの前衛の基本となる人物であり、彼らの影響はいたるところにある。
 ブラック・マウンテンは、クラインらの絵画に適用される時、語のその意味における「アクション・ユニヴァーシティ」であると述べることができるかもしれない。試験はなかった。将来の目的から必要とされる勉強はなかった。学生と教授は気楽に、創造的芸術に参加していた。どの教授も自ら、非常に高度な──詩、音楽、絵画、彫刻、舞踏、純粋数学、純粋物理学などにおける──実践家だった。要するに、それは、個人とグループにおける創造性の自由な働きを生み出すために「構築された状況」であった(ここでは、それらの文化的区分を超える創造性のどのような転移がわれわれにとって望ましく思われるかは、検討しない)。
 残念ながら、そのカレッジはもう存在しない。1950年代に初めに財政上の理由で閉校しなければならなかったのである。それは実際にそのスタッフによって所有される非営利団体であり、受講登録料と寄付金に全面的に依存していた。合州国の高度に競争原理の働く背景においては、そのような、無料で明らかに非実利的な機関は、スタッフの不断の努力でできる範囲でしか、生き続けられなかった。結局、その組織は、あまりにも周囲に適応できず、生き延びられないことが明らかになった。
 われわれの先進的計画を確立する方法と手段を考える際、われわれは決して、次の事実を見失ったことはなかった。すなわち、資本主義社会において成功する組織は、資本主義的な面で自らを維持することができなければならない、という事実である。冒険は採算がとれなければならない。そういうわけで、われわれは、大学に参加する人々の作品をできる限り管理するための総合代理店を設立するというアイデアを思いついた。芸術も、社会の全表現手段の産物も、工業生産と商業へのそれらの応用も、すべてみごとに採算がとれる(〈ミュージカル・コーポレーション・オヴ・アメリカ〉*16を参照のこと)。しかし、科学の世界と同様に、利益の大部分を手にするのは、創作者自身ではない。創作者たち自身によって設立され、給料の高いプロフェッショナルの働いている代理店が、難攻不落の陣地になるだろう。芸術家たちの批判的な明敏さによってじかに指導される、そのような代理店は、文化的な才能のある新人を有効に収穫できるであろう。それも、純粋に職業的な代理店が、そんな人がいると気付くよりもずっと前に。この15年間同時代の才能を見抜いてきたわれわれ自身の経験が、この決定的要因をわれわれに教えてくれたのである。
 初めの何年かはきわめて厳しいであろう。時とともに、その代理店によって代理される芸術家個人の観点から見て、その代理店が有効に機能することが認められれば、その代理店は、才能あるどんな新人に対しても、第1の選択権を得ることになるだろう。なぜそうなるかといえば、その代理店が競争相手よりも前にその才能を見抜くことができるからだけでなく、まさに大学の存在とその評判のおかげでもある。それはまるで、代理店が利益の100パーセントを自らの宣伝に費やせるようなものである。他のことがすべて同等なら、例えば若い作家は、どうして、自分の(もっと有名な)仲間がコントロールしている代理店に従う方を選ばないということがありえようか。その代理店は、自らが──会員としての彼から──上げる利益の全部を、自らの影響力と支持層の拡大のために使うのであり、また、彼に何よりもまず、(代理店を経営する)実験大学におけるメンバーの資格と、それに含まれているすべてのものを与えてくれるのだから。そこで、われわれの計画の経済のこれ以上詳しい構想を練る前に、まさにそのメンバー資格に含まれている意味を手短に述べておくべき時であろう。
 われわれは、世界中のそれぞれの国の首都の近くに支部大学を持つ、1つの国際組織を思い描いている。その組織は、自律的で、経済的に独立し、あらゆる政党からも独立している。1つの支部に所属していれば(教授としてであれ、学生としてであれ、同じことである)、すべての支部のメンバー資格が与えられ、外国の支部に滞在するために旅行することは、大いに奨励される。大学の各支部の目的は、近くにある首都の文化生活と、その文化生活の加筆に寄与することであるが、また同時に、国際的な文化交流を促進することができるし、またそれ自休で、専門化されない実験的学校および創作アトリエとして機能する。常駐の教授自身が創作者である。各大学のスタッフは、意図的に国際色豊かにし、できる範囲内で、学生もそうする。自主大学の各キャンパスは、実験都市の中核になる。実験都市には、あらゆる種類の人々が、短期間であれ長期間であれ、引き寄せられ、そして、うまくいけば、彼らはそこから、生活の斬新な──しかも人々の間にどんどん浸透していく──意義を汲み取るであろう。われわれが思い描いている組織の構造と機能は、きわめて柔軟である。われわれは、その組織が、たえず刷斬していく文化的な力が徐々に結晶化したもの、つまり、いたるところで自らの波及効果を認識し発揮する創造的知性の永続的運動であると、考えている。
 現状では、大学の日々の機能を正確な詳細にわたって記述することは不可能である。まず第1に、それは、短い序説を書いているたった1人の個人にとっては不可能である。先進的(パイロット)計画は、物質的な意味では存在しない。そしてそれは、一番最初から、イスラエルキブツのように、共同で推進される企てでなければならない。また、機動的行動は、その場で(イン・シチュ)決定されなければならず、まさにその時に可能なものに左右される。この10年間、私の仲間と私は、(非常に部分的であれ)構築された状況における1グループ内部のさまざまな考えの相互作用から生まれるさまざまな可能性に驚かされてきた。そのような経験に基づいて、われわれは国際的な実験を思いついたのである。第2に、結果的に、私自身が前もって構想したいくつかの詳細が、集団の状況の自然発生にとって邪魔になりかねない。
 しかしながら、経済構造の素描を試みることは可能である。
 われわれは、利益が普及と研究に投資される、有限責任会社(〈インターナショナル・カルチュラル・エンタープライゼズLtd〉)を念頭においている。その収入の出所は、次のようなものになるだろう。
1、会員のオリジナル作品の販売から代理店が得る手数料。
2,「純粋研究」からひきだされる(工業的、商業的な)二次的応用の利用権から得られる金銭。芸術アトリエでしばらく過ごしたことのある人なら誰でも私の言いたいことが分かるだろう。その領域は無限で、広告から室内装飾にまで広がっている。
3、小売り収入。大学には、「生きている美術館」と、たぶん、良いレストランが入るだろう。小売りのために、また宣伝として、市街地で展示会場を借りることになろう。
4、映画や演劇の、あるいはシチュアシオニスト的な製作がもたらすような収入。
5、受講登録料。
6、寄付、贈物など。それらは計画の自律性を全く損なわないものに限られよう。
 この行動の文化的可能性は無限であり、そして、行動のための時は熟している。世界は破滅の危機に恐ろしいまでに近づいており、心ある学者、芸術家、創造的な人々、教授たちは、どこでも、心もとない状態でいる。彼らは待っているのだ。表現のネットワークを作る──たとえそれをコントロールできなくても──のは、社会のこの階層であることを思い出せば、われわれは、何の困難もなく、自主大学が見えない蜂起の引き金であると認めることができるだろう。

アレキサンダー・トロッチ*17

*1:ベルトルト・ブレヒト(1896−1956) ドイツの劇作家。1928年、クルト・ヴァイルとの合作『三文オペラ』で大成功を博す。29年から36年にかけて共産主義運動に参加。その後、ナチスの台頭によって故国を離れ、スカンディナヴィアから合衆国に亡命.その間、『ガリレオの生涯』(37年)、『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(39年)を書く、戦後、49年以降、東ベルリンに住み、劇団「ベルリーナー・アンサンブル」を結成し、字幕スライドや歌を用いた「異化」効果の理論に基づく政治演劇活勤を展開。

*2:トラッド 第二次大戦後のジャズの1スタイル。モダン・ジャズとは反対に、最初期のジャズ(ディキシーランド・ジャズ) への回帰である。

*3:チャリー・パーカー(1920−55年) アメリカの黒人ジャズ・アルトサックス奏者。モダンこンャズの出発点となったビ・バップの創始者の1人。

*4:モナリザに口髭を描いた マルセル・デュシャンが1919年に発表した『LHOOQ』のこと。レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の複製に口髭を描き込み、デュシャンの署名を添えたもので、制度化された芸術家と作品の関係を転覆したとして、美術史上画期的な「作品」である。

*5:『エンカウンター』誌 1953年、〈文化の自由のための会議〉が創刊した英国の国際的文化総合雑誌

*6:アーノルド・ウェスカー(1932−)イギリスの劇作家。仕立屋の子として生まれ、さまざまな職業に就いた経験に基づいて、労働者階級の生活を写実的に描く作品を次々に発表し、オズボーンに続く「怒れる若者とも」の1人とされた。労働組合の支援を得て芸術の大衆化をめざす組織〈センター42〉を1962年に結成、70年まで活動。 代表作に『大麦入りのチキンスープ』(58年)『根っこ』(60年)、『ぼくはエルサレムのことを話しているのだ』(60年)から成る「ウェスカー3部作」。

*7:デイヴィッド・ロイド・ジョージ(1863−1945年) 英国の政治家。90年に下院議員に当選、チェンバリンの帝国主義的政策を攻撃。1909年蔵相として、富者負担を増大する「人民の予算」を提出、10年には「国民保険法」成立によって社会保険制度の基礎を作る。16年に首相就任、連合内閣を組織し、戦争完遂に努力。19年には全権大使として講和会議を組織、ヴェルサイユ条約を調。社会改革を唱えたが、労働党進出によって挫折する。

*8:「センター42」 アーノルド・ウェスカーの訳註を参照

*9:ジョン・オズボーン(1929−) イギリスの劇作家 貧しい家庭に生まれ、演劇を志し、1956年初演の『怒りをこめて振り返札』で一躍有名となった。この作品の名から「怒れる若者たち」の呼称が生まれ、自らもその代表的作家とされた。他の作品に『芸人』(57年)、『認められぬ証言』(64年)。

*10:レイモンド・ウィリアムズ(1921−88年) イギリスのマルクス主義批評家。 ウェールズの労働者階級出身で、ケンブリッジ大学で学んだ後、1974年から82年まて同大学演劇学教授。その間、50年から74年まで労働党のシンパ、61年から66年までは党員として活動すると同時に、『ニュー・レフト・レヴュー』誌の編集に携わる。文学批評以外にも、大衆文化・映画・エコロジー・政治など多様な批評を行い、小説や戯曲も書いている。著書に『文化と社会』(58年)、『田舎と都会』(73年)、『文化とは』(81年))など。

*11:セルジュ・ド・ティアギレフ(1872−1929年) ロシアの美術批評家・興行師。ペテルスブルクでモダニズム・グループを結成、1898年に『芸術世界』誌を発刊。1908年、パリで口シア音楽会を開催、09年、ロシア・バレエ団を結成、舞踏家ニジンスキー、作曲家ストラヴィンスキーを起用して成功を収め、革新的な近代バレエの道を開く。舞台装置にピカソマティスらの協力を得て、「天才を発見する天才」と称された。

*12:イートン 英国の有名私立中等学校であるパブリック・スクールの1つ。国王ヘンリー6世が教会と国家に奉仕する青年の教育機関として、1440年に創設。オックスフォード大学とケンブリッジ大学に多くの卒業生を送り込み、英国の王族や指導層の教育機関として今日にいたる。

*13:ブラック・マウンテン・カレッジ 50年代初頭に米国ノースカロライ州の山中に多くの芸術家が集まって運営した実験大学。全米から芸術家志願の学生を集め、教授陣も実際の芸術家を迎え(口バート・ダンカン、ロバート・クリーリーらのほか、サマー・セッションには、マース・カニンガム、ゾョン・ケイジ、バーナード・リーチなども教えた)、自主運営の理想的な芸術教育をめざした。また、前衛的雑誌『ブラック・マウンテン・レビュー』(54−57年)を刊行、小説家ケルアック、詩人W・C・ウィリアムズらが寄稿した。同校の学長で詩人のチャールズ・オルソンの提唱した「投影詩」(西洋詩の主知主義を批判し、身体や息を通して発現される詩人のエネルギーを重視し、詩はそうしたエネルギーの「投影」であるとするもの)に共鳴した詩人たちを「ブラック・マウンテン派」と呼ぶ。

*14:フランツ・クライン(1910−62年) 米国の画家。抽象表現主義に属する。50年代、白と黒の線を画面に走らせる絵画により自己の作風を確立、50年代後半には白・黒に赤・縁などを加えた作品を描いた。

*15:ロバート・クリーリー(1926−) 米国の詩人。ブラック・マウンテン・カレッジなどで学び、W・C・ウィリアムズやC・オルソンの影響を受けた。平易なアメリカ語法を用いながら、心の揺れ動きを微妙なニュアンスで歌う独特の詩的境地を開いた。

*16:〈ミュージカル・コーポレーション・オヴ・アメリカ〉 米国の音楽家の処遇改善や利益擁護を行った「全米音楽家組合」のことだと思われるが、不詳。

*17:アレキサンダー・トロッチ(1925−84年) イギリス国籍のシチュアシオニスト。1952年以降イギリスの雑誌『マーリン』の編集委員として活動していたが、55年にドゥボールレトリスト・インターナショナルに参加するため、同誌を去る。SIのなかではセクション無所属で、1961年以降SI中央評議会のメンバーとして活動。1960年に米国で麻薬所持の疑いで逮捕された時にSIはその第4回大会でトリッチの逮捕を糾弾する決議を行い、ドゥボールとヨルンの名で『アレキサンダー・トロッチに手を出すな』というビラを配布した。トロッチはその後、1964年秋に自らが推進していた文化運動「プロジェクト・シグマ」の最初の刊行物発行に際して、SIを関わり合いにならせないために脱退。