起源と統一への道

訳者改題

 現代のさまざまな困難な条件のなかでも、多くの新しい傾向がすでに始まっている。
 「コブラ」の芸術は、その出発の時点から当時の他の傾向と異なっており、抽象芸術の新しい見方を代表している。それは、抽象化というものを信じていない抽象芸術だと言える。この新しい見方を意識化し、はっきりと正確に表現したのは、デンマークの芸術家ヴィルヘルム・ビィヤーケ・ぺーターセンの研究『抽象芸術のなかの象徴』においてである。そのなかで彼は、きわめて独創的なやり方で抽象作品の象徴的内容を初めて証明した。かくして、絵画的目的としての抽象の観念は決定的に権威を失墜させられた。どこから、ビィヤーケ・ぺーターセン*1はこの考えを持って来たのだろうか? かつてのバウハウスからである。彼は、ナチスによって破壊される直前のバウハウスを訪れていたのだ。装丁とぺージのレイアウトの観点から見て、この書物は、モンドリアン*2、ファン・ドゥースブルフ*3マレーヴィチ、クレー*4カンディンスキー*5などの理論的著作を含む「バウハウス叢書」のシリーズの新しい一冊だった。内容的には、彼の発展があれほど突然停止してしまわなければ、フロイトの新しい心理学とパリのシュルレアリストの発達の成果を採用し、そこから出発して新しい展開を見せることを予感できるような論の展開がはっきりと見られた。
 ビィヤーケ・ぺーターセンの1933年の書物以降、第二次大戦の終結までの、デンマークの芸術の大きな発展はこうして、同じ時期、ドイツ文化の命を麻痩させていた政治的事件と切り離すことはできない。だが、新しい見方はこの書物によって確立されたのではなかった。この見方に必要なすべての要素が発見されるまでには、長い矛盾に満ちた発展の道を経なければならなかった。ビィヤーケ・ぺーターセンは自分の著作の革命的独創性に気づいてさえいなかった。彼は2年後、ブルトンの思想とシュルレアリスムと呼ばれる新理論に共鳴し、自らの最初の考え方には反対するのである。だが、リヒャルト・モーテンセン*6やエイラー・ビレ*7のようなこの最初の考え方に着想を得た芸術家たちは、それを再検討することを拒み、新しい基礎の上に形成された芸術家集団である「リニエン(線)」*8からビィヤーケ・ペーターセンを排除した。「リニエン」の発展はそれ以降数年間にわたって多くの新しい芸術家たちを惹き付けたが、エギルヤコブセン*9の自発的色彩主義(コロリスム・スポンタネ)の手法によって新たなる転覆が準備されていた。抽象主義に執着していたリヒャルト・モーテンセンは、ますますこうした新しい傾向に反対するようになり、1939年、分裂は避けられないこととなった。「リニエン」の時代は終わり、いくつもの傾向や潮流を生む新しい時代が雑誌『ヘルヘステン(地獄の馬)』*10の周囲で始まった。リヒャルト・モーテンセンはと言えば、かつてビィヤーケ・ペーターセンが『リニエン』に反対してシュルレアリストの雑誌『コンクレティオン』*11を創刊したように、雑誌『アースティダーネ』の創刊に参加した。
 戦争の終結とともに、デンマークの芸術家の特権的状況は終わった。国際状況への接合は新たな危機を生んだ。オランダの運動「デ・ステイル*12は、かつて、バウハウスの諸形式にだれの目にも明らかにその文体=スタイル(ランガージュ)を押し付けたが、当のオランダではその文体=スタイルは、既に徹底的に使い古されてしまっていた。まさにこうした文体=スタイルを転覆しなければなれないとすぐに理解して生まれたのが、1947年『レフレックス』グループに集まった何人かのオランダ人芸術家たちだった。彼らは、これらの傾向に関して、デンマークでの発展から極端に過激な結論を引き出そうとしたのである。これは新しいきらめきで、そのせいでデンマーク人のあいだでも新たな分裂が生まれた。何人かはこの新しい発展に加わり、「コブラ」を創設したが、それを拒んだ者もいた。一触即発の状況だった。爆発(エクブロジオン)は、1948年、アムステルダムでの「コブラ」の展覧会(エクスポジシオン)として炸裂した。
 個人的にはわたしはドイツとデンマークでの準備的発展段階には直接関わってはいなかった。わたしは1936年故郷の町をあとにして、直接パリに行き、芸術家としての仕事を始めた。わたしはパリにはカンディンスキーがいることを知っていた。彼はそこで1つの流派を作っていると思っていたのだ。だが、カンディンスキーは、死ぬまでに、自分の作品を集めた個展を開くことさえできなかった。それでわたしはフェルナン・レジェ*13のアカデミーに行ったのである。この経験は、事物をまったく新しいやり方で見直すよう努め、フランス風の見方に順応する良いチャンスだった。さらにまた、ここパリで発表されていたあらゆる発展の成果を少し離れた立場から眺める機会にもなった。とにかくわたしはそう思っている。それを判断するのは他人の役目だが。
 かつてのバウハウスは新しい芸術的発展は技術的結果をもたらしうるということを示していた。それはラスキンとモリス*14のテーゼだった。かつてのバウハウスは「青騎士*15グループと「デ・ステイル」集団の芸術的成果を吸収し、それを活用しながら芸術家には何も残さなかった。それは手柄ではあったが、同時にほとんど清算作業と言うに等しいものでもあったのだ。かつてのバウハウスと直接関係した、革命的効力を授けられた唯一の芸術家は、画家ではなく写真家であったことは興味深い。彼はその後、パリで画家のヴォルス*16になるのである。
 この悲惨な発展は、芸術と技術の関係に対して同じように無意職だったそれ以前の多くの発展を反映したものであったが、それは、ある特定の構造の輪郭をはっきりと浮き彫りにした。この構造は新しい芸術革命に対していつも同じことの反復になる可能性を押し付けていたのである。だが、これを意識していたために、芸術と技術の両方の同時的発展の相関関係を打ち立てることによって、同時に、そうした結果になることを回避する方法も見い出せた。このことは、行き戻りのスピードが増し、ついには反動がすでに行動の時点で同時に準備されるまでになったために、かえって容易だったのである。
 この計画は、1947年にすでに、オランダで建築雑誌『フォーラム』に発表された建築様式と装飾に関する研究のなかで、わたしが提案し、詳しく説明していたものである。
 そこで説明したイマジニスト・バウハウスのための活動の目的は、この戦略的方法、あるいは率直に言えば技術というものを確立することであった。たとえ目的は反ー技術的であろうと、芸術の1つの技術を適用することによって、おそらく、自由な芸術を裏切るか否定することになる。だが、この必然を逃れる道が1つでもあるとは思わない。わたしは、芸術の力が諸条件の変化のなかで押しつぶされるとは信じていない。逆に、何も作られなくなれば、芸術も、それとともに人間も存在しなくなるだろうと確信している。ここで、存在という語は、結局のところ、状況の表現としてわれわれが受け取ってきた意味で使っているのだが。
 1948年の、オランダでの「実験グループ・レフレックス」の設立によって、芸術の歴史上初めて、大戦期に(とりわけデンマークで)何よりも重要であることが明らかになった一つの基礎、すなわち実験的基礎に基づいた運動が形成された。
 H・L・C・ヤッフェはその著『デ・ステイル』のなかで、モンドリアンとファン・ドゥースブルフとの決裂は、1923年に後者の考え方のなかに含まれていた実験的方法の匂いによって引き起こされたと主張している。彼は、この点に関して、ファン・ドゥースブルフとファン・工ーステレン*17リートフェルト*18の宣言文を引用している──「集団作業によってわれわれは、建築をすべての芸術から成る一つの造形的統一体〔=造形単位〕として検討した。この結論は新しい様式〔=スタイル〕を生み出すはずだ。われわれは空間の法則を検討した(……)、そして空間のすべてのヴァリエーションは一つのバランスのとれた単位として支配できることを発見した」。だがしかし、検討するのも発見するのも、どちらも経験論に属することだ。そして、新しい様式〔=スタイル〕の出現についての彼らの結論はまったく反一実験的なものである。グロピウスがこの予言を受け取ることを拒否したのは、彼らとは逆に、様式の発展について実験的な把握をしていたからにほかならない。だからといって、グロピウスがかつてのバウハウスでこの問題について一切の議論を拒むのではなく、この点での協力を申し出ていたなら、ファン・ドゥースブルフの精神のダイナミズムは様式論についての真の実験的把握にまで導いただろうことは疑いない。しかし、あらゆる発展は時間を必要とする。そして、「コブラ」の「実験芸術家インターナショナル」の設立の時から流れた時間は、この点についての議論によりふさわしい意見をいまだに生み出していない。
 「コブラ」のグループが芸術の実験的段階に達しようと努めているちょうど同じころ、1つのグループ、あるいはほとんど芸術的風潮とまで言えるものが、パリで突如、姿を現した。レトリスムという名で、とりわけ文学と映画の領域で活動していたそのグループは、意味(セマンティック)の実験を十分に練り上げていた。自分たちのボキャブラリーから芸術(アート)という語を削除し、それを行動に置き換えることによって形作られたこの転覆的活動が、だれからもその重要性を見過ごされてきたというこの事実は、だれもがこの上なく些細な偽の新しさに飛びかかっている現代にあってとりわけ意義深いことである。
 サン・ジェルマン・デ・プレの若者たちの振る舞いが引き起こす混乱は、そうした興奮の結果、何か大変な事件が起こることにだれも気づかぬ限りは、単なる羽目外しにすぎないと思われていた。未来の発展の追求は「実験芸術家インターナショナル」と「レトリスト・インターナショナル」が手に入れた成果を突き合わせることから出発してなされなければららないことは明らかだった。その結果、1956年夏のアルバでの会議と、1957年7月のコシオ・ダローシャでの大会の後に、シチュアシオニスト・インターナショナルが結成されたのである。

*1:ヴィルヘルム・ビィヤーケ・ぺー夕ーセン(1909−1947年) デンマークの画家、理論家。1930年から31年にかけて、バウハウスのクレーとカンディンスキーの教室で学んだ後、デンマークに戻り、1933年、抽象表現主義象徴主義との総合をめざした理論的著作『抽象芸術のなかの象徴』を著し、これはデンマーク現代芸術にとってエポック・メイキングな書物となる。翌年、リヒャルト・モーテンセン、エイラー・ビレと「抽象シュルレアリスム」の芸術集団「リニエン(線)」を設立し、抽象とシュルレアリスムを統合しようと試みるが、35年、ブルトンシュルレアリスムに接近して、抽象表現を捨て去る。以後、北欧へのシュルレアリスムの導入に努めつつ、パリでのシュルレアリスム国際展(1938年と47年)に出品する。1950年代以降は、シュルレアリスムとは決別し、構成的な幾何学的抽象芸術に回帰した。

*2:ピエト・モンドリアン(1872ー1944年) オランダの画家。アムステルダムで絵画を学び、パリでキュビスムから次第に抽象主義へと向かう。1920年代後半にアムステルダムでファン・ドゥースブルフやファン・デル・レックらの「厳密なスタイル」を唱える抽象主義者らと出会い、1917年、『デ・ステイル』を創刊、「新造形主義」を提唱して理論・実践活動を行う。24年にファン・ドゥースブルフとの思想的不一致によって『デ・ステイル』を雌れた後は、パリの抽象主義の運動『セルクル・エ・カレ(円と四角)』やその後継の『アブストラクシオン・クレアシオン』などを拠点に世界的名声を確立する。この時期のモンドリアンのアトリエには、バウハウスの設立者グロピウスなども頻繁に訪れていた。第2次大戦期には、モンドリアンは合衆国に亡命し、『ブロードウェイ・ブギ・ウギ』(1942?43年)など、その新造形主義の集大成といえる作品を製作するとともに、ポロックら戦後の合衆国の抽象表現主義に大きな影響を与えた。

*3:テオ・ファン・ドゥースブルフ(1883−1931年) オランダの画家、建築家、芸術理論家。1916年にモンドリアンと出会い、翌年、新造形主義の雑誌『 デ・ステイル』を創刊。20年代にはヨーロッパ中を旅して、「デ・ステイル」のスタイルを広め、ドイツのダダイストら当時の前衛芸術家に大きな影響を与えた。1922年にはワイマールのバウハウスで教鞭を取り、当初表現主義的であったバウハウスの方針の転換に決定的な役割を果たす。1923年、新造形主義を建築に応用した「デ・ステイルの建築」展を開催、25年には『エレメンタリズム宣言』を発表し、「デ・ステイル」の理念を絵画を越えて建築や装飾、日常生活の道具類にまでダイナミックに適用することを唱え、モンドリアンと決別する。1931年、モンドリアンカンディンスキーらの『セルクル・工・カレ』に対抗して、『ラール・コンクレ(具体芸術)』を創刊、新造形主義に基づいた一種の工芸運動を称揚する。

*4:パウル・クレー(1879−1940年) スイスのベルンに生まれたドイツの画家。ミュンヒェンで絵画を学び、1912年第2回「青騎士」展に出品。第一次大戦に従軍した後、1921年から31年まで、バウハウスで教鞭を取り、製本部、ガラス絵工房、織物部などで造形論を教える。31年から33年までデュッセルドルフ美術学校の教授として教えるが、1933年、ナチスに追われてスイスのベルンに戻る。以後、それまでの画風と変わって、ペシミスティックで謎めいた形態を麻布や綿布、新聞紙などの素材に描き続けた。

*5:ワシリー・力ンディンスキー(1866−1944年) モスクワ生まれの画家。1907年、ミュンヒェンで「ミュンヒェン新芸術家協会』を、次いで11年「青騎士」を設立し、『芸術における精神的なものについて』(11年)などの著作や実作によって色彩の性格と、色彩と形態の関係を追求し、ドイツでの抽象絵画の確立に積極的な役割を果たした。1914年、カンディンスキーはモスクワに戻り、その後、革命ロシアの文化・芸術活動に協力してモスクワ大学などで教えるが、21年、教条主義の台頭に反発してドイツに戻り、31年までバウハウスで色彩論と形態論を中心に教え、1926年にはバウハウス叢書の1冊として『点と線から面へ』も出版している。33年、バウハウスの閉鎖後はパリに移って芸術活動を続けた。

*6:リヒャルト・モーテンセン(1910−) デンマークの画家。コペンハーゲンで絵画を学んだ後、1932年、エイラー・ビレと訪れたベルリンで、抽象絵画シュルレアリスムなどの現代芸術に出会う。帰国後、1934年にビィヤーケ・ぺーターセンと「リニエン(線)」を設立、「抽象シュルレアリスト」を掲げて象徴あるいは幻想と抽象表現とを調停しようとする独自の芸術運動を開始する。三七年にぺーターセンがブルトンに接近して抽象主義を捨てて「リニエン」を離れると、それに対抗して、エイラー・ビレとともに、モンドリアン、ファン・ドゥースブルフ、クレー、ミロ、タンギーカンディンスキーらの作品を集めた「ポストー表現主義・抽象・新造形主義・シュルレアリスム」と題した展覧会を組織する。この展覧会は、批評家や観客には評判はよくなかったが、スカンディナヴィアの前衛芸術家に大きな影響を与え、象徴性と抽象表現の結合は後の「コブラ」の芸術表現を先取りするものであった。その後、モーテンセン自身は「コブラ」には参加せず、1950年代初めにフランスにわたり、ヴィクトル・ヴァザレリらとともに幾何学的抽象に向かった。「コブラ」のメンバー(ヨルン、コンスタント、アペル、コルネイユ)は、モーテンセンの冷たい抽象の絵画の上に、様々な形態を描いた「修正」絵画を製作している。

*7:エイラー・ビレ(1910-) デンマークの画家、彫刻家、芸術理論家。コペンハーゲンで絵画を学び、モーテンセンとベルリンに行き、帰国後、1934年、モーテンセンらと「リニエン」を設立、「抽象シュルレアリスト」の活動を始める。同年発表された『ピカソシュルレアリスム・抽象』は、1938年から1942年には「ヘスト」に参加し、次いで41年から44年には「ヘルへステン」に参加して、「抽象シュルレアリスト」から「コブラ」への道を開く。1984年のコブラ結成後1951年まで、その積極的なメンバーとして活動、仮面や抽象的な形態に基づいたエネルギッシュな彫刻や絵画を製作した。

*8:リニエン(線)」 ビィヤーケ・ぺーターセン、リヒャルト・モーテンセン、エイラー・ビレによって設立された集団。1934年から39年まで、同名の3号の雑誌と3回の展覧会を開催。アスガー・ヨルンは、「リニエン」の1937年の展覧会に協力、39年の最終展には出品はしなかったが、その時の雑誌に「創造のプロセス」と題したエッセイを書いている。

*9:エギルヤコブセン(1910ー) デンマークの画家、理論家。モーテンセン、ビレらと同世代の画家として、30年代に抽象表現の洗礼を受け、「リニエン」に拠って「抽象シュルレアリスム」の理論と実践の両面で大きな貢献をする。1937年、ナチスの軍隊のチェコスロヴァキアヘの進行に対する怒りから描いた「オフォブニン(積み重ね)」が彼をとりわけ重要な画家とした。この絵画は、自発的な線と色彩が分かちがたいまでに複雑に絡み合った構成によって、「コブラ」の先駆と見なされている。1941年、ナチスの占領下で『リニエン』の後を次いで発行された『ヘルヘステン』に参加。48年に「コブラ」が結成されると、1951年までその活動に参加。ヤコブセンの絵画は、特に抽象と象徴の交差する仮面や祭り、北欧の神話などをモティーフにし、線と形態、色彩が自由に絡み合う様は、1946年から47年のポロックのオール・オーヴァーの手法を先取りしたものとされている。

*10:『ヘルヘステン(地獄の馬)』 ナチス占領下のコペンハーゲンで地下出版された前衛芸術雑誌。1941年3月から44年11月まで全12号が刊行された。エイラー・ビレ、エギルヤコブセン、ヨルンら、それまで「リニエン」に拠った画家たちのほか、デンマークスウェーデンの詩人たちも加わり、ナチスヘのレジスタンスの拠点となった。絵画や詩のほかにも、考古学、民衆芸術、芸術教育、映画、写真、入れ墨なども取り上げ、これらは後の「コブラ」の関心と重なっていた。ヨルンはこの雑誌の名を『ヘルへステン』とすることを提案した張本人でもあり、数多くの文章を発表するなどしてこの雑誌に大きく関わった。

*11:『コンクレティオン』 ビィヤーケ・ペーターセンの編集による北欧のシュルレアリスムの雑誌。コペンハーゲンオスロストックホルムを拠点に、1935年から36年まで全6号を刊行。ブルトンを中心としたパリのシュルレアリスムのほか、ハーバート・リードらのイギリスのシュルレアリスムも紹介。

*12:「デ・ステイル」 1917年、オランダのファン・ドゥースブルフが発行した同名の雑誌を拠点にした新造形主義の美術・建築運動。モンドリアン、ファン・デル・レック、ファントンジェルローなどの画家や彫刻家、J・J・P・アウト、G・T・リートフェルトなどの建築家を糾合したこの運動は、モンドリアンらの純粋な形態実験から、1923年以降、次第にドゥースブルフリートフェルトを中心とした、日常生活のなかでの新造形主義の実践としてカフェや芸術家の家の建築、家具や玩具の製作などに移っていった。1920年のベルリンでの「デ・ステイル」展、1923年パリ展、同年のリートフェルトによるユトレヒトのシユレーダー邸の建設などによって、彼らの運動はヨーロッパ中に拡大した。1932年まで発行された月刊誌『デ・ステイル』は、1920年代ドゥースブルフがワイマールに転居し、「デ・ステイル」講座を開設すると、バウハウスの若い学生たちの間でも熱狂的に読まれ、バウハウスの方針を新造形主義に基づいたものに変えるのに寄与した。

*13:フェルナン・レジェ(1881−1955年) フランスの画家。当初はセザンヌ風の新印象主義やマテイスらのフォーヴィスムの影響を受けた絵画を描いていたが、アポリネールやドローネー、ルヴェルディらと知り合い、1910年以降、キュビスムの展覧会に参加。第一次大戦での機械戦に衝撃を受け、以後、機械や工業製品にモティーフを得た独自の画風に変化する。1920年代には絵画を建築に応用することを始め、より抽象的な画風に変わる。30年代以降は、陶芸、タピスリー、ガラスエ芸など多様な分野において活躍した

*14:ウィリアム・モリス(1834−96年) イギリスの詩人、工芸美術家、社会運動家。オックスフォード大学を卒業後、絵画・建築を学びラファエル前派の詩人ロセッティ、画家バーン・ジョーンズらと、資本主義の発達による機械文明と労働の分割に反発して、中世の職人ギルドをモデルとした共同体による日常生活の美的環境を変革する工芸運動を起こす。1859年にフィリップ・ウエッブの協力で建てた「レッド・ハウス」と呼ばれる中世ゴシック風の家や、自ら興した「モリス、マーシャル、フォークナー商会──美術職人集団」(1875年以降は「モリス商会」)を拠点に、家具、ステンドグラス、金属細工、刺繍などの製作・販売を行う。1888年にはこれが発展してC・R・アシュビーによって「アーツ・アンド・クラフツ展覧協会」が設立された。モリスはその後、この協会を通じて多くの工房を作り、装飾芸術を通じた社会変革の可能性を求めたが、自らの求める改革の成果が大衆にまで及ばないことに失望して、社会主義に近づき、数々のパンフレットを発表しながら社会運動家としての活動に打ち込んでいった

*15:青騎士」 911年、カンディンスキーとフランツ・マルクによって始められた芸術運動で、1912年から出された雑誌『青騎士』と、同名の展覧会によって第一次大戦までのドイツを中心とした現代芸術家の拠点となった。抽象芸術と具象芸術を問わず、フランス、ロシアなど国外の多くの芸術家を集めたその展覧会には、後にバウハウスに参加するクレーなども出品した。

*16:ヴォルス(本名ウォルフガング・シュルツェ 1913ー51年) ベルリン生まれの画家、写真家。ドレスデンで写真の勉強をした後、1932年、デッサウのバウハウスでクレーの授業を受ける。その後パリに移り、写真家として仕事をしながらシュルレアリストと出会い、墨やインクを用いた幻想的なデッサンや絵画を描くようになる。39年から40年までドイツ国民という理由で収容された後、その絵は次第にミクロの世界の細胞やバクテリアを思わせる形態の非具象的なものに移っていく。この形態の消失への動きは戦後さらに激しくなり、ヴォルスは50年代のアンフォルメルの先駆者とされている。

*17:ファン・エーステレン(生没年不詳) オランダの建築家。「デ・ステイル」に参加し、1923年にはドゥースブルフリートフェルトとの共同でパリの「デ・ステイル」展のための建築設計に携わり、「デ・ステイル」の環境構築運動化に大きな役目を果たした。

*18:ヘリット・トマス・リートフェルト(1888−1964年) オランダの建築家・装飾家。「デ・ステイル」に1919年から参加して、ドゥースブルフとともに「デ・ステイル」を芸術運動から環境の構築に関わる運動に拡大するのに力を尽くした。1921年から23年にはファン・ドゥースブルフとともにワイマールのバウハウスに移動し、「デ・ステイル」の理論を普及するのに協力した。