開かれた創造とその敵1

訳者改題

 「仮に、優れた論敵によって引用されなかったとしたら、世に知られずに終わった人は多いのではないだろうか。忘却ほど高度な復讐はない。というのも、それはそれらの人々を無の埃の中に埋もれさせることなのだから。」
バルタザール・グラシアン*1『神託便覧』

 「シチュアシオニスト・インターナショナルというのは、知的誤謬の1つであって、そんなものは、自分自身の死骸を粉々にして撒き散らして最期を遂げるままにほうっておくべきであると、私はつねづね考えている。さまざまな他人の発見をずる賢く利用しながら、それらを総合しているのだという言い訳しかできない輩を、私はかねてから嫌っている。私が正当な理由に基づいて思うには、シチュアシオニストというのは、亜流マルクス主義者、それも〔二流、三流どころではなく〕二十流ぐらいの低レヴェルであって、反文化的な穴居人の言い回しに埋まっている。コブラ運動の元画家(それは私のことだ――アスガー・ヨルン)は、何の成果も得られないような原則しか持ちえず、四流か五流の叙情的抽象の真似事をし、先の大戦後の1948年にコブラを結成してようやく何とかまともに自己表現ができるようになったのであるが、それとて、ビィヤーケ=ペーターセン*2がきっかけを作ったのであるし、また、彼よりも前に、リヒャルト・モーテンセン*3、エイラー・ビレ*4エギルヤコブセン*5ペーターセンに支持を寄せている。それに、彼の自国での成果は、なんら実質的な重要性がないままである(というのは、国際的なレヴェルでなんら新発見をしていなくても、よそで作り出された作品を国内向けに応用している芸術家がいるからである)。私は彼に、絵画だけで十分だろうと忠告しておこう。それはべつに彼の絵画を評価しているからではなくて、彼の『哲学的』作品を読んだがゆえに、そう言うのである。抽象芸術、とりわけ、ポール・ジェラルディ*6シュルレアリスム版とでもいうべきジャック・プレヴェール*7が序文を寄せている製造屋の抽象芸術は、売れ行きがよく、ミーハー族をみな夢中にさせているようである。私は、私なりの文化観と創造のために、著作において厳密にならざるをえない。私は、私自身の著作に責任を負うことにさえ、すでにかなりの困難を抱えている。私の著作には、いかなる間違った文もなく、見直しを要する判断もないのであるが」。彼がこのように述べている理由のすべてから私が完璧に理解したことはといえば、レトリストのモーリス・ルメートルは、金で雇ったライターに、彼の雑誌『ポエジー・ヌーヴェル』第13号の136ページにわたって、小さな活字をぎっしり詰めて、シチュアシオニスト・インターナショナルについての研究で埋めるよう託したということである。
 その文章の途方もない長々しさは、それの特筆すべき唯一の特徴であり、、そのことは容易に説明できる。発明と理解の努力というものは、かつて私が価値についての研究の中で明らかにした――つもりである――ように、時間当たりいくらで支払われるものではありえないし、したがって、お金で客観的に測られるものでもない。産業労働者の慣例は、もちろん、知的生活の周縁にあるいくつかの層に浸透しており、例えば、ありきたりのジャーナリズムは、1行当たりいくらで支払いがなされている。けれども、明らかに、このタイプの労働者の利益とは、質を犠牲にしても生産の速度と量を増すことである。そのことは、とりわけ、情報の乏しさのうちに見て取れる。というのも、情報の収集は、無給の時間内になされているはずだから。またそのことは、そのような仕事のレヴェル〔の低さ〕にも現れてきており、結局のところ、こんなに安上がりなものに喜んでいるスポンサーの知性は、低脳で、ずいぶんたやすく満ち足りるものだということになる。ルメートルが取りあげている「戦略的な理由」はといえば、そもそもそのせいで彼はこのような無分別を犯すはめになったのであるが、相変わらず曖昧なままである。かりに、彼自身が言っているように、彼が「SIについて理解するという考えを退けた」のであれば、その主題はすっぱり落としてしまうか、あるいは、その作業を教養ある人に任せるほうがよかったであろう。なぜならば、ルメートルは、企業家として、自らの下請け業者の仕事に全面的な責任を負うからである
 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第4号において、私は、ルメートルのシステムとイデオロギー的規範を暴いたが、その際に明らかにしたように、それは、ルメートル自身との関連において定められた位置からの主観的な視点であって、客観的なシステムではない。ルメートルは、自らの無知と、科学的創造性の欠如を告白している(74ぺージ)。それならどうして、私の検証を侮辱だと見なすことができるのであろうか。価値についてのマルクス主義的概念に対する私の批判は、疑いなく、厳密に科学的であるし、しかも、それに対してなされた最初の完全な批判である。ルメートルはその批判を「マルクス主義の亜流の亜流の亜流」呼ばわりする。大いに結構。とはいえ、ルメートルがSIの実験的な仕事に科学的な性質を認め、それを強調したということに注目すべきである。というのも、彼は、その実験の参加者の名を1つとして挙げる必要をまったく感じることなく、136ぺージにわたってその主題を論じることができたからである。それは純粋に客観的なことである。ルメートル大数の法則に則してふるまったのだ。彼が区別せずに「シチュアシオニスト」と呼んでいる誰かから引いているさまざまな引用は、われわれの同志のうちの正確に10人の著作の中から取りあげられている(SIの集団的な声明は、ここでは問題ではない。この数字は、個々の著者の署名のある文書だけに当てはまるものである)。
 ルメートルは、絶対的なものと古典的ユークリッド幾何学の計測システムとの間で罠にかかっている。ちょうどマルクス主義がそうであったように。ただ、彼はそれを、図らずも滑稽さの域にまで押し進める。例えば、永遠というものに諸々の段階を付けて区別しようとする滑稽さだ。彼は、誰よりも「もっと永遠の」勝利を確保することができると主張する(56ぺージ)!
 そもそも、ルメートルを読むことが、実に滑稽である。自らの経済的状況を改善するために闘う労働者を組織するという考えにヒントを得たポスト・マルクス主義的な性格が、ルメートルがいくつかの分厚い本で練り上げた実践的性愛学の根底に、はっきり見て取れる。そこで示された、ジゴロの組合を結成し、彼らの賃上げ闘争を組織化し、彼らの女性顧客たちの情熱を──たとえそれがどんなにドラマチックなものであろうと──満足させるテクニックを著しく向上させるための努力は、なかなかの改良主義的な企てであり、現在の経済的な枠組みの中で現存する職業における生活水準を防衛しようというものである。奇跡のシチュアシオニスト的段階においては、そのような教育は無力であろうと、ルメートルは少し前まで認めていた。しかし彼は、その直観を活用するすべを知らなかった。性愛の過程においては、男女の関係が結果のないままである場合、男は、本当に努力すれば、当然、生産者と見なしうるし、女は消費者と見なしうる。そして、かりに、男子の出生数が女子の出生数に比べて著しく減少するとしたら、そのことは、経済学的な考察に値する展望を開くことになるかもしれない。しかしながら、若者を、消費者である以上に生産者であると考えるのは、不可能である。またルメートルが要求しているように、若者をもっと早く生産に向かわせるために、学業年数を減らすことによって、文化的な面での若者の消費を減少させるというのは、たとえ企業側の関心をそそることはあっても、若者の利益には完全に反している。この分野におけるマルクスの闘争は、興味ある価値をいつまでも持ち続けるであろう。そして、われわれの目的は、若者だけでなくすべての個人が、自らの自由な欲望に従って、自律的な創造と消費のうちに自己実現する権利を確証することである。そのような展開の中心的な場としては、まず、将来SIがその主導権を握ったときのユネスコが挙げられよう。それから、旧文化の受動的な消費から解き放たれた、新しいタイプの人民大学。そして最後に、新たに建設すべきユートピア・センター。それは、現在のいくつかの社会的なレジャー空間の設備に比べて、よりいっそう完全に、支配的な日常生活から解放されるべきものであり、また同時に、日常生活から切り離されることを切望するのではなく、日常生活に侵入するための橋頭堡として機能すべきものであろう。
 文学作品、ラブレー風の笑劇(ファルス)として見るならば、ルメートルの経済理論は、若者の反抗を20世紀の革命的・社会主義的思想のカリカチュアと見なす見方と相侯って、優れた本だといえるかもしれない。しかしながら、ルメートルがその理論を本気にしていると示すそのとき、彼はデマゴーグである。デマゴーグの古典的なやり口の1つは、何らかの危険に対して人々を扇動することであるが、その危険とは、彼ら全員が知っていて、彼らを激昂させるものの、すでに無害になっているようなものなのである。先の大戦以来、見境なくファシズムだと騒ぎ立てるのが流行になっているが、そんなさなかにも着々と、新たな社会・文化的な操作が準備されており、新たなイデオロギー的危険が無害そうに現れているのである。それは何よりもまず、新興宗教的な狂信のありとあらゆる変異体による道徳再武装運動*8である。ルメートルが言うように「その方法の持つ力を見誤る」どころではなく、私は、その方法を認識し、それを糾弾し、それに対して宣戦布告する。
 私はそれとは反対の方法を好む。ルメートルや彼の雇われライター、および、彼らの思想システムに賛同したり、あるいはむしろ、彼らがいなくてもそのようなシステムを手にして利用する人々に対して、私が割くことのできる唯一の配慮とは、秘が絶対的に反対する文を引用することである。『ポエジー・ヌーヴェル』誌 第13号の中に、以下のような文章を読むことができる。
 「人間の条件を改善する作品や行動に基づいて私が立てた徳の序列によれば、下位のランクに、当座の日常的な実践が位置づけられる。日常的なレヴェルでは、何人かの実存主義哲学者が言明している『非−存在』は真であると思う。われわれは、既得の限られた選択可能性を持つ屑の塊にすぎないのである。しかしながら、私の説が異なるのは、次の点である。私にとって、唯一の自由は──それはごくわずかなものであるが『刷新者』を名乗るある種たぐいまれな存在の微細な発明や発見に存する。そして、他の人々は、彼の啓示の領域のなかを後からついていくことしかできない。それまで、『それに比べるとよくないもの』、劣ったものの後をついてきたように。」(116ページ)
 「私は、是非はともかく、私の同胞のエネルギーを時には彼ら自身よりもうまく活用することかできることかあろと、つねづね思ってきたし、またあらためて思っている。」(44ぺージ)
 「彼らは、永久に後ろに引っ込んでいないで、私を信じて、私の後についてくるべきであろう。」(29ぺージ)
 「ユダヤ教の僧侶たちは、メシアが到来しない限り、誰も彼らより先へ進むことができないと主張するかもしれない。キリスト教徒たちが、同胞が悲惨から救われない限り、そしてまた、死者の復活に立ち会わない限り、上位段階に上がれないと主張するのももっともである。(中略)この一般的なレヴェルで、私は、これらの団体の正しさを認める。彼らはいくつかの本質的な価値を擁護しており、また私は、彼らが探し求めているもの、すなわち、メシア、人間の救済、死者の復活、グノーシス〔=絶対知〕といったものを、彼らに差し出すことによって、正直、彼らに勝ることができると思う。」(28ぺージ)
 「シチュアシオニストたちは、穴居人以下の状態にあって、何も保存しようとはせず、(中略)幼稚で知恵遅れで無脊椎動物並みのえせユートピア的無駄話でもって、文化の諸分野の未来だけでなく、過去と現在をも拒否している。(中略)結局、知の諸分野の研究は、現代の無知な反動勢力を拒否し、罰するであろう。過去において他の反動勢力を拒否し罰してきたように。」(63ページ)
 ルメートルの『わが闘争』*9からのこれらの抜粋は、彼の主傾向が「退廃芸術」へ向いていることを明らかにするのに十分であると、私は思う。脅迫については、あえてそのような手段に訴える人々が、必ずしも、きわめて広範な制裁の能力を持っているとは限らない。それに、ルメートルが「生きた個人としての自分が大嫌いである」と告白している(123ページ)からといって、われわれは、構築すべきこの「当座の」生活には全然落胆していない。それは、まさしく彼の問題だ! 彼はまた、シチュアシオニストよりもマルローのほうを好むとも言っている(しかし、彼は先方から同じ態度で応えてもらうことに成功するであろうか?)。いずれにせよ、私はマルローを彼にさしあげる。それもただで。

*1:バルタザール・グラシアン(正式名バルタザール・グラシアン=イ=モラーレス 1601−58年)スペインのモラリスト、エッセイスト。反抗的なイエズス会士として、多くの困難に遭いながらもいくつもの著作を発表し、ヨーロッパの道徳思想に影響を与えた。『神託便覧』(1647年 原題 El oráulo manual ただし仏訳題名は l'Homme de cour「宮廷人」)は道徳的箴言集である。

*2:ヴィルヘルム・ビィヤーケ・ぺー夕ーセン(1909−1947年) デンマークの画家、理論家。1930年から31年にかけて、バウハウスのクレーとカンディンスキーの教室で学んだ後、デンマークに戻り、1933年、抽象表現主義象徴主義との総合をめざした理論的著作『抽象芸術のなかの象徴』を著し、これはデンマーク現代芸術にとってエポック・メイキングな書物となる。翌年、リヒャルト・モーテンセン、エイラー・ビレと「抽象シュルレアリスム」の芸術集団「リニエン(線)」を設立し、抽象とシュルレアリスムを統合しようと試みるが、35年、ブルトンシュルレアリスムに接近して、抽象表現を捨て去る。以後、北欧へのシュルレアリスムの導入に努めつつ、パリでのシュルレアリスム国際展(1938年と47年)に出品する。1950年代以降は、シュルレアリスムとは決別し、構成的な幾何学的抽象芸術に回帰した。

*3:リヒャルト・モーテンセン(1910−) デンマークの画家。コペンハーゲンで絵画を学んだ後、1932年、エイラー・ビレと訪れたベルリンで、抽象絵画シュルレアリスムなどの現代芸術に出会う。帰国後、1934年にビィヤーケ・ぺーターセンと「リニエン(線)」を設立、「抽象シュルレアリスト」を掲げて象徴あるいは幻想と抽象表現とを調停しようとする独自の芸術運動を開始する。37年にぺーターセンがブルトンに接近して抽象主義を捨てて「リニエン」を離れると、それに対抗して、エイラー・ビレとともに、モンドリアン、ファン・ドゥースブルフ、クレー、ミロ、タンギーカンディンスキーらの作品を集めた「ポスト−表現主義・抽象・新造形主義・シュルレアリスム」と題した展覧会を組織する。この展覧会は、批評家や観客には評判はよくなかったが、スカンディナヴィアの前衛芸術家に大きな影響を与え、象徴性と抽象表現の結合は後の「コブラ」の芸術表現を先取りするものであった。その後、モーテンセン自身は「コブラ」には参加せず、1950年代初めにフランスにわたり、ヴィクトル・ヴァザレリらとともに幾何学的抽象に向かった。

*4:エイラー・ビレ(1910−) デンマークの画家、彫刻家、芸術理論家。コペンハーゲンで絵画を学び、モーテンセンとベルリンに行き、帰国後、1934年、モーテンセンらと「リニエン」を設立、「抽象シュルレアリスト」の活動を始める。同年発表された『ピカソシュルレアリスム・抽象』は、1938年から1942年には「ヘスト」に参加し、次いで41年から44年には「ヘルへステン」に参加して、「抽象シュルレアリスト」から「コブラ」への道を開く。1984年のコブラ結成後1951年まで、その積極的なメンバーとして活動、仮面や抽象的な形態に基づいたエネルギッシュな彫刻や絵画を製作した。

*5:エギルヤコブセン(1910−) デンマークの画家、理論家。モーテンセン、ビレらと同世代の画家として、30年代に抽象表現の洗礼を受け、「リニエン」に拠って「抽象シュルレアリスム」の理論と実践の両面で大きな貢献をする。1937年、ナチスの軍隊のチェコスロヴァキアヘの進行に対する怒りから描いた「オフォブニン(積み重ね)」が彼をとりわけ重要な画家とした。この絵画は、自発的な線と色彩が分かちがたいまでに複雑に絡み合った構成によって、「コブラ」の先駆と見なされている。1941年、ナチスの占領下で『リニエン』の後を次いで発行された『ヘルヘステン』に参加。48年に「コブラ」が結成されると、1951年までその活動に参加。ヤコブセンの絵画は、特に抽象と象徴の交差する仮面や祭り、北欧の神話などをモティーフにし、線と形態、色彩が自由に絡み合う様は、1946年から47年のポロックのオール・オーヴァーの手法を先取りしたものとされている。

*6:ポール・ジェラルディ(正式名ポール・ル・フェーブル・ジェラルディ 1885−1938年) フランスの誌人、作家。伝統的な技法で内面感情を表現した恋愛詩集(『君と僕』1913年)で好評を博した。

*7:ジャック・プレヴェール(1900−77年) フランスの詩人。シュルレアリスムの辛辣さを言語の解体の企てに適用しつつ、心の中の反抗を表現した。彼の詩は、社会的抑圧に反発しつつ、自由、正義、幸福というテーマを称揚している。また、マルセル・カルネの映画のシナリオなどにも協力している(『天井桟敷の人々』〈1945年〉など)。

*8:道徳再武装運動 米国の牧師ブックマンが1920年頃創始したキリスト教的政治運動で、「個人生活の変革による世界の変革』をめざす。

*9:『わが闘争』 アドルフ・ヒットラーの主著(1924年)であるが、ここではルメートルの独善的な文章の比喩として用いられている。