『あるフランスの内乱』訳者解題

 ここに緊急アピールのようなかたちで発表されたシチュアシオニストの文章は、5月13日に始まったアルジェリア駐留フランス軍とフランス人入植者(コロン)によるクーデタの試みを受けてのものである。
 アルジェリアでは、1954年からFLN(国民解放戦線)が武装蜂起を開始し、アルジェリア独立戦争が戦われていたが、FLNの戦いに対するヨーロッパ人入植者と軍、極右組織のテロ活動は熾烈を極めていた(56年のフランス軍によるベンベッラの誘拐、57年のアルジェの実質上の戒厳令化とFLNへの拷問・虐殺)。FLNを中心としたアルジェリア人民も57年の「アルジェの戦い」で知られるゲリラ戦を展開する一方で、「アルジェリア革命全国評議会」を全国に設置し、モロッコチュニジア領内に本拠を移し、そこから外交政治活動を強め、国際世論に訴えた。
 こうした中で、1958年5月13日、アルジェ市駐留フランス軍の降下師団司令官マシュー将軍を中心とする将兵グループと、ヨーロッパ人入植者のデモ隊3万人がアルジェリア政庁を占拠、マシューを長とする公安委員会の設置を宣言し、植民地を舞台としたクーデタを敢行した。同時に、コティ大統領に対しても、フランス本国に治安政府を設け、将軍ド・ゴールを指導者とするよう要求した。
 こうした動きに対して、かねてからFLNへの弾圧強化政策を進めてきた社会党ギーモレ首班の「共和戦線」内閣(社会党・急進社会党左派・ド・ゴール左派)は、まったく対応できなかった。議会左翼である共産党も、内閣のアルジェリア弾圧のための特別大権付与に賛成票を投ずるなど、政府のアルジェリア政策に追随するだけだった。また、56年総選挙で、反税・反権力を掲げて後進地域の商人や中小企業家の票を得て議席を伸ばしたブジャード党も、混乱に拍車をかけていた。こうした事態に対処するため、翌14日、モレ内閣に代わりフリムラン内閣が発足し、アルジェリア駐留フランス軍総司令官サラン将軍に反乱鎮圧を命じたが、サランは反乱軍に付き、「全アルジェリア公共治安委員会設立宣言」に署名し、アルジェリアはヨーロッパ人植民者による独立政権樹立の動きを強めた。さらに、24日には、コルシカ島でも陸軍降下部隊が実力行動に出て、ド・ゴール政権樹立を要求してフランス本土へ迫る勢いとなった。フリムラン首相はフランス本土の内戦の危機を国民に訴え、ド・ゴールに事態の収集を要請。29日、コティ大統領はド・ゴールに組閣を要請した。ド・ゴールは6月1日、国民議会で首相に選出され、2日にはフランス全土とアルジェリアの非常事態権限を得て、4日、アルジェに赴き、アルジェリアでの選挙の提案を行うのである。

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