シュヴァイヒャーへの返答

 権力の座にある芸術の破綻は、もっとも著名な鑑定家たちの目にさえ、日増しに明白になっている。そして彼らは、絶望にくれて、彼らが関与している芸術の破綻と、あらゆる芸術的実践の形而上学的破綻とを混同している。かくして彼らは、まだこれからなすべき現代的実験の意味をねじ曲げてしまう。そもそも、そのようにアンダーグラウンドであるよう強いられることについては、彼ら免状付の鑑定家たちに大いに責任があるのである。
 たとえばシャルル・エスティエンヌ*1は、自分のこけおどし的な現代芸術を捨てたときに、難破船から何かを救い出そうとして、「タシスム*2」に手を出した。当然、彼は、偽りの現代化を絶えず追及しているすべての人々と付き合っていた。しかし彼らは皆、真のタシスムは、彼らがそのラベルを考案する以前に、すでに行き着くところまで成し遂げられていたという事実を隠していた。タシスムの手法を見つけた人々はすでに死んでおり、彼らの模倣者たちの作品がすでにショーウィンドウに並んでいた。そしてもちろん、あらゆる現代美術館にも並んでおり、それはヴォルス*3ポロック*4がそこに受け入れられる以前のことである。
 クルト・シュヴァイヒャーの最近の批評は、幸いにも、よりラディカルである。彼はタシスムさえ捨てる。彼の著書『芸術は死んだ、芸術万歳』(特に彼のテーゼの第4点を参照のこと)には、シチュアシオニストの立場に近くて好感の持てることが数多くある。けれども不幸なことに、それらすべてははなはだ混乱したままである。クルト・シュヴァイヒャーは、否定的なものの役割を理解せず、現代芸術におけるその役割を認めない。彼は、すべての問題の奥底にある単純さを理解せず、その偽りの複雑さを考察している。また彼は、新しい全体を、つまり、現代芸術の危機の単純さの自覚から展開されるより上位の複雑さを、よく理解していない。シュバイヒャーが自分で掲載した図版――それらは、たまたま裏方作業の屑の中から得られた絵画(イマージュ)である――を一方的に非難するとき、彼はそのような物体が芸術になるのは、絵画(イマージュ)破壊の芸術家によって前もって実際に実現された実験の後であると言う自明の事実を無視している。また、それらの物体のうちから彼が行った選択は、何よりもまず、彼の個人的な趣味と、ある種の完成した芸術段階を識別する彼独自の流儀とによって規定されている。この場合、彼の趣味は、月並みなアンフォルメル絵画のカリカチュアにまで至っている。
 シュヴァイヒャーの根本的な誤りは、あまりに多くの資金が現代芸術に投資されたという思い込みにある。――実際には、あまりにも少なすぎるのに。
 膨大な数のえせ現代芸術家が、芸術家として世に出るために、自分のブルジョワ的な仕事(彼らはまず最初に弁護士、広告代理業者、警察官である)から得ている資産を人為的に投資する。この過程は特別な経済階層を形成し、それは新たな順応主義となって現れる。それこそまさしく、シュヴァイヒャーが正当に告発している非‐美学的なアカデミズムである。クルト・シュヴァイヒャーの考えの混乱は、彼の階層の実際の混乱を反映しているにすぎない。人々はそこでは、競争的な自由企業の精神のもとに、目的がそれぞれ異なる数多くの「前衛潮流」に援助するほうがいいと思い込む。全く、宝くじを確実に当てたくてくじ券をめいっぱいストックする愚か者さながらである。しかしながら、ある時点で別の芸術条件を創造するために可能な方向は1つしかない。それに、その方向に進む流派をすべての中から見分けるための簡単な基準がある。それは唯一、金で買収できない流派である。
 十分に情報に明るい人は、たとえ自ら進んで口にしなくても、それが現在シチュアシオニスト・インターナショナルであることを、すでにたいへんよく知っている。

ローター・フィッシャー*5、ハイムラッド・プレム、

ヘルムート・シュトルム、ハンス=ペーター・ツィンマー

 この記事は、ドイツのシチュアシオニストの雑誌『シュプール』第2号の論説として発表されたもので、クルト・シュヴァイヒャーの著書『芸術は死んだ、芸術万歳(Die Kunst ist tot,es lebe die Kunst)』への返答である。

*1:シャルル・エスティエンヌ(1908−66年) 『コンバ』紙、『フランス・オプセヴァトゥール』誌などで活躍した美術評論家。戦後の抽象表現美術とシュルレアリスムの接近に注目し、多くの論文を書いた。ブルトンらと協力した展覧会も企画している。

*2:タシスム フランス語の「しみ(tache)」に由来し、広義には抽象表現芸術全般を、狭義には1950年代のアンフォルメルの抽象表現を指す。

*3:ヴォルス(本名ウォルフガング・シュルツェ 1913−51年) ベルリン生まれの画家、写真家。ドレスデンで写真の勉強をした後、1932年、デッサウのバウハウスでクレーの授業を受ける。その後パリに移り、写真家として仕事をしながらシュルレアリストと出会い、墨やインクを用いた幻想的なデッサンや絵画を描くようになる。39年から40年までドイツ国民という理由で収容された後、その絵は次第にミクロの世界の細胞やバクテリアを思わせる形態の非具象的なものに移っていく。この形態の消失への動きは戦後さらに激しくなり、ヴォルスは50年代のアンフォルメルの先駆者とされている。

*4:ジャクソン・ポロック(1912−56年) アメリカの画家。抽象表現主義の代表者の1人。アメリカ・インディアンの砂絵に想を得て、地面に平らに置いた大きなカンバスの中で絵の具を垂らして描く「アクション・ペインティング」で有名。

*5:ローター・フィッシャー SIドイツセクションのメンバー。1962年2月に他の〈シュプール〉派のメンバーとともにSI を除名。