『開かれた創造とその敵』 訳者解題

 ここでは、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第4号の「独自性と偉大性」でのイズーへの攻撃に引き続き、ヨルンが執拗に批判しているもう1人の「永遠の」レトリスト、モーリス・ルメートルを紹介することで訳者解題に代える。
 モイーズ・ビスミュトというユダヤ名の本名を持つモーリス・ルメートルは、1926年、パリのユダヤ人の父とキリスト教徒の母から生まれた。ソルボンヌの哲学科に身を置き、文学・哲学・芸術への関心から、いくつかの雑誌に文章を書くようになり、そのうちアナキストの新聞『ル・モンドリベルテール』の記者として文学通信欄をまかされる。この頃、自らはユダヤ人であるにも関わらず、反ユダヤ主義の作家セリーヌの熱烈な愛読者となり、特にその文体実験に強い影響を受ける。
 戦後、1949年に、ルメートルイジドール・イズーと出会い、レトリスム運動に参加、50年に発表した著作『犬と猫』において、レトリスムに音楽的次元を加えた。また、より純粋なレトリスム(文字主義)を提唱し、レトリスムの詩論を完成させるとともに、自ら「ハイパーグラフィック」と名づけた絵文字・象形文字などで構成されたレトリスム絵画や造形詩、「失語詩」と呼ぶ音響詩、映画まで幅広い作品によってレトリスムの最も積極的で革新的な芸術家に数えられるようになる。ルメートルは、若くから雑誌の編集に通じていたため、1950年からレトリストの機関紙『Ur』の編集長となり、同時に雑誌『アンジュウ』の編集、57年からはさらに『ポエジー・ヌーヴェル』誌の編集を行った。また、1950年にイズーが『核経済論――青年の蜂起』を著し、体制変革的な青年組織(参照)を作ろうと試みた際に、ルメートルは雑誌『青年戦線』(巻頭論文はイズーの「われわれの綱領」)を創刊してこれに協力した。これらのほかにも、さまざまなレトリストの展覧会の組織化、本・パンフレットの編集、さらには『映画はもう始まった?』(51年)などの映画作品も数多く作り、レトリストの運動の記録レコード『モーリス・ルメートルが紹介するレトリスム』(58年)まで出すなど、レトリストとして活発な活動をしている。
 代表的な芸術作品としては、『ハイパーグラフィック壁板』(45−50年)、『ハイパーグラフィックに書き移されたレトリスム誌』(54年)などの絵画作品、『レトリスム詩製造機』(64年)と題されたコンクリートミキサーを転用したオブジェ、失語詩『叫び』(64年)、『失語ソネット』(64年)などがある。著作としては『レトリスムおよびイズーの運動とは何か』(54年)『レトリストの造形作品とハイパーグラフィック』(56年)、『愛の体系』(60年)、『レトリスム絵画略史』(62年)、『ドゴールとセックス』(67年)、『失語作品のタイトルを美的にするためのマニフェスト』などがある。
 ルメートルは、1952年以降のドゥボールらレトリスト左派によるレトリスト・インターナショナルには加わらず、一貫してイズーと行動を共にし、レトリストの作品のなかで、イズーと双璧をなす独自のスタイルを築き上げた。しかし、ダダやシュヴィッタースの音響詩を徹底させ1960年代のコンクリート・ポエムによく似たそれらの作品は、1949年に発想された芸術スタイルとしてのレトリスム純化した芸術作品にすぎず、そこにはレトリスト・インターナショナルシチュアシオニストのように作品の破棄から状況の構築へと向かう視点はまったく存在しない。イズーとともにルメートルもまた、自らの作品創造を創造者=芸術家が「創造術(クレアティック)」によって生み出す行為とし、その術に通じたレトリストという秘教集団の一員として「閉じられた創造」の反復に躍起となっているのである。