演劇ユニット『誰でもない人とそれ以外の人々』への序文

 「われわれが力を尽くすことを望むのは、世界の終焉のスペクタクルのためではなく、スペクタクルの世界の終焉のためである。」
アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第3号の論説より

 それをわれわれに繰り返し言ったものはいただろうか? それをわれわれに予言したものはいただろうか? 演劇は死んだと。われわれは「演劇のために」書いているのだから、こんな考えには何の興味もない。演出家たちは、少なくとも時機を失した、最悪の場合には必至の、こうした台詞に人工呼吸を施そうとするだろう。脚本家といえば、下の階の隣人が溺れ死んだという報せを聞いた老婦人同様、死体というちっぽけな考えを持たないものがいるだろうか。事態はここまで悪化しているのだから、葬儀の厳粛さの代わりに、この芸術を完全に忘却の淵に沈ませることになる、「とどめの」作品をやるのを決まりにしているすべての者にとって、演劇は有利な立場にある。
 この最初の台本がこの儀式の誘惑を逃れていないことはあまりに明白である。墓の上で書かれたのだ。それはあまりに明白で、前衛たちが必ずや身にまとう確信とは裏腹に、本当にやろうとしたことを言う余地がほとんど残っていないほどである。そうなのだ。わたしは何をしたかったのか? なぜ、まず、演劇ユニットなのか?
 ブレヒト*1とダダとベケット*2の流行のあとで、反演劇とか今や周知のやり方を発見するのは、恥知らずというものだろう。もっと広がりのある結果を望むのもそれに劣らず、恥知らずだろう。この蘇生作業は非常におもしろいものにもなりうるし、二義的にもなりうる。それは決して、このような創始者たちと、肩を並べることはないだろう。ブレヒトなどの名前をかつぎ出すことは、、厚顔無恥の現れであるばかりでなく、もっと微妙な誘惑の現れだろう。根気のいる新しさの誘惑、応用的で比較的で学問的で、結局は虚しい探求という観念である。ファウスト博士はサタンの弟子に他ならない。これが前衛作品の、意図された、あるいは無意識の、啓蒙的性格の原因である。
 演劇ユニットには、明白なものであれ、他の解体中の芸術形態(枯渇した文学ジャンルであるが、もしそのまま、舞台で上演すれば、最高の評価を約束されている小説のような)によって示唆されたものであれ、前面に出すものとしては借り物しかない。演劇ユニットとは、何よりもまず、小説である。もちろん、翻案されたものではない。その逆である。上演された小説である。すなわち、まったく的外れか、単にさっとかすめただけのライフ・スタイルとわれわれの振る舞いの不均衡、状況の日常的なずれの、あの奇妙な寄せ集めを舞台に投影するものである。一方で、ライフ・スタイルがわれわれの前で対話をし、他方で、こうした身振りや決心、出会いや出発はその中で本当に表現されえない。上演にあたっての既成概念や出来事(たとえば、幕間の廃止)を考慮に入れれば、これが演劇ユニットである。
 演劇ユニットは4つの要素からなっている。対話の時機にかかわらず、4つがすべて、スペクタクルの全体的ビジョンに協力する。4つとも、対話のアーティキュレーションや進行(いかなる劇化も排除する)、直線的有効性と無縁ではない。観客が目の前に上演されているのが自分の人生だということを、なんらかの振る舞いや使い古された演劇の手法によってではなく、対話で心の中に2つの全体(言われることとなされること)が分離されることによって、わかってくるにつれて、対話の直線的有効性は深いものになる。
 1 プロットの粉砕――現在まで、演劇をドラマチックにできるかどうかは、何よりも、人物の特異性と、その人物が状況に応じて持っている、大なり小なりの行動力にかかっていた。それはまるで、人物が自分自身を繰り返しているようである。演劇的に効果的な人物とは、まず、再三繰り返される人物である。プロットの一貫性は、1人の人物が他の人物でもありうるということを認めたがる、あるいは認めるように強いられる以上、各々の人物の中で実際に展開される多少とも意識的な弁証法を隠していたのである。ピランデッロ*3ストリンドベリ*4が試みたように、人格の二重化や人物の真実の多面的な検討に訴える必要はないのである。本当のプロットは意識のそれである。それは、人物の交換可能な特異性である。それゆえ、演劇ユニットは、まったく劇的なものではない(もし、プロットという言葉を「運命」へとむかう登場人物たちの進行であると解するならば)。それは弁証法的なものである。なぜなら、それは、時間的な順序に反して、あるいは時間的な順序にもかかわらず、上演される行動のあらゆる瞬間の完全な再現をめざすからである。
 2 登場人物の循環的機能――舞台の上での行動の間隔を開けることが、観客に意識されるのは、常に新しく生まれ変わる登場人物から何も見落とさない場合だけである。もし、演劇ユニットのあらゆる登場人物が、仕事のあるなしにかかわらず、舞台に上がることも舞台から出て行くことも禁じられ、われわれの目の前で、他の人物の対話に外から干渉しているような、ある上演中の時間を考えるならば、人物の機能は、彼が表しているものや、それとは別の時間に、彼に関わる対話の中で彼がしたことやすることから遠ざかるだろう。これが人物の循環的機能である。それは、自分の情熱からも観客の情熱からも隔たっている。これは、もはや単なる1つの役ではないことに驚いている役であり、毎日の生活の中で、現実に存在している歪みを強調するものである。われわれが言うこととすることとの間には、決して一致も、同一視もないことを、われわれはよく知っている。それなのに、演劇は今まで、その逆を信じさせることを目的としてきた。演劇ユニットは、もっとも絶対的な反証、すなわち、日常的な手段による日常性の反証に他ならない(というのも、誰も日常性から逃れることはできないから)。
 3 参加とライフ・スタイル――舞台で上演されるものは、ライフ・スタイルに従属している(もし、本当の生活を考えるならば、実際には、到達できないものに従属している)。表向きは、偶然に置かれた、さまざまな事件に、人物は用意されていない。チェーホフの人物を見よ。しかし、上演時間に与えられた新しい次元と、プロットの絶対的な廃止は、チェーホフが試みた以上に、観客の参加を不可能にする。それからは何も期待してはならない。カタルシスブレヒト的証明も。人物は、ちょうどわれわれに最も関係のないものによってしか言い表さないように、他の人物によってしか言い表さない。彼らは、疎外された、偽物だということが明白な、ひどい生活に属しているが、それは、われわれの誰もが朝から晩まで生きている暮らしなのだ。
 4 対話と時間――ここで、対話は夢の力を持たない。それには、スペクタクルの外に出ることによって見いだされる力があるだけだ。その力の中では、誰もが安心しようとするが、安心していなければならないことを確信しているわけではない。それはあたかも、何かした後でかわす言葉がわれわれのした行為を清めるかのようである。したがって、ここで対話は、場合によって、コミュニケーションの価値と無価値を分かち持つ。それは、存在を対話が引き起こした行為の及ばないところに持っていくことによって、存在そのものを変えてしまう。そして、行為はたえず、自らの必要のなさを弁護する。演劇ユニットの唯一の支えである対話は、極限において、こうした行為やエピソードの循環的反復にたえず対立する最も深い情緒を、直接的に――だが極端な苦しみとともに――奪取するものとなるだろう。行為やエピソードというものは、人物に本当の演劇上の重要性を持つのをやめさせる。こうしたエピソードはわれわれにとって、親しみ深くも、身近なものにもならず、より悲痛なものになる。なぜなら、われわれはもうそんなエピソードを体験したくないのに、実際には体験できるからだ。もっとも、日常がコミュニケーションを、2つの眠りの間に置くように、カッコに入れなければ、の話だが。

アンドレ・フランカン

*1:ベルトルド・ブレヒト(1896−1956)ドイツの劇作家。1928年、クルト・ヴァイルとの合作『三文オペラ』で大成功を博す。29年から36年にかけて共産主義運動に参加。その後、ナチスの台頭によって故国を離れ、スカンディナヴィアから合衆国に亡命。その間、『ガリレオの生涯』(37年)、『肝っ玉おっかあ母とその子供たち』(39年)を書く。戦後、49年以降、東ベルリンに住み、劇団「ベルリーナー・アンサンブル」を結成し、字幕スライドや歌を用いた「異化」効果の理論に基づく政治演劇活動を展開。

*2:サミュエル・ベケット(1906−89年) アイルランド生まれの劇作家。1938年以降、フランスに住み、カフカジョイスに影響を受けた作品をフランス語で発表。代表作に『ゴドーを待ちながら』(1953年)など。

*3:ルイジ・ピランデッロ(1867−1936年) イタリアの劇作家。『作者を探す6人の登場人物』(1921年)によって、従来の劇の制度に変革をもたらしたことで有名。1934年、ノーベル文学賞受賞。

*4:ストリンドベリ(1849−1912年) スウェーデンの小説家、劇作家。ショウペンハウアーやニーチェの影響を受け、写実主義、知性的貴族主義、神秘主義と3期にわたる変遷をたどりながら北欧独特の戯曲や小説世界を作り上げた。代表作に、第1期の戯曲『令嬢ユリエ』(1888年)、第2期の小説『大海のほとりにて』(90年)、第3期の戯曲『死の舞踏』(1901年)など。