アルバ綱領

訳者改題

 9月2日から8日まで、イタリアのアルバで、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」の名においてアスガー・ヨルンとジュゼッペ・〔ピノ=〕ガッリツィオが招集した会議が開催された。この会合が目指したものは、都市計画とそのさまざまな使途に関するレトリスト・インターナショナルのプログラム(『ポトラッチ』誌 第26号を参照)と一致したものである。8カ国(アルジェリア、ベルギー、デンマークフランス、英国、オランダ、イタリア、チェコスロヴァキア)の前衛フラクションの代表がそこに集い、統一組織のための基礎を築いた。その作業に関する問題点については、あらゆる面から話し合われた。
 クリスチアン・ドトルモンは、ベルギーの代表団の1人として会議に出席すると伝えられていたが、しばらく前から『ヌーヴェル・ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』誌の編集に参加していたため、自分の出席が多数の者から受け入れられない会議には姿を見せることをやめたのだ。
 「核芸術(アルテ・ヌクレアーレ)運動」の代表エンリコ・バイ*1は、第1日目から退散せねばならなかった。そのため、われわれの会議は次のような警告を公表して、核派との絶交を確認した──「はっきりとした事実を前に窮地に立たされたバイは会議を立ち去った。彼は金庫を持って行かなかった」。
 同じころ、チェコスロヴァキアのわれわれの同志、プラヴォスラフ・ラダ*2とコティク*3はイタリアヘの入国をイタリア政府によって邪魔されていた。イタリア政府は、この問題に関してわき起こった抗議にもかかわらず、アルバ会議が終わるまでその鉄の力ーテンを通過するためのヴィザを発給しなかったのである。
 レトリスト・インターナショナルの代表ヴォルマンの発言は、現在の実験=経験の全体を定義する共通の綱領の必要性を特に強調するものだった。
「同志諸君、芸術創造のあらゆる様式に対して、今、同時進行的に影響を与えているさまざまな危機は、1つの全体の動きに規定されたものである。だから、全体的なパースペクティヴのなかからしかこれらの危機は解決できない。芸術活動の古い条件すべてに対し、次第に速度を増しつつ姿を現してきた否定と解体のプロセスは、後戻りできない。それは、世界に対する行動のより優れた可能性の出現の帰結なのである(……)。
 (……)断片的な、あるいは意図的に退行的な芸術的試みに、今日、ブルジョワジーがいかに信用を与えようとしても、今や創造とは雰囲気=環境の完全な構築、生活スタイルの完全な構築に向かう総合のなかにしか存在しない……。統一的都市計画芸術と技術との併合によってなされる、われわれの求める総合は、生活のある種の新しい価値と関連して建てられねばならないだろう。今すぐにでも、そうした生活の新しい価値を見抜き、広めねばならない(……)。」
 会議の決議は、次の6つの点に関する宣言のかたちで、深い意見の一致を表現した。すなわち、「統一的都市計画それには現代の芸術と技術の全体を利用せねばならないによって生の枠組みを完全に構築する必要」、「自己の伝統の限界内で芸術にもたらされた改良はすべて、あらかじめ効力を失っているという性格」、「統一的都市計画と将来の生活スタイルとは本質的に相互に依存し合っていることを認め」ること、そして「それらをより大きな真の自由、より大きな自然支配、という展望のなか」に位置付けること、そして最後に、「このプログラムに署名する者のあいだでの行動の統一」である(6番目の点は、相互の援助について様々な形態を列挙している)。
 会議は、J・カロン*4、コンスタント、G・ガッリツィオ、A・ヨルン、コティク、ラダ、ピエロ・シモンド、E・ソットサス・Jr*5、エレーナ・ヴェッローネ、ヴォルマンの賛成によってこの決議を承認し、さらに、その前月に開始された「輝く都市でのフェスティヴァル」ボイコットに引き続き、それへの参加者とどのような関係を持つことにも反対することを満場一致で決定した。
 会議での作業を終えて、〔レトリスト・インターナショナルの〕ジル・J・ヴォルマンが<イマジニスト・バウハウスのための国際運動>の機関情報誌『エリスティ力』*6の編集責任メンバーに加わったのに対して、〔<イマジニスト・バウハウスのための国際運動>の〕アスガー・ヨルンレトリスト・インターナショナル編集委員会に参加した。
 アルバ会議はおそらく、1956年という年を特徴付ける革命の全般的再生のなかにあって、新しい感受性と新しい文化のための闘いの分野での困難な一段階として記憶に残るだろう。この年は、ソ連ポーランドハンガリーでの民衆弾圧の最初の政治的帰結〔=民衆反乱〕(もっとも、ハンガリーでは、危険な思想的混乱のなかで、マルクス主義反対派の禁止という致命的な誤りのせいで、聖職者ナショナリズムの腐り果てた古い合言葉が復活してきているが)、またさらにアルジェリア人の蜂起の成功とスペインでの大きなストライキの成功が現れた年である。これらの発展はわれわれに近い将来への最大の希望を抱かせてくれるだろう。

*1:エンリコ・バイ(1941-) イタリアの画家。1951年にミラノで、セルジオ・ダンジェロ、ジャンニ・ドーヴァ、ジャンニ・ベルティー二とともに「アルテ・ヌクレアーレ(核芸術)」という芸術流派を結成。「アルテ・ヌクレアーレ」は、胎児、胚、微生物、ウィルス、細胞などの世界の微細なレヴェルから、放射線による映像や原水爆の茸雲など極大のレヴェルまで、「原子」がもたらす新しいイメージに注意を向けることを目的とした。その方法は、タシスムやフロッタージユ、ドリッピング、コラージュなどの技法を駆使し、絵画に用いることのできるあらゆる素材を用いて、原子の偶然のイメージを探求するものであった。バイは、1952年、ダンジェロとともにアスガー・ヨルン接触、54年からは、<イマジニスト・バウハウスのための国際運動>にも参加した。55年には、「アルテ・ヌクレアーレ」の雑誌『イル・ジェスト』を創刊、これは、1959年まで4号を数え、当時イタリアでの前衛芸術の最前線を形成していた「アルテ・ヌクレアーレ」とルチヨ・フォンタナらの「空間主義」の拠点となる。1957年、バイは芸術における形式の反復とあらゆる商業主義に反対する『反スタイル宣言』を発表。これには「アルテ・ヌクアーレ」のメンバーに加えて、イヴ・クライン、アルマンら、フランスのヌーヴォー・レアリスムのメンバーも共同で署名する。「アルテ・ヌクレアーレ」以降のバイは、61年、合衆国での展覧会でマルセル・デュシャンと知り合い、二人して「コレージユ・ドゥ・パタフィジック」に参加する一方で、ピカソやスーラの作品のパロディ製作や、70年代の金属彫刻など、旺盛な活動を続けている。

*2:ラヴォスラフ・ラダ チェコスロヴァキアの画家

*3:ヤン・コティク(1916ー) チェコスロヴァキアの画家。1935年から41年までプラーグの美術学校で学び、42年から芸術運動「グループ42」に参加、カレル・テイゲをはじめチェコシュルレアリストと知り合い、48年の共産党クーデタでグループが解散されるまで、芸術理論の著作を発表するなど積極的に活動する。テイゲとの交友にもかかわらず、実作品ではシュルレアリスムの幻想的画風は採用せず、「コブラ」に近い自発性を重視した独自の抽象絵画を描く。1958年の『植物図』、59年の『領土』はその代表作である。1960年代に入り、「コブラ」やレトリストとの接触に影響された作品を製作し始め、一時期、純粋抽象絵画を描くが、60年代末には厚塗りのキャンヴァスに落書きが爆発する抽象絵画や、ダダ風のコラージュなども製作する。

*4:ジャック・力ロンヌ ベルギーの前衛音楽家ドトルモンの友人で、コブラの数少ない音楽家として活動。

*5:エットーレ・ソットサス・Jr イタリアの建築家。<イマジニスト・バウハウスのための国際運動>の機関誌『エリスティカ』に、編集委員として協力。

*6:『エリスティ力』 <イマジニスト・バウハウスのための国際運動>の機関誌として、1956年アルバで1号だけ発行された。発行者ジュゼッペ・ピノ=ガッリィオ、編集長ピエロ・シモンド、編集主幹エレーナ・ヴェッローネ、編集秘書アスガー・ヨルン