開かれた創造とその敵2

訳者改題

 「私はとても悲しい。しかし、私がどんなにがんばってみても、メゼンス氏はPINを出版しようとしない。私たちはお金はいりませんと彼に言っても、彼は笑って、かりにそれを出版するとしたら、私たちのほうが彼にお金を払わなければならないことになるだろうと言い、また、そんなつもりはないと言った。彼はそれを注意深く読んだが、好きになれなかったのである。彼が言うには、25年前だったらそれは時流に合っていただろうが、今では、私たちはあまり理解をえられないだろう。(……)
 そのうえ別のこともある。つまり、模倣者たちがいるのである。例えば、パリのレトリストたちだ。彼らは、ハウスマン*1と私の『原(ウル)ソナタ*2を真似しながら、私たちの名に言及さえしない。私たちはそれを彼らより25年も前に、彼らより優れた根拠を持って、行なったのに。」
 

クルト・シュヴィタース*3、47年3月29日付け書簡、『ダダ通信』に引用。


 ルメートルはどのような武器を用いるつもりなのだろうか。ここで彼は、力ール・ヤスパースという名の小さなスイス人*4の精神医学理論のうちに陥っている。彼の遠近法においては、ヤスパースはモーゼやプラトンに等しい「大きさ」に達しているあ(66ぺージおよび80ぺージ)。ルメートルの遠近法においては、このヤスパースは、時代も考え方も彼に最も近いがゆえに、巨大になった。ヤスパースは、今世紀の最も名高い馬鹿の1人と考えるに値する輩であるが、彼の巨大さとは、非科学的な精神医学の権威すべてをもって、彼のような馬鹿ではない人は皆、精神病患者であり、それゆえ公共の危険であって、社会は彼らを監禁し治療することが許されるべきであるという原理を立てたことにある。ルメートルはこの考え方を世界的規模にまで広げた。すなわち、万人が病人である。完全な治療法が必要でありまた完全に正当である。そして、その治療医は彼である(引用。「世界の若さと歴史の恒常的な病気を治すことができる完全な治療法を提案した唯一の人物…」55ぺージ)、というのである。
 しかし、世界の歴史の恒常的な病気とは何か。それは世界の若さであり、ただそれだけである。若い時期には、各個人や集団は、わずかな能力と無に等しい知識に比して、並外れた意志を持っている。成年期は、意志よりも強い現実的な力を持つが、その力は、型にはまった行動に従属してしまう。老年の疲労は、経験や知識によって埋め合わされ、それは力と意志を凌駕する。若さの救済のためにグノーシスを提案することによって、ルメートルは、ただ単に、急速に老いる方法を提案しているだけであり、同様に、若者に、その意志をできるだけ早く、現存する枠組みの虜である社会的な力への意志に組み入れるよう提案しているのである。
 まさに、ルメートルは、シチュアシオニストたちが彼のゲームの規則に従わないと言って非難する。「神話的でまやかしの決まり文句のどれもが、彼らを分類して知の領域に組み入れることを不可能にし、また、乗り越えつつ乗り越えられるものと乗り越えられつつ乗り越えるものとの間の必然的な歴史的関係の確立を妨げている」。それはそうだ。自ら唱える直線的継承とかつまらぬヒエラルキーとかを堅く信じ込み、その他のものにはいっさい目もくれずに、ルメートルは、シチュアシオニストは彼を乗り越えていない、だから彼よりずっと下に位置づけられるべきだと叫ぶ。で、それで? 私の友人であるデンマークの詩人イェンス・アウグスト・シャーデ*5はかつて私に、「はるかに下の方へ落ちると転落が上昇になることだってあるよ」と言った。われわれの行動にはなんらまやかしはない。私はけっして、あなたがたルメートル商会ご一同を乗り越えたいと思ったことはない。私たち双方は、すれ違った、ただそれだけである。そして、私たちが接近したのと同じ動きによって、私たちは離れていく。この遭遇がいかなる重要性を持つこともなく。
 穴居人というレーニン的な例もまた、選択が実にまずい。レーニンとロシア未来派の軋礫は、レーニンが一因をなした革命の一般的な危機と路線転換における1つの例にすぎない。レーニンは、幼年期の病気すなわち希望という病気ではなく、「小児病」と見なされた左翼急進主義に対してあまりに性急で表面的な攻撃をしたせいで、そのような危機と路線転換の一因をなしたのである。おまけに、私は年がいっているので、レーニン自身がみんなから穴居人と見なされていた時期を覚えている。私の死後、いつの日か、私はおそらく誰かに対して反−穴居人として用いられることがあるだろう。
 ルメートルは、図書館で彼が見つけたか彼の専門代書人に見つけさせたかした時代遅れの文化的価値基準が時勢とともに廃棄されるかもしれないという考えにおびえている。しかし、誰でも知っているように、生きた現実として、文化は、ひとが学んだことをすべて忘れたあとに残っているものである。確固たる記憶に結びついた愚かさほど悪いものはない。そうは言っても、ルメートルのブレーン・トラストの百科的知識主義のダイジェストの中の欠点、欠落、はったりを論難しようというつもりはない。
 われわれが1950年頃、2、3の文化部門においてレトリスム運動に認めた実験的価値を、ルメートルは軽蔑しているようである。レトリスムにおいて、実験的な面は、実際あったけれも、彼のいう本質的価値、すなわち創造システムに比べれば、取るに足らないものだと、彼は言う。そのようにして彼は、無分別にも、たった1つしかない彼の料理皿に唾を吐く〔=有用なものをないがしろにする〕。というのも、彼が「創造」と呼ぶものすべてが絶対に無効だと、われわれは見なすし、また歴史もわれわれとともにそう見なすであろうから。ルメートルは、唯一の歴史的価値として認められるべきは、彼の唯我論的な創造の夢であると思っているがゆえに、例えば、われわれがレトリスムの詩の重要性を認めないことに、彼は驚く。しかしながらそれは、そのような詩が、ルメートルの恣意的で伝達不可能な「創造術(クレアティック)」*6のシステム化との関連においてしか、芸術的創造としての重要性を持たないからである。レトリスム運動総体がある時期に少しの間本当の前衛としての役割を担ったことがあるにしても、その最初のデモンストレーションであった擬音詩は、クルト・シュヴィタースよりも20年以上あとになるのだから、もちろん、なんら実験的なところはない。
 そのうえ、レトリスムの場合は、パリを別にすれば、なんらユニークなところがない。しかし、ルメートルは、地理的にきわめて偏狭なために、SIの影響力と、セーヌ左岸で6ヶ月間デモンストレーションを行なった小集団──それがいったい何だったのかを知っているのは世界中でほとんど彼1人きりだった──の影響力を、冗談抜きで比べてみる。しかも彼はそれを、〔一方は〕パリの新聞が巧みにそそのかされたときに献呈することがある「第一面の記事」によって、また〔他方は〕「彼らの名のビラでパリを埋め尽くす」(41ぺージ)という事実によって、比べてみるのである。そのルメートルは、彼の発見──それはすでに見たように、キリスト教徒であれ他のものであれ、しかるべき地位にいるあらゆるたぶらかし屋たちに売りつけるためのものである──を知ってもらうためならいかなる譲歩をもするつもりなのであるが、自分を理解してもらうための時間はたっぷりあると言い張るばかりで、彼のご大層な創造なるものについて、なぜちっとも理解されないのか、なぜみんなから拒否されるのかを、自問しようともしない。レトリスムは15年前に出現した。レトリスムは、社会において敵を選ばず、あらゆる人々を転向させようとした。そして、20冊もの本を通じて、その教義の証明(亜流のデカルト的な証明)をたえず提示した。けれども、レトリスムはこのうえなく無名のままである。そしてルメートルは、シュルレアリスム象徴主義──彼が挙げた例を今一度挙げるならば──が、登場から15年後にはすでに文化において幅を利かせていたということを内心では認めたがらない。それらの運動は、どの分野においても現代ほどには新しいものに飢えていない時期に登場したにもかかわらず、そしてまた、今日ほどには解体されていなかった文化的イデオロギーによって、過去の秩序の保全という旗印のもとに攻撃されたにもかかわらず、幅を利かせていたのである。たとえば「レトリスム的思考」という余話のドイツの同類は、システマティックで、疑似弁証法的で、死ぬほどつまらないものであるが、マックス・ベンゼ*7という名である。彼らは等しく時代の典型である。それは仕方のないことだ。彼らは価値の分類者としては非常に役に立つ。もっとも今日的意義のない価値の分類ではあるが。アメリカナイズされた文化の用語でいえば、それらは、精神の家庭用電化製品技術のガジェット〔=新奇ながらくた〕なのである。

*1:ラウール・ハウスマン(1886−1971年) ウィーン生まれの画家、作家、詩人。1918、19年頃のベルリン・ダダイストの1人。

*2:『原(ウル)ソナタシュヴィタースの詩(1925−32年)。伝統的言語の破壊の試みといえるものである。

*3:クルト・シュヴィタース(1887−1984年) ドイツの画家、彫刻家、詩人。1919年、釘・紙・布などを寄せ集めた「メルツ絵画」(「メルツ」は「コメルツ Kommerz 商業」からの切り取り)を制作。1921年、ハウスマンらと接触し、翌年ワイマールのダダ会議に参加、ダダの終結後は構成主義に進む。1924年、ハノーヴァーの自宅にメルツ芸術を集大成して建設した「メルツバウ」は、構成詩『原ソナタ』とともに彼の代表作となる。1933年ドイツを去り、1940年イギリスに移住。

*4:力ール・ヤスパースという名の小さなスイス人 ヤスパース(1883−1969年)はドイツ生まれの精神医学者、哲学者であるが、スイスのバーゼル大学教授であった。なお、「プチ・スイス(小さなスイス人)」は、チーズの名でもある。

*5:イェンス・アウグスト・シャーデ(1903−78年) デンマークの作家、詩人。宇宙的な、またはエロチックなインスピレーションによる詩集を残している。

*6:創造術(クレアティック) イジドール・イズーモーリス・ルメートルの用語法で創造者としての芸術家が解体の果てのゼロから作り出す方法。本論文の訳者改題を参照。

*7:マックス・ベンゼ(1910−90年) ドイツの哲学者・理論家。第二次大戦中ナチスによって投獄されたが、戦後は1964年からイエナ大学、シュトゥットガルト大学、マックス・ビルの設立したウルムの造形大学などで論理学、美学、記号論などを教えながら、実存的合理主義、論理的経験論の立場から、情報理論に基づいた、厳密な科学としての新しい美学の確立を目指した。著書に、『技術的実存』(49年)、『文学の形而上学──技術の時代における作家たち』(50年)、『テキストの理論』(62年)など。また、ベンゼは、1958年、ハロルド・デ・カンポスらが中心になってブラジルのサンパウロで創設されたコンクリート・ポエムのグループ〈ノイグランデス〉に属し、その理論家として活動するとともに、自分でも視覚詩やヴォーカル性を追求した詩作品を作っている。