『当たり前の基礎事実』訳者改題

 「当たり前の基礎事実」(Banalite de base)と題されたこの論文は、後にシチュアシオニスト自身によって60年代のSIに新しい地平を切り開いた画期的な論文として高く評価されるものだが、ここではその著者ラウル・ヴァネーゲムについて簡単に述べておく。
 ラウル・ヴァネーゲムは1934年、ベルギー南部ワロン地方エーノー(Hainaut)州の小都市でオランダ語ワロン語の言語国境地帯に位置するレシーヌ(Lessines)に生まれた(ヴァネーゲム〈Vaneegem〉)の名は、フランスではヴァネージェムと発音されることもあるが、ここではオランダ語発音を尊重してヴァネーゲムと表記する)。その後、彼は51年から56年までブリュッセル自由大学でロマンス語文献学を学び教授資格を得た後、ブラバント‐ワロン州(Brabant-Wallon)の古都ニヴェルの高等師範学校で教えつつ、61年からシチュアシオニストの活動に参加する。最初はブリュッセルの〈統一的都市計画事務局〉を拠点に活動するが、翌年にはSIの中央評議会のメンバーの1人となり、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌の編集委員として62年の第7号から69年の最終号第12号までの編集に名を連ねる。この間、ヴァネーゲムは『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌に発表した多くの論文(第7号と第8号の2回に分けて掲載された長い論文「当たり前の基礎事実」、第10号の覚え書き「問題提起も問題設定もなきいくつかの理論的問題について」、第11号の「実践的真理を目的とすること」、第12号の「一般化した自主管理に問する文明人への意見」などの署名論文のほか、無署名のいくつかの論文)によって60年代初頭のSIの運動に対して大きな理論的影響を与えるとともに、67年に出版され68年5月にいたる過程の中で爆発的に読まれた著書『若者用処世術概論』によってSIの理論を外部の者に伝えるのに大きく貢献した。とりわけ、ヴァネーゲムが強く唱えた「快楽」への権利、「犠牲」や「苦痛」あるいは「所有」や「交換」を拒否した「生」の絶対的肯定、「疎外としての労働」を否定して創造的な「遊び」や「祭り」の中に「全体性」を実現するという考えは、その後、SIの枠を越えて広く普及した。実際、68年5月にフランス中の大学や通りの壁の落書きには、「日常生活の変革を望むことなく革命を語る者は、口の中に屍体をくわえているのだ」とか、「死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむこと」などのヴァネーゲムの言葉が多く用いられた。また、ヴァネーゲムは、SIのメンバーとして、67年にはニューヨークにわたりSIアメリカ・セクションの結成に力を尽くしたり、68年の5月革命の際にはナント・コミューンのメンバーと接触してSIの理論を伝達したりするなどの活動をしている(もっとも、68年5月には、パリで革命的情勢の煮つまりが誰の目にも明らかだったにも関わらず、彼は5月革命の直前にヴァカンスのためにパリを後にし、革命には参加しえなかった)。しかし、68年以降はSIの内部で次第に沈黙するようになり、積極的な活動は行わずに、その「待機主義」をドゥボールらによって批判されると、突然、70年11月にSIへ書簡を送り組織を脱退する。この突然の、だがある意味では予期されたヴァネーゲムの脱退に対して、ドゥボールとジャンフランコ・サングイネーティらのシチュアシオニストは即座に情け容赦のない文書『ヴァネーゲムについてのSIのコミュニケ』(『インターナショナルにおける真の分裂』エディシオン・ジャン・リーブル、1972年、所収)を発表し、「ヴァネーゲムは、最初を除き、SIの生を愛したのではなく、その死んだイメージを愛しただけだ。それは彼の取るに足らない生にとっての栄光に満ちたアリバイにすぎず、抽象的な全体性に貰かれた未来の希望にすぎなかったのだ」と、ヴァネーゲムの「全体性」理論の没歴史性、極度の抽象性を徹底的に批判する。
「SIとは何であるのか、それは何をなすべきかについて、ついにまじめに何らかの正確なことを発言せざるをえなくなって、ラウル・ヴァネーゲムはすぐさまSIを全てひっくるめて捨て去った。この瞬間まで、彼は常にその全てに賛成してきたのにである」という手厳しい言葉で始まるこの『コミュニケ』は、ヴァネーゲムが初期の数年間(61−64四年)に斬新な理論をシチュアシオニストにもたらしながら、その後、いかにして陳腐化し、待機主義者と化していったかを正確に総括している。
 ヴァネーゲムはSIのメンバーであった時期からすでに、生活費を稼ぐために『現代世界百科事典(EDNA)』の編集に匿名で加わるなど、その文才と博識を生かした仕事に携わっていたが、SI脱退後はいかなる遠動からも遠ざかり、エッセイや歴史の著作、百科事典の執筆などの活動に没頭する。SI脱退以降の著書として、『快楽の書』(79年)、『自由精神の運動』(86年)、『生者へのアピール──彼らを支配する死とそれと手を切る好機についての』(90年)、『スキユトネール』(91年、ベルギーのシュルレアリストについての評伝)、『スターリンの手紙──ついに和解した東西の子どもたちへの』(92年)、『キリスト教への抵抗』──異端、その起源から18世紀まで』(93年)、『異端』94年)、『中高生への警告』(95年)などがあるが、それらはいずれも『若者用処世術概論』を焼き直したエッセイか、現代の問題から逃避して歴史を過去のものとして扱った退屈な歴史書にすぎない.