最近の除名

 第7回大会は、7月にヤン・ストリイボッシュ *1(オランダ)を除名した。理由は、ルディ・レンソン*2のSIへの復帰を求めたためである。レンソンは、1年以上、完全な無活動状態であり、さらには、端的に失踪状態でさえあったがゆえに、満場一致でずっと以前から責任放棄をしているとみなされていたのである。
 同時期、ストリイボッシュ自身の活動もレンソンに劣らず目立つところのないものだったため、われわれとしては、コミュニケーションなしの参加というある種の「傾向」について正当性を議論することを受けいれるわけにはいかなかったのである。これらの同志に対して、われわれは他のいかなる非難も表明したことはなかったことをはっきりと述べておこう。
 やや後に、アントン・ハルトシュタイン*3が、理論面での不十分性を理由に除名された。この不十分性は、彼が同大会で(国家の問題について)意見を述べた際に露呈し、ほとんどその直後に、SIの実践的連帯が必要なある事件において遅くて鈍い反応しかしなかったたために、一層、悪化したのである。
 テオ・フレー、ジャン・ガルノー、エルベール・オール*4は、ハヤティ*5と彼らとの衝突をSIが裁いた際、嘘をつきとおせなくなくなったまさにその瞬間に除名された。1月15日の真夜中頃である。細かい事実を記しておいた方がよいだろう。というのも、この嘘つきどもは、そのすぐ後に、彼らの声明の1つの重要な論拠でもあるかのように、それはもう16日になっていたと書き、SIの結論にも不正確なところがあるのだから、彼らが示し合わせて度重なるごまかしを行ってきたことも、いわば、それで相殺されるだろうと言い張ったからである。この時、彼らは、ほとんどそれに上回る正当化をするかのように、自分たちがSIのなかで権力を獲得することを決断した秘密の分派を数ヵ月前から構成していることを認めたのち、エディット・フレーも仲間だと述べてさえいた(この権力奪取は、魔術のような性格の作戦だった。というのも、その「権力」とやらは、個人の理論的実践的能力以外の何ものでもないが、その能力について彼らは自分たちには備わっていないと感じていたからであり、しかも、彼らが引き受けた行動からすれば、そのような能力に到達することは、彼らには永久に禁じられているからだ)。エディット・フレーはその場に居合わせず、われわれも今や他の3人がどのような人物かも知っていたため、われわれは、第三者に関するこの最後の自白には確信を持てなかった。それゆえ、その時には、彼女の名を除名調書に加えることはしなかった。しかしながら、実際、エディット・フレーはすぐ彼らとの連帯を表明したのだから、それゆえ彼女もまた嘘つきどもの秘密に通じていたと考える必要がある。

*1:ヤン・ストリイボッシュ オランダ国籍のシチュアシオニスト。SIベルギー・セクションに所属し、中央評議会のメンバーとして活動し、「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第8号と第9号の編集委員を務める。1966年7月のSI第7回大会で、すでに脱退し何の活動もしていなかったリュデイ・ランソンのSI復帰を求めたために除名。

*2:ルディ・レンソン ベルギーのシチュア二スト。SIベルギー・セクションで活動したが1966年に脱退。

*3:アントン・ハルトシュタイン ルーマニア国籍のシチユアシオニスト。SIフランス・セクションで活動したが、1966年7月に除名。

*4:テオ・フレー、ジャン・ガルノー、エルベール・オール 参照

*5:ムスターファ・ハヤティ チュニジアのシチュァシオニスト。64年ごろからフランス・セクションで活動。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号、第11号、第12号の編集委員を務め、同誌に「低開発国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献」(第11号)を掲載、67年の〈ストラスプールのスキャンダル〉では、U NEFに対する反乱を起こしたAFGESの学生たちのために『学生生活の貧困』を執筆し、69年5月革命の最も早いきっかけを作った。69年9月に、ヴェネツィアで開催されたSI第8回大会で、SIの構成員規約が変更され、二重加盟が禁止されたため、PFLPとの関わりを問題にされたハヤティは、69年10月1日付けの書簡でSIに全面的な連帯を表明して、自らは「アラブ地域で発展しつつある革命的危機」に身を投じることを宣言してSIを脱退した。