『「コブラ」の仲間たちとは何か、また彼らは何を代表しているか』 訳者改題

 ここに報告されている「コブラ」運動は、1948年11月、パリに来ていたアスガー・ヨルンドトルモン、コンスタントら、デンマーク、ベルギー、オランダで、第二次大戦直後からそれぞれ実験的な芸術運動を行っていた者たちが結成したグループである。
 ヨルンは、大戦中、デンマークで『ヘルヘステン(地獄の馬)』(1941-44年)や『ヘスト(収穫』)(1939-50年)という前衛芸術の雑誌に加わりレジスタンス活動を行っていたが、戦後、パリに赴き、これらのグループで行った前衛芸術の集団的実践をさらに広げて、国際的な前衛芸術家の組織を作ろうとしていた。ベルギーでは、ドトルモン、ジョゼフ・ノワレらが、戦後、1947年に、パリのノエル・アルノーらと「革命的シュルレアリスト」を結成し、シュルレアリスムの停滞に反発して活動していた。オランダでも、コンスタント、アペル、コルネイユが1948年、「オランダ実験グループ」を結成し、雑誌『レフレックス』を発行した。これらの芸術家たちは、ピカソやミロ、シュルレアリスムに影響を受けるとともに、多かれ少なかれみな、フランスよりも苛酷だったベネルクス3国のナチス支配に対して闘うなかでマルクス主義に共鳴していった若者たちだった。また、西ヨーロッパとは異なる風土で、北欧特有の神話や民衆芸術を探求する一方で、バウハウスや幼児・精神障害者の絵画表現にも関心を示していた。
 こうした中で結成された「コブラ」には、その後、1951年の運動終結までに、ベルギーのアレシンスキーら新しいメンバーが加わるとともに、スウェーデンの「イマジニスト」グループ(オステルリン、フルテン、スワンベルグら)、フランスの「革命的シュルレアリスト」のジャック・ドゥーセ、アトラン、ミシェル・ラゴンら、チェコスロヴァキアの「グループ・Ra」のJ・イストレル、ドイツの「メタ」グループのK・O・ゲーツ、イギリスのスティーヴン・ギルバートやウィリアム・ギアなども参加し、合衆国とフランスに支配されていた感のあった当時の現代美術の流れとは異なる革命的潮流を形成した。(日系アメリカ人としても、イタリア戦線に参加して負傷したタジリ・シンキチが、「オランダ実験グループ」に加わり、その後、コブラのメンバーとして、戦争の記憶の生々しい一連の暴力的な廃材彫刻を製作して注目を集めた。)
 「コブラ」は、4年足らずの活動期間のうちに、大規模な国際展を2回(「実験芸術家インターナショナル」創設を伴い、コブラを世界的に知らしめることになった、49年11月のアムステルダム市立美術館での「第1回実験芸術家インターナショナル展」と、51年10月、リエージュでの「第2回実験芸術家インターナショナル展」)、中規模の集団展を数回(実質的な第1回コブラ展となった48年11月のコペンハーゲンでの「ヘスト」展、49年3月、「目的と手段」展という名で行われたアムステルダムでの第2回コブラ展、同年8月、ブリュッセルでの「時代を通して見たオブジェ」展これには、「日常生活の実験」と称して、日常品やジャガイモなども展示され、後の「アルテ・ポヴェラ」や60年代の反芸術を先取りするものがあった、51年4月、パリでの「コブラの5人の画家」展など)、さらに数多くの個人展を行った。「コブラ」は出版活動にも力を入れ、展覧会の度に、またそれ以外にも2か月に1度出された雑誌『コブラ』は51年までに全10号を数え、さらに、メンバーの動向や世界の前衛芸術の動きを伝える機関紙『ル・プティ・コブラ』が全4号、「ビブリオテーク・ドゥ・コブラ」の叢書名で画集や書物、資料なども出版された。
 こうした展覧会や出版活動とは別に、ヨーロッパ各地に分散した「コブラ」のメンバーは、たびたび国境を越えて移動し、何日もにわたって「ランコントル(出会い)」と呼ばれる一種のワーク・ショップを行ったり、ブリユッセルの3階建のアパルトマン全体をアトリエにした「コブラの家」などを拠点にしたコミューン生活のなかで、画家や彫刻化、詩人といった枠や個人の枠を越え歓の実験的作品「絵画言葉」と呼まれる絵画と言語の融合した作品、建物全体の装飾、陶芸や彫刻、絵画による壁画などを創造した。
 彼らのめざしたものは、1950年代初頭に米ソの冷戦が完成するまでの混沌とした戦後社会のなかで、機能主義建築や抽象表現主義絵画などの合理主義精神に根ざした資本主義社会の芸術表現、ソ連から押し寄せてきた社会主義レアリスム、それらの間にあって、個人主義と神秘思想に埋没しかつての変革の力を失ってしまった戦後のシュルレアリスム、これら3方面の敵と闘いつつ、実存主義者のようにニヒリズムに陥るのではなく、創造的な共同製作の経験のなかから、社会変革につながるような自由な実験をおこなうことであった。彼らの製作した絵画や彫刻は、一見、幼児が描いたような「素朴な」印象を与え、彼ら自身、子供の芸術表現や民衆芸術を高く評価していた(実際、「ランコントル」での作品にはヨルンの10歳になる子供の手の入ったものもある)が、これは、彼らが、「詩は万人によって書かれなければならない」というロートレアモンの言葉を文字通り実践した結果であり、各個人の欲望を直接的にさらけだし、新しい欲望を喚起する環境全体の構築を追求したからにほかならない。こうした環境の構築に、彼らは芸術活動が有効であると考えたのであり、そうした芸術活動は個人のものではありえず、匿名で共同のものとなる。少なくとも、コブラの当初のメンバー、とりわけヨルンとコンスタントの発想はそのようなものであったが、後に参加したメンバーは「コブラ」を1つの美術スタイルと受け取り、商業主義に転落してゆき(「第2回実験芸術家インターナショナル展」をリエージュ市の資金援助によって行ったドトルモンなど)また、「革命的シュルレアリスト」だったドトルモンはフランスのシュルレアリストの影響を払拭し切れず、運動の後半にはヨルンやコンスタントから離れていった。

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