SIについての今年の世論(雑誌採録)

  • ドイツ

 「ミュンヒェン・グループ(「シュプール」派)の連中はシチュアシオニスト・インターナショナル(リーダーはA・ヨルン)のあとを走って追いかけている……。口では勇ましい事を言っているが、頭が鈍いというハンディキャップがあるので、十分速く走れないでいる。望んでいることと実際にできることが何と違う事か。」

『ヴェルニサージュ』誌、1960年10月


 「だが、この若きサムソン達は、打倒したいと思っている腐敗した体制に取って代わるべきものについてはどのような考えを持っているのだろうか。ここで、彼らは、自分たちが集団で所属している、シチュアシオニストの組織に身を委ねる。彼らは1960年5月17日の宣言を引用する……。明らかに国際的な何かが1959年に、国際(当然だが)大会を開いたのだが、それはいったい何だったのか。宣言には、『芸術家たちは、競争によって互いに隔てられているが、社会からも完全に隔てられてしまった』、とある。そしてわれらがシチュアシオニストは、このような状況に、上に挙げた諸悪の根源を見ているのである。それと引き替えに、ギー・ドゥボールと彼の仲間たちは、各人の『全体的な参加』を要求するような『シチュアシオニストの文化』を実現することを夢見ている。これが実現すれば、芸術は、保存されたオブジェではなく、『直接に体験された時間の共同体』、普遍的にして匿名の創造となるであろう。それには、もちろん、『行動様式の革命』が必要となるであろう……。現実に、不満の増大、『文化の危機』を示す徴候はたくさんある。しかし、反逆者たちの目的は、相互にそれほど大きな違いはない。『シュプール』のメンバーは、モノクローム絵画*1を非生産的な議論と決め付ける前に──彼ら自身も論争家ではないか──ゲルゼンキルヒェンの劇場*2イヴ・クライン*3の宣言を研究するべきであろう。『感性の支配*4』は、彼らが思っているほど『シチュアシオニストの文化』から離れたところにない。ただ、『感性の支配』の方が、ずっと精密に規定されているだけである。」

ジョン・アンソニー・スウェイツ、「怒れるパイオニアたち」

(『ドイツ日報』紙、60年9月23日)


 「この袋小路からの出口として、この若者たちのグループはたったひとつの選択肢しか残さない。それは個人の芸術としての絵画を捨て、新しい『シチュアシオニスト』の枠組みのなかで用いることである。何と恐ろしい言葉だろう。このような宣言は、不安や不満の徴候としてなら興味深くもあり、また、いくつかの付随的な真実を含んでいるのも否定できない。しかし、執筆者があまりに現象やスローガンに近づいているために、真実は彼らの手からこぼれ落ちるのである。」

フィリップ・ネミッツ

(ディー・クルトゥアー〈文化〉誌、1960年10月)

  • フランス

 「この運動の首謀者たちは、彼らの「批判」美学の実現の彼方に、第三の地平を理論的に思い描いた。この地平において、絵画は自らを乗り越えようとはせず、より具体的な普遍芸術によって乗り越えられ、取って代わられる。実際、技術の発展は、新しい状況という形をとって、もはや絵空事ではなく具体的な、新しい構造的な統一体を生み出すのに適しているのではなかろうか。この新しい構造的統一体と行動との直接的な関係は、今では失われた、かつての直接性の空白をうめるだろう。しかし、それはまだ机上のの空論にすぎない。」

フランソワーズ・ショエ*5

(『アルギュマン』誌第19号、1960年10月)


 「文化の探求(それは芸術の素材(マチエール)と形態から人間と自然についての哲学的体系や科学的真理にまで及んでいる)は、長く忍耐強い努力の謂いであり、この知識の総体との断絶はいかなるものも、未開状態への回帰を意味するほかはない……。
 ところで、自分たちの曖昧で誤ったものの見方──それは経験によって反駁されているのだが──を文化のなかに統合することができない一部の知識人は、自分たちの考え方を見直して、行いを改めるかわりに、文化を捨てることを選ぶ……。未来社会の構築という名の下に過去の文化の諸要素と絶縁し、さらには、それを捨てて顧みず、その代わりに、乱暴にも、文化的というには程遠い『生気論的』価値観を据えようというシチュアシオニストたちは、マルクス主義者ですらなく、それ以下の穴居人である。
 いま、それ以下と言ったが、と言うのも、彼らは最低のマルクス主義者ですらなく、ファシストとしか呼びようがないからである。ファシズムは、カリフ・ウマル*6の時代のアレクサンドリア図書館*7の取り返しのつかない消滅から、ゲーリング*8による反文化政策にいたる、さまざまな口実の下に繰り返された反動であることをわれわれは知っている。自らの社会的勢力を増すために、他の「新(ネオ)」‐プロレタリアや国家主義者のように、シチュアシオニスト・インターナショナルも文化の内発的進歩を、外部から、しばしの間、抑圧しようと試みることはできよう。しかし、最後には、諸学問の研究は、この無知な反動主義者たちを排斥し、罰するであろう。かつて過去の反動主義者たちをそうしたように。
 ナチズムや共産主義、あるいは、それより流布の程度が低いものでは、かくも多くのエネルギーをを無駄に費やさせたシチュアシオニストの表現、そういった明らかな誤りがどれほどの年月にわたって続くかと言うことを考えてみると、何らかのペテンの化けの皮をひっぱがすために、私の力をいくらか消費するように仕向けた人々の気持ちもわかるのである。」

『ポエジー・ヌーヴェル』誌SI特集号(第13号、1960年10月)

住所 パリ、ミュルーズ街13番地


 「誇大妄想を伴う自己中心主義は、芸術家間の関係の面で、自らは併合されることのないように注意しながら、他者を乗り越えようとする意志に到達する。このことはすでに書きもし、言いもした。」

ロベール・エスティヴァル、「誇大妄想の結果に関するドゥボールへの手紙」

(『グラム』誌、第5号)

  • カナダ

 「いや、まったく、内容のない文章や正確な意味も知らずに使っている表現の裏に何か深い思想があるかも知れないと考えることは私にはできない……。こんなにも無造作に、自信を持ってフランス語を虐殺するには、何人かで取り組むことが本当に必要だ。しかしながら、いまだに『自分のおちんちん』を見せ合うことしかできない、見た目だけ前衛のニセ知識人とは、いつの日か訣別しなければならないだろう。『状況の構築のための批判』号に乗り込むと、遠くに行きすぎる危険がある。特に、パトリック・ストララン操舵手が加わっているだけにその危険は高い。彼は、よそで拒否された文章をそこに載せているが、拒否の理由がその大胆さにあるのではなく、単に、無意味で下らないせいだということには考えも及ばなかったらしい。」

ジャン=ギー・ピロン*9

(『リベルテ60』誌第9−10合併号、1960年夏)


 「私はそこで、奇抜であると同時に硬直化した語彙につまづく。それでも、その語彙にはこんなにも多くの常套句を新しくするにはいたらないのだ。ここにもまたスコラ哲学まがいの体系が与えてくれる知的安寧の、多少とも意識されている欲望を認めることができる。これに比べれば、中世のスコラ哲学の用語と文脈さえ新鮮で自然なものに見えてくる。」

クレマン・ロッケル

(『モントリオールの義務』誌、1960年7月16日)


 『どんなに失望したか、言葉で言うことはとてもできない。文章の調子は良かったのだが、言葉はいまひとつで、もう一度風景をそっくり作り直さなければならない。それにこのシチュアシオニスト・インターナショナルの国際というのは名ばかりだ。現実は、自分のことをこんなふうに重要視するには、あまりに残酷すぎる。シュルレアリスムは本物だったが、シチュアシオニスムは教養ある者たちが頭の中でこねあげたものにすぎない……。だが、はっきり言わなければならない。 エノー、ミロン、ポルチュゲ、ラポワント、デュベははっきり言っている。だが、彼らはシチュアシオニストではないようで、パトリック・ストラランのノートの付録にすぎない。われわれは自分たちの個人的で性的な問題を、人民の問題から分けて考えるすべを学び始めた。人民を優先することを学び始めたのだ……。すべてのことを口に出さねばならないが、はっきり言わなければならない。その時にのみ、われわれは、他の人々も──一たとえば、われわれの子供たちも──いっしょに住むことができるように、この風景を作り直すことができるだろう。」

ジャック・ゴットブー

(『リベルテ60』誌、第9−10合併号)

*1:モノクローム絵画 イヴ・クラインの注を参照。

*2:ゲルゼンキルヒェンの劇場 ゲルゼンキルヒェンはドイツのエッセン北東の人口約20万の炭鉱都市。1957年、イヴ・クラインがこの街のオペラ・ハウスの装飾を手がけ、2つの巨大な壁画と2つのスポンジ・レリーフを製作したことで知られる。

*3:イヴ・クライン(1928−62) フランスの画家。ニースでの少年時代に、友人で後にこれも画家になるアルマン、クロード・パスカルとともに、薔薇十字団の教義に心酔し、その哲学コースを受講する。同時に始めた柔道の勉強のために、1952年から54年まで東京の講道館に留学。フランスに帰国後、柔道を教えながら、画家の両院の影響もあって絵画を描き始める。1955年、「サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル」にオレンジ色のモノクローム絵画を出展し落選。57年、モンパルナスの絵の具商で手に入れたウルトラマリン・ブルーを『インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)」と名付け、以後、壁から床に垂らしたロール状の布にその絵の具をたたきつけたモノクローム絵画を製作。同年、ミラノのアポリネール画廊で「青の時代」展を開催し大反響を得る。その後、ヨーロッパ各国で次々と個展、集団展を開催しモノクローム絵画を発表する。1958年以降は、ゲルゼンキルヒェン市のオペラ・ハウスの装飾や、「空虚」展と称した何もない空虚の展示、裸の人間の身体に塗った青を布に写し取る「人体測定プリント」や巨大なガス・バーナーで描かれる「火の絵画」、「非物質的絵画的感性領域の譲渡」と呼ばれる金箔をセーヌ川に投げ込む儀式的パフォーマンス、アパルトマンの二階からの空中へのジャンプ「空中浮遊」などへと、活動の幅を広げる。この間、60年には、アルマン、フランソワ・デュフレーヌ、ジャン・ティンゲリーらろともに「ヌーヴォー・レアリスト」を結成、クラインのパリの自宅で結成式を行い、その宣言文を製作する。ここで「イヴ・クライン宣言」と言われているものは、ピンク、青、金の紙に書かれた宣言文のことだろう。それには、「ヌーヴォー・レアリストはみな自らの集団的特性を意識した。ヌーヴォー・レアリスム、それはすなわち現実への新たな知覚的アプローチである」と書かれている。シチュアシオニストイヴ・クラインの関係は、クラインの1956年のマルセイユアヴァンギャルド芸術フェスティヴァル」への参加(レトリスト・インターナショナルが粉砕行動を行った)、57年のミラノでの「アルテ・ヌクレアーレ」展への参加(その主唱者エンリコ・バイはSIの結成につながる56年のアルバ会議に出席していた)なだ、間接的なものである。

*4:『感性の支配』 クラインが装飾を担当したゲルゼンキルヒェン市のオペラ・ハウスの建築家ヴェルナー・ルーナウとクライン自身との協力で生まれた「感性センター」の基本理念で、このセンターのための教育システムが1959年に二人によって書かれている。この「感性センター」は社会ー文化的感性の実験を行う教育プログラムに基づいた「感性の学校」になるはずで、ピエール・レスタニー(「モダンとポスト=モダンの間のイヴ・クライン」、『イヴ・クライン展』カタログ所収、1985年)によると『近代の個人主義の首枷』を打ち壊した上で、「感性の非物質化」を追求するものだった。「空中浮遊」も、この感性の限界を破る試みだった。

*5:フランソワーズ・ショエ 『アルギュマン』誌に拠った美術批評家・都市計画評論家。同誌第19号(1960年)に「産業社会における絵画の本質的曖昧性」と題した論文でコブラシチュアシオニストについて触れている。著書に『ユネスコ──テクストと20のスライド』(59年)、『都市計画──ユートピアと現実』(65年)など。

*6:カリフ・ウマル 第2代正統カリフのウマル一世(?−644年)のこと。最初はムハンマドを迫害したが改宗してイスラム国家を建設し、イラク、シリア、エジプトの征服を敢行した。

*7:アレクサンドリア図書館 マケドニア王アレクサンドル大王が建設したエジプトの都市アレクサンドリアにあった巨大な図書館。70万冊の蔵書を有し、古代ギリシャ以来アルキメデスユークリッドらの哲学者をはじめ地中海中の学者を惹きつけ、学問の中心地だったが、ウマル一世のエジプト征服の際に破壊され、その膨大な蔵書が燃やされた。

*8:ヘルマン・ゲーリング(1893−1946年) ナチス党第二の実力者。1923年SAの突撃隊長としてミュンヒェン一揆に参加して以来、1940年以降は総統後継者で帝国元帥の称号を持つにいたるまで上り詰めた。その間、経済界の実力者として帝国企業ヘルマン・ゲーリングを使って巨大な富を集めるとともに、ナチス占領下の国々から奪った芸術品の膨大なコレクションを作った。

*9:ジャン=ギー・ピロン カナダの批評家。著書に『都市を救うために』(1963年)など。