『ロンドンでのSI第4回大会』 訳者改題

 1960年9月にロンドンで開催されたSI第4回大会は、SIの歴史において2つの点で重要な大会となった。すなわち、第1にSIの組織形態がそれまでの国ごとに独立した各セクションの連合体から、最高議決権を持つ大会とそれによって選出される中央評議会という形に変更されたことであり、第2にSIがそれまで中心に据えてきた「統一的都市計画」に「日常生活の革命的批判」の意味を強く持たせ、SIの路線の「政治化」を図ったことである。この2つの点は密接に関係し合っており、第1の決定は第2の決定の論理的帰結としてなされたと言っても過言ではない。SIは、いくつかのセクション(イタリア、オランダ)で生じてきた芸術−技術至上主義的変質に対処し、社会革命の側面を前面におし出すために、組織の単一化によってメンバー間の理論面での統一を図ったのである。
 SIにおける芸術−技術至上主義の兆しは、1959年のミュンヒェンSI第3回大会前後の「統一的都市計画研究所」をめぐる議論においてすでに胚胎されていた。コンスタントらオランダ・セクションは、大会以前にはドゥボールやヨルンの主張する文化革命と社会革命の統一を「ユートピア」だとして、SIの活動を知識人による文化変革に限るべきだという意見を述べ(参照)、大会においては「統一的都市計画」への「技術」と「合理化」の利用可能性を訴えた(参照)。イタリア・セクションのメラノッテは大会において「統一的都市計画研究所」にとっての「作品の重要性」の評価を求めた(参照)。ドゥボールは「社会革命の展望はそのあらゆる古典的な図式との関係からすれば、大きな変化を見せている。それは現実に則している」(参照)と現代資本主義社会での闘争場の変化を主張し、それを見ないコンスタントらの文化至上主義こそ「改良主義」で「ユートピア」主義であるであると激しく批判し、フランカンは「技術それ自身によって技術的環境を消失させるという任務」(「文化革命のための綱領」)を主張する。だが、最終的にはドゥボールらはコンスタントらにある程度譲歩するかたちでSIの統一を図ったと思われる。ドゥボールとコンスタントが1958年11月10日に「シチュアシオニストの行動の最小限の定義」としてこの大会に向けて発表した「アムステルダム宣言」が、大会で全員一致で採択されるに際して加えられた修正は、対決すべき相手としては「反動的なイデオロギーと勢力」という言葉から「イデオロギーと実践の反動的な体系(システム)」という言い方に薄められ、「文化」という言葉がつけ加えられ、「芸術上の探求の自由」を認めるものとなっている(参照)。
 しかしその後、ロンドン大会までに、この芸術−技術至上主義は結局SIの理論と相容れなくなり、一連の除名・脱退という形で表面化した。1960年に入り、春にまず、オランダ・セクションのアルバーツ、アウデヤンス、アルマンドが、教会建築に協力したという理由で除名され、次いで6月、ピノガッリツィオ、メラノッテ、ヴェリッヒらイタリア・セクションのメンバーが、アンフォルメルに関係する美術評論家ロレンツォ・グアスコとの接触を理由に除名される(参照)。そのすぐ後には、今度は、これらの者のイデオロギー的変更を激しく断罪していたコンスタントが、「ニュー・バビロン」の建設において建築の専門技術者を特権的に評価することによって、あらゆる専門家を批判するSIの規律との間で齟齬を生み、表向きは「ニュー・バビロン」の計画に没頭するという理由でSIを脱退する(参照)。これらのいずれもSI結成当初からのメンバーの「芸術家」たちの除名・脱退の意味は次のように考えられるだろう。芸術作品の独立性への志向は、57年のSI結成から3年が経過し、外部からのSIへの注目が高まるにつれて、商業的成功をめざす者が出てきたことの現れとも取れるが、本質的には、ドゥボールらとピノガッリツィオ、コンスタントらとの間で「文化」の意味の捉え方の差がここになって表面化してきたのである。それには、「芸術家」出身ではないアッティラコターニィやラウル・ヴァネーゲムなどの者たちがこの頃からSIに参加したことや、60年というアルジェリア戦争をめぐる政治的激動の年に、SIが外部の様々な運動潮流と関係を持ち始めたことも影響しているかもしれない。ドゥボールが〈社会主義か野蛮か〉との共同行動を模索し、カンジュエールと『統一的革命綱領の定義に向けた予備作業』を発表したのも、またアルジェリア戦への不服従を掲げる「121人宣言」に関わったのもこの年である。
 SIはこのロンドン大会以降も、61年4月のアスガー・ヨルンの脱62年2月のドイツ・セクション(〈シュプール派〉)の大量除名、同年3月のナッシュら6婦負の分離工作を行った者(ナッシスト)の除名というように、「芸術作品」を思考する部分との闘争を継続してゆく。そして、62年のアントワープでの第6回大会では、革命組織として自らを位置づけ、単一の世界組織へと組織形態を再度変更し、57年のSI結成以降からの第1期に幕を下ろし、68年5月へと至るSIの第2期へ入ってゆくのであるが、60年のこのロンドン大会がSIの第2期へと決定的に向かうワンステップだったのだといえるだろう。