『真実の時』 訳者改題

 アルジェリア戦争の1958年(ド・ゴールの登場)までの経過については、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号の「あるフランスの内乱」および第2号の「革命的知識人の総崩れ」の訳者改題で書いたので、この記事の背景にあるアルジェリアとフランスでのそれ以降の経過について書いておく。
 1958年12月、ド・ゴールは第5共和制の初代大統領に選出されると、翌年からアルジェリア問題の解決に奔走する。58年11月の首相選挙以前の段階では、「コンスタンチーヌ・プラン」によって、フランス共和国の統治下でのアルジェリア人の会議への参加という融和的なアルジェリア政策を発表していたド・ゴールも、FLNがそれを拒否し、ブーメディエンによるALN(民族解放軍)の建て直しや、カイロでのアルジェリア共和国臨時政府樹立と積極的な対外活動によって内外での攻勢を強めてくると、アルジェリア人の村落の強制移住を伴う山岳ゲリラの根絶作戦によってFLNとの対決姿勢を強化させる。しかし、その作戦の敗北が明らかになると、59年9月には、アルジェリア人の「民族自決」の承認へと方向転換する。このド・ゴールの変節に、アルジェリアのフランス駐留軍や植民者は激怒し、60年1月には右翼過激派(ユルトラ)が「バリケードの1週間」とやばれる反乱を起こし、フランス人憲兵隊との間に、アルジェリア戦争始まって以来はじめてフランス人同士の銃撃戦という事態が引き起こされた。反乱はド・ゴールの演説によって終結を見るが、その後もその火種は残り、11月、ド・ゴールアルジェリアを訪問すると、マシュー将軍らはクーデターを計画してド・ゴールの暗殺を画策し、右翼過激派はヨーロッパ人学生をも巻き込んで、アルジェやオランで反ド・ゴールのデモを行い、フランスの憲兵隊・機動隊との間に激しい戦闘を繰り返した。しかし、こうした植民者らの暴動に対して、12月11日には、今度はアルジェリア人が反撃に出、アルジェやオランでは無数の群衆がFLNの旗を掲げて行進し、ヨーロッパ人入植者の商店や邸宅を破壊し、アルジェリア戦争はそれまでのFLN対フランス駐留軍という部分的なものから、アルジェリア全人民対全植民者へと全体化した。
 フランス本国では、アルジェリア戦争は当初は海の彼方の植民地の話として総じて無関心が支配し、フランス共産党などの既成左翼は、ド・ゴールと同様にFLNを「過激派」と規定しその闘いを支援せず、抽象的な和平を唱えるだけであったが、FLN活動家やシンパへの拷問や村落の戦略的な強制移住、など、フランス軍アルジェリアでの多くの残虐行為や非人道的行為が、新聞や雑誌の記事、書物による報告などさまざまなかたちで伝えられるにつれて、アルジェリア独立こそが、問題の真の解決をもたらすことを理解し、FLNを具体的に支援する者や、FLNへの支持を公然と表明する者、フランス政府の遂行する戦争への不服従を主張する者たちが現れ、フランス政府はFLNの支援組織への弾圧を強化した。1959年と60年は、そうした弾圧により多くの逮捕者が出て、次々と裁判が行われ、アルジェリア戦争の問題をフランス人全員が意識させられた年でもある。「121人宣言」までのそれらの経過は次のようなものである――
 59年4月、『ル・モンド』がアルジェリア強制移住させられた住民のキャンプのルポルタージュを発表しその劣悪な状態を批判。5月、『ヴェリテ・プール』(58年9月に創刊されたジャンソン機関の非合法情報誌)がフランスの植民地戦争へのレジスタンスを呼びかける作家ヴェルコールのインタヴユーを掲載。同じく5月、反戦・不服従組織「若きレジスタンス」の結成。6月、『ヴェルテ・プール』がサルトルのインタヴユーを掲載。7月、FLNリヨン機関の逮捕。9月、FLNを支援していた『共産主義の道』のジェラール・シュピッツァーとジェラール・ロルヌの逮捕。11月、FLNマルセイユ機関の逮捕。60年1月、『ル・モンド』がアルジェリアでの拷問に関する赤十字報告を掲載。2月、ジャンソン機関に最初の逮捕者、その存在が公になる。3月、「若きレジスタンス」の発覚。同じく3月、前年に逮捕されたFLNを支援した女性セルジュ・ドゥキュジスの裁判。4月、地下潜行中のジャンソンとの秘密記者会見を新聞に発表したジョルジュ・アルノーの裁判。ジャンソンの著書『われわれの戦争』差し押さえ。7月、スイスで「フランス反植民地主義運動(MAF)」の結成。
 そして、1960年9月5日、ジャンソン機関への裁判の初公判が開始され、その翌日に『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌のこの記事で問題となっている「121人宣言」が発表された。アルジェリア人民に対する武器を取ることの拒否、フランス人によるアルジェリア人支援の正当性、植民地廃絶の大儀という3点を掲げるこの宣言は、ジャンソンのネットワークが行ってきた活動をできるだけ広範なフランスの知識人を結集して支持する目的で着想され、モーリス・ブランショ、ディオニス・マスコロ、クロード・ランズマン、マルセル・ペジュらが中心になって起草し、幅広く署名を呼びかけた。実際、署名者は、サルトル、ルフェーヴル、フランソワ・シャトレ、ジャン・ヴァール、マキシム・ロダンソン、ポンタリス、ジョルジュ・ムーナン、ディオニス・マスコロ、フランソワ・マスペロ、モード・マノーニ、ベルナール・パンゴー、ヴィダル=ナケ、ダニエル・ゲラン、ロベール・アンテルムなどの哲学者や学者、政治活動家ブルトンツァラ、レリス、ブランショマンディアルグボーヴォワールサガン、クロード・ロワ、ビュトール、サロート、クロード・シモン、クロード・オリエ、デュラス、ロブ=グリエ、ヴェルコール、モーリス・ナドー、ベナユーン、シャルル・エスティエンヌ、エドゥアール・グリッサン、ドミニク・フェルナンデスなどのシュルレアリストからヌーヴォー・ロマンまでの種々雑多な文学者や批評家、トリュフォーブーレーズ、ドニオル=ヴァルクローゼ、カスト、アラン・レネアンドレ・マッソン、シモーニュ・ショニュレなどの映画監督、画家、音楽家、俳優など、保守・革新を問わず多岐にわたった。
 以下の記事にも書かれているように、「121人宣言」の発表後、ただちに弾圧が開始され、署名者はラジオ・テレビへの出演などの公の仕事から追放され、署名者の名を放送で言うことさえ禁止された。また、首謀者の割り出しのための事情聴取や尋問が――しばしば署名者以外の者にまで――繰り返され、署名者には警察による執拗な追及が行われた。だが、宣言のインパクトは強烈なもので、多くの著名人が公然とアルジェリアの独立の正当性を支持し、道理なき戦争を行うフランス軍への不服従=裏切りを呼びかけたことに対し、右翼、左翼両方からの非難の嵐が巻き起こった。「フランスのアルジェリア」を唱える愛国主義者らは、10月1日、3日と2回にわたり「サラン〔将軍〕に権力を!」、「サルトルを銃殺せよ!」などのスローガンを叫びながら凱旋門シャンゼリゼで激しいデモ行進を行う。11日には、アラゴンが副会長をするフランス共産党系の「戦闘的作家協会」が、「121人宣言」署名者を「フランスの敵のゲームを行う扇動者」として非難する声明を発表(アラゴンはその後すぐに副会長を辞任)。10月12日発行の『カルフール』誌には、作家のアントワーヌ・ブロンダン、ロジェ・ニミエ、ジュール・ロマンや哲学者のガブリエル・マルセルら、保守派知識人数百名のマニフェストが発表され、「裏切り者の教師たち」を非難した。こうした「121人宣言」と、それに対する右翼、左翼からの反響に刺激され、10月下旬には、学生・教育者・組合による声明「アルジェリアの交渉による平和のために」が発表される。ロラン・バルトメルロ=ポンティエドガール・モラン、プレヴェール、ジャン・ルーシュらの著名人を含む教育関係者を集めたこの時期遅れの声明は、若者の「意識=良心の危機」に対する治療薬として戦争という悪の停止を主張するという融和的内容で、「121人宣言」の打ち出したアルジェリア独立とフランス軍への不服従という流れをねじ曲げる役割を担った。
 こうしたなかで、10月27日、パリの学生を中心に、アルジェリア独立を支持する大衆的なデモが行われるのである。