真実の時

訳者改題

 「下記署名者たちは今後、個人的な冒険の三面記事として提示することのできないさまざまな行為について、各自が意見を述べなければならない。また、かくも重大な諸問題に直面し個人的に決意せねばならない人々に助言を与えるためにではなく、そのような問題を判断する者たちに言葉や価値の曖昧さの罠にはまらないように要求するために、自らの立場で、自らの手段に応じて発言する権利を持つ。以上のことを考慮した上で、次のように宣言する。『―――われわれはアルジェリア人民に対して武器を取ることを拒否する態度を尊重し、それを正当なものと判断する。』『―――われわれは、圧政に苦しむアルジェリア人民の名において援助と庇護をもたらすことを自分たちの義務と見なすフランス人の振る舞いを尊重し、それを正当なものと判断する。』『―――植民地制度を壊滅させる上で決定的な貢献をするアルジェリア人民の大義は、あらゆる自由な人間の大義にほかならない。』」
 以上が、「アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言」の結論である。同宣言は、121名の芸術家と知識人によって署名され、9月のはじめに発表された。訴追がすぐにも開始され、最初の告訴が通達されたにもかかわらず、9月中に、60人から70人の名前が最初の署名リストに追加された。新たな署名者のなかには、いかなる政治的急進主義からも程遠いことで知られている者もいた、この運動を粉砕するため、政府は、ためらうことなく例外的処罰―――9月28日に発表される―――に訴えた。公務員(概して教員)たちが一時停職を言い渡された一方で、署名者全員がラジオ・テレビ放送から追放されることになり、もはや放送で彼らの名前を挙げることすらできなくなった。さらに、国の補助金を得ている劇場、あるいは、国立映画センターに正規に登録されている映画から閉め出されることになった。その上、今日までのところ、同宣言文にありとされた犯罪に関する最大限の刑期は、懲役数ヶ月から数年に及んでいる。このような措置を講じることによって、スキャンダルの拡大は、この国の文化的自由に対する全面戦争に訴えることでしか抑えられないことを政府自ら認めたのだ。しかも、こうした極端な手段に打って出ても、ほとんど元が取れなかったようだ。というのも、9月28日以降、60名以上の署名が集まったからである。さらに、非常にゆっくりとした形でしか、後続の告訴に踏み切れなかったからである。
 「121人宣言」が取り締まりによってフランスと外国で頼みもしないのに宣伝されることになったおかげで、その効果はとうてい無視できなくなった。そのとき見られたのは、次のような光景だった。反フランスに対してより迅速に、より強く打撃を加えるようにと当局に訴える高貴なマニフェストに、フランス的というお墨付きをもらった知性のお歴々が名を連ねたこと。知識人プジャード*1の発刊する気のきいた新聞が、第一面に8段抜きで、「ホモたちのマニフェスト」と呼んで同宣言を激しく非難したこと。専門家として社会的「展望」を全面的に問いただす年寄りのうちの何人かが、この過激な宣言に自分たち自身も参加すべきかどうか、即座に自問し、集めた署名を本来の目的からそらして丁重な請願書―──国民教育連盟が、この請願書を通じて、この戦争が交渉により終結することを期待する旨を知らせていた──へと改変することにすぐさま没頭したこと(彼らのなかでも特に、E・モラン*2とC・ルフォール*3のことが念頭にある)である。
 この宣言の功績は、文化という地層に非常に明確な分割線をもたらしたということにある。署名者たちは、前衛の政策や首尾一貫した綱領を全く代表していないのはもちろんのこと、署名という行為以外に、賞賛すべき資質を持つ個人の集まりを代表しているのでもない。しかし、このような情勢下にあって、アルジェリア人および訴追の身となったフランス知識人たちの自由という共通の大義に与することを望まなかった者は全員、「前衛主義」の任意の諸問題の間をいまだにうろつくという自惚れきった態度を折にふれて見せることで、相変わらず一笑に付され軽蔑されるにちがいないことを逆に自ら暴露しているのである。それゆえ、数ヶ月前に訴追反対運動を組織していた阿呆ども*4とこのガレー船でほとんど再会しなかったのは驚くにはあたらない。自由が真に守られるためにはいかなる判決〔=判断〕も拒まねばならないというのが、そこでの彼らの主導概念であり、それは彼らの芸術的、社会的そして知的な欠陥を埋め合わせるためのものだったが、彼らは自己に忠実なあまり、121名の者とともに守るべき何らかの自由があるという判断も下さなかったのだ。
 政治的には、この宣言は、3ヶ月前からフランス世論の相対的な覚醒に役立ってこなかったわけではない。10月27日*5の夕方、共産主義者たちの鮮やかなサボタージュやすべての組合官僚の抑え込みにもかかわらず、若者たち、とりわけ学生が、反戦のための最初の街頭デモを先導することができた。韜晦と屈服〔=責任放棄〕に明け暮れた数年の後、ある自覚が生まれてきているのだ。
 12月11日、アルジェリア革命は、アルジェとオランの街頭で大衆が介入するに及んで、この革命が事実、その総体において「アルジェリア人民の大義」にほかならないということを、耳を貸すまいと固く決意した人たちにも聞き届けさせた。同じスキャンダルと言っても、こちらの方は、もはや知識人たちのビラによってではなく、武装解除された群衆の流血によって表現されているのである。このスキャンダルは、相変わらず、最終的には、フランスのプロレタリアートに向けられている。彼らの介入だけが、この戦争を早急にかつ上首尾に終わらせられるだろう。

*1:ピエール・プジャード(1920−)南仏の文房具店主をしていたが、11953年、税制改革に反対する小売業者を組織して反税運動を展開し、翌年には、チュニジアを手放したマンデス・フランスから多国籍企業、哲学者・知識人、外国人まで祖国に背く者をすべて攻撃するファシスト的右派政党にまで発展し、56年の総選挙では52議席を獲得するまでに躍進した。彼が組織したプジャード運動は、典型的なポピュリズムの運動として、プチブル層の生活保守意識に根ざした偏狭で拝外主義的な感情的愛国主義を組織し、アルジェリア戦争に疲弊した50年代末から60年代初めのフランスにおいて一定の力を持った。現在のフランスの人種主義的右翼政党「国民戦線(フロン・ナシオナル)」のル・ペン党首もこのプジャード運動の熱烈な担い手だった。

*2:エドガール・モラン(1921−) フランスの社会学者。レジスタンスの時代にトゥールーズの「亡命学生収容センター」で活躍し、共産党に入党。戦後、強制収容所の存在を知ったことを契機にスターリン主義を告発し、51年、フランス共産党を除名。50年から社会学者として国立科学研究所で教える。1956年から62年にかけては、雑誌『アルギュマン』誌の編集長を努める。著書に、『映画──あるいは想像上の人間』(1956年)、『スター』(57年)などの映画社会学の研究、『プロメデの変貌』『オルレアンのうわさ』(69年)などの社会学調査研究、『自己批判』(59年)、『政治的人間』(65年)、『ソ連の本性──全体主義複合体と新たな帝国』(1983年)など政治あるいは「政治人類学」的著作がある。60年この時期には、モランは「121人声明」には署名せず、それに乗り遅れた教員組合やフランス全学連が出した日和見的声明「アルジェリアの交渉による平和のために」に、ロラン・バルト、ジャン・コー、ルネ・エチアンブル、ジャック・ル・ゴフ、メルロ=ポンティらとともに署名している。問題を「交渉」に矮小化するこの融和的な声明は、客観的には「121人声明」の拡大をせき止めるものとして機能した。

*3:クロード・ルフォール(1924−) 1946年ソルボンヌ大学を卒業、教授資格試験の準備をするなか、第4インターナショナルのフランス支部である国際主義共産党の集会でコルネリュウス・カストリアディスと出会い、トロツキスト反対派を形成。49年には、教授資格を取りパリ大学で教え始めると同時に、カストリアディスらとともに〈社会主義か野蛮か〉を創設し、その中心的メンバーとして活動。52年『レ・タン・モデルヌ』誌上でスターリン主義とロシア・フランスの共産党を擁護するサルトルとの間に激しい論争を行う。58年5月の「アルジェリア危機」以降〈社会主義か野蛮か〉に参加するものが増えるにつれて、組織問題をめぐり党の必要を主張するカストリアディスら多数派と対立、その年11月〈社会主義か野蛮か〉を脱退して新しい組織〈労働者の情報と連携〉(ILO)を結成(60年には〈労働者情報通信〉(ICO)に改名)、党を否定し労働者の自発性を最大限尊重する運動を展開。62年のアルジェリア戦争終結後は、このグループを去り、社会学者・思想家としての活動に入る。代表的な著作に『官僚制批判の諸要素』(1971年)、『マキャベリ』(72年)、『余分な人間──収容所群島についての考察』(76年)などのほか、メルロ=ポンティの遺作の編集も手がけ、彼についていくつかの書物も著している。ルフォールも「121人宣言」には署名しておらず、おそらくモランとともに教育者の声明に署名したと思われる。

*4:数ヶ月前に訴追反対運動を組織していた阿呆ども ジャンソンへのインタヴュー記事を発表した廉で逮捕されたジョルジュ・アルノーの裁判でアルノーの弁護に立った『パリ=プレス』、『マリー=クレール』、『フランス・ソワール』、『オロール』などのジャーナリストたちのこと。

*5:10月27日 この日、パリの共済会館(ミュチュアリテ)で、フランス全学連(UNEF)、国民教育連盟(FEN)、フランス・キリスト教労働者連盟(CFTC)の呼びかけによるアルジェリア平和集会が開催された。フランス共産党やその傘下の組合のサボタージュ(彼らはその日、フランス全土での平和的な分散行進を呼びかけた)にも関わらず、この集会には多数の学生や労働者が集まり、会館から外に出た大量の集会参加者は、警察の暴力的な弾圧に対して激しい衝突を繰り返した。これは、アルジェリア戦争の過程を通して生み出されたフランス人の側の初めての大衆的デモンストレーションとなった。