シチュアシオニスト情報

 『1945年以降のパリの文化的前衛』*1(ギー・ル・プラ出版社、1962年)の最終章で、ロベール・エスティヴァル*2シチュアシオニスト理論の一解釈を提示しているが、われわれの誰一人として、決してそれに賛同できない。なぜなら、この著者はここで、SIが実際に観察される分野に専門化された社会学を適用しているが、そのような理解はそれ自体、われわれの諸テーゼ全体との関わりにおいて判断されるべきものであり、また、外部の独立した測定装置と見なすことのできないものだからである。概念の扱い方や社会全体の歴史的評価について、エスティヴァルとわれわれの間には明らかに、いくつかの基本的な対立がある。しかしここでは、全く別のレヴェルで、次のことを指摘するにとどめておこう。シチュアシオニスト理論を説明するものとして挙げられている45の引用のうち、SIの結成後のテクストから引かれているものはたった5つしかなく、しかも、そのうちのどれ1つとして、1960年中頃より最近のものではない。かくして、いまだ雲の中に隠れている1つの総体の歴史的起源の探究をこのようにやみくもに重要視しているせいで、エスティヴァルは、自分の研究している当のものを理解できないはめに陥っている。そのことの真の意味をより確実に探求するには、そこから生まれたいっそう高度でいっそう複雑な展開に照らしてみるべきなのに。情報のこんなとんでもない選別という点から見て──また、われわれと彼との方法論的違いは度外視して──、われわれは次のように言わなくてはならない。見かけとは裏腹に、SIはエスティヴァルの本の最終章の主題ではない。

 『現代への序説』(ミニュイ出版社、1962年)の結論部で、アンリ・ルフェーヴル*3はSIに早まった賛辞をいくつかくれているが、われわれはそれに合点がいかない。まず第1に、われわれは、青年と同一視されるのはお断りである。そうした同一視は、その後の展開を見守る必要のある、季節の抗しがたい力や気まぐれな社会学的変動の何がしかを、諸問題に付与することによって、その問題を無効にしてしまうための優雅な方法だからである。われわれとしては、われわれは将来を代表するつもりはない(計算可能な将来を代表できるのは、ある1つの現在のその次を管理する目的のもとに養成された若い人材、例えばサン・シール〔フランス陸軍士官学校〕やロシア共産党幹部養成学校の学生、だけである)。そしてまた、われわれは、未来についてのそんな抽象的な権利だけで満足するつもりもない。問題は次のことである。いったいどんな無知や、だらしなさや、慎重さや、たわいない友情を理由にして、現在の研究や主義主張が、他の研究や主義主張によって無視されたり、隠されたり、取って代わられたりするのであろうか。同じく次のことも問題だ。誰が現在の几庸さの共犯者で、誰がそれに反対し、誰が妥協をもくろんでいるのか。──しかも、そのような妥協がうまくいったとしても、それが意味することは、現実の異議申し立ての「青年」がよそからやってくるのを待たなければならないということにすぎないだけになおさら、そのような妥協は空しいものである。実際、どうしたら、そのような青年、つい先頃までの長期にわたる不誠実な愚行の策動者たち──彼らは今なお、近代化という釉薬を塗ることで名誉を挽回しようと試みている──のなかに混じることができるというのか。「ある時代に可能な対立と和解の度合いは、偶然的なものである」とヘーゲルは言う。1960年代に顕著に変化しつつあるのはそのような度合いではない。偽りの和解を受け入れずに、対立の現実をありのままに認めるために必要なのは、主観的な知性と勇気の度合いである。この点に関して、客観的条件の成熟というものはないし、極左というものもない。自分の敵、すなわち自分の真実はすぐに見つけられる。
 納得できない第2の点は、既に述べたことを見事に説明するものである。それは、SIと共産党内の反対派青年グループとの比較である。そのグループは、あまりにも地下深く潜行してしまったので、全然何もしていないし、何も発表していないようである。ここでわれわれは彼らの痛い所を突いている。かくも美しき青年は、先輩だちとそっくり同じように、疑い、自らを探し求め、どっちつかずの態度をとる。まさにそんな具合に、人々は何も見つけず、また人々は、若さゆえの性急さ──実際、それは時が癒してくれよう──から、現在という汚泥を全部受け入れるのである。そのうえ、ルフェーヴルは、彼らとわれわれの対立点として、彼らはソ連に絶望していないと言っている。われわれだって絶望していない。ソ連における(そしてもちろん、イギリスにおいても)なんらかの革命的社会の将来は、たぶんファノン主義者*4がどう考えようとも、モーリタニアにおけるよりも早く実現可能と思われる。この青年グループは、「自分の時代が来るのを待って沈黙している」(それではいったい、歴史にわれわれの時代を刻印するのは誰の役目なのか)が、しかし、彼らがもう少しロシア(そしてもちろん、イギリスも)における現在の権力の「絶望的な」現実を研究していたとしたら、PCF〔フランス共産党〕の中にこんなに巧みに隠されてしまうこともないであろうに。

 何人もの人たちが最近われわれに知らせてくれたところによれば、どこかで何かちょっとした文化的な役割を担う人々が、しかじかのシチュアシオニストを個人的に知っているとか知り合いになったとか言い立てて、しかも、彼らはわれわれについての「思い出」の中で称賛と非難をない交ぜにしている、とのことである。ほとんどの場合それは嘘であると、われわれは本誌の読者に警告しなければならない。われわれはまた、詐称者を見破るのになかなかよいテストを提案することさえできる。それはすなわち、本当にわれわれと関わったことのある人々は悪口しか言わない──われわれに似た少数の者たちは別だが──し、極端な誹謗中傷に及ぶことさえ厭わない、ということである。SIとの接触についてのこれら偽りの思い出の意昧とは、いったい何だろうか。それは単純なことだ。われわれに出会うのは簡単ではないのである。われわれは対話について、その初歩的な基礎から始めるのに十分なだけ好意的な考えを特っている。その基礎とはつまり、対話が不可能なことが確実な相手には、ただちにうわべだけの対話を拒否するということである。かりにわれわれが近年の芸術界や文化界(その中でも特に、惨めなモダニストー派、すなわち、今なおそこに自分の墓穴を確保しようとしている一派) のささやかな社交辞令や論争や交流に加わっていたとしたら、われわれは誰からもまじめに理解されるに値しないものになっていることであろう。そのような芸術界や文化界は、通常、われわれの側からのボイコットに対して、われわれの存在を表向きは無視することで応じてきた。今や全然知らないふりをするにはもうSIがけっこう知られすぎてしまったために、そして、その連中は、われわれに近づく機会が依然としてほとんどなく、しかもその次第を事細かに白状するつもりも毛頭ないのだから、彼らにとって有益なのは、すでにもうSIに接触したと言い立てることなのである。それゆえ、贋物に用心すること。なんといっても、皆が皆SIから除名されるチャンスがあったわけではないのだから!

 ドイツ語でのSI誌の発行は、幾多の困難のせいで遅れており、1963年の最初の四半期になってようやく開始されるであろう。その宛先は、ドイツ、ミュンヒェン1、私書箱866号、『デァ・ドイチェ・ゲダンケ〔ドィツ思想〕』誌。『シチュアシオニスト概念小辞典』は、1962年2月にCC〔中央評議会〕によって刊行が決定されたものであるが、これまたかなりの遅れをきたすであろう。しかしこれはおそらく、内容をより充実する方向に変更されるだろう。『シチュアシオニスト革命(シチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』誌の宛先は、デンマーク、ヘルステッド=ラナス、クリスティネリュスト。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌の新しい宛先は、パリ、私書箱75−06。SIのオランダ語での出版物については、アントワープ、パールデンマルクト二番地、ティエンポント喫茶店のヤン・ストリィボッシュ*5接触するのがよい。それからイギリスについては、ロンドンNW3、ヒース街32番地、アレキサンダー・トロッチ。

 いくつかのシチュアシオニストのテクストが、「革命的な研究と方針の紀要」の副題のついた『ノート・クリティーク』誌(ボルドー、パストゥール通り25番地)の第3号に再録された。この号は全体として、以前の号で議論された路線選択(オプション)のいくつかについて、明らかに前進している(ルフォールの組織論など)。決定的な前進が示されるとすればそれは、このグループ自身の見解を、より自律的で首尾一貫した形で発表することによってであろう。このグループは、今のところなお、外部勢力──そのうちのいくつかは相容れがたいものである──を優遇しすぎている。

 ナッシュ主義者の弱小ギャング団──彼らの唯一の公の拠点はスウェーデンにあったが、しかし彼らは、そこで何人かの移民を教育して母国に送り返し、その国の混迷を助長しようと試みていた──は、もっぱら嘘を弄することにより、1つにまとまり、しばらくの間存続した。それらの嘘のうちには、ただ滑稽なだけのものもあるが、ひどく醜悪なものもある。醜悪な嘘のうち、8月のストックホルム宣言の中にある、SIに対する非難に応酬しておこう。それは、SIがミュンヒェンで裁判にかけられたドイツ人だちとの連帯を打ち出したのは、「評決が下された後のことでしかなく(……)意味のない行為で、その日のかなり遅い時刻に」であると非難している。しかし、法廷へのわれわれの介入はスカンディナヴィアの報道機関によって報じられさえしていたのだ。しかも、これらナッシュ主義者たちは、何人かの除名されたドイツ人の裁判では、ナッシユ本人が共同被告人であるとそこら中に信じ込ませるほどまでに「連帯して」いたにもかかわらず、その後、同じ新聞法違反でいっそう重大な嫌疑をかけられたラウゼンの裁判──これは本当の裁判である──を人々が□にすることすら阻止するために、スカンディナヴィアで、最大限の圧力をかけたのだ。なぜなら、ラウゼンがまだSIにいたからである。これらの嘘があまりにひどいことが明らかになったので、新聞と大衆をあれほど愛するナッシュ主義者たちも孤立するはめになった。ナッシュ主義者たちは、自分たちの行動にその名前を紛れ込ますことで、できるだけ多くの人々を巻き添えにしようとして全力を尽くし、公衆からの冷酷な否認をわが身に招いた。彼らは四分五裂し、彼ら内部の合意は、商売のチャンス次第の純粋に確立論的な組合せに従って、疲れるほどのリズムで、崩壊と成立を繰り返した。そして、彼らのたった1つのオリジナルな原則(彼らは、除名されたので、自分たちが除名の敵であることを発見した) に従って、彼らが誰でも入れるように開いておいた扉は、次の瞬間には、彼らが走って逃げ出すのにも役立った。これらの脱走兵のうちの何人かはSIに志願しに来たが、SIは、いかなる審議も例外もなく、彼らナッシュ主義を経た者たちを追い返した。
 結局、壊走のなかで、ナッシュ主義者たちは、彼ら自身の思想を出すことで一騒動起こさざるをえなかったのである。というのも、SIの思想は、危険なほど知られすぎたからであり、オルフス〔デンマークの都市〕大学で11月末にJ・V・マルティン*6によって始められた新しいスタイルの講演会の後では、特にそうだからである。彼らは、1962年12月のコペンハーゲンでの最後のナッシュ主義陣営のデモンストレーションにおいては、「シチュアシオニスト第2インターナショナル」などというはったりを言うことさえやめてしまった。そして、ポスターを通して知れ渡ったこの純粋なナッシュ主義思想は──彼らが既に8月に賛同していた改良主義とある種の伝統とを大きく越えてしまい──文化儀式に賛成して遊びの状況に反対する攻撃になってしまった。それに加えて、神と化した唯一の個人についてのメシア信仰的主題の復活と、このよく知られた歌の続きのすべてになってしまったのである。
 そんなわけで、この最初のナッシュ主義──別のナッシュ主義だってあるだろう!──は、SIに対して派手に(スペクタキュレール)反対する企てから、埃のようにして生じた。スウェーデンでもオランダでも、また特にドイツ──ドイツでは観念論的ナッシュ主義の雑誌『ウンフェルビントリッヒ・リヒトリニエン〔拘東力のない方針」』が、終未論的戯言と「リーダー狂信」への回帰の中に、シチュアシオニストの思い出をこっそりと混ぜ合わせているのであるが──でも、ナッシュ主義の悪影響は、もはやごくわずかしか見られない。結論として次のことを指摘しておこう。われわれの知る限りでは、ナッシュ主義者の平均寿命は11週間であった。

 ミュンヒェンシチュアシオニストに対して開始された裁判については、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号51頁〔本書第3巻231−232ページ〕に報じたが、その裁判の結果、この件以外の別の点に開する穏健さのせいでその間にSIから除名された4名が、5月4日、執行猶予付き禁固5ヵ月半の刑を宣告された。年末頃の控訴審では原判決は維持されたが、禁固期間については減刑され、やはり執行猶予付きであった。この第2審は、おまけに、彼らのうち隠れナッシュ主義者になった2名に対して、11月4日に間の悪い声明を発表する機会を与えた。その声明は、それまでの、彼ら──および彼らと連帯した人々──の集団弁護の立場をひっくり返して、彼らがポルノ作家だとする馬鹿げた起訴条項の1つを認めている。そしてその声明を出した人々は、意地になって、アレティーノ*7、サド、ミラー*8、ジュネ*9や古典作家たちを引き合いに出して、ポルノ作家であることはまさしく自分たちの権利であると主張している。そんなに大それた比較をしなくても、彼らが当該のジャンルで全く無価値であることは明白であるだけになおさら、あきれかえってしまう言いぐさである。
 ウーヴェ・ラウゼンは7月5日に判決を言い渡されたが、彼だけが実際に3週間投獄された。SIは、5月4日の公判に抗議したのち、2回ビラを撒いた。6月25日*10にはこの事件全体について、7月16日にはラウゼンの有罪判決について(『文化における不快』*11)である。

 レトリスムは今なお存在する。最近の出来事としては、お馴染みのルメートル*12が二重人格化した。チェスタトン*13の小説の主人公「日曜と呼ばれる男」*14にだんだん似てきた彼は、自分自身に対する反対派を組織し、タイプ印刷された2つの小冊子で自分自身と激しく論争している。その小冊子に堂々と示されているのは、些細な額の収支計算なのだが(両者の作品を封筒に入れる労苦の代金として、一方が他方に400旧フランを支払う義務があるのに、なかなか承諾しない、など)。それでもなおSIを攻撃する余地があって、彼の推算では、SIは、転用という方法を放棄することで、忌まわしい綱領のちょうど3分の1を失ったそうである。彼はとこで情報を手に入れたのだろうか。謎である。ルメートルがその同じ文書で、われわれが相変わらず漂流をとても好んでいることを、忌々しげに認めているだけに、ますます不可解な謎である。しかし、G・ケラー*15の言葉を惜りて言えば、こうなる、「ガルトンの装置のイラスト*16によって明示されたわれわれの方法のおかげて、われわれは、転用〔=方向転換〕が漂流の一般的プロセスの適切な細部であるということを、一望のもとに見ることができるようになった。この場合、問題なのは還元ではなく乗り越えである。というのも、数々の転用〔=方向転換〕を伴わない漂流などというものはありえないのだから。転用はそれ自体、漂流のさなかに区別すべき2つの立場に応じて、区分できる。すなわち、運動に対して受動的な反対に出会うか、それとも能動的な反対に出会うか、つまり、抵抗かそれとも反作用か、に応じてである。転用は、障害によって強いられる必然的結果である。この障害は、心理的なものであることも、物理的なものであることもある。しかし、それを克服する転用の瞬間は、必然的に、不思議な、意外な出会いの瞬間であり、そのような出会いはすでにランボーが明確に示したところのものである。心理の動ききにおいては、転用は、明らかに通常の連想の連鎖とは逆のものであり、それは、強いられた対象に付与された概念を完全に転位する(正確な同定が不可能になる)ことによって、そうなる。そういうわけで、転用のおかげで、ありふれた習慣の中では基本的に理解できないでいたテクストが読めるようになる。漂流の場は、──詩に関してであれ、『フィネガンズ・ウェイク*17に関してであれ、あるいは都市、風景、家、迷路、等々に関してであれ──作用している多種多様な転用〔=方向転換〕の複合体ないしはネットワークである。慣性──すなわち直線運動──の転用が少しでもなければ、漂流はできない。このことはきわめて自明だから、転用なき漂流の可能性などというものは、明らかに議論に値しない、全くのナンセンスと見なされるべきである。」

 マリリン・モンローの死*18に関して、ゴルドマンは、1962年9月6日付の『フランス=オプセルヴァトゥール』誌で、しばらく前から彼が常に論じてきた文化の崩壊についてのどの論考よりもけるかに優れた記事を書いた。かつて彼が1961年に単なる仮説として提出した諸観念(詳しくはこちらを参照のこと)は、今や、彼の論証の基礎となる確かな確認事項として提出されている。芸術における対象の不在と破壊というテーマ系を、彼は、今や明白に、分業化された労働と受動的な余暇の消費とに結びつけている。彼は、別の文化が出現するかどうかは、人間が自分の労働の用途を自由に決めることができるようなる──それは、実行者と快適な心理操作によって物象化された社会に対する唯一の代案である──かどうかにかかっている、とまで言いきる。このことが、彼が研究のテンポを速めたゆえの成果であるか、あるいは彼の読書経験における空白がうまく埋められた結果であるかはさておいて、結局のところわれわれは、彼を以前よりずっとよく理解しているのである。

 ベン・ベラ*19は、彼にとっては必然的に見えた何件もの解任と逮捕を行った後、1月初めにイタリア通信社の特派員に語ったところでは、アルジェリア憲法制定議会──そのメンバーは全員、彼自身が任命した──の全会一致の投票を論拠にして、次のように結論した。「アルジェリアに反対派はいない。少なくとも、今はもういない」。それにしても、独立アルジェリアが、政令と法律によって、階級の廃絶、豊かさ、大衆の自立、人間関係の透明さといったものを実現したと信じるほどのおめでたい空論家(イデオローグ)などいるわけがないのだから、次のように結論付けざるをえないだろう。アルジェリア革命は凍結された。それもたそれもたぶん長期にわたって。
 アルジェリアの革命的大衆は、とことん戦い抜き、自分たちの知っている恐るべき敵にはすべて勝利した。しかし彼らは、予想だにしていなかったよく知らない敵対勢力に、あっけなく負けてしまった。そんな勢力と対決する準備など全くできていなかったからである。FLN〔アルジェリア民族解放戦線〕の指導部は、確かに、一枚岩の団結という不寛容な(テロリスト)イデオロギーを長年にわたって組織してきたが、そのイデオロギーの背後では、とらえがたい動機を持つグループどうしが、指導者レヴェルで、激しく衝突し合っていたのである。アルジェリア人の置かれた過酷な諸条件と孤独な闘争の長さのせいで、革命の明確な計画は未発達だった。明確な計画がなければ、差し迫った闘争の士気──それはそれ自体のうちに希望の全体を含んでいる──があっても、その勝利は大いに失望させるものになってしまう。アルジェリア人を支援したフランス人はほとんど皆無だった。支援という語を、ただ解放戦線のスーツケースを運ぶ*20だけではなく、主要な問題の理解のために現実主義的な批判と理論の部分も支えるという意味で用いるならばである。その問題とは、フランス軍と人種差別主義的少数派の敗北に際して必然的に生じた問題のことである。逆に、一機関をそっくり丸ごと承認したがる傾向──それは左翼急進主義キリスト教徒や失望して「アルジェリア党」に移ったスターリン主義者に見られる特徴である──は超−人民戦線主義的な幻想を助長した。しかしおそらく今日では、その幻想は破れ去り、反対側の極端へと転にていることだろう。すなわち、あまりに意外な結果を目の当たりにしての、茫然自失と落胆へと。
 もっとも、1962年夏の危機において唯一の意外な点とは、まず、非常に簡単なものではあるがどれも同じような方針を掲げて権力を掌握するために闘った武装集団の形成の極端な速さと極端な混乱であり、次に、武力衝突に反対(ゼネストの脅しなどで)しながら、同時に、対立党派をはねのけようとした自発的な運動グループの脆弱さであった。
 すべては、〈政治局〉が権力を奪取したやり方でもって、9月に決着がついた。もっとも、第4管区の引っかき回し屋たちの無実は証明されなかったが。彼らは、アルジェの「自治ゾーン」の清算の際に奇妙な行動をとり、また──アルジェヘの道を封鎖して──武力による決着を繰り延べるための手をなんら打たなかった。その武力による決着は、彼らのたちまちの失墜となって現れたのみならず、また、アルジェリア解放運動全体にとって後戻りできない変更でもあったのである。オルレアンヴィル*21周辺とボガリ周辺の戦闘が意味するところは、それ以後、アルジェリア革命の陣営において、討論が重武装によって打ち切られるだろうということだったのである。
 労働者としてフランスに働きに戻ってきたり、アンゴラの反植民地主義闘争を続行するために出発しようとしているアルジェリアの闘士たちの失望以上に、また、法律や規則におけるイスラム化の表れ以上に、あるいはまた、慎重な農地改革や、政府の手先による組合大会の露骨な横取りまで約束された農民たちが行った最初の一揆以上に、われわれから見ると、ある1つの特別な事実こそが、アルジェリアの革命運動が社会の掌握にどれほど失敗したかを明らかにしてくれる。その事実とはすなわち、1月2日、アルジェリア・プレス・サーヴィス通信社が、その第1報で、9月の戦闘が「1000人以上の死者」を出したことを明らかにしたことである。2、3日後、同通信社は、その件で犯した誤りを訂正し、死者10」人ぐらいと見積もった。この2つの数字が相次いで発表されたことだけで、今やアルジェリアに近代国家が確立していることを証明するのに十分である。 

 1962年10月、カトリック教会の最後の公会議*22がローマで始まった。

 キューバをめぐる危機*23は、1962年4月の本誌の「冬眠の地政学」における2つの主張の例証となった。まず第1に、決して熱核戦争をしないが、「起こりうる戦争のスペクタクルのなかで常により高いところ」へ昇るという、ロシアとアメリカの共同決定。しかるに、米国では、そんな時でも、「防御率」のかなり低い無用のの核シェルターを作ってきた。もう1つは、大きく前進したキューバ革命を、新レーニン主義イデオロギーの選択によって、清算しようと企てたこと。初期段階のキューバの指導者たちが、自分たちはよそから派遣された官僚によって、やすやすと単一政党の主導権を奪われたりしないだろうと明言した(3月26日のカストロ演説*24)にしても、彼らはまた、自国の防衛をロシアの兵隊と核ミサイルに盲目的に任せきっていることも明らかにしたのである。ロシアは、芝居がかった世界戦略に関する自らの誤算のせいで、その点における全面的な潰走──それは世界分割のバランスにおける新時代を開くものである──を余儀なくされたがゆえに、キューバの指導者たちを見捨てた。また、ケネディ政権は、何が何でもカストロ体制を政治的に転覆すること以外にいかなる「戦略上の」関心もない。この2つのことから、非常に危うくなっているキューバ革命の命運は、ひとえにラテンアメリカの大衆の手中にあると言える。この潜在的な蜂起の脅威だけが、今なおキューバアメリカ軍の上陸作戦から守ってくれているのであって、フルシチョフなり他の誰かなりによる保証によって守られているのではない。すべては、結局、キューバが今後どんな新しい社会の範例を示してくれるか、にかかっている。その点については、権威主義的な新レーニン主義(労働手帳)と、アメリカの封じ込め作戦による経済的、軍事的な圧迫とが相挨って、こうした範例を堕落させる方向に向かっていると言わなければならない。

 シチュアシオニスト・インターナショナルの第6回大会が、1962年11月12日から16日にかけて、アントワープで、すばらしい建築条件と遊戯条件のもとに、開催された。今大会では、イェーテボリ〔の第5回大会〕以来の、SIの急進化の諸問題全般が討議された。すなわち、シチュアシオニストとしての首尾一貫性、外部の好意的な諸潮流や敵対的な諸潮流とわれわれとの関係を正確に規定すること(反ナッシュ主義闘争)、当面の非合法活動と実験である。
 今大会は、SIの組織再編を決定した。すなわち、SIを唯一の統一中心機関(センター)と見なし、国別のセクション分けを廃止することにしたのである。このセンターは、地方のグループから派遣された代表で構成されるものではなく(そのようなグループが、結成された時からすでに、SIの外で自律性を保つことを、われわれは奨励するだろう)、自らを、新しい異議申し立ての理論の利害を全体的に代表する機関と見なすものであるが、しかしそこから、下位勢力に対するいかなる指導的な役割も導き出さないであろう(「われわれの権限……われわれはそれをわれわれ自身からしか委任されていない」)。アントワープで任命された最新のCC〔中央評議会」は、翌年に候補者の中からSI──その頃には、そっくり例のセンターに変わっている──の参加者(全員の理論的、実践的参加の平等なレヴェルで)として認められる者を選ぶ任務も持つことになるわけであるが、このCCはミシェル・ベルンシュタイン*25ドゥボール*26コターニィ*27、U・ラウゼン、J・V・マルティン、ヤン・ストリィボッシュ、A・トロッチおよびヴァネーゲムから成っている。
 SIの実践的作業は、文化的、言語的な条件のまとまりに即して、地域別に分けられた。シチュアシオニストは、自分の出身や地理的な位置に応じて、反NATO北大西洋条約機構〕の次のようなゾーンに向けた、われわれのセンターの特派員の任務を分かち持つことになる。第1の地域(北欧)は、スカンディナヴィア諸国とアイスランドから成る。第2の地域(中欧)は、東西両ドイツ、オーストリア、スイスを含み、加えて東欧に向けたわれわれの接触を展開しなければならない。大西洋地域は、ブリテン諸島〔英国、アイルランドなど〕と米国から成る。第4の地域(西欧)は、フランス、ベネルクス三国、イタリアを受け持ち、加えて、密かに、イベリア半島も引き受けることになろう。最後に、まだ潜在的なものでしかないが、第5の地域(アフリカ・アジア)は、世界の半分を占めるこの地域における、現在はまばらなわれわれの連絡網をまとめるのに役立つであろう。第4の地域が、さしあたってそれらの連絡網を統括する任に当たることになろう。SIの実質上の4つの地域は、できるだけすみやかに、それぞれの雑誌を持つ必要があるだろう。なお、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌は、第9号から、西欧地域のシチュアシオニストの表現に専用のものとして充てられるだろう。
 SIの第7回大会はウィーンで開かれることが、アントワープで決定された。

*1:『1945年以降のパリの文化的前衛』 ロベール・エスティヴァル自身が監修するバリのギー・ル・プラ出版社の叢書「美の前衛」シリーズの第1巻として出版された本で、「歴史の哲学 という副題が付いている。

*2:口ベール・エスティヴァル フランスのレトリスト・批評家。イズーのレトリスムから分かれた自称ウルトラ−レトリストとして、1957年から59年まで雑誌『グラム』を刊行、レトリストのデュフレーヌ、エスティブヴァル、ヴォルマン、ジャン=ルイ・ブローの詩・批評・バンフレット類を掲載した.後には、CNRSの研究者となり、古書物学(ビブリオロジー)なる学問を姶めた。著書に『1945年以降のバリの文化的前衛』(63年)、『綜合的表意文字的ハイパーグラフィー』(64年)、『前衛』(68年)『構造主義から図式主義へ』(83年)、『世界の書物──国際的書物学(ビブリオロジー)序論』(83年)、『書物学』(87年)。

*3:アンリ・ルフェーヴル(1901−91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にスターリン批判と共産党アルジェリア政策批判を軸とした雑誌『レタンセル(火花)』を発行してフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の1人として活動,高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、1958、第2部、61年。その『序説』は1947年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与え九50年代末から60年代にかけては、都市論や大衆社会論に関心を向け、シチュアシオニストにも接近した。ここで触れられている『現代への序説』では、その第12章「第12のプレリュード 新ロマン主義は可能か」のなかで、彼の唱える「新ロマン主義」を体現する者たちとして、シチュアシオニストを挙げ、それを手放しで賛美している(邦訳、宗左近・古川幸男監訳、法政大学出版局、(下巻、435−439ページ)

*4:ファノン主義者 フランツ・ファノン(1925−61年)は、仏領マルチニック島生まれの医師・革命家で、53年から56年アルジェリアの病院で医師として働く中から、56年以降FLNに参加、反植民地主義の思想を作り上げる。著書『黒い皮膚・白い仮面』(52年)、『地に呪われた者」(61年)、『アフリ力革命に向けて』(64年、死後編巣)などで展開された革論・暴力論によって、第三世界の革命運動と西欧の第三世界主義者に大きな影響を与えた。

*5:ヤン・ストリィボッシュ オランダ国籍のシチュアシオニスト。STべルギー・セクションに所属し、中央評議会のメンバーとして活勤し、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第8号と第9号の編集委員を務める。1966年7月のSI第7回大会で、すでに脱退し何の活動もしていなかったルディ・レンソンのSI復帰を求めたために除名。

*6:イェッペセン・ヴィクトール・マルテイン デンマーク国籍のシチュアシオニスト。SIスカンディナヴィア・セクションに所属し、1962年以降、中央評議会委員として活動、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第8号から第11号までの編集委員、『シチュアシオニスト革命(シチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』誌の編集長を務める。1972年のSI解散まで、除名も脱退もしなかった数少ないメンバーの1人。

*7:ピエトロ・アレティーノ(1492−1556年) ィタリアの劇作家、艶本作家。ルネサンス人の持つ自由で闊達な気風を鮮やかに体現した文学者の1人。銀行家や教皇など権力者の庇護を受けながらも、王侯貴族の生活を暴く痛烈な風刺作品を書きまくった。

*8:ヘンリー・ミラー(1891−1980年) 米国の作家。パリで発表した小説『北回帰線』(34年)、『南回帰線』(38年)で性の問題を大胆に描写し、フランスで起訴され、米国でも61年まで出版されなかった。他の作品に『冷房の悪夢』(45年)、『セクサス』(49年)など。

*9:ジャン・ジュネ(1910−86年) フランスの小説家。パリで私生児として生まれ、7歳で里子、15歳で感化院に送られ、その後、乞食・泥棒・男娼などをして諸国を放浪して投獄され、獄中で詩・小説を書く。『花のノートルダム』(49年)がサルトルに認められ、多くの知識人の活動によって釈放。以来、『泥棒日記』(49年)など多くの小説や戯曲を書く。

*10:6月25日 この日にまかれたSIのビラとは『ドイツ達邦でのシチュアシオニスト・インターナショナルに対する裁判に関する宣言』のこと。フランス語で書かれ、ミシェル・ベルンシュタイン、J・V・マルティンアレキサンダー・トロッチ、ラウル・ヴァネーゲムの署名がある。

*11:『文化における不快』 「シチュアシオニスト、ウーヴェ・ラウゼンの有罪判決について」という副題の付いたこのビラは1962年7月12日にドイツで配布され、62年10月にデンマークで発行された『シチュアシオニスト革命(シチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』誌 第1号に採録されたもので、「SIのために/ドゥボール ヴァネーゲム」という署名がある。フロイトの同名の論文のタイトルを用いたこのビラの内容は、62年7月にミュンヒェンで下されたウーヴェ・ラウゼンヘの有罪判決(3週間の懲役刑)に抗議し、西ドイツの裁判官がナチスの協力者だったことを糾弾するものである。

*12:モーリス・ルメートル(本名モイーズ・ビスミュト 1926−) フランスのレトリスト。1949年、イジドール・イズーと出会い、レトリスム運動に参加。以後、ドゥボールらがレトリスト・インターナショナルを結成した時には、イズーの側に立ち、以後、終始イズーとともに行動した。50年に発表した著作『イヌとネコ』において、レトリスムに音楽的次元を加え、また、より純粋なレトリスム(文字主義)を提唱し、レトリスムの詩論を完成させるとともに、自ら「パイパーグラフィック」と名付けた絵文字・象形文字などで構成されたレトリスム絵画や造形詩、「失語詩」と呼ぶ音響詩、『映画はもう始まった』(51年)などの映画まで幅広い作品によってレトリストの最も積極的で革新的な芸術家に数えられる。詳しくはこちらを参照。

*13:ギルバート・キース・チェスタトン(1847−1936年) 英国の小説家・批評家・詩人、英国の新聞の寄稿者として警句や逆説を駆使した文芸・社会批評を行い、カトリックの立場から、バーナード・ショーH・G・ウェルズらと論戦。詩、随筆、小説でも活躍し、特にブラウン神父を主人公にした推理小説シリーズで有名。作品に『木曜の男』(1908年)、詩集『白鳥の歌』(01年)、評伝『ディケンズ』(06年)など。

*14:「日曜と呼ばれる男」 チェスタトンの小説『木曜の男』(1908年)の登場人物。『水曜の男』は、アナキストたちの不思議な集まりを描き、そこでは1人1人が互いを探るスパイとされているが、最後にみな仲間であることが判明する「カフカ的」な小説。「日曜」はヨーロッパ無政府主義中央会議の議長であるが、同時に(これは物語の最後で明かされる)警察の局長として、無政府主義と闘うスパイを組織する。

*15:オルグ・ケラー ドイツのシチュアシオニストだが詳細は不明。

*16:ガルトンの装置のイラスト 本書第1巻63ページに収録された「ガウス曲線の自動作図装置」のイラストのこと。

*17:フィネガンズ・ウェイク ジェイムス・ジョイス(1881−1941年)の1939年刊の作品で、ダブリン郊外の居酒屋の主人イアウィッカーとその妻アナ、彼らの双生児の子供シェムとショーン、その妹イシーの現実の相の物語と主人公HCEの語る夢の物語が混じり合い、多層構造のなかに展開する。ジョイスの文学の集大成にして20世紀最大の実験文学として、さまざまな言語実験が行われている。

*18:マリリン・モンローの死 1962年8月5目、マリリン・モンロー(1926−62年)がロサンゼルス郊外の自宅で死亡しているのが家政婦によって発見された。モンロー急死の知らせは世界中でトップニュースとなり、『ロサンゼルス・タイムズ』は1面から3面までをその写真と記事で厘めた。直接の死因は睡眠薬の飲み過ぎで、17日にロサンゼルス警察は自殺と発表したが、遺書もなく、直前に誰かから電話がかかってきて、受話器を持ったまま死んでいたことなとがら、後に、ケネディ大統領とのスキャンダルを葬るための他殺説も流れた。

*19:アハメッド・ベン・ベラ(1916−) アルジェリアの政治家。1954年の独立革命戦争勃発時の指導者の1人であり、56年に逮捕されフランスに監禁された。62年3月に釈放されると、暫定政府メンバー(アルジェリアの独立は同年7月)との間で激しい権力闘争を展開したが、軍隊の支持を得て政敵を追放し、同年9月アルジェリア共和国首相に就任、翌年憲法を制定して初代犬統頷に選ばれた。

*20:解放戦線のスーツケースを運ぶ フランス国内でアルジェリア民族解放戦線を資金的に援助するネットワークを作り上げたフランシス・ジャンソンの機関の活動を指している。ジャンソン機関の活動家や支援者たちはFLNの軍資金をスーツケースに入れてフランスからスイスに運んだことから、当時のマスコミは彼らを「スーツケースの運び手」と呼んだ。

*21:オルレアンヴィル アルジェリアのオラン地方の都市。1954年10月19日激しい地震に会い、1400名の死者を出した。独立後エル・アスナムと改名されたが、その後再び地震で壊滅し、再建されシュレフと3度改名された。

*22:カトリック教会の最後の公会議 1962年10月11日から5年間にわたって開催されたヴァチカン第2回公会議で、現代世界における教会の役割の刷新を試みた。

*23:キューバをめぐる危機 1962年10月14日から28日にかけたミサイル危機と呼ばれる事態で、キューバに設置されたソ連のミサイル基地をめぐり、米ソの緊張が高まり、核戦争勃発の瀬戸際まで行ったが、最終的にはソ連がミサイル基地を撤去し、米国は海上封鎖を解いた。

*24:3月26日のカストロ演説 1962年3月26日、フィデル・カストロがラジオ・テレビを通じて行った演説で、その中で、彼は、旧人社会党共産党)の幹部で統一革命組織の指導部員であるアニバル・エスカランテのセクト主義的行勤を突然非難した。

*25:ミシェル・ベルンシュタイン(1932−) 1957年SI結成斯以来のシチュアシオニスト。SIフランス・セクションで活勤し、1967年脱退。本書321ページの訳注を参照。

*26:ギー・エルネスト・ドゥボール(1931−94年) フランスのシチュアシオニスト。パリに生まれ、50年代初頭にイジドール・イズーレトリスム運動に参加、52年、イズーの神秘主義化に反対し、ジル・ヴォルマンらとレトリスト左派を結集した「レトリスト・インターナショナル」を創設、自らは映画作品や転用芸術を作りつつ、「転用」、「漂流」、「心理地理学」、「新しい都市計画」などの芸術批判・日常生活批判を軸としたアヴァンギャルド芸術運動を展開。1956年に「シチュアシオニスト・インターナショナル」(SI)を創設し、1972年にSIを解散するまで、一貫してその中心メンバーとして活動。

*27:アッティラコターニィ ハンガリー国籍のシチュアシオニスト。SIベルギー・セクションに所属して活動。1963年10月、ヨルゲン・ナッシュを擁護したことを理由にSIを除名。