パリ陥落

訳者改題

 パリは、支配的文化が崩壊する時期に、さまざまな探求の主要中心地であり、あらゆる近代的な国々──そこではどこも同じグローバルな文化の問題が繰り広げられていた──に生まれた経験と個人が集中される地点であった。この役割は、パリが第二次世界大戦後までほとんどずっと引き受けてきたものだが、それも今や終わってしまった。
 ここでは、現代文化の革新的潮流のこうした地理的分極化を助長していた条件の全体を検討したり、それらの条件を覆すものを検討したりせずに、次のことを指摘するにとどめておこう。すなわち、われわれの時代の文化的前衛は必然的に、自由というものを、イデオロギー的にだけでなく実践的にも、全面的に肯定することと同一の利害で結ばれている。文化的前衛は、まず、否定をめざす時期の間に、このような自由の肯定と結びつく、というのも彼らは生の支配的な組織化に対する否定を表現するからである。そして次に、建設的探究をめざす時期にも、この文化的前衛は、社会生活における新しい道具とその新たな使用法を発明する試みを携えて、いっそう自由の肯定と結びつくのである。
 この自由はもちろん、文化に関する権威が『沈黙の声』の憐れむべき作者*1にさえあるような権威主義的な政治体制下には存在しえない。だが実際は、それ以前の体制においてすでにそうした自由は除去されていたのである。同じ資本主義社会がその時もその左翼のスタッフに民主主義的に統治されていたのであり、そうしたスタイルの改良主義進歩主義に呼応して、無力と反復が非公式だが実質的には独占的なやり方で、文化部門を支配していたのである。当時の文化部門は、過去の偉大な作品の猿真似をするかわりに、新奇なものの経験の猿真似をしていたにすぎない(「レ・タン・モデルヌ*2」のような雑誌が当初の主張に比してどのような成果を生んだかを参照せよ)。同じ1つの運動によって、この左翼の政治的過激主義者たちは社会秩序を打ち破りたいとはさらさら思っておらず、知的過激主義者は空っぽにされた文化の型どおりの枠組もモダニストの観客の趣味も打ち破りたいとはさらさら思っていない。フランスのブルジョワジーの永続的な危機は、1958年5月*3にその頂点に達した時でさえ、必要な革命的脱出口を見出すことはできなかった。パリは護衛付きの博物館都市になったのである。
 フランスのあらゆる進歩的粗織は、互いに騒々しく争ってはいるが、まるで権力を手にした幸運な従兄と仲良しだとでもいうように、彼らは本質の所では互いに意見が一致していた。この意見の一致の基礎にあるもの、家族の遺産に対するより次元の高い利害、それは支配的な社会を維持することであった。せいぜい、彼らはいくつかの別々の改善策を提案していただけだ。政治体制が変わってからも、この本質的一致はいっそう強められ拡大された。それは、市民的平和を維持するという絶対的な選択によって表現されたし、いまだに表現され続けている。
 フルシチョフが彼の党の第20回大会で行った打ち明け話*4を読んで、一瞬にして、この30年間の労働運動史を学んだ革命的思想家のほとんどすべてが、変革への熱狂にとらわれた。だが、そうした人々もそれほど遠くまでたどり着いたわけではない──しかも、それほど早くそこに行ったわけでもない──ので、大半の者はすでに疲れはててしまうか、それとも、自ら驚嘆しつつ見出した折衷主義に戻って行ってしまった。
 左翼の大ブルジョワはといえば、彼らは容易に過激に走ることができる。なぜなら、彼らが革命の最も過激な暴力と考えているもの(PCF〔=フランス共産党〕の安心できる官僚主義)は、彼らの習慣からそれほど遠いものではないからである。が、またそれは、アルジェでの戦闘の時にフランスの道徳的・愛国的次元の装飾(デコール)に対して彼らが、偉大な領主として、無造作な態度をとることを主張するためでもある。だが、この左翼思想(ゴーシスム)は、彼らを型にはめて培っている慣習のたった1つでさえ──どれほど低いレヴェルでも──問題にするよう、彼らに強いるまでにはいたらない。それゆえ、カスト*5とドニオル=ヴァルクローゼ*6は、彼らの映画は社会のくだらない紋切り型を集めただけだという非難に答えて、「映画に関する参加(アンガジュマン)がなければならないとすれば、それは登場人物に関するものであ」り、映画に関するものではないと、述べたのだ(『フランス・オプセルヴァトゥール』誌*7、60年2月25日号)。
 蜂起したアルジェリア人民に対するフランスのさまざまな「革命的」組織の援助が絶対的に不足しているために、当然のことながら、純粋に個人的な反応(脱走兵、FLNのフランス連絡網)が一般化する状況が生まれている。そうした事実を眼のあたりにして、左翼も馬脚を現す。ブールデ*8は、フランシス・ジャンソン*9のネットワークが「平和のための全左翼の行動」の信用を失墜させる手助けになると考えて逆上しているが、その信用の失墜なるものは6年にわたる完全な無関与という態度のなかにすでに刻み込まれていたものである。道徳家(モラリスト)のジルー*10は、3月10日付けの『レクスプレス』誌で、とりわけ、まだ責任も取れない大きな子どもの脱走を助けていると驚いている(「人間が犯しうる最も重い〔犯罪〕行為の1つを明噺に意識しつつ達成できるだけの強い判断力を身につけてきた20歳の少年がどれだけいるというのであろうか?」)。彼らは待つことができないのか。平和のための行動をするならまだしも、この年齢で脱走するなんて! 逃げ去ることのできない民族共同体、越えることのできない敷居の話をよく耳にする。その敷居がジェラール・シュピッツァー*11セシル・ドゥキュジス*12ジョルジュ・アルノー*13のいる監獄の敷居であるときには、左翼は彼らを擁護する声を上げないという良い趣味をお持ちのようだ。裏切りという非難によって長いあいだ怖じ気づかせることができるのはきっと、万国の被搾取者の大義以外に「裏切る」危険を冒すに値するものが存在すると考えている者たちだけだろう。
 政治情勢のいくつかの側面は、実験的文化におけるパリの特権的役割の終焉を早めている。だが、それは不可避的な衰退が単に早まったということを意味するにすぎない。パリヘの国際的集中なるものは、もはやそれまでの習慣を表現するもの以外の何物でもなくなっていたのである。地球規模で統一された新しい文化は、真に革命的な社会的条件が出現するところでしか発展しえない。それはもはや、どこかの特権的な地点に固定されるものではなく、新しい社会形態の勝利とともにいたるところに広がり変化してゆくだろう。結局のところ、その大部分を請け負うのは白人種の国ではあり得ないだろう。不可避でありかつ望ましくもある地球規模での大々的な混血が実現する前に、自分たちの運命を自らの手に取りはじめた黄色い民族と黒い民族が、そこで主役を演じることになるだろう。われわれは、榊民地化された低開発諸国の民族が自らの手で解放を成し遂げることによって、工業化においても、文化と、一切のものから自由になった生の使用そのものにおいても、他の場所でたどられてきたさまざまな中間段階を省略する可能性があることを高く評価する。シチュアシオニスト・インターナショナルは、ブラックアフリカラテンアメリカ、アジアの前衛的要素との結びつきを何にも増して重視する。将来においても、今ただちにもである。

*1:アンドレ・マルローのこと。マルロー(1901−76年)は、第二次大戦前、「行動する作家」として、中国を舞台にした『人間の条件』(1933年)、自らも参戦したスペイン内戦を扱った『希望』(37年)などの小説を書いたが、戦時中、レジスタンスに加わって闘った後、戦後は芸術への関心に沈潜し、『芸術の心理学』(47年)、『沈黙の声』(51年)、『神々の変貌』(57年)など、一連の芸術論を書く。同時に、共産主義を否定し、ド・ゴールとフランス第5共和制の文化政策に積極的に関わり、1958年から69年まで文化大臣を勤めるにいたった。

*2:1945年、サルトルが、メルロ=ポンティボーヴォワールらと共に創刊した雑誌。実存主義左翼知識人の結集軸としてクロード・ルフォールフランシス・ジャンソンアンドレ・ゴルツ、クロード・ブールデら数多くが協力した。

*3:アルジェリア戦争の最中、アルジェで、ド・ゴールの復帰と公安委員会の設置を求めて右翼植民者(コロン)と軍が反乱を起こし、フランス本土への空爆が噂されるなか、ド・ゴールが政権に帰り咲くことで収拾が図られた「アルジェリア危機」の時期のこと。第1巻「あるフランスの内乱」を参照

*4:1956年ソ連共産党第20回大会でフルシチョフが行ったスターリン批判のこと。「打ち明け話」とは、フルシチョフがこのスターリン批判を、平和共存・戦争回避の可能性・社会主義への移行の多様性を論じた大会報告後の「秘密報告」のなかで行ったことを指している。これ以降、東欧での自由化が始まった。

*5:ピエール・カスト(1920−84年) フランスの映画監督。『ルヴュ・デュ・シネマ』、『カイエ・デュ・シネマ』などで映画批評家として出発し、1949年から短編映画の監督を、1957年からは長編映画の監督も手掛ける。短編に『クロード=ニコラ・ルドゥー――呪われた建築家』(54年)、『ル・コルビジェ――幸福の建築家』(56年)、『映画虐殺(シネマサクル)』、『プレイアード百科事典』(1950年、ボリス・ヴィアンとの共作)、『実存の魅力』(1950年ヴェネチア・ビエンナーレ短編映画グランプリ)など、長編に『ポケットの恋』(57年)など。

*6:ジャック・ドニオル=ヴァルクローゼ(1920−) フランスの映画批評家・映画監督、『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者の一人。代表作に『水を口に』(1960年)、『ときめく心』(61年)、『煉瓦の家』(70年)など。ピエール・カストの映画『うるわしの時代』、『ポルトガルの休暇』、ロブ=グリエの映画『不死の女』などに俳優としても出演している。

*7:『フランス・オプセルヴァトゥール』誌 クロード・プールデが1950年に創刊した左翼政治週刊誌。

*8:クロード・ブールデ(1909−) フランスのジャーナリスト・政治活動家。劇作家エドゥアール・ブールデと作家カトリーヌ・ポッジの息子として生まれ、チューリッヒ理工科大学を卒業後、1942年からレジスタンスの機関紙『コンバ』の編集委員、また〈レジスタンス国民会議〉のメンバーとして活動。44年ゲシュタポに逮捕され、戦後、解放されてからラジオ放送局長をした後、47年から50年まで再び『コンバ』紙の編集長をし、50年、左翼政治雑誌『オプセルヴァトゥール』を創刊。52年には〈独立左翼行動センター〉、54年に、〈新左翼〉、57年に〈社会主義左翼ユニオン〉、60年に〈統一社会党〉の設立のメンバーとなり、既成左翼の統一のための運動に勢力を注ぐ。60年代には〈国際軍縮平和連盟〉の中心メンバーとしても活動した。

*9:フランシス・ジャンソン(1922−) 第一次世界大戦後、サルトルが創刊した『レ・タン・モデルヌ』の編集委員として活動していたが、1955年、妻のコレットとの共著でアルジェリアの独立をめざすFLNの初期の戦いとフランス植民地軍の弾圧を描いた『法の外のアルジェリア』を発表したことがきっかけとなり、翌年、FLNと接触、57年10月からFLNを支援する非合法のネットワークを形成する。当初は40名程度で出発した「ジャンソン機関」と呼ばれるこのネットワークにはキリスト者共産党を離脱した知識人・青年ら多くの人間が連なり(1960年初めには、その数は4千名までになっていた)、トゥールーズ、リヨン、マルセイユなどフランスの各都市のみならずベルギーなど国外にも広がっていった。ジャンソンのネットワークは、FLNがフランス国内で調達した資金を第3国(特にスイス)の銀行に運搬したり、FLNの活動家へのアジト提供や移送というFLN支援の具体的活動のほか、フランス人の若者に対して脱走と戦闘拒否の呼びかけを行い、〈若きレジスタンス〉という反戦青年組織を作り出すなどの成果を上げた。ジャンソンのネットワークは創設から3年間もフランス警察の網をくぐり持ちこたえたが、1960年2月に初の逮捕者を出し、大々的に弾圧され、ジャンソン自身は地下に潜行した後、スイスに亡命した。

*10:フランソワーズ・ジルー(1916−) フランスの評論家・政治家。第二次世界大戦後、ジャーナリズムの世界で活躍し、女性誌『エル』の編集長を務めた後、1953年に週刊誌『レクスプレス』の共同創刊者となり、中絶の自由など女性の権利のために活躍した。その後、政界に進出し、1974年から77年まで、女性相大臣、文化大臣を務めた。

*11:ジェラール・シュピッツァー(1928−) 1943年、15歳でレジスタンスに参加し、戦後、フランス共産党のパリ11区細胞の中心人物として活躍。1956年、ヴィクトル・ルデュック、アンリ・ルフェーブル、フランソワ・シャトレらが、共産党スターリン支持とアルジェリア戦争政策に反対して創刊した共産党反対派の機関紙『レタンセル(火花)』に参加、その編集・配布に協力する。翌年、フェリクス・ガタリ、ドニ・ベルジェらのトロツキスト・グループと接触。彼らとともに1958年『共産主義の道』を創刊、その編集長として、スターリン批判とアルジェリア独立運動支持を明確に打ち出して活動。1959年9月、FLNの活動家との関係を口実に逮捕され、その後ずっと獄中に囚われたまま、1960年6月の軍事法廷で懲役18ヶ月の刑に処せられた。

*12:セシル・ドゥキュジス 映画の編集の仕事をしながらFLNの支援を行った。彼女は自分名義で借りたアパルトマンをFLNの活動家に使わせていたという容疑で、1958年8月に逮捕され、60年3月に懲役5年の判決を受けた。

*13:ジョルジュ・アルノー(本名アンリ・ジラール 1918−87年) フランスの小説家。1949年に発表した小説『恐怖の報酬』(クルーゾー監督が1952年に映画化)ですでに有名だったが、57年に、ジャック・ヴェルジェスとの共著『ジャミラ・ブーヒレッドのために』(FLNのために爆弾を運んだ容疑で逮捕され、拷問の末、有罪判決を受け処刑されたアルジェリア人の少女ジャミラを擁護する本)を発表し次第にアルジェリア戦争に関心を寄せてゆく。1960年2月、ジャンソン機関の〈若きレジスタンス〉のメンバーの一斉逮捕によってフランス本国内でFLNを支援する機関の存在が初めて公のものになり、ジャンソンは地下潜行するという状況の中で、アルノーは4月、指名手配中のジャンソンとの会見記事を日刊紙『パリ=プレス』に掲載して逮捕された。6月に開始された彼の裁判は出版の自由(取材源の秘密保持の権利)を守るための戦いとなり、アルノー側の証人として、サルトル、フランソワ・マスペロ、ピエール・ヴィダル=ナケといったアルジェリアの独立支持派のみならず、フランスのアルジェリア統治を支持する日刊紙『オロール』の編集長ロベール・ラジュリックまでもがアルノーの弁護を行うと同時に、200名のジャーナリストが声明を発表してアルノーの行動を支持する証言をした。アルノーへの判決は懲役2年(執行猶予付き)だったが、この裁判を通じて、FLNの闘いの正当性とフランス政府の不当な弾圧の実体をフランス人自身の手でフランス中に暴露した意義は大きかった。