絶対自由主義者ダニエル・ゲランのアルジェリア

 1965年12月、ダニエル・ゲラン*1は、『アルジェリア軍事独裁化されたか?』というパンフレットで、ブーメディエン体制について興味深い分析を公にした。彼によると、6月には何も起こらなかったらしい。あいかわらず古い図式に忠実な彼の目には、クーデタの前も後も権力についているのはボナパルティズムであって、それは古典的に2つの前線、つまり、「現地人所有階級による反革命」と自主管理労働者たちの不吉な熱狂の両面で戦っている。そして、対外的には、「資本主義国と社会主義国の間での巧みな平衡を誰もが等しく望んでいる」(6ページ)。「いわゆる『革命評議会』のいかなる宣言にも、いささかの革新も、独創的な政策の形跡も見ることはできない。」(10ページ)。それでも、11月5日付の主要なテクストを執筆しているときには、ゲランは、いくつかの新しい──だがそれは単に潜在的なだけだったのだが──所与を見分けていると思っている。つまり、クーデタの支持者たちは、その意に反するかのように「右翼」の方に引きずられていったのだが、彼にとってこれは、「反社会主義的な政策を予告するもののように思われる」(11ページ。強調は引用者による)。ゲランがベン・ベラの体制とブーメディエンの体制の顕著な違いを無視するのは、この2人が「絶対自由主義社会主義」と自主管理の自他ともに認める信奉者である1革命家〔ゲラン〕に抱かせる軽蔑と等しい軽蔑によってゲランが情緒的に引きずられているせいだと、信じる人がいるだろうか? そんなことを信じる者はいない! 彼が将来の革命的な解決として勧めるのは、べン・ベラの復権だけなのだ。「今日のアルジェリアにおいて、ベン・ベラを基準にすることなく、あるいは、ベン・ベラ主義の包括的な政治批判を通じて、軍人による体制に反対する人民的な勢力を結集することは、あらかじめ失敗を約束された企てと言えるだろう」(17ページ)。だから、6月19日以前のべン・ベラ体制による労働者に対する度重なる攻撃、その警察官と軍人による所業──実際は、今日と同じものである──は、ゲランにとって受け入れられる方向の「過ち、弱点、欠陥」にすぎなかった。つまり、王様は良い助言が与えられず、情報が片寄っていた、それゆえ決して責任はないというわけだ。ベン・ベラ政権が大衆に対して公然と行った闘争を、ゲランが知らずにいることはありえないのだから(彼自身が素晴しい資料を、なかでも〈土地労働者大会〉に関するものを提供している)、彼は、ベン・ベラを彼自身の体制から完全に切り離して歴史を再構成しなければならないのである。12ページにはこう書かれている。「自主管理のサボタージュは、組織的で、確かにベン・ベラの知らないうちに行われた」。2ページには、「今になってみればよくわかるが、実のところ、ペン・ベラは決して自由に動けたわけではなかったのだ。つまり3年近くの間、彼はブーメディエンの道具、囚人、人質だったのだ」と書かれている。要するに、ベン・ベラは権力の座にあると思われていたが、彼の失脚によってそうではなかったことが明らかになったというわけである。この驚くべき遡及的な証明は、ロシア皇帝ツァーリ)にも当てはめることができるだろう。1917年以前は、専制君主だと頭の中で想像されていただけということになる。しかし、ゲランによって検討されたケースは、それに加えて、次のような問いを無視している。それは、ベン・ベラ以外の誰が、ブーメディエンの軍隊を使って権力に無理やり自分を押し付けて、ブーメディエンを作り上げることができたのかという問いである。べン・ベラがその後、彼の道具〔ブーメディエンから身を引き離そうとしたとか、彼がこのゲームにおいて特に下手くそだった、というのは、また別の問題である。彼が何よりもまず官僚であったがゆえに、彼は最初は彼よりも理性的な官僚だちと本質的に連帯していたのであり、そして最後はその犠牲となったのである。
 ではいったい、わが国の高名な左翼知識人の1人であり、彼らの中でも原則として最も「絶対自由主義的な」者の1人である男のこの錯乱の秘密は何なのだろうか? それは、みじめな虚栄にまみれた社交という彼らの全員が実際に行っている活動の同じ決定的な影響、この世の大人物と話をしたことで狂喜する下僕根性にすら劣る傾向、そして、この偉大さを彼らの話し相手にも分かち合わせようという同じ愚かさである。自主管理された大衆の支持者であれ、警察的官僚政治の支持者であれ、われわれが抜け出しかけているこの時代の「左翼知識人」たちは、権力や政府に対して同一の賛嘆の念を常に感じている。「低開発」国の指導者たちがばかげた左翼的博物館誌学者を魅了するのは、彼らがまさに政府の役割に近いという限りにおいてである。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録は、1世代の知識人全体の根本的な卑劣さをあらわに示しているが、その中に出てくるソヴィエト大使館での夕食の話だけでも、了見の狭い人間の無邪気な告白を読み取るのに十分である。この了見の挟さは手の施しようのないもので、みんなから嘲笑されることになるとは想像もできないほどのものなのである。
 ゲランはベン・ベラを「知っていた」。これが秘密だ。時折、「彼の話に耳を傾けていた」のだ。「ささやかながら、私は1963年12月初頭にヴィラ・ジョリ*2で短時間の会見をすることに成功した。1ヵ月間全国を旅して、自主管理された企業を視察して回って得た報告書を大統領に手渡すためであった。そのときに私の受けた印象は、アリ・マハサス*3通商産業省大臣のバシール・ブーマザ*4によって多少とも丸め込まれて、私の結論に反対する、頑固な男を面前にしているというものだった」(7ページ)。
 ゲランは実際に自主管理には賛成しているが、ムハンマド・ハルビのように、彼がそれに出会い、認識し、彼の英知によってそれを援助する気になるのは、1人の特権的な英雄に受肉した彼の〈精神〉の純粋な形態のもとでのことなのである。ダニエル・ゲランは、1杯の紅茶を囲んで自主管理の世界精神(ウェルトガイスト)と出会った。そして、他の一切がそこから生じるのである。

*1:ダニエル・ゲラン(1904−88年) フランスの社会主義者・反植民地主義者。30年代に中東、インドシナを巡り、半植民地主義の立場を鮮明にして、社会主義労働者インターナショナル・フランス支部フランス社会党で活動。戦後は、反植民地主義の活動家として、独立アルジェリアの自主管理を唱えたり、アナキストの組織〈絶対自由主義共産主義者運動〉に参加するなどの活動をした。著書に『ファシズムと大資本』(1936年)、『第1共和政下の階級闘争』(46年)、『べン・バルカの虐殺』(75年)など。

*2:ヴィラ・ジョリ ヴィラは「邸宅、別荘」の意味。おそらくFLNの指導部か政治機関が置かれた館と思われるが不詳。

*3:アリ・マハサス FLNの創設者の1人。別名アハメド・マハサス。1940年代末のフランス植民地下のアルジェリアで、ベン・ベラとともにフランスに対する最初の武装抵抗組織(OS)を結成し、郵便局襲撃などの闘争によって、後のFLN削設の資金を獲得したが、50年にベン・ベラとともに逮捕、脱獄。以来、ベン・ベラの右腕として働く。独立後は63年から67年まで農業大臣を務めたが、その後、国外亡命,79年に帰国。

*4:バシール・ブーマザ 早くからのFLNの活動家で、アルジェリア独立後、工業大臣を務め、65年のブーメディエンのクーデタ後もブーメディエンに同調し、革命評議会のメンバーに加わるが、1年後に辞任。