〈ここ〉と〈よそ〉──シチュアシオニストと第三世界の革命 鵜飼 哲

 現場で闘うこと、それはがつても今も、社会変革をこころざす人々にとって決定的な要請である。このことを否定する者はどんな変革とも無縁だろう。そもそも現場で闘うという表現自体が重複語なのである。現場以外のいったいどこで闘うことができるというのだろう?
 現場で闘うという表現には、とはいえ、ひとつのとりえがある。それは、この表現が、今日、私(たち)にとって、現場とは何か、それはどこかという問いを焦点化することである。そして、今日、この問いは、いよいよ困難な問いになっている。60年安保闘争が私たちの眼にやや神話的に映るのは、この闘いに参加した人々が皆、すくなくとも当面の現場が議会であることを疑っていなかったかのようにみえるからである。60年代後半の、とりわけ学生運動のなかでは、すでに事情は変わっていた。この時期には、現場とはどこかがもっとも深刻な議論の対象になっていた。今日の権力関係のなかで優先的に闘いを組織するべき現場はどこか、議会か、街頭か、生産点か、地域か、職場か、学校か、あるいは家庭か。そして現場はとこかをめぐるこの論争自体は学校とりわけ大学で、ときにはきわめて暴力的な事態を引き起こしつつ行われたからまるでそこが現場であるかのような様相を呈したが、それで論争が収束したことはなかったから誰も「ここ」が現場だとは信じていなかったわけである。ひとつの拠点ではありうる、だが、真の戦場はほかにある……。
 シチュアシオニストはこの論争にあっけなく決着をつけてしまう。彼らによれば、私たちの生活のうちに与えられた空間のなかには、定義上、現場はないのである。現場とは与えられるものではなく構築するものであり、シチュアシオニストとは現場を創出する者のことである。ドゥボールシチュアシオニストによる日常生活の批判、そして統一的都市計画の構想はこの認識を前提にしている。「シチュアシオニスト的」発想のあれこれがのちにシステムに利用されることになったとき、この前提はもちろんまっさきに捨て去られた。
 シチュアシオニストのこの先進性、世界の「先進国」左翼のなかでの先進性が、第二次大戦以前に遡るシュルレアリスム共産主義的政治の諸関係を批判的にとらえ返すなかから、アンリ・ルフェーヴルなどのマルクス主義社会学との相互影響を通して形成されたこと、それはたとえば3号『武装のための教育』に収録された文章群からも理解することができる。しかし、ここでいやおうなく出てくるのは、当初から「アンテルナショナル」すなわち国際運動として組織されたシチュアシオニスト運動は、ヨーロッパの労働・政治・文化運動の歴史を前提しそれを批判的にであれ継承するかぎりで、その先進性にもかかわらず、いや、むしろその先進性のゆえにこそ、ついに「先進国」型の革命運動の枠を破れないのではないかという疑問である。これは60年代後半以降日本の新左翼運動が逢着したもうひとつの理論的・実践的な壁でもあり、最初の問いと関連させるなら、植民地主義帝国主義の歴史的重圧との闘い、この重圧と第三世界のまさしく現場で闘っている人々と実効的に連帯しうるわれわれの闘いの現場はいったいどこに求められるのかという問いにつながる。パレスチナ抵抗運動とのかかわりから生まれたゴダールの作品『こことよそ』(1976)は、そのタイトルによって、ひとつの時代の問題意識を一言で言い表している。その意味で、私にとって本号が興味深いのは、60年代の第三世界情勢、とりわけ1965年6月のブーメディエンによるクーデタ以後のアルジェリア情勢に関して、シチュアシオニストの論考が、どのような論理および感性を示しているかをつぶさに知ることができるからである。
 フランス左翼とアルジェリア解放闘争のかかわりは、世界の解放闘争史上きわめて例外的な性質を捨っていた。アルジェリア戦争が起きたのは1954年11月だが、この植民地戦争の期間中、フランスはかつての日本やドイツがそうであったような全体主義国家ではなかった。いかに不完全であれ民主主義体制のもとで行われた戦争であり、ヤスパースの『罪責論』の仏訳への序文でピエール・ヴィダル=ナケが言うように、意見表明の自由が相対的に保証されていたからこそ、当時のフランス人の責任は、ナチ体制下のドイツ人のそれよりもある意味では重かったとも言える。そのなかで、少なからぬフランス人がアルジェリア民族解放戦線(以下FLN)を支持し、あるいは戦争に反対して発言し、また、主として解放戦線の書類の運搬に携わるなどの行動によってその責任に応えた。1958年には、1号の解説で杉村昌昭氏も触れているように、フランス兵に脱走を呼びかける「122人声明」(起草者はモーリス・ブランショと言われている)が発せられ、シチュアシオニストのギィ・ドゥボールもこの声明に加わっている。
 およそあらゆる運動と同じく、フランス知識人によるこのアルジェリア連帯運動にも多くの問題がはらまれていた。とりわけ90年代、アルジェリアがFLNとイスラーム主義勢力との出口のない内戦に突入して以来、解放戦争時代のフランス左翼がFLNの実態にどれほど無知であったかがしばしば強調されてきた。たしかに、ファノンやサルトルが描き出したアルジェリアにはたとえば宗数的性格はきわめて希薄であり、その意味でこの間の事態の理解にはあまり役に立だない。だが、歴史的回顧の視線は必要な訂正を行うと同時に、一般化が過ぎると新たな歪みを引き起こしもする。私は今回、1965年のクーデタ直後にシチュアシオニストが発表し、アルジェリア国内の諸都市でも配布されたという「アルジェリアにおける階級闘争」を読んで懐かしさと新鮮さの入り交じった複雑な感銘を受けた。私が受けた印象が単なる既視感ではなかったことは確かである。
 考えてみるに、ここには少なくとも2つの理由がある。ひとつは、シチュアシオニストの言説が、解放戦争を支持した宗主国の左翼にありかちなポスト独立期失望症候群とでもいうべき傾向からまったく自由であり、フランスにおける「状況の構築」を実践する自分たちの闘いとクーデタ以後のアルジェリア階級闘争とを同時代的課題を共有するものとして同一の戦略的布置のうちに位置づけていることである。連帯のアピールは必要ない。それを当然の前提としてすべてが真剣に語られている。ここでは確かに、ヨーロッパ左翼の政治的想像力が、そのリミットで、一瞬ではあれ第三世界の現場と共鳴しているかにみえる。
 もうひとつ、このヨーロッパ左翼による「根源的な自主管理」の呼びかけからは、独立直後のアルジェリアの姿が、ある種の時代的リアリティをともなって浮かび上がってくる。自主管理は評議会社会主義とともにシチュアシオニストの理論的支柱をなす構想であり、「ベン・ベラ体制の唯一の成果」はいわばこのアプリオリな構想に導かれて見定められているが、この観念に対応する現実は植民地支配が終わったばかりのアルジェリアであり、植民者たちが打ち捨てていった農場や工場をわがものとしたアルジェリアの民衆にほかならなかった。130年の植民地支配が、そして8年間の苛酷な戦争が終わった直後の時間がどのような時間であるのか、そのとき空間はどのように変容したのか、ヨーロッパ左翼にはもちろん想像のしようがないだろう。そこで、ヨーロッパの階級闘争史からいくつもの記憶が援用される。アルジェリアの現場で今起きていることが、さまざまな場所、さまざまなときに姿を現した普遍の真理の新たな顕現として記述される。そのことを通して、シチュアシオニストは、植民地の終焉直後の「よそ」の現場を、全身全霊を傾けて表象しようとするのである。
 「アルジェリアでも他のどこでも、社会主義の唯一の道は、1956年のあるハンガリー知識人の言葉によると、「真理との攻撃的かつ防衛的な契約」を通って連む。SIの「アピール」は、アルジェリアでそれが読まれた場合は、理解された。革命的実践の条件が存在するところでは、いかなる理論も難解すぎることはない。パリ・コミューンの生き証人であるヴィリエ・ド・リラダンは次のように書き残している。「それまで哲学者だけが取り上げていた問題に関して、はじめて労働者が自分たちの意見を交換するのが聞かれた」。哲学の実現、疎外された社会生活から押し付けられてきたあらゆる価値と行動様式に対する批判とそれらの自由な再構築、それこそがまさに一般化された自主管理の最大限綱領である。(中略)自主管理はアルジェリアの運動に現れた最も現代的で最も重要な潮流であるが、それはまた、最もアルジェリア固有ではないものでもある。自主管理の意義は普遍的である。ユーゴスラヴィアでの〔自主管理の〕カリカチュア(中略)とは逆に、また私的所有の外部での組織を目ざしていたプルードンの相互扶助組織とは逆に、真の革命的自主管理は、既存の所有形態を武器によって廃絶することでしか手に入れることができない。1920年のトリノでの自主管理の失敗は、ファシズムの武力支配の序曲だった。アルジェリアでの自主管理による生産基地は自発的に形成された。1936年のスペインでのように、あるいは1871年のパリでヴェルサイユ軍が放棄した工場でのように、所有者が政治的敗北の後にそのまま放置しなければならなかった場所にすなわち無占状態の財産の上に自主管理が生まれたのである。それらは、所有権と抑圧の空白であり、疎外された生の安息日なのである。」
 私は自分がこの文章を、別の時代から、別の感性と発想の岸辺から読んでいることに気づく。ひとつの出来事を思考することは、私にとって、いつのまにか、その出来事と他の出来事に共通の性格ではなく、その出来事に最も固有な性格を探求することと同義になっていたからだ。固有性の探求においては、他の出来事の参照は、同一視するためではなく、いくつもの類推を通して差異を見出すための一契機である。自主管理が「最もアルジェリア固有ではないもの」だとすれば、65年のシチュアシオニストのこの声明には、90年代の混沌から出発して「アルジェリアとは何か」を問う者にとってどんな意味があるのだろう。だが、この文章には、にもかかわらず、私を惹きつけるものがある。それはいったい何なのか。
 政治社会学者の李静和氏は「現場」と「現場性」を区別する。生の「現場」はほとんど死のように口を閉ざし何も語らない。「現場性」は言葉による構築物だが、ときにはその「現場性」が私たちを暴力的に「現場」へと運び去る。それは認識と現実の一致などという近代的図式とはおよそかけ離れた洞察であり、とりわけ第三世界にかかわる言語表現一般の徹底的な洗いなおしを迫るものである。というのも、李氏が言うように、「現場」を語ると称しつつ実際には「現場と違い言葉だけがどんどん多くなってくる」傾向こそが支配的だからだ。われわれの日常のなかでは、「現場性」に出会うことさえまれなのである(李静和+鵜飼哲「においを伝える言葉、そして言葉なき人々」『文藝』1998年春号参照)。
 「アルジェリアにおける階級闘争」は、私には、この傾向が支配的になる以前の時代に属す文書のようにみえる。この文章の論理も感性もまぎれもなくヨーロッパ左翼のものであるが、にもかかわらず、アルジェリアの「現場」との距離の意識はまったくない。だが、あえて言えば、この距離の意識の欠如ゆえにある種の「現場性」を持ちえているのである。それは、解放直後の自主管理されたアルジェリァの「現場」というよりも、アルジェリア解放闘争とフランス左翼との間に、独立戦争期以来多くのすれ違いを含みつつも必然的に結ばれた国際主義的絆というもうひとつの「現場」に対応する「現場性」であるだろう。私が知る限り日本の左翼運動は、旧植民地の民衆の闘いに対して、この水準の「現場性」において向き合った経験も、それこそほとんど語りえない例外的ケースをのぞいて、ほとんどないように思われる。そのかぎりで、「アルジェリアにおける階級闘争」は、過去に属する文書でありながら、われわれには未知の国際主義の論理と感性をたたえているがゆえに瑞々しいのである。
 逆に言えば、この文章は、ヨーロッパ左翼のもう1つの伝統的発想ともいまだ完全には切れていないところで書かれているのである。それは、「現場」とは本当に戦闘が起きている場所であり、どこで生まれどこで暮らしていようと、人はつねにその「現場」におもむきそこで闘わなくてはならないという発想である。ファン・ゴイティソーロが90年代のサラエボで嘆いたことを、シチュァシオニストはすでに60年代にその論説のどこかで嘆いていた。30年代、人はスペインに闘いに行ったものだ、だが、今は誰もそんなことは考えもしない……。
 とはいえ、70年代はじめには、少なからぬ人々が生国の「先進国」を後にして第三世界の解放闘争に「現場」を求めたことも事実である。ヴェトナム、キューバ北朝鮮パレスチナ……。なかには若者ばかりでなく60代の老人もいた。シャン・ジュネはヨルダンのパレスチナ・キャンプでフランス人の若者のグループと出会っている。パレスチナを闘いの「現場」に選んだ彼らの政治思想は次のようなものだった。
 「「フセイン〔ヨルダン国王〕はファシストだから打倒すべきだ。そして非ソ連型の革命体制で置き換えるべきだ」
  「どんな体制を考えているんだい」
  「たとえばシチュが領導するものなら」」
 「シチュ」はもちろんシチュアシオニストの略称である。このエピソードは、68年5月の後、フランスから第三世界に「現場」を求めて旅立ったのは必ずしも毛沢東主義的な第三世界主義者ばかりではなかったこと、シチュアシオニストの共鳴者のなかにもパレスチナに足を運んだ者がいたことを教えてくれる。そして、物理的には「現場」にありながらパレスチナ人にとっての「現場」との無限の距離を忘れることのなかったジュネの眼には、この若者たちの言動や振る舞いは、典型的にフランス人の、ヨーロッパ左翼のそれと映った。とはいえジュネは、『恋する虜』のなかで、彼らの欠陥を高みから批判するようなことはしていない。書き残された彼らの肖像は、いくぶんからかいを含んだやさしさに包まれている。こんな風に──。
 「どう言っていいかわからないちょっとしたことから、この2人のフランス人が、喋るときに、〈アラブ人〉という固有名詞の頭文字を小文字にしていることが感じられた。こうした彼らの言葉遣いは必ずしも誉められたものではなかったが、態度の方ははるかにましたった。ルイ14世が彼の馬丁にしたように、フランス人はアラブ人に挨拶していた。ポンピドゥー〔当時のフランス大統領〕を困らせてやりたいという彼らの思いはそれほどに強く、私には決してできなかったほど上手に手で食べるこつも覚えていた。それがまたとても優美だった。」
 それは同じ名前を持つ青年2人とその共通のガールフレンドたちだった。皆ヨルダン軍との戦闘で命を落とし、ヨルダン北部の町イルビトの墓地に眠っている。青年たちの名前はギィ。「ギィ1号」「ギィ2号」とジュネは呼ぶ。もしかするとこの名前は、ドゥボールの名前の、ジュネー流の「転用」だったのかも知れない。