『アルジェリアと万国の革命派へのアピール』 訳者解題

 

 この『アピール』は、1965年6月19日にアルジェリアで起きたブーメディエンによる軍事クーデタの直後に書かれ、まず7月にアルジェリアで非合法に配付された後、11月にフランス語、ドイツ語、スペイン語、英語、アラブ語の5つの言語で印刷したパンフレットにして再販され(おそらくアルジェリアと他のいくつかの国で配付された)、翌年3月ここに掲載されたものである。同時に、5言語で書かれたパンフレットも、この第10号に付録として付けられている。
 ブーメディエンのクーデタにいたるアルジェリアの歴史については、先の「アルジェリアにおける階級闘争」の訳者解題を参照してもらいたいが、クーデタから1月もたたないうちに発表されたSIの分析はいくつかの点で優れたものである。何よりもそれは、ブーメディエン体制としてこの後、1978年の彼の病死の時まで続き、その後も89年の「民主化」を経て現在に至るまで、アルジェリア社会の体制を根底において規定してきた軍事体制の本質を明確に見抜いている。すなわち、ブーメディエンが行った主要な3つの政策──アルジェリアのアラブ化、イスラム化、工業化──が、本質的には、ナセル的なアラブ民族主義イスラム主義に依拠しつつ、自主管理の実験を清算してソ連型の国家官僚資本主義へと転換するものであることを、SIは6月19日のブーメディエンの声明のなかにすでに予言しているのである。その声明は「自主管理を清算するという明確な目的を持って」おり、「西欧のテクノクラートの隠語と、強化されたイスラム的道徳秩序のパトスとの混ぜ合わせ」にほかならない。ブーメディエンの進めたこれらの政策こそが、90年代の現在の、「イスラム救済戦線(FIS)」などのイスラム原理主義アルジェリア軍部との間での内戦──それは「第2のアルジェリア戦争」とまで呼ばれている──にまで発展している混乱の遠因であると言っても過言ではない。実際、ブーメディエンは、ベン・ベラの行ったアラブ化政策をさらに推し進め、書き言葉としてコーランの中にのみ存在していた正則アラビア語フスハー)を公用語の地位につけ、この人為的な言語を話すよう人々に押し付けて、民衆の使っている話し言葉としてのアルジェリア方言のアラビア語や、さらには人口の2割が用いているベルベル語を抑圧する一方で、テクノクラート(医者・科学者・技術者など)の環境ではフランス語と西洋的ディシプリンを存続させることで、社会のなかに欺瞞的で位階的な階級構造を作り上げた。さらに、イスラムを「国家宗教」にして、数々のモスクを建設し、小学校からコーランを教えるよう義務化し、そのために、教師をエジプトから招いたが、この教育のもとでコーランを学んだ者たちの世代から、後のFISのイスラム原理主義者たちが生まれてきたのである。一方で、ブーメディエンはかつてのFLNの指導者を次々と追放、処刑、暗殺し、「民主派」と呼ばれる者たちやベルベル語地域のカビール人反対派らを弾圧して、軍部主導の開発独裁を進めてゆく(そのためには、かつての支配者であるフランスの援助を積極的に受け入れ、フランスヘの経済的・知的従属を強めてゆく)。そして、アルジェリア天然ガスと石油を用いた重化学工業だけを偏重し、アルジェリアの一部を最新鋭の工場の立ち並ぶ工業地帯へと変身させるが、農地の荒廃と社会資本の貧困によって大量の貧困層を産み出し、アルジェリアに歪んだ社会構造を産み出すにいたるのである。しかし、ブーメディエンの死後、80年代末に重化学工業の生産物の市場価値の下落をきっかけに、この矛盾が爆発することによって、88年10月にアルジェ暴動が起き、その結果、FLNは89年2月には憲法を改正して複数政党制や言論・結社の自由を含む「民主化」を行わざるを得なくなる。そして、90年6月の地方選、91年12月の国会選挙でともにFISが大衆の欲求不満を組み上げて大勝利を得て、イスラム政権が誕生する間際になって、92年1月の軍部によるクーデタ、憲法停止、その後のFTISらによるテロと武装抵抗というかたちで、現在の状況につながってきている。
 現在のアルジェリアは、一方でFISを始めとするさまざまな反対派ゲリラ組織の残虐なテロの継続、他方で、イスラム原理主義との戦いを口実にした軍事政権の暴虐と民主化闘争の圧殺という袋小路に陥っている。この一連のプロセスの起点に、ブーメディエンのクーデタと独裁体制があったのである。FISの残虐な拷問や虐殺の手口は、ブーメディエンの公安組織の用いたものと同じであり、FISの指導者たちの多くはかつてブーメディエンのもとで働き、追放されてFISの指導者になったことを考えるならば、FLNとFISとは兄弟であり、これは権力闘争の側面を色濃く持つ戦争だとも言えるだろう。そして、その権力闘争のなかで、民衆は自律的な組織化の闘いを展開する余地を最初から奪われている。せいぜいのところ、西洋近代の価値である民主主義と人権を主張する運動が存在するだけだ。しかし、ブーメディエンを経済的に支えてきたのは、ほかならぬフランスの新植民地主義であったこと1つを取ってみても、民主主義と人権だけでこの問題が解決しないことは明らかだろう。イスラム国家か西洋型民主国家かという二者択一ではなく、そのどちらでもない第3の可能性こそが、現在の問題を真に解決する道であるだろうが、それはSIの言うように労働者による「社会全体の管理」へ向けての「自主管理」の徹底のなかにしかないのかもしれない。そして、個別アルジェリアを越えてアラブ世界全体に視点を広げるなら、そのような道は、王族や宗教の支配するアラブ国家の既存の体制のなかでの民衆の不満の融和的な調整弁にすぎないアラブ民族主義ではなく、「アラブ人によって実現される革命社会のモデル」の中からしか生まれてこないだろう。それこそが、アルジェリアの問題をも、パレスチナイスラエル問題をも解決する道につながるものである。その意味で、SIのこの「アピール」は、すぐれて今日的意味を持つものだと言えるだろう。