アルジェリアと万国の革命派へのアピール

 「プロレタリア革命は〔……〕その最初の試みの時のためらいと弱さ、そして悲惨さを非情なまでに嘲り笑う。自分の敵を打倒するのは、ただ相手に大地から新しい力を汲み取らせ、新たにいっそう恐ろしい敵として自分たちに向かって立ち上がらせるためにすぎないかのようだ。自分たちの目的の限りない巨大さを前にして、たえず新たに後ずさりし、最後にはとうとう、どのような後戻りもできないような状況が作り出されてしまうのである。」

マルクス(『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』*1

 同志たち、
 国際共産主義運動が差し出してきた革命像は粉々に崩壊したが、それは、革命運動の崩壊のあとを40年遅れてなぞったにすぎない。この時間は、ブルジョワジーがたえず吐き続けた嘘に加えて、官僚主義の嘘が勝ち取った時間であるが、それはまた、革命が失った時間でもある。現代世界の歴史は、その世界の革命のプロセスをたどる歴史だが、そのやり方は無意識的であるか虚偽意識に浸されたものにすぎない。いたるところに社会的対立が生じているが、どこでも旧い秩序は、それに異議を申し立てる勢力そのもののうちでさえ清算されてはいない。いたるところで旧世界のイデオロギーが批判され拒絶されているが、「既存の諸条件を廃絶する現実の運動」がマルクスの言う意昧での「イデオロギー」──すなわち、主人に仕える思想──から解放されている場所はどこにもない。革命家はいたるところにいるが、どこにも〈革命〉は存在しないのである。
 アルジェリアの中途半端な革命についてのベン・ベラ主義者の革命像の崩壊は、いま、この全面的な失敗を強調したところである。ベン・ベラの表面的権力によって表現されていたものは、一方で社会全体の管理に向かっていたアルジェリアの労働者たちの運動と、他方で国家の管理部門のなかに形成されつつあったブルジョワ官僚主義との間で、一時的に保たれていた均衡であった。だが、表向きのこの均衡のなかで、革命はその目標を何ら実現することができず、既に博物館入りしていたのに対して、べン・ベラによって護られた国家の所有者たちはあらゆる権力を手にしていた。すなわち、軍隊という基本的な抑圧装置をはじめとして、彼らの仮面、つまりベン・ベラをも投げ捨てる権力にいたるまでの権力である。クーデタの2日前、シディ・ベル・アッベス*2で、べン・ベラは、アルジェリアが「かつてないほど統一されている」と言明して、滑稽さの上に醜悪さを付け加えていた。今では、彼は人民に嘘をつくことをやめ、事態そのものに語らしめている。ベン・ベラは彼が統治したのとまったく同じように、孤独と陰謀のなかで、宮廷革命によって権力の座から引きずり降ろされてしまった。そして、来たときに一緒だった者たち、つまり、1962年9月にアルジェヘの道を彼に開いてくれたブーメディエンの軍隊に見送られて去って行った。しかしながら、ペン・ベラ主義者の権力は、官僚主義がまだ鎮圧できていない革命の獲得物、つまり自主管理を承認していた。「ムスリムの同胞」ブーメディエンのかげに巧みに隠れていた勢力は、自主管理を清算するという明確な目的を待っている。西欧のテクノクラートの隠語と、強化されたイスラム的道徳秩序のパトスとの混ぜ合わせが、6月19日の声明において、新体制の全政策を決定づけている。「生産力の低下、減少する経済的収益性、不安からくる投資の撤退にすでに表れている総体的沈滞から出ること」、〔……〕「われわれの信念、われわれの確信と、わが国の国民とその道徳的価値の古来の伝統とを尊重すること」、と言うのである。
 実践によって神話を打破する歴史の驚くべきスピードは、いま、革命理論の歴史の加速に役立てなければならない。疎外、全体主義的管理支配(その筆頭は、ここ〔西洋〕では社会学者であり、向こう〔アルジェリア〕では警察だ)、スペクタクル的消費(ここでは自動車とがらくた商品、向こうでは崇められる首長の言葉)、これらのものでできた同じ社会が、イデオロギーや法によってさまざまな粉飾を施されながらも、いたるところで支配している。この社会の一貫性を理解するには、全体的な批判が不可欠である。その批判は、解放された創造性を備えた逆のプロジェクト、すべての人間が彼ら自身の歴史をあらゆるレヴェルで支配するプロジェクトによって照らし出された批判でなければならない。これは、すべてのプロレタリア革命がその実際の行動によって要求してきたものであり、この要求は、革命を引き受けつつそれを自分たちの私有財産にしてきた権力の専門家によってこれまで常に敗北させられてきたのである。
 互いに不可分なこのプロジェクトとこの批判(互いが互いを眼に見えるものにする)を現代に再びもたらすこと、それは即座に次のことを意味する。すなわち、西欧の労働運動や現代詩と現代芸術が担っていたすべてのラディカリズム(日常生活の自由な構築の途上にある実験的探求の序章としての)、哲学の乗り越えと哲学の実現の時代の思想(ヘーゲルフォイエルバッハマルクス)、1910年のメキシコ*3から今日のコンゴ*4までの解放闘争、これらのものを再興するすることである。そのために、何よりもまずなさねばならないことは、今世紀の最初の3分の1の革命プロジェクトの全体が敗北し、世界中のあらゆる地域で、またあらゆる領域で、それが、古びた秩序を繕い直して修繕するだけの嘘にまみれた粗悪品に公式に取って代わられたということを、慰めになるようないかなる幻想も持たずに、くまなく認識することである。労働者に対する国家官僚主義的資本主義の支配は、社会主義とは正反対のものであるが、この真理をトロツキズムは直視することを拒んだ。社会主義とは労働者が自ら直接、社会の全体を管理するところに存在するのであり、それゆえそれは、ロシアにも中国にも、あるいは他のどこにも存在していない。ロシア革命と中国革命は、内部から敗北した。それらの革命が今日、西欧プロレタリアート第三世界の人民に提供するモデルとは、実際にはブルジョワ資本主義の権力、すなわち帝国主義の権力と釣り合いを取るための偽のモデルなのである。
 したがってラディカリズムを再開するには、当然、かつての解放の試みのすべてをかなりの程度まで深化させることが必要である。そうした試みが孤立のなかで未完成に終わったり総体的な欺瞞へとねじ曲げられたりした経験を知れば、変革すべき世界の首尾一貫した姿をよりよく理解できるだろうし、また、この一貫性を再発見することから出発して、つい最近になされた部分的な探求の多くを救い出すことができるだろう。これらの探求はそのようにして真理へと近づくことができるのである(例えば、精神分析に含まれた解放の契機となりうる部分は、あらゆる抑圧を廃止するための闘争の外では、理解も実現もされえない)。世界のこの逆転可能な一貫性を、あるがままに、またそのありうる姿に照らして理解することによって、中途半端な手段の欺隔的な性格が暴露されるとともに、支配的社会の機能モデルが──その社会の位階秩序化と専門化の諸範躊、さらにそこから必然的に帰結するその社会の習慣や趣味とともに──否定勢力の内部で再構成されるたびに、そこにはもともと中途半端な手段の欺隔的な性格が暴露されるとともに、支配的社会の機能モデルが──その社会の位階秩序化と専門化の諸範躊、さらにそこから必然的に帰結するその社会の習慣や趣味とともに──否定勢力の内部で再構成されるたびに、そこにはもともと中途半端な手段が存在するのだという事実も明らかになる。
 そのうえ、世界の物質的発展はその速度をますます速めてきた。それは、つねにより多くの潜在的な力を蓄積しているのに、社会を指導する専門家たちは、受動性の保存者としての彼らの役割そのものの性質から、この力の使用法に対して無知であることを強いられている。この発展は一般化した不満を蓄積すると同時に、客観的に見て致命的な危機をも蓄積するが、指導階層の専門家たちには、これらを持続的にコントロールすることはできない。低開発の問題──それは本質的なものだ──は、何よりもまず、さまざまな資本主義的合理化の枠組みのなかでの生産力の非合理な過剰発展を革命的に支配することによって、世界的規模で解決されなければならない。第三世界の革命運動がそれ自体として成功するには、世界革命に対して明晰な意識をもって貢献することから始めるしかない。発展とは、資本主義の物象化のあとを追うレースであってはならず、人間的能力の真の発展の基礎としてのあらゆる現実的欲求の解決でなけらばならないのである。
 新しい革命理論は現実と同じ早さで歩まなけらばならない。すなわち、そこここで開始されていながらも、まだ部分的で欠陥だらけで、一貫した全体的な計画を持っていない革命的実践と同じ高さに立たねばならない。われわれの言葉は、おそらく空想的に聞こえるかもしれないが、それはまさに現実の生の言葉そのものである。歴史はたえずそのことを示しているが、そのやり方はつねにより不器用になっている。この歴史のなかて誰にとっても親しいものが、だからといってはっきりと知られているものであるとは限らないのは、現実の生そのものが空想の形式でしか、つまり、世界の現代的なスペクタクルが押しつける転倒したイメージのなかでしか、姿を現さないからでのなかでは、社会的生活全体が、さらには作り物の革命の表象までもが、権力の虚偽の言葉で書かれ、権力の機械のフィルターを通して示される。スペクタクルとは地上での宗教の相続者であり、商品の「豊かな社会」の段階にまで達した資本主義の阿片であり、「消費社会」のなかで実際に消費される幻想なのである。
 革命的な異議申し立ての散発的な爆発に応えて、抑圧の国際的組織が生まれ、その任務分担も世界規模でなされている。それぞれのブロック、あるいは各地に散らばったブロックの断片は、それぞれ自分の影響圏内で、すべての人間を確実に麻痺させて眠り込ませると同時に、本質的には同一のままであり続ける秩序を維持する。この恒常的な抑圧は、軍事遠征から、あらゆる合法権力が今日実行している多かれ少なかれ完璧な事実の捏造にいたるまで広がっている。「真理は革命的である」(グラムシ*5)、そして既存の政府はすべて──この上なく先鋭な解放運動から生まれた政府でも──、内部に対しても外部に対しても、嘘の上に築かれている。まさにこの抑圧こそが、われわれの仮説を誰の目にも明らかに証明するものとなる。
 今日の革命の試みは、世界に君臨するさまざまな嘘の「平和共存」によって課せられた偽りの理解のあらゆる規則を彼らねばならないために、世界の何らかの特殊部門においても、異議申し立ての何らかの特殊部門においても、孤立のなかで開始される。そうした革命の試みは、自由の最小限の定義で武装して、圧制の最も直接的な側面だけを攻撃する。したがって、それは、最大限の抑圧と誹膀(人々は彼らが既存の秩序を拒否したとして非難し、結局、その秩序の既存のヴェリエーションを称賛するのである)に出会うが、最小限の支援しか得られない。彼らの勝利が困難であればあるほど、その勝利はいっそう容易に新たな抑圧者から横取りされる。次の革命は、世界をその全体において攻撃することによってしか、世界からの支援を見出だせないだろうアメリカ黒人の解放運動が一貫して肯定的に評価されうるとすれば、それは、その運動が現代資本主義のあらゆる矛盾を問題にしたからである。この運動は、「ブラック・モスリム」*6の「有色人種の」ナショナリズムと資本主義の気晴らしによってくすね取られてはならない。合衆国の労働者は、イギリスの労働者と同じく、集中化され半−計画化された資本主義システムにまず彼らを統合しようとする官僚主義化された労働組合主義に対して、「山猫スト」で闘っている。北米革命を成し遂げるのは、これらの労働者や、つい最近、バークレイ大学でストライキを成功させた学生たちとともにであり、中国の核爆弾によってではない。
 アラブ諸国の国民を巻き込んでいる統一と社会主義に向けた運動は、古典的な植民地主義に対して勝利を収めた。しかし、次のことはますます明白になりつつある。すなわち、あらゆる宗教的イデオロギーと同じように、明らかに反革命的な勢力であるイスラームと縁を切らねばならないということ、クルド民族*7の自由を認めねばならないということ、アラブ諸国での支配的政策を正当化するパレスチナの口実と縁を切らねばならないということ(というのも、この政策は、何よりもまずイスラエルの破壊を提案しているが、その破壊は不可能である以上、それが永久に正当化され続けるからである)、である。イスラエル国家の抑圧的勢力を解体させることができるのは、唯一、アラブ人によって実現される革命社会のモデルだけである。革命社会のモデルが世界で成功すれば、多くが人為的に作られた東西間の紛争に終わりが告げられるのと同じように、その紛争のちっぽけな複製であるイスラエル−アラブ紛争も終わるだろう。
 今日の革命的試みはすべて、いかなる既存の権力もそれを支援することに利益を見出さないがゆえに、弾圧されるがままになっている。革命的国際主義を掲げてそれらを支援する実践的組織はまだ1つも存在していない。誰もが彼らの闘いを受動的に眺めるだけで、彼らの苦悶に付きまとっているものは、国連や「進歩的」な国家権力の専門家たちの空しいおしゃべりだけである。サント=ドミンゴ*8では、ケネディ派のカマーニョの合法政府ではなくファシスト軍部を支援するために、合州国の軍隊があえて外国に介入したが、その行動は政府が武装させていたはずの国民によって政府が逆包囲されることを恐れてのものにすぎなかった。アメリカの支配に対する対抗措置を取った勢力が、この世界にあっただろうか。1960年のコンゴでは、ベルギー空挺降下部隊、国運派遣軍、「ユニオン・ミニエール」*9と癒着した国家との三者が、独立を勝ち取ったと信じていた民衆の勢いを殺いでしまった。これらの混成軍がルムンバ*10とムポロを殺したのだ。1964年には、ベルギー空挺降下部隊とアメリカの輸送機、それに、南アフリカ人、ヨーロッパ人、反カスト口派キューバ人の傭兵たちが、ムレレ派*11の第2波の暴動を押し戻した。いわゆる「革命アフリカ」は、どのような実践的支援をしたというのか。コンゴよりはるかに過酷だった戦争の勝利者であるアルジェリアから1000名の義勇兵が行ったとしても、スタンレーヴィルの陥落を妨ぐには十分ではなかっただろうと言うのか。だが実際は、アルジェリア武装した国民はずっと前から古典的な軍隊に置き換わり、ブーメディエンに請け負わされていたこの軍隊は別の意図を持っていたのである。
 次の革命は、自らを理解する努力を引き受けなければならない。それにとって必要なことは、自分たち自身の言葉を完全に再発明することであり、彼らに用意されているあらゆる回収の試みから自己を防衛することである。1962年以降ほとんど途絶えることなく続いているアストゥリアスの鉱山労働者のストライキ*12と、フランコ体制の終焉を告げる他のすべての反対運動の徴は、スペインにとって、1つの不可避な未来を描いているのではなく、1つの選択を示している。すなわち、現時点で、スペイン教会、王政主義者、「ファランヘ党左派」、スターリン主義者がポスト−フランコ体制のスペインを現代化された資本主義に、つまり〈共同市場〉*13に調和的に適応させるために準備している神聖同盟か、あるいは、フランコと彼に加担したあらゆる派の者たちによって敗北させられた革命のなかにあった最もラディカルなもの、すなわち、1936年にバルセロナ*14で数週間だけ実現された社会主義の人間関係を、再び作り出し、完成させるのか、という選択である。
 新しい革命潮流にとって、それが出現しているどの場所でも、重要なことは、現在の異議申し立ての経験とそれを担っている人間を、互いに結び付けることを開始することである。それぞれのグループを統一するだけでなく、彼らのプロジェクトの首尾一貫した基盤を統一しなければならないだろう。来るべき革命の時代の最初の行為は、現行の社会に対する批判の──顕在的、あるいは潜在的な──新しい内容と、新しい闘争形態を集中的に含み持つ。そして、中断されたままで、亡霊のように姿を現す過去の革命の全歴史のなかの還元不可能な瞬間もまた、そこに集中される。そうして、常にますます現代化することをあれほど自慢してきた支配社会は、自分か誰に語りかけるべきかを理解するだろう。というのも、その社会は結局、自らを現代的なやり方で否定するものを、自分から産み出すことを始めるからである。
 1959年にバグダッドの街頭でコーランを燃やした同志たち*15万歳!
 1956年に赤軍を自称する軍隊に倒されたハンガリーの労働者評議会*16万歳!
 昨年、デンマーク社会民主主義政府と組合指導部の法的弾圧にも関わらず、人種主義の南アフリカを実際にボイコットしたオルフスの港湾勤労者たち*17万歳!
 帝国主義の資本主義権力と共産主義を自称する官僚主義の権力と激しく闘っている日本の「全学連」学生万歳!
 サント‥ドミンゴの北東地区を防衛した労働者義勇兵万歳!
 アルジェリアの農民・労働者の自主管理万歳! 選択肢はいま、官僚主義軍事独裁と、全生産部門と社会生活の全側面に拡大された「自主管理部門」による独裁との間にある。

アルジェ、1965年7月。

シチュアシオニスト・インターナショナル

*1:『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』 同書の第1章、有名な「ここがロドス島だ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」という言葉の直前にある文章。邦訳、伊藤新一・北条元一訳、岩波文庫、22−23頁。

*2:シディ・ベル・アッベス アルジェリア北西端、同名の県の県都アトラス山脈支脈のテラサ山地の標高四470メートルに位置し、フランスの占領以来、軍団司令部の所在地として発展。

*3:1910年のメキシコ メキシコ革命のこと。35年に及ぶディアス独裁体制の打倒をめざし、1910年11月20日にマデロ派が政治的民主化を求めて武装蜂起を行いディアスを追放(第1段階)、その後、土地改革を初めとする社会改革を求めるサパタ派やビリャ派の農民運動が起こり14年以降は地主・資本。中産階級に立脚したカランサ派とサパタ・ビリャ派が最終的に国内を制圧、17年に革命憲法を制定し、今日のメキシコの制度的基礎を作った。

*4:今日のコンゴ コンゴ革命 1960年6月の宗主国ベルギーからの独立後、大統領ルムンバを支持するコンゴ人による革命的行動,独立を勝ち取ったコンゴ人たちは革命意識を高揚させ、首都レオポルドヴィルを中心として全土で、軍隊でのベルギー人将校に対する反乱や、労働組合のストが頻発。この動きに対してベルギー政府は軍隊を派遣、国連安保理は国連軍の派遣とベルギー軍の撤退を決議したが、国連軍は逆にコンゴ人の革命運動を押さえる一方で、ベルギー植民地主義とその意を受けた反ルムンバ派の軍部を押さえることはできず、軍部の反ルムンバ派クーデターとルムンバの逮捕・殺害(61年2月13日)という経緯で、「コンゴ動乱」と呼ばれる紛争が泥沼のように続いて行った。

*5:アント二オ・グラムシ(1891−37年) イタリアのマルクス主義思想家・共産党の指導者。20年代に工場評議会運動を展開し、21年にイタリア共産党の結成に参加,極左路線を克服して党の指導権を掌握するが、26年、ファシスト政権に逮捕され、37年に獄死。第二次大戦後、その『獄中ノート』が発表された。

*6:ブラック・モスリム 1920年代にエライジャ・ムハマッド (1897−?)がシカゴで設立した黒人イスラーム運動、「ネイション・オヴ・イスラーム」とも呼ばれる。イスラームによる黒人国家の実現を求め、1960年代末までに30余り州に広がり、25万名以上の会員を擁し、50以上のモスクを建設した。黒人の経済的自立、黒人国家の建設と合州国からの分離、黒人の優越性を説くブラック・ナショナリズムの代表的組織で、公民権運動とは一線を画し、やがてブラック・キャピタリズムを提唱し、大学や各種の学校を建てた。

*7:クルド民族 主にトルコ、イラク、イラン3国にまたがるクルディスターンと坪ばれる地域を中心に住む民族。人口は各国の政治的弾圧からくる統計資料の不足のため明確ではないが、少なく見積もってトルコに850万、イランに520万、イラクに300万、、そのほかシリアに82万、旧ソ運に27万という数字があり、合計2千万以上と考えられている。前2000年紀から前1000年紀に、この地域に移住してきたイラン語派に属するメディア人と先住民のグティ人との混血によってクルド人の原型が形成され、その後、さまざまな民族が混ざり合った。文化的・言語的一体性を持つにも関わらず、古来さまざまな他民族に支配され統一国家を持たなかったが、20世紀になって自治独立運動が起き、トルコ、イラン、イラクなどで反乱が多発。第一次大戦後にはオスマン帝国スウェーデン大使でもあったクルドの知識人シャリーフ・パシャの尽力でパリ講和条約でのクルド人民族自決の承認、20年のセーブル条約でのクルド国家の建設の明示を勝ち取るが、23年、トルコ共和国ケマル・アタチュルク大統領による条約の破棄、クルド人への弾圧によってクルド人民族自決は踏みにじられ、現在まで民族としての存在さえ否定されている。イランでは、第二次大戦後、ソ連占領下のクルディスターンで分離独立運動が展開され、46年に1年間クルディスターン人民共和国が樹立されたが、ソ連の撤退とともに瓦解、79年イラン革命直後にクルド人自治政府が樹立されたが、ホメイニに弾圧される。イラクでは58年革命後、自治要求が高揚、61年以降バルサーニの率いる激しい反乱が続いたが75年に降伏、その後、サッダム=フセインによる弾圧と同化政策が続いている。

*8:サント=ドミンゴ ドミニカ共和国の首都。1965年4月二24日のカマーニョ陸軍大佐ら改革派によるクーデタは、市民・学生の支特によって成功しかけたが、解任されたウエッシン三軍司令官が空軍と海兵隊を動員して鎮圧に乗りだしたため、以来、ドミニカは内戦状態に陥った。これに対し、4月28日、米国のジョンソン大統領が「ドミニカ在住のアメリカ人保護」を名目に、米海兵隊400人を上陸させ、5月2日には「第2のキューバ化を阻止する」としてさらに統計1万4千人の軍隊を本格投入し、軍事介入を行った。

*9:「ユ二オン・ミニエール」 コンゴカタンガ州(現シャバ州)の豊富な鉱物資源を採掘するためにベルギー資本が作った独占企業体。正式にはタンガ・ユニオン・ミニエールという名で、ベルギー領時代からこの地域の銅鉱石・ウランなどの鉱山を独占的に所有。60年代には、反ルムンバ派のモーリス・チョンベがこの独占企業体に後援されたカタンガ協会連盟(CONAKAT)の統裁となり、60年5月の州議会選挙でCONAKAT派の勝利を勝ち取り、州政府首相に就任、コンゴ独立直後にカタンガ州の分離を宣言する。

*10:パトリス・ルムンバ(1925−61年)コンゴの革命家。58年コンゴ民族運動を組織し、同年12月、ガーナのアクラで第1回全アフリカ人民会議に出席、帰国報告会がレオポルドヴィル暴動のきっかけとなる,60年1月ブリュッセル円卓会議に出席、コンゴ代表団を率いて独立を勝ち取る,同年6月、初代大統領となるが、ベルギーの再侵攻と米国を背景としたカサヴブ、モブツらのクーデタで失脚。12月モブツに逮捕され、翌月虐殺された。

*11:ムレレ派 コンゴの左翼ゲリラ指導者ビエール・ムレレ(生年不詳−1968年)に率いられたゲリラ集団。1960年に始まったコンゴ動乱は、カタンガ分離独立派のチョンベが国連軍の攻撃の前に分離の終結を宣言して、63年1月に一応の幕を閉じたが、翌64年6月の国連軍引き上げ前後から、ムレレやグベニエら旧ルムンバ派の流れをくむ指導者たちのもとで反政府ゲリラ闘争が開始された61年から63年にかけて中国に滞在、毛沢東思想の影響を受け、ゲリラ戦術を学んだムレレも、そうした指導者の1人で、63年以降、クウィール州にゲリラ基地をもうけ、64年から反政府武装闘争を開始した。この左派ゲリラの闘争は、一時キンドゥやスタンレーヴィルを陥落させ、多くの地域を支配したが、チョンベの復帰による政府軍の建て直しによって65年には鎮圧された。

*12:アストゥリアス鉱山労働者のスト 62年4月、フランコ独裁下で鉱山労働者が賃上げなどを求めてストライキを敢行,このストは、マドリッドやカタルニアなどスベイン各地に波及し、フランコは5月4日に戒厳令を布いたが、学生・労働者はアストゥリアス支援のデモを行い、62年を「フランコ独裁に対する闘争の決定的な年」と定めて闘争を激化させ、フランコ体制の政治的危機となった。

*13:〈共同市場〉 フランコのスペインは戦後の冷戦によって、反共の拠点としての役割を担わされて生き延び、50年代末にはファランヘ党と国民運動と改めて近代化をはかり、60年代には工業化を推進した。その成果をもって、62年2月にECC(ヨーロッパ経済共同体)への加盟を申請した。

*14:1936年のバルセロナ 1936年から39年までのスペイン内戦期のアナキスト共産主義者による自治政府のこと。

*15:1959年にバグダッドの街頭でコーランを燃やした同志たち 不詳だが、イラクでは1958年にアラブ民族主義社会主義を標榜する准将カーシムらのクーデタによって、それまでの親西欧的・半封建的な王政が崩壊、革命後の政争のなかで共産主義者との共同戦線を形成、共産党の合法化、入閣などを行ったが、59年夏以降、共産主義者弾圧に転じたという事情がある。この時に、抗議の意味で共産主義者コーランを焼いたと思われる。

*16:ハンガリーの労働者評議会 1956年のハンガリー事件のなかで首都の権力を握った労働者の自治組織。56年2月のソ連共産党第20回大会でスターリン批判を契機に、ハンガリーの知識人が共産党批判を始め、学生や労働者による体制批判のデモが激化、10月には鎮圧のために出動したソ連軍との間に激しい武装衝突が起きた。同月新たに発足したナジ政権は一旦ソ連と和解し、ソ連軍の引き上げが決まったが、その間に、政府・党機構が自己崩壊を起こし、首都では労働者評議会が、地方では革命委員会が事実上の権力を掌握した。この事態に、ソ連が第二次介入を行い、ソ連軍の動きに反対のナジはワルシャワ条約機構脱退を宣言、ソ連軍は首都を占拠、2週間にわたる激しい戦闘の後、全土を掌握、カーダール傀儡政権を樹立、ナジとその協力者をソ連に拉致し処刑した。暴動で数千名が死亡、その後20万人が亡命した。

*17:オルフスの港湾労働者 オルフスはデンマーク中部の港湾都市で、ここの港湾労働者が1963年にドイツの貨物船が運んできた南アフリカ産のビーナッツの荷揚げを拒否した,『アンテルナシオナル・シチユアシオニスト』誌 第9号の「われわれの語る世界」のなかの「すべてが続いてゆくと、私は認めざるをえない」という表題のもとに、この事件を伝える『ル・モンド』紙(63年8月14日付)の記事が転載されている。