シチュアシオニスト情報

 シチュアシオニストインターナショナルの第4回大会は1960年の9月末に、ロンドンで開催される。

 イタリアのSIの実験的活動についてのロレンツォ・グアスコ*1の研究が、1960年1月にトリノで刊行されたが、それは愚昧の堆積といった代物である。グアスコは、たとえば、ピノガッリツィオの作業の真の関心事を見出しそこねているし、彼が興味深いと思っているものはみんな的外れである。熊が舗石を投げるように、まったくあてずっぽうにこねまわしたものだ。いかがわしい芸術商品にはふさわしいにちがいない混合物(アマルガム)を作り上げ、グアスコは、1パラグラフごとに自分のばかさ加減を露呈している。そして、集合的芸術の観念を形而上学の光のもとで解釈することでその研究を閉じるのである。これは、ブルジョワ美学の断片的な批評家たち(1958年、彼らのブリュッセルでの会議への『SIのアピール』*2が「芸術批評家の屑ども、芸術の断片の批評家ども……」と呼んだ連中)は、もっとも善意に満ちているときでさえ、SIのような運動を全体として理解することはできないということを、いま1度、証明するものである。

 ドゥボールによって書かれ、エッセンのあるギャラリーによって、ドイツで、1960年1月9日に発行された統一的都市計画についてのテクストは、ずたずたに切り刻まれたものになっていて、その意味は、まったく変えられてしまった。ここで、以下のことを思い出さなければならないのだろうか。われわれは、思想(イデー)や文章に関する一切の私的所有の観念とは無縁であるのだから、それは、出典の明記があろうが、あるいは、それを出版する者が望むままに典拠を指示しようが、また、一部であろうが全部であろうが、シチュアシオニストの文章のどれであれ、誰かが勝手に出版するのを、われわれは、そのまま放っておくことを意味しているのではなかったか。しかし、ことわれわれの署名に関しては、別である。われわれの出版物が──SIの全体によってなされる場合を除いて──改変され、しかも、それらの文章の著者たちに、相変わらず責任があるかのようなかたちで出版されるということは、われわれは断固拒否する。最小限の検閲によって、その署名を削除させることができるのだということを知らしめなければならない。

 ヨルゲン・ナッシュ*3の実験的な書物『スタヴリム、ソネッテル』*4コペンハーゲン、1960年3月)は、スカンジナヴィア諸国で、ペルミルト&ローゼングリーン*5とともにSIによって開始された一連の出版活動をさらに推し進めるものである。

 建築家のアルバーツとアウデヤンス*6は、フォーレンダム*7での協会の建築を引き受けることによって、議論の余地なく、ただちにSIの外に追放された。
 われわれのオランダ・セクションはこの見過ごすことのできない事件に対する見解を表明するのにふさわしい手段を講ずるつもりである。

 チェスマン事件*8に対してさまざまな立場が表明されてきたが、それらは、この事件の本質を捉えそこねたものばかりだった。それらは、古くからの、死刑をめぐる議論を蒸し返したにすぎない。チェスマンの死は、じつは、もつとも発達した段階の資本主義社会においてかたちづくられるようなスペクタクルの問題に深くかかわっているのである。産業化されたスペクタクルという、いまもより一層確固としたものとなってきているこの領域が、このケースでは、普通法での刑罰としては消滅しつつある死刑の旧来の領域と交差したのである。この遭遇は、ここでは、テレビ化された奴隷剣士の闘いを生み出した。法律上の碩末な議論がその武器だった。裁判の異なる審級ごとに、チェスマンに猶予が、それぞれ与えられた。このことには、12年の月日と、あれだけのベストセラーの後には、当然起こる観客たちの倦怠を打ち破るため、ということ以外に理由はない。アメリカ的生活様式の規範からいえば、チェスマンは極めて不愉快な人物であったので、公衆は、そして、公衆の〔=公共の〕感情の組織者たちは、最終的には親指をひっくりかえしてノーのサインをだした(チェスマンに対する最後の猶予は、スペクタクルの外で、一部地域に対する外交的配慮によって引き起こされたにすぎず、もはや何の目的もなかった)。合衆国の外では、広くみられた義憤には、両義的なところがあった。それというのも、そのような怒りは、ありとあらゆる情報メディアによって最大限利用されることで、このスペクタクルヘのアクセスを可能にするとともに、同時に、ゲームの規則を前にして平素の落ち着きを失わせることにもなるのだから。それは、世論をこの闘士に対する好感へと傾かせるばかりではなく、古臭い道徳の名のもとに、しばしば、スペクタクルそのものに嫌疑をかけ、係争に付すものなのである。このような反応は、基本的には、これらの国が、資本主義の近代化と、その近代化がもたらす人間関係という、同一の目標に向かってすすんでいく上での遅れを現しているにすぎない。たとえば、フランスが、いまだに、その経済と政治において古風(アルカイック)であるかぎりで、12年もの歳月の末に、天の人間が強烈なライトを浴びながら死んでいくのを目にすることはない。ほとんど誰にも知られることなく拷問された後に、ただ単純に、消え去るばかりだ。チェスマンが興味深いのは、普通の意味での犠牲者としてではなくて、彼がブリジット・バルドー*9やイランのシャーの世界に、不運な要素として、この世界の犠牲者として、参与しているということ、それが関心を引くことなのだ。つまり、生から排除されている受動的な大衆にとっての生の表象=代理の犠牲者として。
 人間的な振る舞いを初めて作り出す社会というものは、何も、人間主義形而上学によるあれこれの欺瞞に頼ることなしにそうすることができるだろう。各人にその固有の歴史を創造する条件を現実のものとすることを通じて、そのような社会は、あらゆる形態のスペクタクルを──卑小なものであれ崇高なものであれ──それ本来の場所に、つまり、国家に寄り添う古美術品の博物館へと送り返すだろう。

 1958年以来、ベルギーは以下のような一連の事件の劇場だった。1、オルニュ、1958年12月27日、2人負傷。2、カレニョン、1958年12月、1人死亡(ハセーヌ・キトゥーニ、FLNシンパ)。3、ジュマプ、1958年、1人負傷(ノル・タイエブ、FLNシンパ)。4、エロンジュ、1958年5月12日、1人死亡(フアト・シャウティ)、1人負傷(ハジ・ミルバド、FLNシンパ)。5、キエヴラン、1人死亡(ルナス・セブキ、FLNシンパ)。6、シャルルロワシェリフ・アタール(FLNシンパ)に対する暗殺未遂。7、モンス、1人死亡(サイード・モクタル、FLNに再加盟したMNA*10の指導者)。8、ブレアリ、ベルトミエ(爆弾一個とともに逮捕)。9、ブリュッセル、1960年3月9日、アクリ・アイシウの暗殺。10、リエージュ、1960年3月25日、G・ラペルシュの暗殺。そして、イクセルでのP・ルグレーヴに対する暗殺未遂。これらの、ベルギー領内で、一定の間隔をおいて行われた、アルジェリア人、労働者、それに政治難民に対するテロ行為には、たったひとつの意味しかありえない。それは、ベルギーのアルジェリア系移民に対するテロルの空気を作り出すことである。実際には、FLNのメンバーであるアルジェリア人による破壊活動はまったくない。武器や爆発物の入手のための交渉は、ベルギー政府の黙認のもとに、ピュシェのような手合いの仲介によって、可能なかぎり定期的に行われている。さらに、殺害されたアルジェリア人たちは、けっして、〈戦線〉の重要人物ではなかった。これらのテロが狙っているのは、アルジェリア人たちのあいだにパニックを引き起こして、暴力的な反応へと彼らを煽りたてようということだ。そうすることで、ベルギー警察にベルギー在留者の追放の口実を与え、また、フランスにこれ以上の難民が入れないようにしようというのである。警察は、すでに実行された暗殺を口実にして、それが誰のしわざかわかりきっているにもかかわらず、アルジェリア人を毎日のように追放している(アクリの暗殺以後20人が国外に追放されている)。このようにしてフランスの組織網に加担しているのだ。

 「自由のための文化会議美術委員会」が組織して、2月に、装飾芸術美術館で開催された『アンタゴニスム(対立)』展*11は、フランスの排外主義が、自分にはまだそのための手段が残っている──彼ら排外主義者はそう信じているのだが──ことを自らに確認させるための最後の努力の、純粋にして単純な表明であった。つまり、美術史において、ただ、パリにだけ中心があるものの、その広がりなどどこにもない、あのエコール・ド・パリ風を膨らましたり切り貼り(コラージュ)したりしたものが、その手段だというのだ。この風船はすべてを取り戻させてくれる、とりわけ、マルローのパリを、ワシントンの新たなローマ帝国のただ中で、その野蛮な征服者と収集家たちに取り入る準備を整えたギリシャに変えるという希望を。現在、蔓延しつつある文化の解体現象について適切な理解を持とうと思うなら、ジュリアン・アルヴァールが自分の姿をさらけ出してくれている、あの重いカタログに目を通す必要がある。そこには、それ自身腐りきった知的な言葉遺いで、この解体現象の実例が.示されている。
 「この結びつきは、おかしか思いつきだとばかりは言えない」と前置きして、アルヴァールはいう。「ルターは、身振りや筆触によって自らを啓示する画家たちへの、実にすばらしい序文となる」。そして、彼は、主任司祭ジョルジュ・マチュー*12を、いとも簡単に異端の側に投げ込みながら引用する。ルターとともに、ラスキン*13と二ーチェが、同じ資格でつけ加えられる。それに、もちろん、ステファン・リュパスコ*14もだ。百もの現代思想の重要な名が、同じように引かれる、しかもことことく、問違った仕方で。
 このような引照の乱痴気騒ぎの中には、表現主義が、言及されるとともにくすね取られ、パリに完全に移植されてしまうと同時に、ときとしては、道に迷ってしまうような奇妙なやり方を見てとることができる(15−6ぺージ)。表現主義から、そのドイツ的、北欧的な性格を消し去ろうという決意と、そこから由来する気詰まり、アルヴァールと同じくらい不器用な大ぼらに対する気詰まりは、彼に、このつかみどころのないカタログに複製されているすべての図版の中から、たったひとつのもの、ノルデ*15のたいしたことのない版画を採り上げさせる。しかも、ご丁寧なことにそれがキルヒナー*16の作品とされているのだ。というのも、容易に予想がつくように、「自由のための文化会議」という美術館の番犬どもは、文化に対して自由を行使すること[=好き勝手な改寛を加えること]に対して、何の恐れも抱かないのだから。とりわけ、連中の仕事が骨の折れるものであるときには。このような具合で、アルヴァールの哲学的サラダには、2つの名前──へーゲルとキルケゴール──が、驚くべきことに欠けており、それは、明らかに、著者が、ジャーナリスティックな情報を欠いているからではない。むしろ、そこから出発して人々が、現代芸術と同じくらいはっきりとこの卑しむべき会議の存在理由(レゾン・デートル)をも明らかにするなかで見出すもの一切を恐れてそうしているのである。
 要するに、『アンタゴニスム(対立)」展が示している大きな破綻は、文化のアクチュアルな諸問題を前にした件の委員会──とその同類たちの──のそれでもある。明白に予想がついたことであったが、そのことに、証拠が与えられたのである。つまり、混乱の無条件の支持者たち、文化と社会生活とにおけるこの混乱に決定的に結びついている者たちにとっては、混乱の徴のもとにそれがなされるのであろうとも、あるいは、アルヴァールの文体においてなされるのだとしても、その全体が提示されるにいたるということは危険であるだろうということが。

*1:ロレンツォ・グアスコ イタリアの美術批評家。

*2:ブリュッセルでの会議への『SIのアピール』 『国際芸術批評家総会に反対するベルギー行動』を参照

*3:ヨルゲン・ナッシュ(1920−) デンマークの詩人・芸術家、SIスカンジナヴィア・セクションのメンバー。14歳で治金工見習いとして金属工場で働き、兄のアスガー・ヨルンと二人で組合の機関紙を編集。やがて、レジスタンスの活動のなかで、雑誌『ヘルへステン』にシュルレアリスト風の詩を発表するとともに、彫刻にも手を染める。1948年、パリに行き、ヨルンが開始した〈コブラ〉の運動に参加。『コブラ』第1号冒頭にはナッシュの詩「麦」が掲載されている。1959年にナッシュはSIと接触し、SIスカンジナヴィア・セクションのメンバーとして活動。翌年、「バウハウスシチュアシオニスト」を建てるための農場を手に入れ、1962年3月、アンスガー=エルデとともに、突然、スウェーデンで分派宣言を行い、「バウハウスシチュアシオニスト」を拠点に、「可能ならばシチュアシオニスムの商標を付け、採算の取れるいくつかの芸術的商品を早急に広める」企てを画策してSIを除名される。SIはナッシュの除名後、ナッシュおよびそれに追随する商業主義者を「ナッシスト」と呼び、激しい糾弾を続ける。一方、ナッシュ自身はコペンハーゲンの町に夜間に300メートルの柵を作ったり、(この件で彼は罰金を課せられたが、翌年、コペンハーゲン美術大学の学生から「今年最高のアーチスト」に選ばれた)、映画制作や、騒音芸術コンサートを行ったりして、その活動の幅を広げてゆく。1968年には、ヴェネツィアビエンナーレスウェーデン・パヴィリオンを占拠し、それを「反逆した青年の」パヴィリオンと命名したことで知られる。72年以降、ドイツのカッセルでのドクメンタに参加し、エコロジー運動に傾いていった。

*4:『スタヴリム、ソネッテル』 は、デンマーク語でアリテラシオン(同音子音の繰り返し)の14行詩(ソネット)の意味。

*5:ペルミルト&ローゼングリーン デンマークコペンハーゲンの美術書印刷屋。ギー・ドゥボールの『回想録(メモワール)』(1950年)も、ここで印刷されている。

*6:A・アルバーツ、ハル・アウデヤンス ともにSIオランダ・セクションのメンバー

*7:フォーレンダム オランダ、北ホラント州の都市エダムの観光名所。17世紀の教会建築や博物館などが多く残り、中世の面影を残している。

*8:チェスマン事件 カリル・チェスマン(1921−60年)は度重なる強盗・襲撃・殺人未遂の罪で1941年、懲役16年の判決を受けたが、収監されたサン・クウェンティン刑務所から脱走、その後、再逮捕され47年末に仮釈放されるが、翌年、警察官に偽装した誘拐犯「レッド・ライト強盗」の容疑者として再び逮捕される。チェスマンは、冤罪を訴えるが、死刑判決を受ける。その後、12年にわたり、再審請求を繰り返し、3冊の本を書いて自分の無罪を訴える。チェスマンの本はベストセラーとなり、そのうちの1つ(『死亡者名簿−監獄2455』)が映画化されるなど世論の注目が高まるなかで、60年2月にガス室に送られた。

*9:ブリジット・バルドー(1934−) 雑誌のカヴァーガールから出発し、52年、ルネ・クレール監督の『素直な悪女』に主演し、50年代から60年代のセックス・シンボルとしてマリリン・モンローと人気を二分した。

*10:MNA アルジェリア民族運動。戦前からのアルジェリア民族運動の指導者で急進的な「人民社会主義」を掲げたハジ・メッサリによって指導されていたMTLD(民主的自由の勝利のための運動)が、FLNの蜂起に刺激され、このように改称した。

*11:『アンタゴニスム(対立)』展 パリの装飾美術館館長フランソワ・マテが企画した現代美術のデモンストレーション的展覧会で、「アンタゴニスム」の名称で何回か続いた。ここで触れられている第1回展には、イヴ・クラインの「モノクローム・ゴールド」作品なども出された。1962年3月に開かれた第2回展「アンタゴニスム2――オブジェ」展には、クラインのほかマチューも出品している。

*12:ジョルジュ・マチュー(1921−) フランスの画家。1947年以来、〈叙情的抽象(アブストラクシオン・リリック)〉を組織、1950年代前半には、アンフォルメル運動の最も目立った画家として活動。1957年3月、パリのクレベール画廊で、シュルレアリストの画家ハンタイとともにファシスト的教権拡張主義の示威行動を組織するなど、フランス右翼の復活の先頭に立って行動し、またアンフォルメル絵画の公開のアクション・ペインティングに際しては常に黒づくめの服装をしていたことから、「主任司祭」と揶揄されているのである。

*13:ジョン・ラスキン(1819年−1902年) イギリスの芸術批評家。

*14:ステファン・リュパスコ(1900−) フランスの科学哲学者。微視的物理学から認識論・進化論の研究に進み、「完全科学」の名のもとに倫理学・心理学を吸収する理論を打ち立てられるとした。57年のクレベール画廊でのファシスト教権拡張主義の示威行動に参加し、マチューやハンタイとともにシュルレアリストから攻撃されている。(「威嚇射撃」)。代表作に物理的・生物学的・心理的物質がいかにして生じるかを考察した『3つの物質』(1960年)のほか、『エネルギーと生きた物質』(62年)、『科学と抽象芸術』(63年)、『構造とは何か』(63年)、『数学と死の夢』(71年)、『エネルギーと心的物質』(74年)など。

*15:エミール・ノルデ(本名エミル・ハンセン 1867−1956年) どいつの画家。1906年からドイツ表現主義の集団〈ブリュッケ〉に所属し、また〈青騎士〉のメンバーとも接触して、絵画や版画を作成し表現主義の代表的画家とされる。ナチス政権下では退廃芸術家の烙印を押され、その絵が没収された。

*16:エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(1880−1938年) ドイツ表現主義の画家・彫刻家。1905年に〈ブリュッケ〉の創設者の1人となり、単純色を多用した表現主義の絵画を制作し、ノルデとともに表現主義の代表的画家とされる。1937年ナチスによってその作品を押収され、38年自殺。