サルトル、ガタリ、シチュアシオニスト…………状況の変奏 by 杉村昌昭 (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第1巻解説)

 “シチュアシオン”(状況)とははなはだ便利なことばである。“状況”とつぶやくなり書き記すなりするだけで、なにごとかを語ったような錯覚におちいる。しかし、いうまでもなく、”状況”という記号のシニフィエ(意味内容)は各自の思想やイデオロギーに応じてさまざまに異なる。
 サルトルが戦後長らく書きついだ〈シチュアシオン〉(状況論)は文字通り自己を取り巻く世界の“状況”を語り、そのなかにおいて自らの選択すべき立場を明らかにしようとするものであった。しかし、シチュアシオニストの場合には、当初“シチュアシオン”ということばはある角度から切り取った客体しての世界の姿ではなくて、自らの手で“構築"すべき一種の“主体的対象"であった。ただし、それはやがて客観世界の成り立ちの説明図式へと変化していく。その集大成がギー・ドゥボールのベストセラー『スペクタクルの社会」である。ドゥボールはそのなかで“スペクタクル"という概念をふるに活用して現代世界=社会の成り立ちを叙述しているのだが、この“スペクタクル"という概念は、多分、古典的文学批評風にいうなら“見せかけ=見かけ"、ボードリヤール流のハイカ社会学風にいうなら“シミユレーション=シミュラークル”、また精神分析記号学風にいうなら"シニフィアンルプレザンタシオン"といったような概念に相当するものであろう。
 ともあれ〈アンテルナシオナル・シチュアシオニスト〉誌が創刊された1958年という時期は、戦後10年余を経て世界中のさまざまな場所で、現在にまでつづく、“後期戦後社会=大衆的政治文化社会”が始まろうとしていた時代だった。したがって、この新しい世界的政治文化システムの成立構造を解明・説明するための新概念をつくりだそうというさまざまな試行錯誤がすでに胎動しはじめてもいたのである。しかし、"出来事の次元”にかぎっていうなら、フランスでは 58年という年はなによりも植民地アルジェリアをめぐる国内情勢が風雲急を告げる時期として記憶されている。そういった時期には、一見無縁の活動スタイルをもつ人々が“状況”の糸に“あやつりつられて"意外なかたちで結びついたりもする。サルトルガタリシチュアシオニストというその政治活動家としての出自をまったく異にする三者が瞬時同一の流れに融合したのは60年アルジェリアをめぐる政治情勢のなかにおいてであった。すなわち、この年FLN(アルジェリア民族解放戦線)をほとんど無条件に支持した"121人の声明"にサルトルドゥボールも署名したのだが、この声明は事実上ガタリが主宰していたトロツキズム系の政治運動の機関誌『共産主義の道』に掲載されたのだった。当時を回想したガタリ自身の文章を引用しておこう。
 「1956年はさまざまなことが交錯した年だった──ソ連共産党第20回大会、アルジェリア戦争の勃発と特別権限に対するPCF〔フランス共産党〕の賛成投票、スエズ派兵、ブダペスト、『ユマニテ」本部の火事、引き潮のはじまり──(……)すべては明らかに絶望的事態におちいっていた。私はレーモンとわれわれのグループの仲間たちとともにPCI〔国際主義共産党トロツキズムの党〕を離脱する決心をした。ほとほと愛想がつきてしまったのだ。(……)われわれは反対派の潮流にのこっているものを可能なかぎり救いあげようと望んでいた。われわれは強引に『共産主義の道』の編集部に復帰し、そこで権力をふるっていたトロツキストたちを公然と排除しにかかった。PCIの何人かの指導者がひそかにわれわれを激励してくれたけれども、この分裂でわれわれと行動をともにした者は数えるほどしかいなかった。(……)『共産主義の道』を49号まで出す(1958年11月から1965年2月まで)過程は実に一種の叙事詩といってよいものだった! これはFLNの闘争を偏見もためらいもなく支持しながら、わずかとはいえ大衆的な支持を得た唯一のマルクス主義運動であった(いまでは忘れ去られているけれども、クロード・ブールデなどもふくむPSU〔統一社会党〕の大多数から非難された"121人の声明”は『共産主義の道』に掲載され、ただちに差し押さえられたのだった)。『共産主義の道』とともに、FLN〈支持〉はそのいささか錯乱ぎみのロマン主義的性格を失って、フランスの革命的前衛の闘争に結びついたのである。」(ガタリ精神分析と横断性』(1972年)所収「レーモンとイスパノ・グループ」より〔なおこの論文は若きガタリが政治活動をともにした先輩活動家レーモン・プティヘの追悼とあわせて自らの政治活動家としての足跡をたどりなおした貴重な証言録である〕)。
 しかしこの紙の上での瞬時の出会い=融合ののち、サルトル共産党の“同伴者"を脱した"荒野に叫ぶ左翼知識人"として、ガタリは極少数派の“新左翼活動家"として、そしてドゥボールをはじめとするシチュアシオニストは"得体のしれない反体制小集団"として、この三者はもとどおり独自の道を歩みはじめ、それぞれの仕方で"状況"と苦闘しながら60年代を疾走していく。彼らが再び見えない糸で結ばれるかたちで歴史の表舞台に登場するのは、やはり戦後フランス史の大きな曲がり角となった68年5月革命の激動の過程においてである。
 ところで、この68年以前の時期、ガタリは一方で異端派トロツキストとしての政治活動を続行するのと並行して、精神医学の実践家としての経験を深めてもいた。ガタリの精神医学とのかかわりは、そもそものはじめから彼の政治的活動家としての経験に発していた。すなわち次のような経緯である。「PCIの分裂〔1951年〕によって私のいっさいの希望は瓦解した。PCFへの加入戦術に賛成していたパブロ=フランク=プリヴァのグループは孤立した。加入戦術は架空のものとなり、最良の活動家たちはランベール=ブレトルーのあとにしたがい、MRJ〔革命的青年運動〕の私の良き仲間たちも彼らに合流した。私は意気消沈したままパブロ・ブループに票を投じた。私は当時青年の家(CLAJPA)におけるトロツキスト的傾向の責任者であった。しかし私は突然すべてを放りだした! 青年の家の全国大会の真最中に私は遁走した。そして私は、当時ロワール=エ=シェール県のソムリーの病院を指揮していたジャン・ウリと長時間にわたる議論をしに行った。そこでは、政治、精神分析、精神医学、文学などなど、すべてが話題にのぼった。そのときから、私は家族を離れ、勉強の方向づけをやりなおすことになったのである。」(『精神分析と横断性』所収の論文「レーモンとイスパノ・グループ」より)
 そして、これ以後ガタリはウリとともにラボルド精神病院(ロワール=エ=シェール県のブロワの近くにあるラボルドの老朽化した古い城館をウリが買い取って病院に改造したもの)に根城をおき、政治と精神医学の"交錯的実践"を92年の突然死にいたるまで続行するところとなるのである。
 ところで、当時ジャン・ウリが実践していた精神医学の療法は“制度的精神療法"と称される方法であった。したがって、当然のことながら、ガタリもまた精神医学の世界ではこの“療法"の理論家・実践家として自己形成しその名を知られていくのである。
 “制度的精神療法"とは、第二次世界大戦終結にひきつづいて生じた精神病院の解放運動の主たる特徴を表現するために1952年ころG・ドムゾンと Ph・クークランが命名したものと言われている。当初はマルクス主義的傾向が支配的位置を占めていたが、やがてラカン理論に直接的影響をうけた世代が登場して時代に応じた変容をとげていく。そしてウリとガタリの領導するラボルド精神病院が50年代から60年代にかけて、この第2世代の"制度的精神療法"のひとつのメッカとなり、“精神療法"における“制度派"と称されて、その実践は精神医学の世界にとどまらず、広範囲の社会的場面にまでおよんでいくところとなる。(ロベール・カステル『精神分析主義』、ガタリ=ウリ=トスケル『制度派の実践と政治』などを参照)。
 ところで、"制度的精神療法"というと、なにやら"精神病者"を社会制度の枠組みのなかに復帰させる既成秩序を維持するための方法のようにきこえるが、むろんそうではない。ことはむしろ逆で、制度というひとつの概念を実践的な軸にしながら、精神病院のなかにおいて医師、看護人、病者の協同作業を自由にくみかえたりして、病者の真の解放をめざそうとするものである。したがって、病院の外の世界、あるいは伝統的な精神病院といった既成の制度に拘束されている場からみれば、むしろ一種の"反制度"的な実践にほかならないといえよう。いわば、制度ということばは、あくまでも病者のそして医師や看護人の解放のための状況づくりのきっかけをあたえる仮設的なモデル概念にほかならず、そこに既成秩序の維持装置としての意味はまったくふくまれていないのである。
 「それ〔制度的精神療法〕は第二次世界大戦直後フランスで精神病院についての批判的考察のなかから生まれた。そこで問題になったのはこの強制収容の場がひきおこす底深い混乱であった。伝統的な構造につきまとっていたさまざまな混乱を分類するなかから、病院施設を深部から変えていく作業が準備されていった。ポイントは病者や病院職員など同一の共同施設のすべての使用者に対して、大半の混乱がもっともはなはだしいものもふくめて人々の個性に結びついたものではなくて、その共同施設の内部における個人的ならびに集団的な相互関係のありかた、あるいは習慣や偏見、信仰、特権といったなかなかぬきさりがたいもののなかに刷りこまれた物質的.経済的構造の配備と結びついたものであるということを知らしめるところにあった。(……)〔制度的精神療法にとっての制度的生活の新たな組織化の要点は〕まずこの隔離された場を人間的諸関係の新たな構造化によって共同的に〈手入れ〉をして、多岐にわたる仕事の遂行のなかでひとりひとりの病者に責任をもたせ、共同体の分業システムの開放と再編をうながすことであった──作業グループや遊戯グループあるいは演劇グループなどの創設、〈病棟〉や病院の開放など。かくして施設のなかにひじょうに精綴な諸制度のネットワークがつくられるところとなる。そしてそのネットワークの特徴は柔軟性、流動性、さらには不確実性ですらあるが、それというのも、日々新たに生まれる諸要求ひとりひとりの個人からであれ、個人相互の諸関係からであれ、あるいは集団からであれに適応していくためであった。したがってそれは、銘々が制度的対象──精神病者において転移の唯一可能な支柱に対して備給することを可能にするひとつの構造化された集合体を構築することにほかならなかった。」(『ラルース大百科事典』より)
 さて、"制度的精神療法"についての説明を長々とおこなってきたのは、ほかでもない、このガタリが中心的にかかわった精神医療の理論と実践(ガタリの思想をもっともよく特徴づける"横断性"という概念もその深化の過程で着想されたものだ)が、シチュアシオニストの唱える"状況の構築"という主張とかなり類似していると思われるからである。
 シチュアシオニストはこう述べる。
 「新しい行動様式の初歩的試みが、われわれが漂流と名付けたものによって既に成し遂げられている。漂流とは、環境の素早い変化による情動の逸脱〔デペイズマン〕の実践であると同時に、心理地理学とシチュアシオニスト的心理学の研究方法でもある。だが、遊戯的創造に対するこうした意志の適用は、人間関係の既知の形態すべてに拡大し、そして、例えば、友情や愛情のような感情の歴史的進化に影響を与えるものとせねばならない。どう考えようと、われわれの探究の本質が賭けられているのは、まさに状況の構築という仮説になのである。1人の人間の生は偶発的な状況の連続である。そして、それらの状況のどれ1つとして他のものと厳密に同じではないとしても、少なくともそれらの状況は、多くの場合、あまりに互いに区別がつかず、輝きのないものなので、完全に同じものであるという印象を与える。こうした事情の当然の帰結として、1人の生における既知の状況がその人の生を完全に固定し制限することになる。われわれは状況の構築、すなわち、集団的環境の構築、ある瞬間の質を決定する印象の全体の構築を試みねばならない。ある定められた時間に諸個人からなるグループの統合という単純な例を挙げるなら、われわれが持っている知識と物質的手段とを考慮しつつ、どのような場の組織化、どのような参加者の選択、どのような事件の挑発が望ましい環境に適したものかを研究すべきだろう。(……)状況とは、したがって、それを構築するものたちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの『公衆』の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者ではなく、言葉の新しい意味において『生きる者』と呼ばれる者の関与するところが増大する。」
 むろんシチュアシオニストの唱える"状況の構築”がいわば抽象的な都市空間(どこであってもよい)を対象としているのに対して、"制度的療法”は精神病院という閉ざされ隔離された具体的な場での話であるというちがいはある。しかしボードレール流に"世の中を病院とみなす”なら(「この世の生はひとりひとりの病人がベッドを変えたいという欲望にとりつかれている病院のようなものである=『パリの憂欝』より)、この2つの一見無縁の理論と実践には、その欲望の解放への希求の具体性において同質の志向が認められるといってよい。一方が"制度"(アンスティチュシオン)とよぶものと、他方が"状況”(シチュアシオン)とよぶものとのあいだにば、この場合、その欲望の解放へのきっかけづくりとしての仮設的概念性においてそれほどのひらきはないといわねばならない。そして、出自をまったく異にしながらも、その欲望にもとづく社会解放の潜在的構想において接点を秘匿したこの2つの流れは、やがて68年5月革命のなかで、この"現代的革命"の精神をもっとも象徴的に体現する"傾向潮流"として、ときにある種の融合をもおこないながらともに独自の役割をはたすところとなるのである。
 戦後はやくから未完におわった小説『自由への道』を出版し、68年5月革命を"自由とは何かを表現しようとした出来事"と解釈して、政治や革命を一貫して意識的行為の次元でとらえようとしたサルトルに対して、50年代から60年代にかけて政治に精神医学をもちこんだガタリは、覚醒した意識(イデオロギ iー)にもとづく"状況判断"よりも、人間の無意識のエコロジーのもつ革命的機能を強調するようになる。他方、50年代に一種の”無意識的主体"として登場したシチュアシオニストは"68年5月"の終結後、"革命"に対する覚醒した意識(醒めた客観主義)に転化したように思われる。その意味で、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(1967年)は“革命の言語”として完成された作品、いいかえるなら"終了した言説”といえるだろう。だからこそ、その後のドゥボールは自らの作品に対する注釈を繰り返すという一種の"自己模倣”に終始しているのだと思われる(フランス語版第3解説版〔1992年〕への緒言にみられる「私は自分の意見を訂正するような人間ではない」という言葉はまさに”自己模倣"の正当化であり、自分に対するさまざまな否定的評価にいちいち反論してみせた近著『この悪しき評判……』もこうした"自己模倣”の実践として読むことができる)。しかし、68年以後、ジル・ドゥルーズとの共同思索を開始したガタリにしても、『分子革命』(1977年)から『3つのエコロジー』(1989年)を経て遺著『カオスモーズ』(1992年)にいたるまで、一貫して50年代から60年代にかけての活動のなかから着想した"横断性”や"主観性”といった概念を基軸にしつづけたのであり、そう考えあわせてみれば、この"世紀末革命”の鍵は、やはり、いまなお50-60年代の政治=文化状況とそれがもたらした所産のなかにかくされているのかもしれない。
(1994年2月)