書店の貧困

 われわれは、「老いたるモグラ」書店*1からわれわれの出版物を引き上げねばならないと思った。書店の持ち主は、あまりに多くの革命的抱負を抱いていたので、店に並んでいる本に対して中立的な書店主だとは見なされなかったが、活動の点ではあまりに厳密さを欠いていた(愚か者たちばかりか、親中国派までが居座って演説するのを我慢していたのだ)ため、革命的書店主だとも見なされなかった。
 さらに深刻なことがある。われわれは、書店主兼出版社主ジョルジュ・ナタフ*2(パリ5区ブーランジェ街25番地)が、雑誌「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」あるいはSIの他のいかなるテクストに関しても、その出版や再版を任された、もしくは任される可能性があると自己紹介することをシチュアシオニストから許可されたなどということは、断固として打ち消す。われわれは、6月以来、直接介入によって、こうした詐欺(そこにあるのは経済的動機よりむしろ情緒的動機だと、われわれは推測する)を激しく打ち消すよう努めてきたが、この直接介入については、彼の取り巻きの誰一人として知らない者はいなかった。

*1:老いたるモグラ」書店  「社会主義か野蛮か」のメンバーでドゥボールとも知り合いだったピエール・ギョームが1965年に開いた書店で、当時、古今の左翼関係文書を多く扱い、「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌も置いていたが、ギョームの日和見的態度によってSIから絶縁された。ギョームはその後、さまざまな運動に傍観者的に首を突っ込み、今では、ナチスによるユダヤ人大量虐殺、特にガス室の存在を否定する歴史修正主義者あるいは否定主義者のグループの中心人物として悪名を高めている。書店は今は存在しないが、ギョームは1995年に歴史修正主義者の雑誌「老いたるモグラ」を創刊している。この雑誌「老いたるモグラ」の創刊号にギョームはドゥボールとの交友を回顧する文章を載せているが、それは、SI以降のドゥボールが「歴史修正主義」について何も書いていないことは、ドゥボールが「歴史修正主義」の存在を肯定的にとらえていた証拠だと、転倒した「歴史修正主義」的手法で、自己弁護に終始するひどいものである。

*2:ジョルジユ・ナタフ パリ5区のブーランジェ通りで書店を経営していたアナキストで、スペイン人の亡命アナキストらの連絡役を務めていた。60年代後半にSIに接近し、SIのメンバーともつき合いがあった。