SIとラナースにおける一連の事件

 
 1965年はじめ、「体制転覆的な漫画」*1を発行した廉によってデンマークでJ・V・マルティン*2が告発されたことは、いささか物議をかもしていた。この漫画は本誌前号に3つの例を掲載した(21、36、37ページ〔本書 第4巻 254、300、301ページ〕)ものである。マルティンは、アメリカ資本主義の戦闘的なイデオロギー団体として悪名高い「道徳再武装(モラル・リ=アーマメント)」*3運動のデンマーク支部の告発により、SIの責任者として個人的に訴追されることになったのである。告発は主としてスペインでわれわれが非合法に撒いたビラに関するものであった。これらのビラは形式的には漫画の転用であり、伝統的な「吹き出し」の形を借りて、裸の若い女性たちに道徳的および政治的な自由に与するいくつかの真理を語らせていた。「道徳再武装」はこの機会を捉えて、マルティンをはじめとするSIを、道徳と公序良俗に対する侵害、エロチシズム、ポルノグラフィー、反社会的活動、国家に対する侮辱などで罪に問うことを要求したのである。また以上の証拠資料に加えて、コンスタンティン王(以前からファシストと見られてきた彼は、昨年の夏、ほぼすべてのギリシア国民にそれを証明してみせた)との結婚に同意したデンマーク王女*4よりも明らかに自分の方が勝れていると言い放っているクリスティン・キーラー*5の有名な絵が、デンマーク王室への侮辱というもうひとつの罪状に上げられた。そして「道徳再武装」が試みたこの大掛かりな手段のせいで、デンマークの新聞はこぞってこの問題を取り上げることになったのである。マルティンは即座に、公の場で声明を発表し、シチュアシオニストは確かに「道徳再武装」が擁護するあらゆる価値の敵であり、われわれの生きている社会の道徳武装解除のために積極的に力を尽くしているのだと認めた。彼は「裸の若い女性たちのポルノグラフィーは、幸いにも、ある種のエロチックな響きをもっている」と認め、その上で、ポルノグラフィーの出版に関する問題は、こうした出版を引き起こし、また一般にそれを黙認している抑圧的な道徳と無関係でないが、われわれのビラとは無関係であることを指摘した。最後にマルティンは、公式にはフランコ体制に反対している国の社会民主主義の当局が、フランコ体制を侮辱する出版を国内で弾圧しようとする姿勢の逆説的な意味深さを明るみに出した。結局、司法当局は、マルティンを法廷に起訴するのを断念することを選び、教育的なものとなっていただろう審理が始まる前に告発を取り下げてしまった。
 NATOが、デンマーク軍との共同演習*6に参加させるためドイツ軍を2度にわたってデンマーク入りさせることを決めたのは、その後まもなくのことだった。1945年にドイツ軍の占領*7が終わって以来、デンマークではじめてドイツ軍を目にする機会が訪れることになったのである。これは、全左翼からの無内容な大抗議を引き起こした。さまざまな抗議行動や請願行動か行われたが、当然、誰もそんなことなど考慮に入れはしなかった。最初の部隊は3月16日、ユトラント半島のラナース*8に到着するはずだった。ちょうどその時、マルティンはこの町に住んでいた。最近の訴追騒動ですっかり有名になったマルティンは、それまでのシチュアシオニストとしての活動で作っていた前衛分子との結びつきをさらに強めていた。マルティン、オルフス大学*9の何人かの学生、港湾労働者、反ナチ武装闘争時代の旧パルチザンたちが集まり、ドイツ軍のラナース入りに実力で反対することを呼びかける委員会が結成された。壁に貼られたポスターや落書きが呼びかけを伝え、デンマーク中から人々が集まってきた。衝突の様子を見ようと、スカンディナヴィアのあらゆる新聞が、またドイツからも何紙かが特派員を送りこんできた。
 3月16日、デンマーク軍は、多数の警察の増援部隊に助けられてラナースの町を包囲した。デンマーク軍の作戦は、不意をついて、駐留が予定されている兵舎までドイツ軍の機動部隊を一気に進入させるというものだった。だが、委員会はあらゆる道路を監視するよう手はずを整えており、日暮れとともにドイツ軍の侵入路を事前に知ることができるようになっていた。そのために配置されたいくつもの小班が、ドイツ軍の移動を遅らせた。その間に、デモに参加していた群衆は集結して兵舎の前に移勤し、ドイツ軍の進入方向に向かった。
デモ参加者だちとデンマーク軍の兵士および警官とのあいだに激しい衝突が起こった。この混乱の最中にドイツ軍の車輛が到着した。車は投石に遭い、タイヤはパンクさせられ、ジープが1台盗まれさえした。最終的に部隊は兵舎に入り、そこで夜を過ごしたが、この象徴的な征服を終えてこの地を後にする以外になかったのである。まもなく、ボンのスポークスマンは、デンマークでの演習にドイツ軍を2度にわたって派遣する計画であったことを否定し、すでに達成されたただ1度の経験は完全に満足すべきものであったと言明した。
 その翌々日の3月18日の夜、マルティンがデモの貴任者たちのグループと一緒に自宅を出ようとしたとき、彼らが後にしたばかりの部屋で強力な火炎爆弾が爆発し、別の階にいた彼の息子のモルトンに軽傷を負わせた。進行中の行動の組織化は、すべてこのスロドスガード16番地のマルティンの自宅で行われてきたため、この自宅は、ほとんどどこででも「暴動の司令部」として知れ渡っていたのである。火はまたたく間に家を包み、完全に焼き尽くしてしまった。最初の印象では、極右の反撃だと思われたが、警察は、幸運にもこの「事故」によって明るみに出たテロ活動の疑いでマルティンを即刻逮捕した。
 ところが翌日には、警察はこの無理な仮説を全面的に変更することになった。警察は放火犯人を簡単に割り出した。それはカンストルップという名のデモ参加者で、彼は自分の名前入りの鞄と一緒に2個目の爆弾をタクシーの中に置き忘れてきたのだった。カンストルップの経歴は注目に値する。彼は「共産主義青年同盟」の指導者で、ネオ・ナチの組織に潜り込み、東ドイツにいるネオ・ナチの工作員を発見して東ベルリンの当局に密告していたのである。そのためそのために彼はスパイ行為の疑いでコペンハーゲンの警察に逮捕されてしまった。そしてこの謎の転機のあと、カンストルップはトロツキストとなり、社会主義左派のグループの中で秘密裏に「潜入工作」を行っていたのだ。そうした立場で彼はラナースのデモに参加していたのである。もちろん、2個の爆弾を携えてきていることは隠していた。
 カンストルップが警察で行った供述によれば、単に象徴的な意味會いで利用しようと考えていた爆弾が、マルティンの家で偶発的に爆発してしまったということだ。とは言え、カンストルップが挑発者であることは明らかだった。だが、爆発がほんの少し前まで部屋にいた人々を身体的に消滅させることを狙ったものだったのか、単に建物の破壊を狙ったものだったのかは決しがたい点てある。カンストルップ白身が起爆装置を作動させた可能性もあるし、共犯者が窓から手榴弾を投げ込んで爆弾を「発火させた」のかもしれない(カンストルップはしばらくこの仮説を主張していたが、偶然の一致がありそうにもないことを考えてこれを撒回した。彼の主張によれば、爆弾の存在を知っているのは彼1人たった)。カンストルップが、例のスパイ事件以来彼に影響力を持っているコペンハーゲンの政治警察のために行動したのか、スターリン主義者(デンマークのとるに足らない党であれ、東ベルリンのその直接の指導部であれ)のために行動したのか、われわれはその点を解明することを気には掛けなかった。というのも、あの状況下ではこれら2つの組織の目的は深く結びついていたからである。それはまず、デモ参加者の一部に乱暴なやり方で恫喝を加えることであり、他方では、デモの主催者は東側の官僚たちと関係のあるテロの陰謀に巻き込まれかねないと思わせて混乱の種をまくことである。このようにカンストルップを操作することで最大の利益を得るのはデンマークの政治警察であった(その後の展開でそれはかなり明白になった)。しかし、スターリン主義者たちも、強力な行動能力を示した自律的組織に与えられた一撃には満足していたはずである。
 J・V・マルティンは、ドイツの新聞では、アナキストであると同時に親スターリン主義者として、またいずれにせよ反ドイツ的な人物として扱われたが(しかし、ラナースでのドイツ語のポスターは、こうした対応はドイツ軍国主義にのみ狙いを定めたものであることを強調していた)、これに対して彼は、ワルシャワ条約に反対する彼の立場は、NATOに反対する彼の立場と同等のものであり、またシチュアシオニストは決して反ドイツ的などではなく、われわれの雑誌のひとつには『デァ・ドイチェ・ゲダンケ』(ドイツ思想)*10というタイトルが付けられていると述べた。
 その頃、スウェーデン警察とスカンディナヴィアの新聞は、若干の武器を所持するとともに脅迫状を送った疑いがもたれるネオ・ナチの小セクトを発見し、それで左右の過激派の対称的なバランス表を作ろうとした。さて、カンストルップの裁判が始まると、検事は何の説明もせずに、現住建造物の爆発物による破壊という罪状をやにわに取り下げ、「爆発物所持と禁止された示威行動への参加」による2ヵ月の禁固刑だけを求刑し、その判決を得たのである。これにはカンストルップの弁護士──スターリン主義者のマドセン──も明らかに驚かされたようだった。このことから、デンマークにもアメリカ映画流の司法的寛容が見られるなどと推論してはなるまい。というのも、しばらくして、今度は、あの嫌悪すべきビリー・グラハム牧師*11の集会に単に催涙ガス弾を投げつけただけの若い同志が3ヵ月の懲役刑を言い渡されたからである。その後、コペンハーゲン警察の研究所は、周囲の気温が極度に上昇したために爆弾が爆発した可能性があるという結論を出した(しかし、爆発は暖房されていない部屋で起こったという事実は考慮されなかった)。結局、12月になって、マドセン弁護士は新たな調査の開始を要求した。彼は、ラナースの警察が、カンストルップによるマルティンの家での犯行計画を24時間以前から知っていたこと、したがって少なくともカンストルップが犯行に及ぶのを放置したことを詳細にわたって告発したのである。マドセンはまた、爆薬を供給したことで軍を告発した。デンマークの新聞はこぞってマドセンの告発を報じ、スターリン主義の日刊紙『ラント・オ・フォルク〔国土と民衆〕』もこの例に漏れなかった(66年1月1日付)。こうして、スターリン主義者たちは、警察側の挑発者としてのいかがわしいカンストルップの役割をずっと遅くなってから暴露したのだが、その間、真相の不明によって彼らの思惑が肋けられたのである。
 こうした一連の出来事は、スカンディナヴィア諸国の民主主義の安逸のかげで、暴力が一般的な増大の兆しを見せているものとして興味深い。それはまた、この暴力を社会に対する異議申し立てへと変容させる運動の兆しであり、ここで試みられた方法は、今日、日本の前衛が最良の経験を有しているものである。ごく最近の例では、3月10日に街頭を占拠し、同地の王女と元ナチス同盟員との結婚の儀式を妨害しきったアムステルダムの数百人の若き「プロヴォ」たちの行動がある。これも同じ流れに位置づけることができるだろう。また、ラナースでは、SIの実践が傑出した姿を見せた衝突の直後から、非暴力的な諸団体の呼びかけによる別の平和的な抗議行動が若い愚連隊(ブルゾン・ノワール)の攻撃の的になったことに注目すべきだろう。そのほかの重要な報告事項として、北欧におけるSIの出版活動のための主要な保管所が完全に破壊されたため、18ヵ月前に「RSG6粉砕」*12のデモンストレーション(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第9号32ページ〔邦訳 第4巻 286−294ページ〕参照)用に制作された反−絵画(マルティン、ベルンシュタイン)*13のほとんどが同じく灰燼に帰してしまったことがある。これはまさに芸術的否定の消滅という事態であり、いまだそれの乗り越えではないのだ! ここでは、芸術という「カムフラージュ」が燃え尽きてしまったのである。また、社会民主主義デンマークの警察や軍が、自分たちを不安にさせる運動を妨害するためなら、アメリカやスペイン、あるいはモロッコとフランスの警察の行動部隊のよく知られた手口を利用するということが示されたことはきわめて重要である。

*1:「体制転覆的な漫画」 フランコ独裁下のスペインで配布された2つの転用コミックス『アストゥリアスの銀山労働者とJ ODER』、『労働者の解放』、およびデンマークで配布されたクリスティン・キーラーのヌード写真を転用したビラのこと。どれも1964年7月に配布された。

*2:イェッペセン・ブィクトール・マルティン デンマーク国籍のシチュアシオニスト。SIスカンディナヴィア・セクションに所属し、1962年以降、中央評議会委員として活動、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第8号から第1号までの編集委員、『シチュアシオニスト革命(シチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』誌の編集長を務める。1972年のSI解散まで、除名も脱退もしなかった数少ないメンバーの1人。

*3:「道徳再武装(モラル・リ=アーマメント)」 米国起源のキリスト教右翼の運動、略称MRA 。もとは米国ルター派の牧師フランク・ブックマン(1878−1962年)が始めた運動,オックスフォード・グループ運動の学生伝道運動が前身で、1938年以降、キリスト教秩序による社会変革を強調する傾向を強め、〈道徳再武装〉と改称、道徳的頽廃の攻撃と反共、人種主義を掲げて全世界に展開、60年代にはヨーロッパ、日本でも活動している。

*4:デンマーク王女 フレゼリク国王(在位1947−72年)の3人の娘の1人。長女マルグレーテは、女性王位継承権を認めた1953年憲法によって、72年以降女王となった。

*5:クリスティン・キーラー イギリスの売春婦、「キーラー事件」の当事者。1963年3月以降、下院でイギリス陸軍大臣ジョーン・プロヒューモ、駐英ソ連大使館付海軍武官イワーノフ大佐とキーラーとの関係が暴露され、国家機密漏洩事件として験がれた。プロヒューモ陸相はキーラーとの関係を認め、6月に辞任,この「世紀のスキャンダル」に英国議会は混乱し、マクミラン首相も7月に辞任した。

*6:NATOデンマーク軍との共同演習 デンマークは1949年に、スウェーデンノルウェーとの北欧防衛同盟結成の交渉を決裂させ、単独でNATOに参加。以降、NATO軍との共同演習を行っている。

*7:ドイツ軍の占領 1939年4月9日のドイツ軍のデンマーク侵攻と、デンマーク政府の無抵抗の「新秩序」受け入れによって、デンマークは45年5月までドイツの占領下にあった,デンマーク国民は占領当初こそ無抵抗だったが、1940年12月にデンマーク政府による防共協定加入に抗議するデモを皮切りに、41年11年以降、レジスタンス運動が組織され、サボタージュストライキなどで徹底的な抵抗運動を展開した。

*8:ラナース デンマーク東部、オルフス州北部の都市。ユトラント(ユーラン)半島中東部のラナース・フィヨルドの湾奥に位置し、人口約8万、鮭の薫製と手袋の生産で有名。15世紀の教会をはじめ、古い建築物が多い。

*9:オルフス大学 デンマーク中部、オルフス州の州都オルフス(オーフス)市北部にある1928年創設の大学。オルフス市はデンマーク第2の人口(約24万)を有する港湾都市

*10:『テァ・ドイチェ・ゲダンケ〔ドイツ思想〕』誌 SIドイツ・セクションでの〈シュプール〉派の除名の後、新しくドイツで発行されたSIの機関誌。1963年4月に第1号だけが出された。その内容は、ウーヴェ・ラウゼンの論文「確かにそうかも知れないが」とアッティラコターニィの論文「次の局面」以外は、『アンテルナシオナル・シチュァシオニスト』誌の第1号から第8号までの9本の論文の翻訳である。

*11:ビリー・グラハム牧師(1918−) 米国のキリスト教大衆説教家,野球スタジアムなどでの伝道集会やそのTV放映を通じて、ファンダメンタリストの保守的イデオロギーを伝達するスター。ブッシュ大統領の就任式で祈祷を行ったことでも有名。

*12:「RSG6粉砕」 デンマークのオーデンセの〈ギャラリーEXI〉で開催された展覧会を兼ねた集会。この集会のパンフレット『RSG6粉砕』によると、ドゥボールやベルンシュタイン、マルティン、ストリィボッシュの「作品」に混じって、〈平和のためのスパイ〉が発行した『危険! オフィシャル・シークレットRSG6』のオリジナル版も展示された(コピーが配布された)。またこのバンフレットには、ドゥボールが書いた『シチュアシオニストと、政治および芸術における新しい行動形態』(本書第四谷の付録資料として訳出)が3ヶ国語で収められている。

*13:反−絵画 この時に展示されたベルンシュタイン、マルティンらの転用絵画のこと。本書 第4巻378ページ以下の訳者解題を参照。