ポトラッチ第9−10−11号

訳者改題


レトリスト・インターナショナル・フランス・クループ情報誌──毎週火曜日発行

1954年8月17日−31日

ヴァカンス特別号


芸術家たちの出口

 『ポトラッチ』第8号の〔発行の〕間際になって、「限界を超えると、もう制限はない」というタイトルのコラムが削除された。そのコラムは、インドシナでの休戦協定に関してルイ・アラゴンが『ユマニテ・日曜版』紙に発表したある詩の貧しさを指摘したものだった(「どこででも武器を捨てろ、武器を捨てろどこででも」というのがその最後の1行で、途轍もなく奇妙だというわけではない)。問題のコラムは、ルイ・アラゴンに「社会主義レアリストのポンサール*1」の良き弟子を認めていた。われわれがそれを削除した理由はほかにもあった。
 確かにルイ・アラゴンは笑わせてくれるが、われわれはいやなやつらといる時に笑うことは受け入れられない。
 社会主義レアリスム芸術の理論は明らかにばかげた理論だ。しかしながら、ソ連──あるいはその周辺国──製のそうした俗悪画でも、進化の乏しいプロレタリアートにいくつかの生存のための戦いを意識させうるのであれば、われわれはそれを非具象(ノン・フィギュラティヴ)とか「アンフォルメルの意味を持つ」(ばかばかしい!)とか言われている百千倍も抽象的なまやかしの探究──パリの画廊や「ニュー・ルック」のブルジョワのサロンを埋め尽くしている──よりも価値のあるものと見なす。
 われわれはもうフランス詩には関心がない。フランス詩など、ブルゴーニュ・ワインやエッフェル塔といっしょに、みんなまとめて観光業者に任せよう。われわれがそうした詩を擁護しているなどと思わせてはならない。われわれが支持するのはただ、何よりもフランスの労働者の革命意識のサボタージュを見出すのでなければ、楽しく滑稽な調子になり下がってしまうようなスローガン(「わが党は私にフランスの色彩を与えてくれた……」)とは別の、ある種の形式の政治的スローガンだけである。

編集者として M・ダフ、G=E・ドゥボール、J・フィヨン、ヴェラ


われわれの読者は白分で訂正した

 A=F・コノールは、書くものの文体のあらがその思想の貧困を隠し通せないでいたが、結局、新(ネオ)−仏教徒福音主義者、神秘論者という嫌疑で、8月二29日、完全に除名された。
 われわれの購読者に『ポトラッチ』の新住所を知らせることにする──
 パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地、ムハンマド・ダフ。
 『ポトラッチ』の週刊発行は今月の末に再開する。
 第12号は9月28日に刊行されるだろう。



レトリスト事務所の破壊

 「前衛とは危険な職業である」 ジル・J・ヴォルマン

 8月15日日曜日、22時30分、無人の自動車が、レトリスト・インターナショナルが利用していることで有名なモンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地のバー「金の樽」に猛スピードでつっこんだ。客のうち4名が負傷。偶然の幸運から、バーには、事故の起きた時間にそこに集まることになっていたレトリストのうち誰もいなかった。



キロメートル単位の漂流

 『フランス・オプセルヴァトゥール』誌 8月19日号に発表された、クリスチアン・エベールの記事は、パリの駐車場不足の問題に対する根本的な解決策として、市内へのあらゆる自家用車の乗り入れを禁止することと、自家用車に代えて大量の廉価のタクシーを導入することを要求している。
 この計画はいくら賞賛してもしたりないほどすばらしい。この上なく確かな教育的成果を期待できる、われわれが「漂流」と呼ぶ気晴らしにおいて、タクシーが果たす重要性は周知のことだからだ。
 タクシーだけが、移動経路の極端な自由を可能にする。タクシーは一定時間内にさまざまな距離を移動することによって、自動的な逸脱(デペイズマン)の助けとなる。「旅をする者」は、乗り換えのきくタクシーに縛りつけられず、どこででも乗り捨てることができるし、偶然のおもむくままに拾うこともできる。目的のない移動も、移動途中で恣意的な変更も、タクシーの本質的に偶発的な移動経路によってはじめて容易なものとなる。
 それゆえ、エベール氏が提案している方策を採り入れれば、とりわけ苛立たしい問題の平等主義的解決の外にも、とても大きな利点が得られるだろう。つまり、それによって、大量の住民が「路線バス」の強いられた道を乗り越えて、これまではかなり費用の要った漂流の一様式にアクセスすることができるのである。

ミシェル・ベルンシュタイン



最初の通りを行きなさい

 私は道に迷うことなく歩かたためしがない。〈大通り〉は〈トリピエ将軍〉と素顔で闘っている(7区)。〈良い知らせ(ボンヌ=ヌーヴェル)〉というのも袋小路である。
 〈東洋地区〉(ポルト・ド・ヴァンヴ)から出発して町全体を再建するまでは、町の秩序は漂流の取り組みに従って変化する。
 「ジェリカン詰め召使い延長」通り──かつてのカスカード通り──は、「だれも気づかず、だれもその通りを延長した小路(パサージュ)を遮断できなかった」通り──かつてのメニルモンタン通り──の一部と、オーベルカンプ通り──その通りはそこに吸収されて消滅することだけを待ち続けていた──の全部を併合し、「ウージェニーよ、おまえのなかで自然が浪費してきた魅力のすべて、自然がおまえを飾りたてる誘惑のすべて、それらを私は一瞬にして見捨てねばならない延長」通り──かつての〈カルワリオ会の娘たち(フィーユ・デュ・カルヴェール)〉通りにぶつかって終わる。
 その通りは、後に「どこででも始まることが許された延長」通り──かつてのラシーヌ通り──のエピソードのあたりで、もう1度、見つかるだろう。(続く)

ジル・J・ヴォルマン


今月のベストニュース

 ストックホルム発、8月23日──昨日、ストックホルムのベルツェリ公園で、警察によると、強い刺激を求める者たちによって扇動された乱闘が起きた。3000人近い者がこの「気晴らしの暴動」に参加した。けが人も多数出て、その内の3名は警察官である。窓ガラスに向かって投げ飛ばされたある男は動脈を切断し、1人の警察官は顎の骨を折った。逮捕者は32名にのぼった。

(『パリ−プレス』紙、54年8月24日付)


調書

 われわれに対する新聞の無視の方針は、ある階層の者たちのあいだで口から耳へと一種の誤った神話が広まることでかなり埋め合わされている。
 いわゆる知識人界のさまざまな部門からわれわれのところに定期的に届く証言は、同じ人物が同じ確信から定期的に発している誤った噂を元にしたものである。その噂とは、レトリストの行動に対して独裁的な統制を行っているいわゆる「指導委員会」の耐え難い独断だとか、用心棒やありとあらゆる圧力手段を用いているとか、さまざまな取引に手を染めていて、似非イデオロギー的な運動はそのカムフラージユにすぎないとか、いうものである。さらには、気がかりなことに、モスクワやテルアヴィヴの支援を受けているというものまである……。
 その企てがいかにばかげたものに見えようと、ブルターニュ小説とファントマとグザヴィエ・プリヴァス通りとの間のどこかで一種の「レトリスト・サイクル」が形成されているのである。
 そして思想にまつわる論争よりも容易にわれわれの信用を失墜させうるこれらの逸話の発明に、グループを除名された者の何人かがその人生と神話癖の能力を捧げてきたらしい。これらはみな、「レトリストがまだ若いうちに殺さねばならない」という有名な言い回し(モーリヤックのものらしい)に比べるとそれほど真面目なものではない。
 別の馬鹿者(ピエール・エマニュエル*2)は、1950年のノートル=ダムの復活祭での〔レトリストの〕示威行動*3の後、「主祭壇の階段の上で冒漬者の頭を踏みつぶしてしまえ」と確かに語っていた。
 しかしながら、ただ1度のつまらぬ挑発に延々と時間をかけるわけにはいかないだろう。つい最近のレトリスト全員が出席した集まりで、かなりのエネルギーを投入して、これらの噂を根底からうち負かす必要があるという点で同意が得られた。「出来事に対しては、どれほど懐疑的な者でも怖じ気づかせられるほど真面目な展開を与えねばならない」(ジャック・フィヨンの報告)のである。
 その仕事には特別のグループが当たってきた。

LI


個人的メッセージ

 教皇へ。書類は安全な場所にある。フェスティヴァルの用意ができているかもしれない。

 「フランス人の少女」へ。軟らかな草と一緒に戻ってきなさい。

 夜、ヴォーバンの家で。われわれは前進する。雲よ、君は前を行け。


教会の閉鎖を待ちながら

 〔年月の呼び方に関して〕それまでとはまったく異なったスタイルを押しつけようと試みた1793年のあの暦〔=革命暦〕があったにもかかわらず、「聖なる」という忌まわしい語が、通りの呼称としてパリのあちこちの通りの壁を汚し続けている。
 数ヵ月前から、われわれは、会話のなかでも手紙のやりとりの際にも、この呼び名の廃止のためのキャンペーンをして楽しんでいる。
 通りの名は一時的なものである。おそらく、〈幼児イエズス袋小路(アンパス・ド・ランファン・ジェジユ)〉(15区、もよりの地下鉄駅パストゥール)のような名を記念に残す以外は、将来、どんな通りの名が残るというのか。
 フランス郵政省は今後、公衆の願いを聞き入れ、〔「サン」を取って〕ブールヴァール・ジェルマンとかオノレ通りで手紙が届くようにせよ。
 われわれは健全な世論が公衆衛生のためのこの企てを支持するよう呼びかける。


心理地理学と政治

 わたしは中国とスペインがまったく地続きであることを発見した。この2つの国が別の国であると考えられているのは無知からにすぎない。

ニコラス・ゴーゴル


主権を有する人民

 わが「民主主義」の雑誌は王族を大量消費している。
 この種の雑誌を刷り続けることは、英国での共和制の到来──われわれの何人かはかつて、戴冠式を熱烈に歓迎する馬鹿どもをテレビが歩道に集めた時に、それを訴えたことがある──にとって非常な損失となるだろう。英国女王という長持ちのするメインディッシュがあるのに、痴呆化を旨とする団体は時々、ヴァリエーションを見つけねばならない。ほとんど廃位した王たちの群れが、渡り鳥のように、マルセイユからキプロスまで、地中海周辺に分布して、拍手喝采されている。──ひょっとして、グラーモス山脈*4からも喝采されるのだろうか?
 だが、マーガレット王女の浪費(ごくごく僅かな)の物語はわが国の門番にとって退屈なものになり始め、同じ大衆がベルギーのあの嘆かわしいボドゥワン国王*5のの劣等感に対してかつて1度もそれほど関心を示さなかったことが確認されているのに、わが国の入り口で王族の一家──あるいはそのまがい物──が発見される。亡命法の時ならぬ廃止のおかげで遠くから帰ってきたある男、パリの伯爵の名で知られている男が、たくさんの子孫に取り囲まれて嬉しそうに写真を撮られているのである。
 幸運にも、醜いものはあまり売れない。よき臣民の賞賛に浴している8、9人の王女のうち、1人として美しい者はいない。あるいは単に感じの良い者でさえいないのだ(かなり小さな、11、2歳の少女1人は除かねばならないが。とはいえ、その子も、やがてどうなるかおわかりだろう)。
 それでも、遠い郊外にお屋敷を構えたパリの伯爵は、封地と、主君への誓いと、農奴の身分と絞首台の古き良き時代をまざまざと再現してくれる。
 彼の高貴な封主権を思い起こすこと、それは国民議会とコミューンを権力に就けたこの首都の何百万人もの住民に対して細心の注意を払うことである。
 断罪された階級の残り滓が結集している。このブルジョワのインテリの王のために、一大潮流をなす意見が形成されつつある。このマンデス=フランス流*6の王のために……
 われわれは、40年来反動が勝利したところではどこでも、革命イデオロギー、あるいは少なくとも社会的イデオロギーの横領〔=転用〕かパロディによってそれがなされたことを知っている。
 たえず続いてきたこのプロセスを知れば、このイデオロギーがその真の終焉を迎えるのを見るのだという確信を強くする。


アリアドーネは失業中

 植物園(ジャルダン・デ・プラント)のいわゆる「迷路」のデカルト的構成とそこにある立て札の記述はだれでも一目で発見できる。その立て札にはこう書いてある──

迷路での遊びは
禁止されています

 一文明の精神をこれほど明解に説明するものはないだろう。まさにこの文明をわれわれは最終的に打倒するであろう。


民族の序列について習うべき模範

 (『第4インターナショナル』誌 掲載の、ボリビアからの手紙の抜粋)
 「4月9日革命の2周年の記念日は、とても特殊な条件下で祝われた。大衆は革命の道を前進する決意をしているのに、その大衆によって権力の座に就いた政府は、帝国主義を前にして降伏の道をすでにずいぶん進んでしまっている……。
 行列の先頭にいるのは、仕事道具を身につけた鉱夫たちで、銃や何本ものダイナマイト、軽機関銃重機関銃を抱えながら、それぞれの武器を空中にぶっ放す。ダダダダダ、と機関銃の音がする。それは、楽しい行為だが、まだたくさんの戦闘が残っている……。
 次に来るのは、輸送車だ。銃と重機関銃を満載したトラックや、肩に銃をかついだ労働者たちを乗せ、エンジンカバーの上には重機関銃を付けたジープが、何台もやってくる。
 その後には、農民の行列が終わりなく続く。彼らは途方もなく貧しい姿をしているが、意気揚々と歩いてゆく……。農民たちは-労働者がみなそうしているのとは違って銃を肩紐で吊るさずに、すぐ撃てる体勢で、指を引き金に当てて持っている……。」

『ポトラッチ」編集長 M・ダフ

パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地

*1:フランソワ・ポンサール(1814−1867年) フランスの詩人・劇作家。ロマン主義時代に、ラシーヌシェイクスピアの両立を唱え、古典悲劇の再興に尽くした。「良識の至上権」を信条とし、ロマン主義の衰退期に『リュクレース』(1843年)で大成功を収めた。

*2:ピエール・エマニュエル(1916−1984年) フランスのカトリック詩人。代表作に『オルフェの墓』(1941年)、『汝の守り手とともに戦え』(46年)など。第一次大戦中はアラゴンやエリュアールとともにレジスタンスの詩を書いたことでも知られる。

*3:1950年のノートル=ダムの復活祭での[レトリストの]示威行動 1950年4月9日、頭髪を剃りドミニコ会修道僧に変装したミシェル・ムールが、レトリストのガブリエル・ポムラン、マルオーク・O 、セルジュ・ベルナ、ジスラン・ド・マルベーらに伴われ、パリのノートル=ダム大聖堂の復活祭のミサに忍び込み、セルジュ・ベルナが書いたキリスト教弾劾の文章を読み上げた。彼らは激昂したカトリック教徒に危うくリンチされそうになり、ノートル=ダム大聖堂から逃げ出したが、ムールとマルベー、ベルナの3名は警察に捕まった。

*4:グラーモス山脈 ギリシャアルバニア国境付近にあるグラーモス山(2519メートル)のこと。

*5:ボドゥワン国王(1931−) 1951年から在位したベルギー国王ボドゥワン1世のこと。父レオポルド3世は、第二次大戦中、ナチスに協力し、ベルギー国民の激しい怒りの的となった。そして41年には家族ともどもドイツに逃亡せざるをえなくなり、戦後も1950年まで故国に戻れず、ベルギーへの帰国をはたした時も、国民の激しい抗議行動のまえに退位を余儀なくされ、息子に王位を譲った。「ボドゥワン国王の劣等感」とは、これらの経緯を指しているものと思われる。

*6:マンデス=フランス流 ピエール・マンデス・フランス(1907−82年)は、当時の急進社会党左派の首相。ディエン・ビエン・フーの陥落を受けて1954年夏、社会党・MRPなどの支持を得て首相に選ばれ、インドシナ戦争終結を実現した。しかし一方で、アルジェリアで始まった反仏武装闘争を武力で押さえつけるためにド・ゴール派のジャック=スーステル総督を任命するなど、北アフリカの植民地問題に対しては何もなしえなかった。1955年2月辞任。