ポトラッチ第8号

訳者改題


レトリスト・インターナショナル・フランス・グループ情報誌──毎週火曜日発行

1954年8月10日


ロッコ内戦へ向けて

 モロッコ*1で都市住民の進歩的な部分と、フランスによって利用されている封建的な部族との間で暴力が日増しに高まっているときに、真に革命的な少数派の行動が遅延してはならない。
 革命的な少数派は、まず初めに王朝の民族主義の主張を支持することによって、今すぐ運動の基盤をより重大な蜂起へと導くことができるが、その際、その介入をモロッコプロレタリアート全体の階級意識の自覚に左右されることはない。
 そのような自覚は、今始まりかけた危機の中では、歴史的には何の役割も演じないだろう。別の勢力によって別のレベルで(反フランスのテロリストとか宗教的狂信者とか)開始される闘争を実現するなかで、そのような自覚を引き起こすことを試みなければならない。自由への戦争は暴動がきっかけとなって推し進められる。

レトリスト・インターナショナル



へぼ絵描き

 人間の建造物の外部装飾に多色配合を使うことは、いつでも、1つの文明の絶頂またはルネッサンス〔=再生〕を画することであった。この分野におけるエジプト人、マヤ人ないしはトルテカ人*2、あるいはバビロニア人などの作品は、全く、あるいはほとんど、残っていない。しかし今でも話題になる。
 したがって、建築家たちがここ数年来多色配合に回帰するのを見ても、われわれは驚かない。しかし、彼らが精神的に貧しく創意に乏しく、ありきたりの人間味に全く欠けているということは、少なくとも嘆かわしいことではある。多色配合は、現在のところ、彼らの無能力を覆い隠すことにしか役立っていない。パリの150人の建築家を対象に実施された調査から選んだ2つの例が、そのことを十分に証明している。
 3人の若い建築家(22、25、27歳)の企画。彼らは自分たちの才能と斬新さに自信を持っており、当然ながら、ル・コルビュジエの崇拝者である。オーベルヴィリエ〔パリ近郊、セーヌ・サン・ドゥニ県の都市〕で。──そこはこのうえなく不運な場所である。というのも、悪趣味な陶芸家レジェ*3に敬服する若者が、すでにそこで例によって馬鹿げたことをしでかしたからである。──それは、直方体である。あまりに平板だと見なされた外壁をしかるべく「遊ばせる」ために、外壁に1メートル×60センチの黄色いパネルと紫のパネルを交互に何枚も取り付けるつもりである。パネルの位置を選ぶのは職人に任せるつもりである。いわば、客観的偶然だ。
 でも、完全に「自動の」建築が初めてできるのはいつだろうか。
 比較的有名な建築家(45歳)の企画。
 ナントの近く。学校「ブロック」。2つの直方体が、お決まりの運動場と箱入りの見事なミ二・オレンジの木によって分離される。右の建物は、男子側で、2メートル×1メートルの緑と赤のパネルで覆われる予定である。左の建物は、女子側で、同じ大きさの黄色と紫のパネルで覆われる予定である。ここに取りあげた建築家たちは、このお見事な色の氾濫を、セメントの薄いパネルを用いて実現しようとしている。彼らは、その材料が塗料に含まれる化学反応物質に触れているとどうなるかをほとんど完全に無視している。オーベルヴィリエでは、たった1つの雨樋が6階建ての建物の外壁を雨から守ることになろう。ナントでも無頓着さは同じである。もっとも3階建てでしかないが。
 紫がどれほど不快な影響を及ぼす(アンフリュアンシエル)か、一般に紫がどんな儀式に関与するかは、誰でも知っている〔紫は葬儀の色である〕。やがて汚れた黄色と色あせた紫がどんな配色になるであろうかは、誰でも予想がつく。だからこれらの例にはコメントなど不要であろう。
 インタビューを受けた建築家たちの大半が、多色配合に興味を持ったとき、黄色と紫、あるいは赤と緑──現代にとっては少々「若い」配色だ──しか使おうとしないことを知ったら、人が思い浮かべるのは、現在の建築の探求の貧しさだけだろう。
 しかしながら、ユニヴェルシテ通りの建築家(45ないし50歳)とヴォージラール通りの建築家(同じ年齢)は、大ぼらを吹かずに、もっと面白い構成を企画している。前者は、アメリカ大陸から戻ってきた人で──興味深く思われるので注記しておくが、現在もっとも文明化された建築形態は、フランク・ロイド・ライト*4と彼の「有機的」建築のように米国から、あるいはリヴェラ*5と彼の手がけた都市のようにラテン・アメリカから、こちらに来ている──、彼は、特に金持ち向けの別荘を建築しており、タイルからオランダ煉瓦に至る確かな材料を使って、明るい色調の仕事をしている。後者も同じ色合いの仕事をしているが、しかし、低家賃の公団アパートのようなものを手がけている。それゆえ彼の探求には限度があり、ときおりセメント──それが「ジルソン・ブロック」でない場合であるが──の助けを借りざるをえないはめに陥っている。そのことは彼にとって、また彼以外の人々にとっても、残念なことだろう。

『ポトラッチ』本号の執筆者は

M=I・ベルンシュタイン、A=F・コノール、ムハンマド・ダフ

G=E・ドゥボール、ジャック・フィヨン、ヴェラ、ヴォルマン


今週のベストニュース

 産業が飛躍的発展を遂げつつある西ドイツは、戦後初めての深刻な社会的騒乱の危機に瀕している。ハンブルク交通機関と公共機関のストライキは、48時間前から続いているが、さらにケルンに広がっている。かくして、ハンブルクに端を発した社会的騒擾は、徐々に西ドイツ全体に広がっていく。そこではすでに100万人以上の労働者が賃上げと労働時間の短縮を要求しているのである。

(『フランス・ソワール』紙、54年8月7日付)

アルジェリアの塀のビラ貼りプロジェクト

ヴァカンスを過ごしにモロッコヘ行こう

版元 レトリスト・インターナショナルアルジェリア・グループ


モリヨン通り36番地*6

 そしてその当時、路上のあちこちに、誰にも消せない文字で、次のように彫られているのが見られるようになった。

謎のライオンを捕まえるための冒険の始まりだ。

 遺失物の奇妙な運命は、捜す行動ほどにはわれわれの興味を引かない。聖杯*7と呼ばれるものは、さんざん噂の種になったあげくに、その上司である神=警視正、および天国=警視庁*8のお巡りどものもとに戻った。毎日、彼らのうちの幾人かが老衰で死んでいる。信仰告白は威信を失った。
 しかしながら、その聖杯を捜した人々はだまされたのではなかったと、われわれは信じたい。彼らの漂流はわれわれに似ているのだから、われわれは、彼らの散歩は勝手気ままで、彼らの情熱は果てしないと思わなければならない。宗教的な粉飾は長続きしない。神話的な西部劇の騎手たち*9は、人に好かれるためのあらゆる魅力を持っている。例えば、戯れに道に迷うという偉大な能力、驚嘆に満ちた旅、スピード好き、相対的な地理。
 卓の形は酒を飲む動機よりも素早く変わる。われわれが使う卓は円形でないことが多い。しかし、「波瀾万丈の城」を、われわれはいつか建築するだろう。
 聖杯の探索の小説は、いくつかの面で非常に現代的な行動を予示している。

『ポトラッチ』は世界で最も聡明な読者を得ているか?

『ポトラッチ』編集長アンドレ=フランク・コノール

パリ6区、デュゲ=トゥルアン街15番地

*1:ロッコ モロッコでは戦後、スルタン−ムハンマド・ベンユースフが独立運動の先頭に立ち、フランス人とモロッコ人の共同主権を提案する融和的なフランス植民地政府に対して、完全な独立を求めて戦った。あくまで改革案への署名を拒否するスルタンに対して、フランス政府は、アトラス山地の豪族勢力を動員して圧力をかけるとともに、独立運動を徹底的に弾圧した。53年8月には、ついにスルタンを廃位し国外追放にして、傀儡のスルタンを任命した。これ以降、モロッコ人民は、指導者不在のまま、都市部では自然発生的な街頭デモ、フランス製品ボイコット、反フランス暴動を繰り返すと同時に、山岳部で「フェラーガ」すなわち武装ゲリラ闘争を組織していった。こうして情勢の展開のなかで、それまで独立運動を担ってきた、労働組合に基盤を持つ既成党派「イスティクラール(独立)党」は、大衆に乗り越えられ、指導政党としての地位を失っていった。モロッコの独立は、その後、1956年に実現するが、『ポトラッチ』第8号のこの記事が書かれた時の情勢は以上のようなものであった。

*2:トルテ力人 10世紀から12世紀(一説には7世紀から10世紀)にメキシコ中央高原とその隣接地方に栄えた民族(または複数の民族の総称)。トルテカ文化の特徴の1つに彩色土器がある。トルテカ人は各地方で盛んに建設、芸術活動を行ない、地方文化の隆盛をもたらした。トルテカ文化の中心地はトゥーラ遺跡とされるが、異説もある。

*3:フェルナン・レジェ(1881−1955年) フランスの画家。参照第一次大戦後、機械を賛美する独特のモダニスム絵画を描いていたが、1936年のフランス人民戦線の成立以降、その政策に協力し、社会主義レアリスムとは一線を画しながらも労働者を讃える内容の絵画や壁画を描き、プロレタリア画家と呼ばれるようになってゆく。第一次大戦中の1940年から45年までアメリカに亡命し(この間にフランス共産党に入党)、戦後フランスに帰国してから、50年に連作『建設者たち』を発表して、フランスの画壇に復帰。52年以降はフランス共産党の政策に忠実に活動し、多くの助手を従えて共同で労働者を賛美する絵を描く。

*4:フランク・ロイド・ライト(1867あるいは69−1959年) 合衆国の建築家。有機的な(オーガニック)建築を提唱し(『有機的建築』1939年)、建築物を居住者と建物との関係だけでなく、周囲の自然環境との関係のなかで捉え、建築物のなかに外部の自然をうまく取り入れたことで知られる。参照

*5:ディエゴ・リヴェラ(1886−1957年) メキシコの画家。壁画の画家として有名。1920年シケイロスに出会い、革命後の新時代にふさわしい芸術を民衆のために興そうという考えに共鳴し、メキシコ市を中心に活発な壁画活動を展開した。1930−33年には米国でも壁画を制作したが、社会主義のテーマを描いたため物議を醸したこともある。

*6:モリヨン通り36番地 パリ15区にある遺失物取扱所の所在地。

*7:聖杯 伝説上、キリストが最後の晩餐に用い、また十字架上のキリストの傷口から流れる血を受けたといわれる杯。キリストの墓を用意したアリマタヤのヨセフがイギリスに運んだが、彼の死後その杯は行方不明になったとされる。聖杯の探索は、中世ヨーロッパ文学に重要な位置を占める「アーサー王伝説」の中心的な主題の1つである。この主題を扱った最初の作品は、フランスの詩人クレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァルまたは聖杯物語』(1185年頃)で、以後続出している。

*8:天国=警視庁 ( la Grande Maison du Père )la Grande maison (直訳は「大きな家」であるが、「警視庁」を意味する隠語でもある)と la Grande Maison du Père (直訳は「父(なる神)の家」で、「天国」のこと)をかけた表現。この段落では、警察的なテーマである遺失物捜しとキリスト教的なテーマである聖杯の探索をかけている。

*9:神話的な西部劇の騎手たち アーサー王伝説において聖杯の探索に出かける騎士のことであろう。そのような騎士は「円卓の騎士」と呼ばれるが、後出の「卓は……円形、云々」は、そのことへの言及である。(蛇足ながら、この時期、映画界では、西部劇とともに、中世騎士物語を題材とした映画がはやった。)