アメリカのシチュアシオニスト

 10月、ヨルンはロンドンにいた。彼は、メキシコヘの出発に向けて準備していて、合衆国大使にニューヨークに立ち寄るためのヴィザを申請した。彼は以前から、アメリカのさまざまな文化団体から招聰の誘いを受けていた。彼は、かつて共産党や、それに類する組織に所属したことがないこと、それに、犯罪による投獄歴がないことを宣誓するように求められた。ヨルンは、当然のことながら、憤慨してこれを拒んだ。合衆国への入国が禁じられたので、彼は、ピッツバーグの力ーネギー財団に、アメリカで、個人的に好ましからざる人物とされている自分の芸術作品の一切の公式展示を拒否する旨、書き送った。
 ヨルンは、フランスを去る前に、デンマークの日刊紙『ポリティケン』に対して、9月20日付けの手紙でもうひとつのかたちの偽善を告発していた。この日刊紙は最近の実験的アヴァンギャルドの歴史とヨルン自身の役割について、ばかげた称賛を装いつつ、改竃を計っていたのである。
 「『ポリティケン」紙は、9月10日づけで、「偉大なるアスガー」と題する記事を発表した。私はその記事に見られるいくつかの誤りを正させていただく。シルケボアのサナトリウム*1で1951年にドトルモンに出会ったのがコブラ(運動実験芸術家インターナショナル)の起源ではないし、われわれの個人的な友情の始まりでもない。この時期は反対に、2つの平面での終わりを徴づけるものなのである。ひとつには、コブラの経済的な失敗が、われわれに、これほどの身体的な消耗をもたらしたのである。もうひとつは、参加メンバーそれぞれのあいだのイデオロギー的な違いが深刻なものになり、すでに、協働関係の実質的な解消を引き起こしていた。(……)
 コブラの運動は、オランダとベルギーでは芸術的権威によって強く支持されていたが、デンマークでは、権威からの承認は決して得られていなかった。それは1951年に自己解体を決定した。(『コブラ』誌の10号の予告を参照せよ。)
 1953年から1957年のあいだ、私は、主にイタリアとフランス、それにイギリスでイマジニスト・バウハウスの活動に参加した。この運動の実験的立場は、芸術の専門教育のありとあらゆる観念と対立していたのであるから、あなたがたが語るような陶芸の学校の指導に当たっていたなどということがあろうはずがない。(……)
 私の最近の本『形態のために』はコブラの傾向を克服しつつあったこの時期の作業の理論的な要約である。この時期も、もう終わってしまった……。私は、いま、シチュアシオニスト・インターナショナルのさまざまな探究に参加している。そして、私としては、シチュアシオニスト・インターナショナルのことが、私の国で、私のこれまでの時期の現代芸術への関わりについてよりも、もっと早く、もっと正確に知られるようになることを願っている。」
 『ポリティケン』の編集部は、数日後に、困惑した様子で返事をよこしたのだが、それは、ドトルモンが書いた、かの糾弾を受けた記事は、部分的にカットされていたということでもって、弁明になるものと思っているらしかった。この返答は、厚顔無恥にも、ドトルモンが、彼が実際にそうである以上に、心の底から自分のことをわれわれの友人であると信じているのにちがいないと仄めかしているのだ。しかも、彼の現在の住所を教えてきて、恥知らずにも、直接コンタクトをとって誤解を解消しろというのだ。ともかくも、『ポリティケン』は、その混乱をもたらす記事から比べたら10分の1にも満たない分量の訂正記事を掲載することをふさわしからぬことと判断したのである。SIは、ハティブの署名入りの書簡によって、討論を不誠実にやり過ごそうというこの試みを完壁に打ち砕いた。
 「編集長殿、クリスチアン・ドトルモンの体系的な虚偽の証言の果たす役割は、『ポリティケン』が彼の真実に反する主張の開陳に幾許かの削除を加えたからといって、弱められるものではありません。
 われわれは、ドトルモンとのあいだに保つべきいかなる接触ももっておりませんし、彼も、われわれが彼をいかに軽蔑しているか、よく承知しております。
 反対に、このようなテクストを公にした責任を負う『ポリティケン』が必要な訂正記事を掲載することを拒むのであれば、われわれとしては、それを別のところに──当然ながら、われわれの雑誌の最新号に──、反論の権利が、貴誌によっていかに扱われたかについての論評をつけ加えて、公表することとなるでしょう。」

*1:シルケボアのサナトリウム 1951年、ヨルンは結核の治療のために、生まれ故郷のデンマーク、シルケボアのサナトリウムに入院した。これを契機に、コブラは運動としては正式に解体された。この時期、同じく結核に冒されていたドトルモンも、このサナトリウムにしばらく滞在したことがある。