おぼろげな転機

 われわれの集団的行動の中心に現在ある緊急の責務とは、われわれの特有の任務が何であるかを、つまり、文化と日常生活の発展における質的飛躍を、正しく理解させることである。われわれは、そのような意図が包含すること全てを検討しなくてはならないが、しかしまた、そのような意図によって決定的に捨て去られるか、あるいは一時的な戦術的残滓としてのみ保持されうるような時代遅れの態度も検討しなければならない。そして何よりもまず、そのような認識とそれが含む最終的な結果に導いてやるべきは、われわれの同志のうち、革新的な綱領に賛同するのには熱心であるが、その綱領に対応するであろう新しい実践的行動には十分な関心を払わない人々である。
 シチュアシオニストの組織は、幾つかの問題を明確化し、それらのデータを実験によって明らかにすることによって、それらの問題を進展させようと試みるものであるが、ひょっとして、そのような組織は、結局のところ、無用なのであろうか。仮にそんなふうに結論せざるを得ないとすれば、それは、その組織の結成が時期尚早で、その組織がめざす構築に不可欠の手段の幾つかがいつになっても利用できないとでもなった場合のことである。
 しかしながら、それらの手段を持てるかどうかは、問題の全般に政治経済学的な様相にもかかわらず、われわれに、またわれわれの理論的明晰さに、そして、新しい欲望の実現をめざすわれわれのプロパガンダに、大きく依拠している。われわれの考えにユートピア的で漠然とした面があるとすれば、それは、この初期段階において、われわれの仮説の最初の部分を実践によって立証できないからではなくて、むしろ、われわれがそれらの仮説を十分厳密に共同のものとして考えることができないからである。
 もし、SIを通る全ての要素が、われわれの場であるべき場で、強力なシチュアシオニストのまとまりを形成するに至らないならば、われわれの企てのあれこれの細部は、いかなる種類の意義をも持たない。かりに、より優れた活動領域への跳躍が必要であるにもかかわらず、その跳躍を実践的に理解することの難しさが克服されえないとしたら、古めかしい芸術がSIの中で必然的に優位に立ち、また、いかなるモラルや組織の厳格さも、古めかしい芸術の勝利を遅らせることができないであろう。そんなことにでもなったら、われわれが必要だと感じている文化革命の、重大な後退ということになるであろう。
 われわれは、現代生活の諸条件に基づいて、可能性と欲求とより優れた遊びとを発見するための最初の系統的な努力を代表している。われわれは、都市文明の現在と近未来に結びついたわくわくするような新しいものを、最初に知るものである。重要なのは、その新しいものを、解釈する(昔の芸術表現の新しいテーマとみなす)ことではなくて、それを生き、じかに深化させ、変化させることである。
 われわれは、地上の無限の手段が自由の力になるであろう日に先んじて、そしてまた、それらの余暇を獲得するであろう人民に先んじて、決起した。われわれは、いかなる場合にも、支配的な文化に対する礼儀正しい反対派になり下がって、われわれが見いだしうる先駆的なスローガンの価値を既めるというようなことをしてはならない義務がある。もしわれわれがシチュアシオニスト的行動に到達しない場合には、われわれは、シチュアシオニストというまがいもののラベルに基づく宣伝を許さないだろう。そうなると、より慎重でいっそう地下に潜行した活動形態を採用しなくてはならなくなるだろう。すべては次の点によって決まるだろう。すなわち、かなり大勢のシチュアシオニスト──形式的に支持を表明している芸術家ではなく、このような新たな活動のプロフェッショナル──が、われわれのアピールに応じるかどうか?
 いま仮想されているこのような集団によってわれわれを強化するという問題には絶対的な優先性があり、SIの戦術の全ての面は、それによって完全に左右され、またとりわけそれ次第では、われわれは、われわれに提案される諸同盟を拒絶する方向に向かうかもしれない。アルバ会議以来われわれの諸グループが採択した「文化における革命戦線」のスローガンは、われわれをSIのもとに統一するのに貢献したという点で、有意義なものであったが、チェコスロヴァキアの某グループや、イタリアやベルギーでちっぽけな雑誌を発行していた別の諸グループとわれわれとの関係に関しては、期待はずれであった。われわれが直面している転機を理解できないそれら外部要素の圧力は、SI内部の混乱を増大し、SI内部の「右派」を強化するだけであろう。
 われわれは、できるだけすみやかに、真にシチュアシオニスト的な基盤を広げ、その綱領を展開しなければならない。この問題は、われわれの次期国際大会の中心課題になるであろう。この問題への対応によって、多数派と少数派が画されるであろう。