パリにおけるシュルレアリスム擁護者たちの最後の招集と彼らの実際の価値の暴露

 質問──「シュルレアリスムは死んだか、それとも、生きているか?」これが11月18日の「公開討論(セルクル・ウーヴェール)」の討議テーマとして選ばれたものだった。その会は、ノエル・アルノー*1の司会のもとで開かれた。シチュアシオニストも、討論に誰かを代表として出席させるよう求められた。そこで、正統派シュルレアリストの代表が壇上で発言するために公式に招かれるのであれば、という条件を提示し、その要求が入れられたので、参加を受諾した。シュルレアリストたちは公共の場で討論するというリスクを引き受けまいとした。しかし、彼らは誤って事態をずっと甘く見ていたので、その会合をサボタージュすると予告したのである。
 討論の晩、アンリ・ルフェーヴルは、運悪く病気だった。アルノードゥボールは出席。しかし、ポスターに予告されていたほかの3人の出席者は間際になって逃げ出したので、シュルレアリストの無様な姿とは御対面できなかった。(アマドゥ*2とステルンベルグ*3は見えすいた口実を使って、ツァラ*4などは何の説明もなしに欠席したのだ。)
 ノエル・アルノーが最初の言葉を発するや、客席の奥のほうで縮こまって固まっていた、15人をこすシュルレアリストとその新兵たちが、叫び声をあげようとした。だが、物笑いの種になってしまった。このヌーヴェル・ヴァーグシュルレアリストたちは、もはや先輩たちがいない芸術的キャリアの領域に、息急き切ってなだれ込もうとしたのだが、「スキャンダル」を実際に起こすのにはまったく経験不足であることが、このとき、判明したのだった。彼らのセクトは、これまでの10年間というもの、このような極端な行動にでることを余儀なくされることはなかったのだ。この新米たちのコーチ役は、哀れなシュステル*5であった。『メデイウム』誌の編集者、『ル・シュルレアリスム・メーム』誌の編集長、そして、『7月14日』誌*6の共同編集者であるこの男は、今までに、ものを考えることができないことを、書くことができないことを、話すことができないことを、もう100回も証明してきたのだが、今回、叫ぶことができないことも証明されたのである。
 彼らの攻撃は、ただ1つのテーマについての野次に終始した。そのテーマとは、録音技術への情熱的な敵対である。アルノーの声は、実際、テープレコーダーによって流された。これは、発言者がそこにいるのだから、彼が話しているところを見たいと思っていた若いシュルレアリストたちにとっては、たしかにタブーだった。発育不全のシュルレアリストたちも、ほんの一瞬だけ、うやうやしく沈黙をまもったときがあった。それは、彼らの友人であるアマドゥのメッセージが代読されたときである。猥褻さに満ちた、神秘主義キリスト教の宣言だったのだが、彼らにとっては、すばらしい、慈父のごとき温情に満ちたものに思えたのだ。
 ついで、ドゥボールに対しては、彼らは力を尽くして反対した。彼の発言は、テープレコーダーに録音されているだけではなくて、ギターの伴奏までついていた。愚かしくもドゥボールに演壇に立つことを要求し、そして、彼がそこに1人でやってくると、15人のシュルレアリストは彼とその場所を奪い合おうなどとは考えもせずに、火のついた新聞をかたちだけ投げ込んだあと、偉そうに出ていったのである。
 「シュルレアリスムは、とテープの声は正しくも語った、明白なことであるが、生きている。その創造者でさえまだ死んではいない。新しい人々は、ますます凡庸になりながら、それによりかかっている。シュルレアリスムは、大衆にはモダニズムの極端なものだという具合に知られている。そして、その一方で、大学での研究対象にもなっている。これは確かに、カトリックド・ゴール将軍のような、われわれと同時代のもののひとつなのである。
 それゆえ、真の問いはこのようなものになる──今日におけるシュルレアリスムの役割は何か?──その始まりにおいては、シュルレアリスムのうちには生の新しい使用法を肯定する試みと現実の外への反動的な逃避とのあいだの対立が存在していたし、そのことによって、それはロマン主義にも比すべきものとなっていた。
 当初のシュルレアリスムの進歩的側面は、全面的な自由への要求のうちに、そして、日常生活への介入の試みのうちに見られた。芸術の歴史への補遺としては、シュルレアリスムは、文化の領域での、ちょうどキリコの絵の不在の人物の影のようなものである。必要な未来が欠けていることを見えるようにするのである。
 シュルレアリスムの反動的な側面は、無意識に対する過大評価によって、そして、無音議の単調な芸術的利用によって、簡単にあらわになってしまう。歴史を、シュルレアリスム先行者である非合理主義と、ギリシャ-ラテン的な論理的な概念の専制とのあいだの単純な対立として捉えようようとする二元論的な観念論。実存の現代的条件のもとでの唯一可能な冒険としての恋愛というブルジョワ的なプロパガンダへの加担……
 今日、シュルレアリスムは完全に退屈であり、反動的である……
 シュルレアリスムの夢は、ブルジョワの無能力(インポテンツ)に、芸術に関するノスタルジーに、そして、われわれの時代の発展した技術的手段を解放のために利用しようとすることへの拒否に、対応している。これらの手段を乗っ取ることから始まって、新しい環境と行動についての、集団的で、具体的な実験が、その外では真正の文化革命なとありえないような文化革命の端緒へと通じていくのである。
 シチュアシオニスト・インターナショナルのわれわれの同志たちは、この路線に沿って、前進しているのである。」(この最後の1文には、同じようにあらかじめ録音してあった、何分間にも及ぶ盛大な拍手が続いていた。その次には、別の声のアナウンスが入っていた。「ただいまの発言はギー・ドゥボールシチュアシオニスト・インターナショナルのスポークスマンでした。この発言は『公開討論(セルクル・ウーヴェール)』の提供によるものでした。」最後に、女性の声が、ラジオのコマーシャルのスタイルで続く。「けれどあなたがたの最も緊急の問題は、フランスにおける独裁との闘いであることに変わりはないのをお忘れなく。」)
 シュルレアリストたちが一団となって出ていったあとも混乱が減少したというのではなかった。イズー*7と、当初の彼の綱領の純化をもくろんでイズーと挟をわかった彼のかつての弟子たちによる「ウルトラーレトリスト」*8グループの発言を同時に聞くことができた。(しかし、「ウルトラ-レトリスト」の綱領は、かつてイズーの行動が最も野心的であった時期を特徴づける全体性への志向を除くと、純粋に美学的なプラン上に位置づけられるように思われる。彼らのうちの誰もレトリスト・インターナショナルにはいなかった。たった1人だけが、1952年以前の統一されていたレトリスム運動に参加していた。)「タンダンス・ポピュレール・シュルレアリストシュルレアリスト人民派)」の代表者もまたそこにいて、細かい文字で書かれた「生きているか? 私は相変わらず死んでいる」と題された、小さなビラをたくさん撒いていた。その内容はあまりにも完壁に理解不可能なので、ミシェル・タピエが書いたものだといいたくなるくらいだった。これらの代理論争の大部分は、いまから10年ほど前の、パリでのアヴァンギャルドの会合のときの印象………かなり滑稽で、いくらかは泣かせる………を思い出させるものだった。当時の登場人物や議論を細部までそのままに復元したかのようだ。しかし、シュルレアリスムの発展性もその重要性も、とうの昔に過去のものになってしまっていたということを確認する点では、万人の一致を見るところである。

*1:ノエル・アルノー(1919-) フランスの詩人、批評家。占頷下のフランスでレジスタンスの雑誌『ペンを持つ手』の創刊に加わり、ゲシュタポに逮捕される経験を持つ。解放後、共産党に加わり、ドトルモン、ジャゲとともに、〈革命的シュルレアリスム〉を結成する。1951年からコレージュ・ド・パタフィシックに参加、レイモン・クノーらと〈ウリボ〉(潜在文学実験工房)を創設。主著に『アルフレッド・ジャリ』1974年)など。

*2:アマドウ シャン・アマドゥ(1929-)のことと思われる。シャン・アマドゥは、フランスの歌手。当時、ディ・ゼール、ドン・カミロ、ボビーノなどパリのキャバレに出演して歌っていた。1960年代半ばからは、テレビやラジオ番組に多く出演した

*3:ジャック・ステルンベルグ(生没年不祥) フランスの作家。作品に、『2つの不確実な世界の間で』(1958年)、『出口は空間の奥にある』(56年)など多数

*4:トリスタン・ツァラ(1896-1963年) ルーマニア生まれの詩人。ダダの創始者。1916年から25年まで、チューリッヒ、パリでダダの連動を推進した後、シュルレァリスムに参加するが、1930年代から、アラゴン、ルネ・クルヴェルらとともに第3インターナショナル(コミンテルン)に同調し、1935年にはシュルレアリストのグループから完全に離れ独自の活動をする。第二次大戦中は、占領下のフランスでレジスタンス活動に参加。

*5:ジャン・シュステル(1929-) 戦後のシュルレアリスト。『メデイウム』(1952-55年)、『ル・シュルレアリスム・メーム』(56-59年)、『ラ・ブレシュ』(61-65年)、『ラルシブラ』など戦後のシュルレアリストの雑誌の編集者として活動。また、シュルレアリスト共産党外の左翼との関係強化を目論み、「革命的知識人国際サークル」(1956年)『7月14日』(58年)、アルジェリア独立を支持する「121人宣言」などの活動において主導的役割を呆たす。著書に『アルシーヴ57-68年――シュルレアリスムのための闘い』(1969年)

*6:『7月14日』 1958年、アルジェリア危機に際して、シュルレアリスト(フルトン、ルグラン、ベナユーン、マンディアルグ)からサルトル主義者、共産党を除名された知識人(モラン、デュラス、デュヴィニョー)までを幅広く糾合して出された雑誌。59年まで3号と特別号が1号発行。編集者は、ジヤン・シュステルとディオニス・マスコロ。

*7:イジドール・イズー(本名シャン=イジドール・ゴールドシユタイン 1925-) ルーマニア生まれのフランスの詩人。1925年、言語表象と造形表象の境界を廃した前衛的な芸術表現であるレトリスム運動を開始する。が、1950年代に入り、芸術家=創造者を神に擬する神秘主義的傾向を顕著にし始めたために、ドゥボールら若いレトリストから断罪される。著書に『新しい詩と新しい音楽への序論』(1947年)、『スペクタクル作品集』(1964年)、『ネオ・ナチ=シチュアシオニスト映画に反対』(1979年)など。映画についての映画である『涎と永遠についての概論』(1951年)はカンヌ映画祭ジャン・コクトーに絶賛され、「アヴァンギャルド観客賞」、「カンヌ映画祭欄外賞」を獲得し評判になった。

*8:「ウルトラーレトリスト」 1953年、イズーのレトリスムから別れて、フランソワ・デュフレーヌ(1930-1982)が創設した流派。