ポトラッチ 22

レトリスト・インターナショナル情報誌────── 月刊

1955年9月9日


なぜレトリスム


 
 ヨーロッパにおける最近の戦後期は、諸々の変革の試みが、政治的次元においても実効性の次元においても、全般的に挫折した時代としてまさに歴史的に定義されねばならないように思われる。
 目覚ましい(スペクタキュレール)技術上の発明によって未来の構築の機会が増すと同時に、いまだに解決されない矛盾の危機も高まっているときに、われわれが目撃している事態は、社会的な闘争の停滞であり、精神的な面では、1930年頃、この上なく広範囲な権利要求と、それを勝ち収るための諸々の実践的手段の認識との結合によって頂点に達した発見の動きに対する全体的な反動である。
 これらの革命的手段の行使がファシズムの進展から第二次世界大戦へと至るまでの間に、期待はずれに終わったので、そうした手段と結びついていた希望も後退を余儀なくされたのだ。
 1944年の不完全な解放のあと、知性および芸術のレヴェルでの反動がいたるころで荒れ狂う。抽象絵画は、近代絵画の進展における単なる一契機としてかなり不遇な地位しか占めていないのに、あらゆる宣伝手段によって新しい美学の基礎として紹介されている。十二音綴詩(アレクサンドラン)がプロレタリア・ルネッサンスのために捧げられているが、プロレタリアートにしてみれば、古代ローマの四頭立て二輪車や三段オールの帆船をいまさら輸送手段として当てがわれる場合と同じような安易なやり方で文化形式としての十二音綴詩を当てがわれることなど御免こうむりたいところだろう。プレヴェール*1あるいはシャール*2の詩、グラック*3の散文、残虐な阿呆ピシェット*4の戯曲、その他すべての作品など、20年前にはスキャンダルを起こし読む人もいなかったエクリチュールの副産物が、束の問のものとはいえ反響いちじるしい称賛を勝ち得ている。逸話を演出するさまざまな方法をぼろぼろになるまで使い古している映画界は、剽窃家デ・シーカ*5のなかに映画の未来を認めてそれを歓呼で迎え、いくつかのイタリア映画のなかに新しいもの─── むしろ異国情緒───を見出しているのだが、そうしたイタリア映画の場合にしても、S・M・エイゼンシュテイン*6以降こんなに時が経ているというのに、幅をきかせている撮影様式は貧乏のため、ハリウッドの習慣とはほんの少し異なっているだけなのだ。そのうえ、一部の教授たちが、キャバレーで踊るわけでもないのに、どのような現象学的手直しにせっせと耽っているかは周知の通りである。
 どんな繰り言にもそれを慕う弟子が、どんな退行にもその称賛者が、どんなリメイクにもその狂信者がついているこの生気はないが儲けの多い人盛り〔=見本市〕を前にして、歴史の必然としてこれらの古い価値を乗り越えるという名目で、全面的な反対と完全な軽蔑を表明したグループがただ1つあった。このグループでは、拒否に代えて、発明に関する一種の楽天主義と、そうした拒否の彼方にある肯定が支配していた。別の時代にダダが引き受けた有益な役割を、その意図こそ違え、このグループも持っていたと認めねばならない。
 ダダイスムを再開することはそんなに利口な企てではなかったと、たぶん言われるかもしれない。だが、ダダイスムをやり直すことが問題ではなかった。革命的政治の非常に深刻な後退───労働者にふさわしい美学が同じ反動期に目もくらむばかりの挫折を経験したのも、これと結びついている─── によって、30年前に猛威をふるっていた人心攬乱の土壌が復活したのだ。精神の面では、プチ・ブル階級が相変わらず権力を握っている。彼らの独占権は、反響著しいいくつかの危機のあとで、前よりもさらに拡大している。世界中で現在印刷されているものはすべて─── それが、資本主義の文学であれ、社会主義リアリズムの文学であれ、公共の領域へと堕した形式(フォルム)を基に生きている形式主義(フォルマリズム)の似非前衛であれ、腐敗した神知学的断末魔を迎えたかつての解放運動であれ─── 完全にプチ・ブル精神に属しているのである。時代のさまざまな現実の圧力を受けて、まさしくこの精神にけりをつけなくてはならないだろう。このような展望の下では、そのための手段は何でも許される。
 レトリスト・グループが投げかけた、あるいは、準備していた耐えがたい挑発(文字に還元された詩、メタグラフィックな物語、映像のない映画)によって、諸芸術において致命的なインフレーションが荒れ狂っていた。
 われわれはそのとき、ためらうことなくレトリスト・グループに合流したのである。

 1950年頃のレトリスト・グループは、外部に対しては称賛に値する不寛容の姿勢を行使しながら、そのメンバーの間ではかなり大きな理念上の混乱を許容していた。
 オノマトペ詩は、未来派*7と共に現れ、後になってシュヴィッタースやその他の何人かの人々と共にある完璧さに到達していたが、それらは、自らを当節の唯一の詩として提示し、他のあらゆる形式に対しては死を宣告し、自らに対しては短期間の存続を宣告する絶対的な体系化によってしかもはや関心を引きつけなくなっていた。しかしながら、遊びの機会がわれわれに与えられる真の場を自覚すること、それは、天才と名声に関する幼稚な考え方のために、多くの人から無視されていた。
 新しい価値形式の創造こそあらゆる人間活動のなかで最も高度な活動であるというのが、そのころの多数派の傾向だった。形式上の進展に対するこのような信仰は、自己のうちにしか原因も目的も持だないが、それこそが、諸芸術におけるブルジョワの観念論的立場の基礎をなす(レトリスト・グループから除名された数名は、永遠不変の概念カテゴリーを愚かにも信仰することで、まさにアメリカ化された神秘主義へと導かれねばならなかった)。当時の実験の関心、それはひとえに、ある種の厳密さにあった。その厳密さとは、根本的に同じ前提から出発するにしても、マルローのような馬鹿者がそこから引き出す術も知らないような、あるいは、あえて引き出すだけの気構えもないような結論を引き出しつつ、この形式主義(フォルマリズム)的歩みをその絶頂へと運ぶことによって決定的に崩壊させるにいたる厳密さである。眩景をおこすほどに加速されたこの形式主義(フォルマリズム)の進展は、あらゆる人間的欲求から明らかに絶縁されて、それ以降、空回りしたのだった。
 形式主義(フォルマリズム)を内部から破壊することがいかに有益であるかというのは、間違いのないところだ。すなわち、諸々の知的規律が社会の他の動きとどのような相互依存関係を保ち続けていようとも、そうした規律がどんな技術とも同じく、相対的に自立した転覆に、自らに固有な決定論のしがらしめる発見に必然的にさらされている。このことはまったく疑いの余地がない。すべてを内容に則して判断すること───われわれもそうするようにと誘われているが─── 、それは結局、行為をその意図に則して判断することである。確かに、美学上の区分による多種多様な時代の規範的性格と頑強で消しがたい魅力とを説明するには、〔形式よりも〕むしろ内容の方を探らねばならず、また、現代のさまざまな必要に応じて、われわれが感動する内容も変化するという限りにおいて、その説明も変化し、「大時代」と呼ばれてきたものの区分も見直さざるをえなくなってくる。だが、1つの作品がその時代に及ぼす力が内容だけに依存するなどということはありえないということもまた、それに劣らず明白である。このような過程をモードのそれと比較することができる。たとえば、半世紀も経つと、あらゆる服装は、等しく過ぎ去った過去のモードに属し、そのしかじかの面影は現代の感性でもわかる。だが、10年前の女性の服の滑稽さはだれもが感じとっているのである。
 かくして、プレシオジテ運動*8が17世紀について学校で教わる嘘八百のためにあれほど長い間隠蔽され、この運動によって発明された表現形式はわれわれには可能なかぎり無縁のものになってしまったにもかかわらず、今や「偉大な世紀」(17世紀のルイ14世時代〕の主要な思潮として再認識されつつある。その理由は、生のあらゆる様相を建設的に転覆させたいという、われわれが今感じている欲求からすれば、プレシオジテの最も重要な貢献の意味は行動と生の舞台装置(特権的な活動としての会話と散歩、建築の面では、居住空間の自在な組み替え、装飾および家具に関する諸原則の変化)のなかにあるからである。それとは逆に、ロジェ・ヴァイヤン*9が、内容は評価できると言ってよいにもかかわらず、スタンダール的な調子で『美しき仮面』を書くとき、彼が保持しているのは、出来ばえのよい文体模倣によって人を楽しませるという可能性だけである。すなわち、おそらく自らの意図とは逆に、彼は何よりもまず、時代遅れの趣味をもつ一部の知識人たちに向かって語っているのだ。しかも、もっともらしくないと宣言してその内容を愚かにも攻撃する大多数の批評は、実際には、この巧妙な散文家を称賛していることになるわけである。
歴史上の逸話に戻ろう。

 かなり新しい生の送り方と、そのような生を疎外する古い習慣とが決定的に衝突しているこの根本的な対立から、あらゆる種類の対立抗争が生じていたが、それは、ある共同の行動のために一時的に抑えられていた。その行動は気晴らしで行ったものであったが、われわれは今でも、不器用さと不十分さは否めないが、その行動自体は積極的に評価している。
 人を唖然とさせるという観点から採用された主張のなかに、ユーモアが込めてある場合とない場合があるため、その行動にはいくらかの曖昧さも依然として残されていた。われわれは文学上のあるいはその他の名声によって死後に名前を残すことにはまったく関心がなかったにもかかわらず、われわれの作品─── 実際には存在していない作品─── が歴史に残るだろうと書いていたのは、「永遠」たらんと欲していた一味のはったり屋連中の抱いていた確信と似たり寄ったりの確信からにすぎなかった。われわれは皆、機会あるごとに、われわれはとても美しいと主張していた。シネクラブをはじめいたるところでわれわれに差し出された議論が下劣であったため、これまでわれわれには、より真面目に答える機会がなかっただけだ。もっとも、われわれが今もちゃんと魅力を持ち続けていることに変わりはないが。
 レトリスムの危機は、時代遅れの者たちがさまざまな映画的試みに対して、それらは「不器用な」暴力によって自分たちの信用を失墜させるものだと公然とも言える反対の声を上げた時から予想されていたが、1952年、「レトリスト・インターナショナル」───それは、同名のつましい雑誌の周りに、運動のなかでも特に過激な部分を結集していた─── がチャップリンの記者会見に対して侮蔑的なビラ*10を投げつけた時にはっきりと衣面化した。少し前から少数派になっていた審美派レトリストらは、事が終わってから。に互いにばらばらになった───彼らは、無邪気な言い訳をして決裂を延期しその後で修復しようとしたが、うまく行かず、結局、決裂は避けられなかった─── 、なぜなら、彼らの感覚からすれば、チャップリンは映画界における創造上の貢献度から言って、非の打ちどころがなかったからである。その他の「革命派の」意見となると、直ちに、われわれをさらに激しく非難しか。なぜなら、チャップリンの作品と人は進歩的な展望の中に留まらねばならないと、彼らには思えたからだ。それ以来、多くの人々がこのような幻想から醒めるにいたっている。
 さまざまな学説、あるいは、そうした学説に自分の名を冠したさまざまな人間が、時代遅れになったことを告発することは、現代の最も魅力的な問題を解決する嗜好を持ち合わせてきた者すべてにとって、緊急かつ容易な作業である。第二次世界大戦から今日までの間に登場した失われた世代の欺瞞について言うと、それは、ひとりでに収束することを宣告されていた。しかしながら、そのようなトリックによって露呈したのは彼らの批判的思考の欠如だったのだから、レトリスムは彼らの最も早急な抹消に貢献したと考えることができる。さらに、このことは、イヨネスコ*11のような輩が、演劇におけるツァラの過激な言動を30年後の今、20倍も間抜けな形でやり直しながらも、買いかぶられたアントナン・アルトー*12の亡骸に対して数年前不当に向けられた注意の4分の1も惹きつけていないということと無縁ではないと考えられるのだ。

 われわれを指し示すさまざまな言葉は、この現代の世界において、不快にもわれわれを限界づけようとする傾向にある。確かに「レトリスト」という用語は、この種の擬音効果を特別に評価しているというわけでは全然ないばかりか、いくつかの映画でサウンドトラックを使う場合を別にすれば、そのような擬音効果を利用することもない人々を定義するにはかなり具合が悪い。しかし、「フランス人」という用語だって、われわれがこの国民とその植民地に排他的な絆で結ばれているかのように思わせるではないか。無神論という語も、「キリスト教徒」、「ユダヤ人」あるいは「イスラム教徒」といった言葉の場合と同じように、人を面食らわせるような安易さで使われる。さらに、われわれが、多少なりとも洗練された「ブルジョワ」教育からこのような観念を受けっいでぃるとまでは言わなくても、少なくともこのような語彙をそこから受けっいでぃるというのは周知のことである。
 こうして、われわれの探究の進展と、それにつき従って次々と押し寄せた語の磨滅───浄化を呼び起こす磨滅─── にもかかわらず、数多くの用語がそのまま使われることになった。たとえば、レトリスト・インターナショナル、メタグラフィック、さらにその他の造語がそうであり、これらの用語がたちまちあらゆる種類の者たちの激怒をかきたてるということにわれわれは気づいた。われわれが同意に達する第一の条件は、そのような者たちをわれわれから遠ざけておくということだ。
 それは、思考するエリートのあいだに、恣意的で馬鹿げていて不誠実な混同をわれわれの方からばらまくことだという反論が起きるかもしれない。たとえば、「われわれが本当に望んでいるのは何なのか」と、当事者か保護者面をした態度で、われわれに尋ねに来る優等生がよくいるが、まさにその態度ゆえに、たちまち外に放りだされる。しかし、われわれは、文学あるいはジャーナリズムのプロは誰ひとりとして、われわれが数年以内にもたらすものに真面目に取りくもうとしないことを確信しているので、どれはどの混乱が生じようとわれわれはいっこうに困らない。それはよく承知している。それどころか、他の多くの点で、混乱こそがわれわれの楽しみなのである。

 だからと言って、今日のヨーロッパにおけるあの「思考するエリート」が雑駁な知性と僅かな教養を駆使しているかぎりは、いま述べた混乱ももはや長持ちしない。数年前のわれわれの仲間のうち、未だに注意を惹きつけようと、あるいは単に零細な文筆業で生きていこうと努めている連中は、自分たちの取り巻きを欺くにはあまりにも愚かになってしまった。彼らは哀れにも同じ態度を反芻しているのだが、そのような態度は、他のどんな態度よりずっと早く使い古されてしまうだろう。彼らは刷新の方法がどれほど早く古びるか知らない。彼らは、募金では相変わらず儲からないというので、無償で稽古を見せる道化師よろしく、『ヌーヴェル・ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』誌に載せてもらうように、すべてを断念する覚悟でいたのだが、たとえエチアンブル*13のような輩が就いている地位─── カイヨワ*14にさえ表されている敬意、アロン*15がもらっている給料───であろうとも、とにかく、なんらかの地位に、臭みの強いこのチーズ〔=楽に儲かる仕事〕のなかで就くことができると思っていたのに、そうならないと言って嘆いているのだ。
 彼らの最後の野心はちっぽけなユダヤ教的造形宗教を創設することだと信ずるに足る理由がある。運がよければ、彼らは美的創造の世界でのファーザー・ディヴァインかモルモン教徒のようなものとなって生をまっとうするだろう。
 かつてはわれわれを楽しませてくれたこの人々のことはもう放っておこう。人を惹きつける娯楽など、しょせんその人問の陳腐さの度合いを正確に測る尺度でしかない。野球や自動筆記は、何をするためのものなのか。この上なく単純な欲望に甘んじるのでない限り、成功という観念は全地球規模での完全な転覆と切り離すことができない。それ以外の許容された成功は、常に最悪の挫折と似たり寄ったりだ。われわれの行動のなかで最も価値あるものは、今までのところ、われわれが多くの習慣と交際を絶つことに成功したところにある。何と言っても、自分の人生─── わずかな選択の余地しか残されていない自分の人生のほんの一部───を、自分の感情と判断とに一致させている者はかなり少ない。わずかな点でも、狂信的であることはいいことだ。今年のはじめ、ある東洋趣味的・オカルト的な雑誌が、われわれのことを、「最も曖昧模糊とした精神の持ち主たち、『乗り越え』というウィルスによって貧血症状に陥った、しかも、常に純然たる言葉の上だけの効果をねらった理論家たち」だと言っていた。これらの哀れな連中にとって迷惑なのは、まさしく、その効果とやらが純粋に言葉の上だけではないということだ。もちろん、われわれは、〔サン=〕ルイ島の島国的な性格を強調するために同島にあるさまざまな橋をダイナマイトで爆破したり、正面のセーヌ左岸で、夜陰に乗じて〔サン=〕ベルナール河岸通りのレンガで木立を複雑怪奇に美しく飾ったりする現場を押さえられるようなへまはしない。それは、われわれが、今のところ手にしている貧弱な手段で最も急を要することに向かっているからだ。こうして、種々雑多な豚野郎をわれわれに近づかせないようにし、われわれとの「共同行動」と称した攬乱的企てを不首尾に終わらせ、寛容な態度を完全に放棄することによって、われわれは、その当人たちに、件のウィルスが必ず存在することを証明してやるのだ。だが、われわれが病人なら、われわれを誹膀する者たちは死人である。
 こういった主題を扱っているのだから、いっそのこと、まんざらわれわれと行き来がなくもない者だちからときどき非難されるわれわれの態度を明確にしておこう。その態度とは、レトリスト・インターナショナルの参加者のかなりの者を除名したこと、さらに、この種の刑罰を組織的に行ったことである。
 事実、われわれは、自分たちに差し出されている生活のほとんどすべての様相について、態度を決定するように迫られているので、いくつかの探究方針についてだけでなく、そうした態度決定の総体についても、何人かとの合意が得られることは重要であると考えている。社交的関係、あるいは礼儀的関係といった、まったく別の友情のあり方は、われわれにはどうでもよい。あるいは、そんな関係はわれわれに嫌悪感を覚えさせる。この種の合意に対する客観的な違反に対する制裁は、決裂によるしかない。理念を変えるぐらいなら、友人を変えるほうがましである。
 結局、判決は、われわれと彼らの双方がどんな生を送っているかによって下されている。除名された者たちの大部分が新たに、あるいは、再び受け入れた雑居生活、彼らが同意した、おおむね不名誉な、ときに過激なアンガジュマンを見れば、われわれの不和───それは直ちに解決されたのだが───の深刻さの度合いがどれほどであったか、また、おそらく、われわれの了解がどれほど重要であるか推測できるだろう。
 われわれは、こうした敵対行為を人格問題にすることを禁じるどころか、逆に、われわれの抱いている人間関係の理念からすれば、そうした敵対行為を人格問題にせざるをえないということを明言しておく。そうした人格問題は〔その人の持つ〕思想の問題によって多元的に決定されてはいるが、それは決定的なことである。諦めている者は自ら自分の非を認めているのだ。われわれが厳しくするまでもない。言い訳すべきことなど何もないのである。
 レトリスムの行方不明者が数を増しはじめている。だが、理解し利用するための機会にただの一度も出会わぬまま生き、死んでゆく者となると、さらに数限りない。この観点からすれば、〔レトリストたった者は〕だれしも、自分が持ちえたわずかな才能に対して大いに責任がある。われわれは、惨めな個人的な脱退に対してわざわざセンチメンタルな考慮を行わねばならないとでも言うのだろうか。

 以上までのところで、われわれのなすべき事が、文学上の流派、表現の再生、モダ二スムなのではないということが理解できたはずだ。肝心なことは1つの生き方であり、それは多くの探検と暫定的な定式化を経て生まれてくるだろう。その生き方自体が、暫定的なもののなかでしか発揮されない傾向を有しているのである。こうした企ての性質上、われわれは、集団で活動し、いささかなりともその存在を明らかにするよう命ぜられている。われわれは来たるべき人々や出来事から多くを期待している。だがそれとは別に、数々の既知の活動、個人、制度からはもう何も期待しないだけの力も持っているのである。
 われわれは、多くのことを学び、行動規則のみならず建築形式をも可能なかぎり実験しなければならない。なんらかの学説を入念に仕上げることほど、われわれにとって緊急でないものはない。すなわち、われわれは十分多くの事柄を説明し終えた後に、情熱を注ぎ込むに値すると思える新しい事物に全面的に依拠して打ち立てられる一貫した体系を主張するにはまだいたっていない。それがわれわれの現状である。
 何事につけても始まりというものが必要だ、とはよく耳にする。だが、人類は自ら解決できる問題しか立てられない。それもまた、これまでによく言われてきたことである。

ギー=エルネスト・ドゥボール、ジル・J・ヴォルマン



左翼を鞭打て

 左翼に捧げられた『レ・タン・モデルヌ』誌の特集号は、何よりもまずPMF*16スタイルの新左翼の試みが存在しないことをすばらしいことだと祭り上げているが、だからと言って、人民戦線の到来が近いと主張しているわけではない。この特集号は、同誌の基準となっていた異常なまでに平均的なレヴェルをはるかに越えているとはいえ、〔19〕47年から〔19〕49年までの古き良き時代(ベル・エポック)を思い起こさせるところはごくわずかである。情熱的で鋭いシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、どんな危険も冒さないある論文のなかで、右翼の思考と、ブルジョワジーの「非ー未来」と呼んでもよいようなものを非難している。この点に関しては、『レ・マンダラン』を書いたこの小説家(ほとんどこう呼んでいい)に対していかなる点でも反論する人は誰もいない。だが、「左翼の人間」を対象とする諸々の定義は、それがランズマン*17、マスコロ*18あるいはJ・プイヨン*19、いずれの成果であれ、優れたラディカルな精神を驚かすはずのものは何ひとつもたらさない。結局のところ、マスコロが「左翼の人間」と革命家との間に識別している対立は、センチメンタルな革命概念に賛同した何人かの知識人たち─── なかでも数多の元シュルレアリストや急進派など─── を怖じ気づかせるだけだ。この点について最も多くの正確な情報を与えてくれるのは、やはりまたコミュニストのドゥザンティ*20だ。ただし、彼の論文には、どんなコミュニストも自分と近い意見を最も信用のおけないものとみなしてしまうあの軽蔑の念が込められていないわけではない。
 あまりに駆け引きが見え透いてしまうほどに神託めいた論文をわれわれに与えてくれたのがペジュ*21である。要するに、歴史自身に非があったという理由から、あるいは、歴史をむりやり変えてトロツキーを是とするにはレーニンのような天才がいなかったという理由から(そしてここで、『レ・タン・モデルヌ』誌に漂うスターリ二スムはすでに「乗り越えられた」と見なしても良いように見える)、トロツキーを非とすることが問題なのだ。もちろん、歴史とその歴史を作った人間についてこのように判断を下すことは、非常に興味深い場合もあるのだが、そうしながらも、ペジュは知識人のお遊戯のためにだけ犠牲をささけているわけではない。彼の論文は、左翼の歴史的受肉の問題を提起するという口実のもとに、未来を留保してもいるのだ。というのも、彼の論文を読み終えたからといって、トロツキーあるいはスターリンの実際の責任に関しても、両者のうちのどちらが歴史的に正しかったのだろうかということに関しても、以前より事情が一層よくわかるわけではないからである。まことに、それほど、『トロツキーの歴史にせよスターリンの歴史にせよ、とにかく歴史は終わっていないのである。ただ1つ指摘すべきことはと言えば、J=P・サルトルにとってアンガジュマンという概念はあれほ大切であるにもかかわらず、ペジュはこの概念に対してほとんど敬意を払っていないことである……。
 その他の点については、たとえば、左翼のさまざまな任務に関する分析は、知識人たちの組織にかなりのページを割いてはいても、結局、諸党派の勢力分析に依拠しているだけである。大衆運動の可能性について論じたり、大衆が置かれている状況について現実に則して分析した形跡はどこにもない。『レ・タン・モデルヌ』誌のこの特集号を読むと、プロレタリアートは、共産党はもとより左翼の諸党派の道具であるかのように、諸党派の背後にしか姿を見せないのである。こういう次第だから、あの珍妙なクロード・ブールデ*22の賛同や、「ブルム主義」*23神話の現実を懸念するコレット・オードリー*24のような連中の「進歩的な」意見や、デュヴェルジェ*25、ソヴィー*26、ラヴォー*27などの見解が出てくるのだ。このような占い師たち─── 彼らにとって、社会を変えることは、普通列車を作り変えるような仕事でしかありえない─── の合唱のなかで、P・ナヴィル*28だけが何らかの正統性を保っている。そして、結局のところ、この特集号から批判的教えを何か保持したいと思うのであれば、やはり、フランス世論調査研究所のアンケートをこそ参照しなければならない。そのアンケートでは、少なくとも、あらかじめ答えが示されるということはあり得なかった……。『レータン・モデルヌ』誌に載っている論文によっては、この程度のことを断言するわけには到底いかないようなお粗末なものもあるのだ。

レオナール・ランキーヌ


『ポトラッチ』に発表された全てのテクストは、いかなる出典の明記もなしに転載、模倣、部分的引用をすることができる。

〔中略〕


●分業

 当世風のどんな小説にもその冒頭に作者のさまざまな職業が列挙されていることに、教養ある読者がいかに関心を示すものであるかということに気づいたので、われわれとしても、レトリスト・インターナショナルの最も著名な理論家たちがエピソート的に就いている─── それだけに、いっそう盛り沢山の─── 職業のリストを以下に発表することは、良い評判を得る上で有益だと信じている。
 通訳、理髪師、電話交換手、統計調査員、編み物屋、受付係、ボクサー、帳簿係、不動産仲介業者、潜水夫、代議士、郵便配達人、アフリカの靴屋タイピスト映画作家、旋盤工、復習教師、用務員、秘書、屠殺職人、バーテン、イワシ漁師。

〔後略〕

『ポトラッチ』 のために

ミシェル・ベルンシュタイン、M・ダフ、ドゥボール

フィヨン、L・ランキーヌ、ヴェラ、ジル・J・ヴォルマン


『ポトラッチ』編集長 M・ダフ

パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地

*1:ジャック・プレヴェール(1900-77年) フランスの詩人。当初はシュルレアリスムに参加したが、戦後、平明な言葉を用いた『ことば』(46年)などの詩集で広く大衆に読まれた。

*2:ルネ・シャール(1907−88年)フランスの詩人。当初はシュルレアリスムに参加、第二次大戦中にレジスタンスの指導者として戦い、戦後発表した『ひとりとどまる』(45年)などの詩によって高い評価を得た。

*3:ジュリアン・グラック(1910-)フランスの作家。シュルレアリスムの影響を受けた幻想的な散文で知られる。代表作に『アルゴールの城』(38年)、『シルトの岸辺』(51年)など。

*4:アンリ・ピシェット(1924- )フランスの詩人、劇作家。核戦争と現代世界を告発した劇作品『アポエム』(47年)や、アルトーの影響を受けた戯曲『公現祭』(47年)、『ニュクレア』(52年)などで知られる。

*5:ヴィツトリオ・デ・シーカ(1901-74年) イタリアの映画監督。『靴みがき』(47年)、『自転車泥棒』(48年)などの作品でネオ・レアリスモの代表的監督として知られる。

*6:セルゲイ・ミハイロヴィツチ・エイゼンシユテイン(1898-1948年)ソ連の映画監督。「戦艦ポチョムキン」(26年)などで用いたモンタージュ理論は、世界的に影響を与えた。

*7:未来派 イタリア未来派マリネッティ、ボッチョーニ、パラッツェスキらが「自由な状態にある語」を掲げて行った言語実験で、統辞法の破壊、自由なタイポグラフィ、句読点の廃止、語の分解などの技法。代表的な作品に、マリネッティの『 ザン・トゥム・トゥム』(14年)、パラッツェスキの『病める泉』(14年)などがある。

*8:プレシオジテ運動 17世紀中頃にフランスの上流社交界に現れた風潮で、言葉、文学、社交礼儀、風習などの社会生活全般にわたって、卑俗さ・月並みを軽蔑し、技巧的なまでの気取ったスタイルを用いた。

*9:ロジェ・ヴァイヤン(1907-65年) フランスの作家。代表作に『奇妙な遊び』(45年)、『掟』(57年)。1954年発表の『美しき仮面』は、50年代フランスの地方の組合活動家の闘いを描いたスタンダール風のレアリスム小説。

*10:チャップリンの記者会見に対して侮蔑的なビラ レトリスト・インターナショナルが52年10月のチャップリン訪仏の際にまいたビラ『平底靴はおしまいだ、ゴー・ホーム・チャップリン!』のこと。

*11:ウージェーヌ・イヨネスコ(1912-94年) フランスの劇作家。『禿の女歌手』(50年)、『授業』(51年)などで、アンチ・テアトルあるいは不条理演劇の代表的作家として認められる。

*12:アントナン・アルトー(1896-1948年) フランスの詩人、演劇理論家。「残酷演劇」を唱え、現代前衛演劇に大きな影響を与えた。代表作に『演劇とその分身』(38年)。

*13:ルネ・エチアンブル(1909- )フランスの批評家、大学教授。ランボーに関する批評「ランボー神話」(53年)や、中国についての研究で知られる。

*14:ロジェ・カイヨワ(1913-78年)フランスの作家、批評家。バタイユ、レリスとともに《コレージュ・ド・ソシオロジー》のメンバーとして神話の研究を行い、『神話と人間』(38年)などの著作を著す。

*15:レイモン・アロン(1905-83年)フランスの哲学者。55年発表の『知識人の阿片』でマルクス主義を批判し、反共主義に傾斜した。56年以降、ソルボンヌの哲学教授。

*16:PMF  不詳。PCF(フランス共産党)の誤りか。

*17:クロード・ランズマン(1925-)フランスのジャーナリスト、映画監督。第二次大戦中はレジスタンスに参加、戦後はサルトルと知り合い、1953年以来現在にいたるまで『レ・タン・モデルヌ』誌の編集に携わる。74年より11年がかりで製作した映画『ショアー』の監督としても知られる。

*18:ディオニス・マスコロ(1916-) 戦後共産党を除名され、『アルギュマン』誌に拠った共産主義者・哲学者。1958年から60年まで同誌編集委員をしながら非共産党の左翼を糾合する『7月14日』などの活動を行った。著書に『共産主義』(53年)など。本書第1巻57ページの注を参照。

*19:ジャン・プイヨン フランスの作家、民族学者。第二次大戦後、サルトルがリセで教えていたときの生徒で、戦後『レ・タン・モデルヌ』誌の執筆陣の1人となる。50年代中頃、レヴィ=ストロースの弟子となり、民族学者として活動しつつ、実存主義構造主義の調停役を務める。

*20:ジャン=トゥーサン・ドゥザンティ(1914-) フランスの哲学者。著書に『哲学史序説』(56年)、『現象学と実践』(63年)など。

*21:マルセル・ペジュ フランスのジャーナリスト。1953年12月から61年12月まで『レ・タン・モデルヌ』の編集に携わり、同誌の事務局長としてサルトルの政治顧問的役割を果たす。

*22:クロード・ブールデ( 1909-96年) フランスのジャーナリスト・政治活動家。第二次大戦中にレジスタンスの雑誌『コンパ』の編集委員として活動、44年ゲシュタポに逮捕される。戦後、しばらく再び『コンパ』紙の編集長をした後、50年、左翼政治雑誌『オプセルヴァトゥール』を創刊するとともに、《独立左翼行動センター》(52年)、《新左翼》(54年)、《社会主義左翼ユニオン》(57年)、《統一社会党》(60年)などのグループを次々と作り、既成左翼の統一のための運動に勢力を注ぐ。本書第2巻31べージの注を参照。

*23:「ブルム主義」 1963年の人民戦線内閣の首班レオン・ブルム(1872-1950年)が行った軍需産業の国有化や週40時問労働などの社会改革政策を指す。

*24:コレット・オードリー(1906-90年) フランスの女性作家。『レ・タン・モデルヌ』誌に参加した。代表作に『浴槽のかげで』(62年)、『レオン・ブルムあるいは正義の政治』(70年)など。

*25:モーリス・デユヴェルジェ(1917-) フランスの作家、ジャーナリスト。55年から71年までパリ大学法学部で教えながら、『ル・モンド』紙などの新聞に寄稿。著書に『政党』(51年)、『明日は、共和国』(58年)、「人民なき民主主義」(67年)など。

*26:ルフレッド・ソヴィー(1898-1990年) フランスの経済学者。著書に『富と人口』(48年)、『青年の興隆』(59-69年)、『ゼロ成長? 金持ちの終焉』(75年)など。

*27:ラヴォー カトリック知識人の雑誌『エスプリ』に拠った政治学者ジョルジュ・ラヴォー(1918-)と思われる

*28:ピエール・ナヴィル(1903-)フランスの作家。1924年以降シュルレアリスムに参加、バンジャマン・ペレとともに『シュルレアリスムと革命』誌などの編集に携わるとともに、パンフレット『革命と知識人』によってシュルレアリストに対して社会変革活動への積極的な参加を求めるが、これに応じないブルトンらと訣別、第四インターナショナルトロツキスト)の結成者の1人となる。戦後は社会学者、社会主義の理論家として活動。著書に『超現実の時代』(77年)など。