都市計画の批判

訳者改題

 以前からシチュアシオニストは「統一的都市計画とは都市計画上の1学説ではなく、都市計画の批判である」(「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第3号〔1950年代末の都市計画〕)と言ってきた。現行の専門化された都市計画の修正として考案された、より現代的で進歩主義的な都市計画の案は誤りである。それはたとえば、革命の企図において、権力奪取の瞬間を過大評価することが誤りであるのと同じくらいの誤りである。この過大評価は専門家にありがちな考えであり、それは、分割することのできない人間活動の総体があらゆる瞬間に提起する革命的任務をすべてたちまち忘却させるばかりか、それを抑圧しさえするのである。都市計画は、一般化された革命的実践(プラクシス)と融合していなければ、必然的に、現代の都市生活のあらゆる可能性に対する第1の敵となる。それは、1つのまとまりのある全体性を代表すると自称する社会勢力の断片の1つであり、断片の全体を説明し組織するものとして勢力を広げようとするが、それが実際に行っていることは、それらの断片を生み出し、その断片によって維持されている現実社会全体を隠蔽することにほかならない。
 このような都市計画の専門化を受け入れることは、とりもなおさず、「実践的で」実現可能な多種多様な都市計画の1つを実現するために国家が作り出した都市計画上の欺瞞や現存する社会の欺瞞に奉仕することである。だが、われわれにとって唯一実践的な都市計画、すなわち、われわれが統一的都市計画と呼ぶものは、それによって放棄されることになる。というのも、統一的都市計画を実現するには、今とはまったく違う生の条件を創造しなければならないからである。
 6ヶ月ないし8ヵ月ほど前から、主に西ドイツの建築家や資本家の手を借りて、少なくともルール地方だけででも、いますぐ「統一的都市計画」を開始しようという多くの策謀が見られてきた。事情に疎いにもかかわらず早急な実現に目が眩んだ商人たちは、2月には、エッセン*1にUU〔=統一的都市計画〕の実験室を近く開設する(ファン・デ・ロー画廊*2を改築して)と発表できるとさえ思った。彼らが、不承不承、それを公に否認したのは、われわれがそんなものは握造だと暴露すると脅したからである。元シチュアシオニストのコンスタント*3は──彼のオランダの仲間は教会の建築を引き受けたかどで、SIから除名された──、ボーフム市立美術館*4が3月に編集した彼の作品目録のなかで、今や、何と工場の模型を提案している。この抜け目ない男は、2、3のシチュアシオニストのアイデアをよく理解もせずに盗用しながら、大衆を資本主義的」技術文明のなかに同化させるための広報係になろうと臆面もなく申し出ているのである。そればかりか、都市環境を一変させる彼の計画をすべて放棄してしまったとSIを非難する。それに取り組み続けているのは自分だけだというのだ。このような条件下でできるのは、本当に彼だけだろう! それに、1959年4月に、「革命的知識人および芸術家へのアピール」の採択に断固として反対したのが、この同じSIのオランダ・セクションのかつてのメンバーの者たちだったことを思い出しておくのも無駄ではない。彼らは「われわれにとって、このような展望は、『革命によって現在の社会を転覆するか否か』にかかっているわけではなく、その転覆の諸条件は不在なのだ」と主張したのだ(この論争については『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第3号23−24ぺージ『革命的知識人および芸術家へのアピールについての議論』を参照のこと)。したがって、彼らは自らの道を論理的にたどったのである。さらに不思議なのは、何人かのシチュアシオニストを惑わして、この種の企てに巻き込もうとする輩がなおもいることだ。栄光への関心とか金儲けの誘惑に賭けようとでも思っているのだろうか。ボーフムの美術館長が手紙でブリュッセル統一的都市計画研究所に共同作業を申し出てきたのに対して、アッティラコターニィ*5は4月15日に次のように回答した。「あなたがオリジナルのことをある程度ご存じなら、われわれの批判的な観点を、同じラベルの貼られたコピーの下に隠れている体制を擁護する観点と混同するようなことはできないと思います」。そして、議論するつもりはまったくないと、はねつけた。
 UUに関するシチュアシオニストのテーゼのオリジナル版を知ること自体が容易いことではない。6月に、ドイツの同志たちは彼らの雑誌の特別号(『シュプール』誌*6第5号)を発行したが、そこには、SIやその結成を準備した潮流の手になるUUに関するここ数年の文章が集められた。それらの文章は、多くが未刊であったり、今では手に入らない出版物に発表されたもので、いずれにせよ、ドイツ語で出版されたことがこれまでなかったものである。ドイツにおいて、これらの文章の出版を妨害したり、少なくとも改竄しようとしたりするために、どのような圧力がシチュアシオニストに対してかけられているかがすぐさま確認された。それは、印刷所に対する3週間の印刷停止処分に始まって、不道徳、狸褻文書、冒漬、暴動の扇動のかどで訴えるというばかげた脅迫にまで及んだ。ドイツのシチュアシオニストたちは、もちろん、このようなさまざまの威嚇の試みには耳を貸さなかった。したがって、現在、ルール地方の保守的な統一的都市計画のプロモーターらは、自分たちの活動を始めるのに、このラベルが利益になるのかどうか自問し始めたに違いない。
 人問の活動のどの側面についても言えることだが、都市の領域においても、現存の社会全体に対して異議を申し立てることが、真の解放の唯一の基準である。言い換えれば、「改良」とか「進歩」といったものは常に、結局は体制を円滑に動かし、大衆操作を完全なものにするためにあるのであり、われわれが、都市計画を始めとするあらゆるところで打倒せねばならないのは、この大衆操作なのである。『フランス社会学雑誌』第3号(1961年7−9月号)のなかで、アンリ・ルフェーヴル*7は、『新しい国家、フュルト渓谷のための一研究』をチューリッヒで発表したばかりの建築家と社会学者のグループに対して、その計画の数多くの不十分さを批判している。しかし、われわれが見るところ、この批判は、まさに、社会的枠組みのなかでこの専門家のグループ──彼らは、社会的枠組みが要請するさまざまなばかげたことを、議論もせずに受け入れている──が演じている役割自体をはっきりと問題にしなかった点で、十分ではない。したがって、ルフェーブルの論文は、やはりなおこの研究の価値を認めすぎているのである。確かにこの研究には、それなリの効用や価値があるかもしれないが、それはわれわれの観点とは根本的に敵対する観点から見てのことである。この論文のタイトル『実験的ユートピア──新しい都市計画のために』自体が曖昧さをそっくり含んでいる。というのは、実験的ユートピアの方法は、その計画に本当にふさわしいものであるためには、明らかに全体性を包含しなければならないからだ。つまり、その方法の適用は、「新しい都市計画」に至るのではなく、生活の新しい利用、新しい革命的実践(プラクシス)に至らねばならない。SIのドイツ・セクションの雑誌の同じ号〔『シュプール」誌 第5号〕に発表されたフォイエルシュタイン*8のテーゼの弱点もまた、建築を情動の面で転覆する計画が、社会全体のレヴェルで見られる建築以外のかたちでの大衆操作やその拒否に関連づけられていないところにある。それでも、いくつかの点は興味深く、特に、「偶然の表象であると同時に一つの出来事を含み持つ事物(オブジェ)の最小組織」である不安定な街区(ブロック)という概念は興味深い。「偶然的な建築」に関するフォイエルシュタインの考えは、SIの方針と合致しているが、それが、そのすべての帰結において理解され、実現されるには、建築という他から分離された問題と、その問題に対して充てられがちな抽象的な解決策が乗り越えられねばならない。
 現在すでに、都市計画の危機は具体的な社会的政治的危機であるだけになおさらそうである。たとえ、今日、伝統的な政治から生まれた勢力はみな、もはや、この問題に介入する能力がないにせよ、そうなのだ。「団地の病理学」に関する月並みな医学・社会学的言葉とか、そこで生活せねばならない人々の情緒的孤立とか、主に青少年におけるある種の極端な拒絶反応の蔓延といったものは、ただ単に、現代の資本主義や官僚的な消費社会が、ほぼいたるところで自らの舞台装置を造形し始めているという事実を示しているにすぎない。この社会は、ニュータウンを開発することによって、自らを正確に表象する場所、その順調な運営に最も適当な諸条件を兼ね備えた場所を作り出す。同時に、社会は、空間のなか、すなわち日常生活の組織化を明確に表現するもののなかに、疎外と強制というその基本的原理を明らかにする。したがって、そこにはまた、社会の危機の新たな局面も、この上なくはっきりと現れてくるだろう。
 4月にパリで開かれた「明日のパリ」と題された都市計画博覧会では、実際、パリ郊外の、すでに出来上がった団地や計画中の団地を擁護するものが展示されていた。パリの将来は、まったくパリの外ということになるだろう。展示の教育的な順路の最初の部分は、有無を言わせぬ統計の結果を用いて、人々(主に労働者)に、パリは、他のどの国の首都よりも不衛生で住みにくいことを納得させようとしていた。したがって、彼らはよそに引っ越さなければならないわけだが、ちょうどいい具合に、うまい解決策が提案されていた。ただこうした再編成地域の建設に対して、今どれだけの金を支払わなければならないかということは明らかにはされていない。たとえば、こうした団地のマンションの購入は、何年間の経済的隷属の強化に相当するかとか、こうして獲得された不動産は都市計画に従ったどんな終身禁固生活を体現しているかという問題である。
 しかしながら、こうしたいんちきな宣伝が必要なこと自体、また、行政が絶対の権限をもって決定した後で、関係者にこのような説明をする必要があったということ自体が、大衆の初歩的な抵抗の存在を暴露している。この抵抗は、現代資本主義のあらゆる条件を認識しそれと闘うことを実際に決心した革命的組織によって、全面的に支持され、解明されなければならない。社会学的調査──その最も致命的な欠陥は手持ちの貧弱な選択肢のなかからしか選択できないことだが──によれば、団地に住む住民の75パーセントが庭つきの一戸建住宅を持つことを夢見ているという。
 古い意味における不動産という、あの欺瞞的なイメージのせいで、たとえば、ルノーの労働者たちは、6月に、突然に降りかかってきたクラマール*9の一地区全体の小さな家を買わされたのである。今やますます全体主義的になりつつある社会の居住条件は現実において置き換えられるであろうが、それは、資本主義の古い段階のこうした時代遅れのイデオロギーへの回帰によるのではなく、万人のなかにある、今は抑圧されている構築〔=建築〕の本能を解放することによってなされねばならない。この解放は、真の生活の獲得のための他のすべての側面の解放なしにはなしえない。
 芸術や都市計画に関しても政治に関しても、今日の進歩主義的な研究における議論は、あらゆる工業国に起きている現実、つまり、生活の強制収容所的組織化という現実に比べて大きく遅れをとっている。
 サルセル*10のような郊外で、あるいは、より明確なかたちでは、ムーラン*11(この町は、住民全員がラック*12石油化学コンビナートに雇用されることによって成り立っている)のような町で労働者に対して行使される大衆操作の水準の高さは、革命運動が、将来、現代の真の危機、真の要求のレヴェルで自らを再編成することができた時に、あらゆる場所でどのような条件下で闘わねばならないかを、今からすでに教えてくれている。ブラジリアの機能主義建築が示しているのは、機能的(フォンクショネル)な建築とは、完全に発達させれば、役人(フォンクショネール)の建築、官僚的な世界観(ヴェルタンショーウンク)の道具となりその小宇宙となってしまうということである。ここで確認すべきは、官僚的で計画経済的な資本主義がすでにその舞台装置を構築したところでは、大衆操作が完成の極にあり、個人の選択の余地は非常に狭められているので、宣伝という──より無秩序な競争の段階に対応していた──大衆操作に不可欠な慣行でさえ、そのほとんどの形態と媒体において消え去る傾向にあるということである。都市計画には、あらゆる古い宣伝を都市計画という唯一の宣伝に融合することができる、とも考えられる。残りは付録として手に入る。そしてまたおそらく、そうした情況においては、20世紀前半にあれほど激しかった政治的宣伝は、ほとんど完全に消滅し、あらゆる政治的問題に対する条件反射的な反感に取って代わられるだろう。革命運動は、問題を万人の軽蔑のまとである従来の政治領域から遠くに移さねばならない。同様に、既成権力は消費財のスペクタクルの単純な組織化に今よりもずっと頼るようになる。消費財は、幻想のなかでまずスペクタクルの対象にならない限り、消費価値を持たなくなる。サルセルやムーランでは、こうした新世界の劇場がすでに試験的実施されている。それは、個々のテレビ受像機のまわり、極限まで細分化されていながら、しかし同時に、正確に都市と同じ規模にまで広がっているのである。
 統一都市計画というものが、われわれの考えるように、人類に持つ現存の手段を用いて、人生を──その手はじめに都市環境を──自由に構築することだと仮定するなら、ただ単に、都市の創造やそれに結びついた行動に関する理論や実践が他所にはまったくないからという理由だけで、われわれに、統一的都市計画がどの程度実現可能で具体的なものなのかとか、どれだけ実用的でどの程度までコンクリートに刻み込まれているのかとか尋ねにくる者たちとの議論を受け入れるのはまったく無駄というものである。統一的都市計画の理論が要求する環境の構築という意味で、「都市計画」を行っているものは一人もいない。存在するのは、人々を統合する諸々の技術(これらの技術は実際に利害の衝突を解消するが、その結果、今は目立たないがより重大になってくる衝突を生み出さずにはいない)の総体にすぎない。こうした技術は、馬鹿どもによって無邪気に、あるいは警察によって意図的に用いられている。都市計画に関する言説はすべて嘘である。それは都市計画によって計画的に組織された空間が社会的虚偽の空間、強化された搾取の空間にほかならないのと同じくらい明白である。都市計画の持つ力について述べる者は、自分たちが権力の都市計画を実行しているのにほかならないことを忘れさせようと努める。民衆の教育者として現れる都市計画家は、自ら教育されるべきだったのだ。彼らが力のかぎり再生産し、完成させようとしているこの疎外の世界によって。
 都市計画家の駄言において、人を魅了する中心街(センター)という概念は、現実の対極にある。それは、参加という社会学的概念がそうであるのとまったく同じである。というのも、これらの学問は、参加が「参加することの不可能な何か」(『基本綱領』の第2点)にしか向けられえない社会に満足しているからである。この社会は魅力のない物体への欲求を人々に押し付けねばならず、いかなる形態においても真の魅力を容認することはできないのだ。社会学が決して理解できないことを理解するには、社会学にとって中立的であるものを有害という観点から考察するだけで足りる。
 SIの統一的都市計画綱領の言う、実験的生活のために整備された「基地」とは、建物であると同時に、今われわれが入りつつある歴史的時代において、すでに日程に上っているとわれわれの信じる新しいタイプの革命組織の常設の施設である。これらの基地が存在したあかつきには、それはまさに体制を転覆するものとなるだろう。未来の革命組織は、これより不完全な手段を頼みとすることはできないだろう。

*1:エッセン ルール地方、ボンの北部、ライン川沿いの産業都市。1960年代にエレクトロニクス産業が発達した。

*2:ファン・デ・ロー画廊 オットー・ファン・デ・ローが設立したオランダの画廊。アスガー・ヨルン、コンスタントら旧コブラのメンバーの展覧会を催したり、彼らの画集や書物を多く出版している。

*3:コンスタント(本名コンスタント・アントン・ニュウヴェンホイス 1920−) オランダの画家・彫刻家。〈オランダ実験グループ〉、コブラの活動を中心的に行った後、1957年からシチュアシオニスト・インターナショナルに参加。コブラの活動後、10年近く絵画製作をやめ、「ニュー・バビロン」と名付けた都市計画のマケットを作り続ける。1960年夏、脱退。

*4:ボーフム市立美術館 ボーフムはドイツ中西部のルール地方の鉱工業都市。人口約40万。市域内に炭鉱を持ち、鉄鋼、機械、化学、自動車(オペル)などの重工業が発達。ヨーロッパ最初の鉱山学校が開設され、地下に実物そのままの坑道を持つ鉱山博物館があることで知られる。

*5:アッティラコターニィ ハンガリー国籍のシチュアシオニスト。SIベルギー・セクションに所属して活動。1963年10月、ヨルゲン・ナッシュを擁護したことを理由にSIを除名。

*6:シュプール』誌 1957年、西ドイツ、ミュンヒェンで結成されたアヴァンギャルド芸術集団<シュプール>の機関誌。<シュプール>は、1955年始めににSI合流し、1960年8月から62年1月にSIから集団除名されるまで、機関紙『シュプール』全7号を刊行した。ここで触れられている『シュプール』第5号(1961年6月)は「統一的都市計画特集号」で、シチュアシオニストとその前身のレトリスト・インターナショナル、<イマジニスト・バウハウスのための国際運動>が1953年から1960年までに発表した統一的都市計画に関する文章の翻訳を掲載している。

*7:アンリ・ルフェーブル(1901−91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の1人として活動。高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、1958年、第2部、61年。その『序説』は1947年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。1960年以降、シチュアシオニストの影響下に「都市」を拠点とした「革命」の考えに傾斜してゆき、『パリ・コミューン』(65年)、『都市への権利』(68年)、『都市革命』(70年)など多くの都市論を著し、現代に至るまで都市計画専門家に影響を与えている。

*8:ギュンター・フォイエルシュタイン(1925?)ウィーンの建築家で『シュプール』第5号に論文「偶然的な建築に関するテーゼ」を掲載した。

*9:クラマール パリの南に位置する郊外の住宅地。人口約5万3千。

*10:サルセル パリの北の郊外の町。1958年から1961年にかけて、パリ周辺では初めての大規模な団地が建設されたが、多くの批判を巻き起こし、問題のあるベッド・タウンのシンボルとなった。

*11:ムーラン 1950年代に、ラックの天然ガス発見によって作られた人口1万人ほどのニュータウン。1万2干人の住民のうち、既婚者は中層集団住宅に、独身者は高層ビルに住んでいる。写真の右側には、中間管理職の住む小さな地区が広がっているが、そこにはどれも同じ形の一戸建住宅が並び、それぞれの住宅には2家族が左右対称の形で住んでいる。その向こうは、より高収入の管理職が住む地区で、そこには、住人に完全に帰属する別の型の一戸建住宅が並んでいる。ラックで行われている労働を実際に支配する管理職たちは、ポーやトゥルーズやパリに住んでいる。

*12:ラック ピレネー=アトランティック地方のポー渓谷に位置する町。1951年に天然ガスと油田が発見され、その精製にともなう副産物を利用した化学工業が発達した。天然ガスはパイプラインでフランス全土に送られるほか、近隣の発電所やアルミ精練所などでも利用される。