西ドイツのシチュアシオニストたち  by池田浩士 (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第3巻解説)

 1961年10月30日という日がどんな日だったか、いまでは、憶えているものは世界中でもそう何人もいないだろう。
 この日、停止していた核実験を9月1日から再開したソ連は、50メガトンの超大型水爆の爆発実験に「成功」した、と発表した。
 この日、このニュースを知った西ドイツの芸術家グループは、白分たちの活動の歴史を記す文章を、つぎのような一節から書き起こした――
 「きょう、1961年10月30日、フルシチョフはかれの超大型爆弾を爆発させた――人びとは深刻な顔をし、喪服を着用。こんな事件など、べつにたいしたことではない。なにしろ、グルッペ・シュプールがちゃんと存在しているのだから。フルシチョフはかれの臭い爆弾を自分で発明したわけではない。われわれは、しかし、われわれの爆弾を自分で発明している。1発目は、1959年の1月に爆発した。1957年設立のメード・イン・ジャーマニィ、グルッペ・シュプール。名称は、1958年1月に雪解けのどろんこ道で発見された。」
 ミュンヒェンのビヤ・ホールで、ビールのコースター、つまりジョッキの下に敷くフェルト紙のビヤ・マットに、わけのわからない絵を書きなぐっている若い画家たちがいた。1930年代前半から中葉に生まれた世代だったかれらは、58年1月「グルッペ・シュプール」の名乗りをあげた。32年生まれのヘルムート・シュトゥルムが最年長で、そのとき25歳だった。1つ年下のロータル・フィッシャー、さらに1年下のハイムラート・プレム(かれは78年に44歳で死んだ)、そして1936年生まれの最年少、ハンス・ペーター・ツィンマーは21歳で、メンバーはこの4人だけだった。
 翌59年1月に第1発目の爆弾、すなわち「宣言(マニフェスト)の雨」がミュンヒェンのうえに20万枚のビラとなって降りそそいだとき、それに署名しているメンバーは、9人にふえていた。「宣言」の全21項目のなかには、たとえばつぎのような文言がふくまれている――

  • 1、こんにち、道徳再武装なるものと対立しながら、未来をはらむ、芸術的なひとつの再武装が存在する。ヨーロッパは、大きな革命に、無比無類の文化的な一揆(クーデター)に、直面しているのである。
  • 5、文化を創出せんとするものは、文化を破壊しなければならない。
  • 9、芸術は、真理とは何のかかわりもない。真なるものは、ふたつの事の中間にある。客観的たらんとするものは、一面的であり、一面的であるものは、衒学的(ペダンチック)で退屈だ。
  • 10、われわれは包括的だ。
  • 11、すべてが過ぎ去った、倦怠の世代も、怒れる世代も。いまはキッチュの世代の番だ。われわれは要求する、キッチュを、クソを、ヘドロを、砂漠を。芸術はゴミの山であり、そのうえではキッチュが育つ。キッチュは芸術の娘だ。娘は若くてかぐわしく、母親は老いさらばえて悪臭を発する女だ。われわれが欲するのはただひとつ、キッチュをひろめること。
  • 12、われわれは要求する、誤謬を。構成主義者たちと共産主義たちは、誤謬を廃棄して、永遠の真理に生きる。われわれは真理に反対だ、幸福に反対だ、満足に反対だ、良心に反対だ、脂肪ぶとりの腹に反対だ、調和に反対だ。誤謬は、人間のもっともすばらしい能力である! 何のために人間はあるのか? もはや目分にはふさわしくない過去のさまざまな誤謬に、ひとつの新たな誤謬を付け加えるため。
  • 13、ある抽象的な理想主義(かんねんろん)のかわりに、われわれはひとつのまともなニヒリズムを要求する。人類の最大の犯罪は、真理とか公正とか進歩とかより良い未来とかの名目で犯されるだろう。
  • 16、抽象によって、四次元空間は自明のものとなった。未来の絵画は多次元的であるだろう。無限の次元がわれわれのまえに立っている。
  • 19、われわれは点描派(タシスト)の第3の波だわれわれはダダイストの第3の波だわれわれは未来派の第3の波だわれわれはシュールレアリストの第3の波だ
  • 20、われわれは第3の波だ。われわれは多くの波のひとつの海だ(シチュアシオニスム)。
  • 21、世界はただわれわれによってのみ瓦蝶の山を一掃されることができる。われわれは未来の画家である!

 この宣言とほとんど時を同じくして、グルッペ・シュプール、つまり痕跡(シュプール)グループは、ひとつのスキャンダルによって戦後芸術の歴史に痕跡をのこすことになる。59年1月にミュンヒェンで、「過激派リアリスト展」という美術展が開かれ、シュプールのメンバーたちもこれに参加した。当時きわめて著名だった情報言語学者マックス・ベンゼが開会記念講演を行うことになっていた。ところが当日になって、べんぜは都合で来られないことになり、かわりに、かれの講演を吹き込んだテープが届けられた。聴衆は、テープレコーダーから流れるベンゼ教授の講話を拝聴したのである。
 ところが、当のベンゼは、これを夢にも知らなかった。そんなテープを吹き込んだこともないし、そもそも講演を引き受けたこともない、というのである。これが、既存の権威にたいするビヤ・マット芸術家たちの、公然たる戦いの第一幕だった。だが、それは、ミュンヒェンという、一都市だけにとどまる戦いではなかったし、また、「奇跡の経済発展」(日本の「高度成長」とぴったり一致する)を遂げ始めていた西ドイツの境界内だけにとどまるものでもなかった。同じ1959年の4月、がれらは、「文化的なクーデターが――諸君の眠(ね)ているあいだに!」と題するアピールを発した。4月21日木曜日午前十時に開会される「インターナツィオナーレ・ジトゥアツィオニステン第3回総会」への参加呼びかけたった。コンスタント(オランダ)、ドゥボール(フランス)、ヨルン(デンマルク)、ピノト=ガリツィ才(イタリア)、ウィッケルト(ベルギー)と並んで、シュプールのH・P・ツィンマーがドイツ代表としてこの呼びかけに名を連ねていた。「なぜグルッペ・シュプールが宣言を起草し、ベンゼ教授を攻撃したのか、〔……〕なぜミュンヒェンがもはや二度と平安を見出すことがなくなるのか、この機会に皆さんはその話のつづきを開くことになるでしょう。話のつづきは、ますますひどいものになるでありましょう!」と、アピールは述べていた。
 「アンテルナショナール・シチュアシオニスト」に加入したシュプールは、ギイ・ドゥボールとともにシチュアシオニスト運動の中心メンバーだったデンマルク人、アスゲル・ヨルンの積極的な共同作業のもとに、翌61年8月、機関紙『シュプール』を創刊し、同紙は同じ年の11月と12月には、あいついで2号、3号と続刊された。そのかん、9月にロンドンで開かれたシチュアシスニスト・インターナショナルの第4回総会にも、メンバーが出席している。機関誌の第4号は61年春に、第5号と第6号は同年夏に刊行され、またこの年には、スカンディナヴィア諸国とイタリアヘもメンバーが旅行し、それらの地でシュプール展が開かれた。フルシチョフの50メガトン爆弾についての言及で始まる「シュプール史」という一文が書かれたのは、その1961年秋のことだった。
 だが、まさにその61年10月の第7号が、雑誌『シュプール』の最後の号となった。同年11月、西ドイツ治安当局は、第7号を除く同誌の既刊6冊すべてを、「涜神罪」および「名誉毀損罪」、ならびに「猥褻物頒布罪」違反のかどで押収し、シュプール・メンバーの居宅の家宅捜索を行なったからである。この家宅捜索は、1954年以後、す
なわちナチ体制の崩壊以後、西ドイツで行なわれた最初の、芸術家にたいする捜索だった。捜査当局は、62年5月、シュトゥルム、プレム、ツィンマー、クンツェルマンの4人を前述の罪で起訴し主として雑誌第6号(61年8月)の内容のゆえに、5ヵ月の禁固刑の判決が下された。この抑圧にたいして、シュプールは、62年1月に『シュプールの本』を刊行し、雑話の全7号分と、別冊としてそれまでに発せられていた宣言などを、それに収録することで応えたのだった。
 西ドイツのシユプールがインターナショナルな表現運動の一構成部分として活動したのは、そこまでだった。なぜなら、1962年2月、シュプールは、シチュアシオニスト・インターナショナルから除名されたからである。それ以後もなお、グループは、根拠地のミュンヒェンをはじめ、ハイデルベルクヴェネツィア、ニューヨーク、パリなどの詰都市で、独白の作品展を開いたり、あるいは美術展に出品したりする仕事をつづけ、1965年に、グループとしての活動に終止符を打った。
 後期印象派の点描(タッシュ)、ダダイズム未来派シュールレアリスムなど、20世紀の現代芸術のさまざまな前衛的試行のあとを受けて、グルッペ・シュプールは、「芸術」と「美」の概念そのものへの攻撃をくりかえし、人びとの美的な「感性」を逆なでするような表現を明るみに出しつづけた。図版や写真で見るかぎり、彼らの素描も彫刻も、かれらの言う「クソ」や「ヘドロ」や「砂漠」にふさわしいものだった。「キッチュ」の概念を的確に意味づけるのは難しいが、かれらの絵は、子供の(しかも無邪気でなどない子供の)なぐりがきか、泥酔扶熊でのスケッチか、あるいは退屈な会議の席で、配布されたつまらぬ資料のコピー用紙の余白に、心ここにあらすの気分で描いてしまうあの無意味な図形に、よく似ている。かれらの彫刻は、それが彫刻と呼べればのはなしだが、ただわけもなく粘土をこねくりまわして、というよりは考えられるかぎり大きな嫌悪感を見るものに与えようと頭をひねくりまわして、でっちあげた形象、というしかないもののように見える。一ロで言えば、これらの「作品」は、2世紀以上にわたって欧米文化圏で、そしてそれに追従するいわゆる文明社会で、「芸術」とされ「美」と讃えられてきたものにたいする、一連の叛逆と内部告発の試みを、極限まで押し進めようとするものだった。
 だが、西ドイツのグルッペ・シュプールが試みたことの歴史的な意味は、もうひとつあるだろう。それは、50年代末から60年代初頭の時点で、ドイツの社会に生きる「第三帝国」との連続性、死んでもいなければ過去ともなっていないナチズム時代の現存を、かれらが身をもって暴露し、告発した、ということにほかならない。
 さきに述べたとおり、61年11月の当局による『シュプール』押収とそれにともなう家宅捜索は、「戦後民主主義」体制のなかで初めてなされた芸術家にたいする捜索と刑事訴追として、ナチ時代のあの「類廃芸術」弾圧が蘇生したことを人びとに気づかせた。そればかりではない。1960年初春、H・A・P・グリースハーバーがカールスルーエの美術学校から去るという事件が起こった。辞職の理由は、ナチス時代に制定された指針に従って試験が行なわれていたからだった。このグリースハリバーは、同年10月に、ミュンヒェンの「芸術館」内で逮捕された。1937年に「ドイツ芸術館」が開館したさいのヒトラーの演説を抜粋してビラをつくり、それを館内で配布したためだった。もちろん、ヒトラーが建てた「ドイツ芸術館」の後身が、ミュンヒェンの「芸術館」にほかならなかったのだが、ナチの「ドイツ芸術館」は、あの有名な「退廃芸術展」――表現主義やダダの作品を、全国から押収して集め、非ドイツ的芸術の実物見本として見せしめに展示し、反共・反ユダヤ人・反平和主義・反前衛芸術の一大キャンペーンをくりひろげたもの――の会場からほんの200メートルほどのところで、‘まさにこの「退廃芸術展」の開催中に、それの「退廃」ぶりをいっそうくっきりときわだたせるために新築オープンされたのである。ヒトラー白身が開館記念式典に出席して演説を行ない、鳴りもの入りで喧伝されたこの芸術の殿堂には、御用芸術家たちの諸作品が「純正芸術」の折り紙つきで陳列された。ところが、連日長蛇の列ができた「退廃芸術展」とは対照的に、「ドイツ芸術館」
のほうの展示室は、閑散とした毎日だったのである。
 逮捕されたグリースハーバーにたいして、グルッペ・シュプールはただちに連帯を表明した。当局は、グループが以後「芸術館」に作品を出品することを禁止する措置で応えたた。その根拠は、61年1月にグループが発した「1月宣言」の理念が、「芸術館」にふさわしくない、というものだった。宣言のなかで、グループは、芸術の目的と実践
は「楽しみ(ガウディ)」であるべきだ、という主張を展開しながら、つぎのように述べたものだった――

  • 3、真の芸術家はだれも、自分の周囲の世界を変革するために生まれたのだ。
  • 4、賞だの、助成金だの、好意的な批評だの、ありとあらゆるものを投げてよこすがよい。しかし、ひとつのことだけは確かだ――われわれは利用などされないということ。  
  • 5、利用できない無用のものになることが、われわれの最高の目標である。楽しみ(ガウディ)は非俗な民衆芸術なのだ。
  • 15、社会主義革命は芸術家を濫用した。これらの変革の一面性は、労働と楽しみとの分離にもとづいている。楽しみを抜きにした革命は、革命ではない。

 グループにたいする弾圧の直接のきっかけとなったグリースハーバーは、61年11月9日にミュンヒェン検察局が『シュプール』誌のバックナンバーの残部すべてを押収したさいの抗議ビラに、グループの5名の署名者に連帯する賛同人のひとりとして、他の30名(その多くは、ドゥボールやアスゲル・ヨルンらをふくむシチュアシオニスト・インターナショナルのメンバーだった)とともに名をつらねている。
 芸術表現と社会変革とを不可分のものとして結合させ、しかもそれゆえにこそ政治に従属しない自律的な芸術による芸術破壊を志向したグルッペ・シュプールの活動は、明らかにひとつの転換形を西ドイツ社会が迎えていた時期に、その転換と無関係にではなく行なわれたのだった。いわゆる東西冷戦の深刻化とベルリンの壁の構築は、まさに、
シュプール』誌の創刊と押収とのあいだの一時期のことだった。「未来をはらむ、芸術的なひとつの再武装」たるみずからの志向の対極にある動きとしてシュプール結成宣言の冒頭で言及された「道徳再武装」にしても、単なる抽象的な観念として引きあいに出されたのではない。もはや戦後ではない、ことが明らかになっていた西ドイツ社会で、それは、新しい戦時体制にふさわしい反共の倫理主義的社会運動として、道徳再武装の名のもとに、MRAの略称で、人びとの意識と娯楽の領域に浸透しつつあったのである。娯楽、というのは、MRAのキャンペーン活動は、ナチスばりのシュプレヒコール劇として、劇場や公会堂や野外で、チャリティ・ショーさながら、人びとを安価な芝居の観客のように、動員していたからだ。60年代初頭、このMRΛは、日本にまでやってきて、労演(労働者演劇運動)感覚で反共宣伝劇を上演して廻ったのだった。
 グルッペ・シュプールが「楽しみ」を芸術の、そして社会革命の、本質的に重要な要因として、また最高目標として提起したとき、グループ白身がどれだけそれを意識していたかはさておき、「楽しみ」を収奪し利用するこのMRA(Moral Re-Armament;Moralische Aufrustung)ドイツ版――もともとは1938年にアメリカ合衆国で姶まったこのMRAのドイツ版が、西ドイツ社会に根を張りひろげようとしていたのである。その運動のモラリズム、秩序翼賛、そしてあらゆる社会変革への深い敵意にたいして、シュプールがそれとは逆の「楽しみ」を、みすがらの実践によって、どのように対置していくことができるかが、じつは問われていたのだった。人種差別主義に依拠し、過去の歴史の忘却を糧とするMRAとは逆に、シュプールは、国際連帯と、歴史の想起とを、起爆力として追求した。だからこそ、1965年にひとまず終止符を打ったシュプールの蜂起は、すぐあとにつづいて始まる学生たちと若い労働者だちとの叛逆に、そのままつながっていったのである。