工業絵画と応用可能な統一的芸術に関する講話

訳者改題

 「ウィルソン大統領大通りの南側にある近代美術館の2つの建物を分ける小さな広場で、絵を描く奇妙な機械が先週の木曜日、パリ・ビエンナーレ開催日の前日に始動した。足車つきの三脚台の上に組み立てられたこの機械は、遠くから見ると、カルダー作のいくつかのモビールの輪郭を彷佛とさせる。近くから見ると、それは、入り交じった一連の滑車から成り立っていて、その滑車が2サイクルエンジンで動くようになっている。長く巻いてある紙が繰り出されると、痙攣性の運動をするインク管がそこに染みを自動的につけてゆき、そうして出来上がった完成品をナイフが裁断する。混沌として爆音を響かせる循環運動の中で、以上の工程が繰り返されるのである。」

ジャン・フランソワ・シャブラン   

(『レクスプレス』誌1959年○月8日)

 ミクロのコロイド分子が芸術の陣営にすでに出現したが、この分子を歌いあげる詩人がまだいないときからもう、何千という芸術家たちがこれを服従させようと色めきたっている。
 樹脂の大いなる時代が始まり、このような時代とともに、樹脂という運動する物質を利用する道も開ける。ミクロのコロイド分子は相対性概念に深い刻印を残すだろう。そして、物質の不変量は決定的な失墜を蒙り、永遠性と不死性のあらゆるイデオロギーは権力者の手のなかで脆くも崩れさり、物質を永遠化しようとする配慮も常に一層、その虚無へと還元され、このことによって、常に新たなものに対する尽きることのない喜びが混沌の芸術家たちに委ねられるだろう。
 人間の解き放たれたエネルギーから出てくる無限な創造の偶然性において構想されたこの新たなものは、あの金価値を、すなわち、今後は解体してゆくことになるおぞましい銀行システムの凝固したエネルギー像を混乱させることに貢献するだろう。蟻塚の虫のように囚われの身となり果てた芸術家や学者たちの単純な理念と細分化された身振りとによって特許を与えられ、理解され、基礎づけられた社会が、終わりを迎えようとしているのである。人間は集団的意味の表現へと、さらに、そうした意味の伝達に相応しい手段、すなわち、別の詩作経験によってでなければ贈答品のお返しができない「ポトラッチ」のシステムヘと向かうことになる。機械とは、インフレ傾向をもたらす工業芸術の創造に適した、しかも、まず反-特許に基礎を置いた道具であるということに気づかねばならない。新たな工業文化は民衆の中から生産されるだろう、そうでなければ、存在しないだろう。特権的知識人の時代は幕を閉じたのだ。新たな道具に相応しい新たな表現によって、無益な筆は絶たれ、世界を壊死させてきた苦々しいインクはその最後の痕跡に至るまでことごとく消し去られるだろう。
 途絶えることなく続く、容赦ない創造と破壊の連携によってはじめて、瞬時のうちに使用される対象を求めての、情熱的で有用性を無視した探究が構成されるだろう。それは、経済の土台を浸食することによって、また、価値を破壊する、あるいは、価値の形成を阻止することによって、行われる。常に新たなものは、類似品の女王とも言うべきあのおぞましい機械によって作りだされた退屈と苦悩を廃棄するだろう。新たな可能性は完全に多様なものの新世界を創造するだろう。量と質は両者の運動の中で融合し、そこから、賛沢が標準となった文明が生まれ、様々な伝統を破棄するだろう。「何を失うかは知っているが、何を見つけるかは知らない」と言われず、むしろ、「老人たちの諺は若者たちを飢え死にさせる」と言われることだろう。支配を渇望する新たな力によって、人々は想像を絶した叙事詩へと導かれるだろう。時間を確立する習慣までが崩れ去るのだ!今やわれわれの前途にあるものの中で、時間はまず、感動的な価値、ショックを与える新貨幣になる。創造された生活の様々な瞬間の突然の変化と非常に稀な退屈の瞬間とによって、時間が測られるだろう。要するに、記憶を持たない人間、常にゼロ点から出発する、連続的な暴力状態の人間が形成されるのである。
 それは批判的な無知となるだろう。
 従順にもわれわれの欲望のとりこになっている機械が世に出す芸術的生産物は、われわれが記憶のなかに留めておく時間さえないようなものになるだろう。機械の方がわれわれに代わってそれを覚えてくれるのだ。破壊のために介入して、価値のない状況を生産するような機械も出てくるだろう。人々の間で、もはや芸術作品をめぐっての選手権試合がとり行われるのではなく、単なる転地、芸術上の状態の単なる変化が生まれるだろう。
 世界は、ある連続的な上演[=表象]の舞台と客席になるだろう。地球は、新たな感動と情熱を生産するような、境界というものを持たないルナ・パークに形を変えるだろう……。
 こうして、われわれは不可知の物質でもって未来の道を描き、われわれの雄大な企てに見合った信号手段でもって天に通じる大道に標柱を打っていかねばならないだろう。信号が今日、ナトリウム信管で作られているところに、明日は、われわれが、自ら構築した別の虹、唇気楼、オーロラを据えるだろう。
 いまなお権勢を誇る地球の領主たちよ、君たちは、こうしたすべてのことがもとで、遅かれ早かれ、われわれに遊戯のための機械を与えてくれるだろう。そうなれば、われわれとしては、君たちが前もって健康に悪いのも厭わずむさぼり食っている大好物のあの自由時間──君たちが陳腐さを完成し知能低下を進行させるために使っている時間──を占領するために、そうした機械を配置するだろう。
 われわれはこうした機械を、道路に絵を描いたり、極めて目にも色鮮やかな、極めて比類のない生地──喜びにあふれた群衆の中には、ただほんの一瞬の芸術的な感覚=意味のために、それを身に纏う者も出てくるだろう──を製造することに使うだろう。印刷され、彫刻され、彩色された数キロの長さの紙が、極めて奇怪で熱狂的な精神錯乱への讃歌を歌う。彩色したり、打ち出し細工をしたり、漆を塗ったりした革の家、金属製あるいは木造の家、樹脂や振動するセメントで作った家が、地上において、不均等で絶えまないショックの瞬間を構成する。民衆の集団的天才が創造し、君たちが、われわれを退屈の絶対的な支配の中に閉じ込めるために、あいにくにも採用してきた映画とテレビの装置を使って、われわれは思う存分イメージを定着させるだろう。
 オートメーション化とともに、言葉の普通の意味での労働というのがもはやなくなり、休みももはやなくなって、反-経済的な自由エネルギーのための自由な時間が得られるだろう。われわれは工業の詩のための最初の施設を創設したいと思っており、情動的な生産物が創造されるやいなや、それをたちどころに破壊する直接破壊の施設もその傍らに創造することになるだろうが、それは、われわれの精神がゼロ点という恩寵の状態にすぐにも立ち帰ることができるように、コピーから常に自らを護るためである。
 目下のところ、人間は自らが創造した機械の一部となっている。人間は機械によって否定され支配されているのだ。このようなナンセンスを転倒しなければなるまい、そうでなければ、もはや創造というものはありえないだろう。比類のない、有用性を無視した、反-経済的な身振りへと機械を委ねることによって、機械を支配しなければならない。それはポストー経済的な、しかし、超一詩的な新社会の形成に一役買うだろう。
 権勢を誇る東西対称の領主たちよ、今や現代生物学の基礎概念となった非対称性が、次第に芸術と学問の領域を呑み込み、君たちの対称世界──遠い昔の公理に従って計算され、東西対立の中で結晶した退屈の絶対的な不動性にまで至った世界──を廃墟と化そうとしている。ごく最近の芸術創造物はすでに君たちの空間を破壊し、数キロもある長いカンバスが時間に翻訳されて、フィルムや縁なしのシネラマのようにクロノメーターで測って20分の絵画とか1時間の絵画と呼ばれるまでになっている。
 時間はかつて、古代の農耕文化の人間が自分たちの詩的で生命感あふれる経験を律するために用いた魔法の鎖であったのだが、それが今や止まり、君たちに速度を変えるようにと迫っている。君たちの権力の根本的な道具である空間と時間は、発育が悪くて麻揮した子供のような君たちの手の中で無用なガラガラとなるだろう。超人と天才についての君たちの観念論的構築物は無用であり、君たちの生の舞台装置(デコール)や巨大な都市構築物にしてもそうだ……。
 東西両陣営それぞれでなおも権勢を誇る領主たちよ、君たちは自らがぶちまけた放射線から自分たちを守るべく、血にまみれた財宝を隠すべく、地下都市を構築してきた。そこで、純真無垢な芸術家たちの中には、君たちの下水渠を原子力で動く聖域や大聖堂に変え、新たな黄道十二宮として、過渡的な新暦として、工業文化の黄道十二宮を描く者が出てくるだろう。長い眠りから覚めた大衆の新たなエネルギーは鉄筋コンクリートでできた君たちの陰欝なシロアリの巣を、変形可能で常に変化する豪著なモニュメントに変えるだろう。芸術家たちは古い文化の反抗的破壊者(テディ・ボーイ)となるだろう。君たちが破壊しなかったものは、われわれがすべてを忘れるために破壊するだろう……。
 生地から住居に至るまで、輸送手段から飲み方、食べ物、照明、実験都市に至るまで、これらの新たな生の舞台装置(デコール)は、比類のない、芸術的で、反復することが不可能なものになるだろう。それらは、もはや不動産と言われるのではなく、動産、それも単に使用されるためだけの動産と言われるだろう。というのも、それらは快楽と遊戯のための一時的な道具になるからである。一言で言えば、われわれは、新しい行動の精神において再び貧しく、非常に貧しく、そして、非常に豊かにもなるだろう。
 われわれのすべての財は集団のものであり、迅速に自己破壊に向かう。詩的な特質は、もはやわれわれがよく知る感覚器官にではなく、われわれがまだ知らない感覚器官に対して働きかけるだろう。そのとき、建築も絵画も言葉もイメージももう存在しない。そこに将来、面もヴォリュームも持たないわれわれの作品が立ち現れるのだ。われわれは第四次元の純粋詩を間近にしている。師を持たず万人によってしか実現されることのできない魔術を間近にしているのだ。われわれは現代的な道具を持ちあわせながら、現代的な意味で言う未開状態すれすれのところにいる。このような未開状態においては、約束の地と天国は、呼吸され食べられ触れられ、そして浸透されるわれわれの周囲の環境以外の何ものでもあり得ないだろう。こうした触知できない生の舞台装置(デコール)の中から、新たな情念が創造されるだろう。自分のすべての欲望を満足させ絶えず他の欲望を発明するには、ただ時間だけが足りないような自由な人間が創造されるだろう。すべてのイデオロギーと宗教は、これまで常に欲望の力を、それも、彼岸の世界で満足させるという虚妄の形で、搾取してきた。その結果がどうなったかと言えば、今日でもまだ、科学と芸術は「なぜ」という越えることのできない壁にぶち当たっている。われわれはこのような「なぜ」を永遠に消し去ってしまいたいのだ。新たな予言者たちがこの壁を倒しにやって来る。これらの道案内人につき従うことによって、人間は明日、変質しないネクタル[ギリシアローマ神話で神々が飲むとされた酒]のあるところに辿り着き、幻想的な蜜を食べて生きる蜜蜂のように、ネクタルを飲んで一切の心配事から解放されて生きるだろう。そして、自分の死ですら心配には及ばず、宇宙という無限な迷宮の中に口を開けている闇の洞窟にとって、そんな死はもはや愛の行為、ある全体性の小さな部分でしかないだろう。新たな行動はことごとく遊戯となり、各自は遊戯を通して一生を生き、最終的には実現可能な自分の欲望と戯れることによって得られる感動にしか利害=関心を持たないだろう。このような革命の初歩的な最初の道具は、われわれの考えでは、価値というものを下落させるあの芸術的・工業的な諸手段である、なぜなら、まさしく、そうした道具はまず、ある快楽の道具だからである。そういうわけで、われわれとしては、工業絵画のようなささやかな成果を示すことによって、その成果が歓迎されたことから判断すると、道を誤っていないと誇りをもって確信できる。工業絵画は、機械との戯れを成功させた最初の試みであって、その直接的な成果が、芸術作品の価値の下落である。今日同じ細部を反復することで時間を無駄にしている何千もの画家たちは、機械が提供する可能性がどんなものであるかを今後、認識するだろう。最大限の利益を競うコンクールのために作られた、絵と呼ばれるあの巨大な紙幣はもはや存在せず、通りや市場に原価で供給される何千キロもの長さの絵画が現れて、何百万という人々を楽しませ、自分たちの環境を整備する他の実験へと彼らを駆りたてるだろう。そうなれば、これは質の基礎としての多数性の勝利、未知の価値を確立する勝利であって、そういう世界では、変化の速度が新たなアイデンティティを決定するだろう。すなわち、価値が変化とだけ融合することになるだろう。現在についてのあらゆる思弁は終わりを迎えることになろう。
 この工業絵画の遊戯は1958年、トリノ、ミラノそしてヴェネチアで始まった。続いて1959年、ミュンヒェンで行われ、当地ではそれと同時に、シチュアシオニスト・インターナショナル第3回大会で11項目のアムステルダム宣言について、意見の一致を見たのであるが、この綱領はまだ秘匿されているとはいえ、ある統一的都市計画の構築に関しては信頼できるものである。それからパリ(ドゥルアン画廊、5月)で、工業絵画の展覧会が、一瞬の情動的な雰囲気に貢献する試みとして、開催された。われわれの仕事は、文化の統一性こそ機械を支配できる唯一の理念、偉大な原子力時代という、今かろうじて始まったばかりの時代の力のレヴェルで、ついに工業文化を創設できる唯一の理念であるという肝心な点において、多くの芸術家を結集することに役立ったのである。
 われわれは貧しい、しかし、それが何だというのか。われわれの貧しさはわれわれの力の一部をなす。相変わらずわれわれの発見の中にわれわれを孤立させ、行きたくもない団結組織からわれわれを排除し、われわれを侮辱したり、あるいは、沈黙でわれわれを覆いつくしたりできるとしても、それはまさに無駄である。われわれの詩を理解できるちの、それは、君たちのくたびれた偶像に、すなわち、思考と技術をめぐるあらゆ自動症(オートマティスム)の幽霊じみた権勢に吐き気を催している民衆である。知識人という、この世で最も去勢された種族のあの邪険な保守主義に吐き気を催している民衆なのだ。
 原子力による創造の長きにわたる日々をこうして始めることにしよう。大地、大洋、動物、太陽とその他の星、空気、水そして事物を他の仕方で創造するのは今や、同じ1つの詩を志向する芸術家と科学者であるわれわれだけに属している。さらに、新しい人間を誕生させるべく粘土に息を吹きかけるのも、われわれに属するだろう、その人間はひとえに、7日目の安息日のためにのみ生まれついているのだ。

ジュゼッペ・ピノ=ガッリツィオ   

 (ピノガッリツィオの講演は、『応用可能な統一的芸術のために』という題の下にイタリアで11月に発表された。)