響きと怒り

訳者改題

 怒れる若者たちとか、今日の若者の怒りとかが、よく話題になる。人々は気軽にその話題を口にする。なぜならば、スウェーデンの青少年の理由なき暴動から、文学運動として続く気配のあるイギリスの「アングリー・ヤング・メン」が作成した声明文に至るまで、一様に、根本的には無害な性格、恐れるに足らぬ脆弱さが、見て取れるからである。支配的な思想と生活様式の解体の時代、自然に対する圧倒的な勝利が日常生活の現実的可能性の拡大に結びつかず、逆に、ときに粗暴に、そのための条件に反する方向に働いている時代から生まれた、これら若者の激昂は、おおざっぱにいって、シュルレアリスム的心情に相通ずるものである。しかし、彼らの激昂には、シュルレアリスム的心情が持っていた、文化に働きかける点も、革命的な希望も、欠けている。したがって、諦めが、このようなアメリカやスカンジナヴィアや日本の若者の自然発生的な否定主義のバックグラウンド・ミュージックになっている。サン・ジェルマン・デ・プレ*1は、かつて戦後まもなく、すでにこのような行動(マスコミは誤って実存主義的と名付けた)の実験室であった。そのことによって、現在のフランスにおけるこの世代の知的代表者たち(フランソワーズ・サガン=ドルーエ*2ロブ=グリエ*3、ヴァディム*4、あのおぞましいビュッフェ)が皆、諦めを絵に描いたようなものだということの説明がつく。
 この知的世代が、フランスの外で、より多くの攻撃性を現しているとすれば、その世代がそれについて持つ意識は、単なる馬鹿馬鹿しさと、非常に不十分な反乱に対する早まった満足との間に位置づけられる。神という観念が放つ腐った卵の臭いは、アメリカの「ビート・ジェネレーション」の神秘主義的な馬鹿者どもをすっぽり覆い込んでいるし、また、「アングリー・ヤング・メン」の声明にさえ、ないわけではない(コリン・ウィルソン*5を参照のこと)。「アングリー・ヤング・メン」は、一般的にいって、30年遅れて、イングランドがその間完全に彼らに隠してきた体制転覆的な精神風土を発見し、自分たちが共和政支持者であると宣言することによって、スキャンダルの最先端に立とうと考える。ケネス・タイナン*6は次のように書いている。「人々はいまだに王室、帝国、教会、大学、上流社会といったものを畏れ敬っているという滑稽な考えに基づいた芝居が上演され続けている」。この言葉(いま引用した文)は、「アングリー・ヤング・メン」のこのグループのありきたりに文学的な観点を暴露している。彼らは、単に、幾つかの社会慣習について意見を変えるに至ったにすぎないのであって、今世紀のどの前衛芸術派のうちにも認められる、文化活動全体の場の変化を理解していないのである。「アングリー・ヤングメン」は、文学の実践に、特別の価値、すなわち贖いの意味を認めるという点で、部分的に反動的でさえある。つまり、彼らは今日、ヨーロッパでは1920年頃糾弾されたある欺瞞の擁護者になっている。そしてその欺瞞の存続は、英国王室の存続よりも重大な反革命的影響力があるのである。
 これら全てのざわめき、いわば革命表現の擬音は、シュルレアリスムの意味と重要性に気づかないという共通点をもつ(シュルレアリスムブルジョワ芸術的成功は、もちろん、それらを歪曲するものであったが)。実際、もしもうまくシユルレアリスムに代わりうる新しいものが何もないとしたら、シュルレアリスムの継続こそが最も首尾一貫した態度であろう。しかしながらまさしく、シュルレアリスムの根源的な要求を知っていてしかもその要求と不動の似非-成功との間の矛盾を乗り越えられないがゆえにシュルレアリスムに加わる若者たちは、シュルレアリスムが成立以来もともと内包していた反動的な方面に逃避している(魔法とか、歴史における前方とは別のところにあるかもしれない黄金時代の存在を信じるとか)。結局、人は、戦闘の後じつに長い間、相変わらずシュルレアリスム凱旋門のもとにいることに満足してしまい、そしてそこに、依然として伝統通り、ちょうどジェラール・ルグラン*7が誇らしげに言うように(『シュルレアリスム・メーム』*8誌 第2号)、「シュルレアリスムの本当の炎を絶やさないことに頑固なまでにこだわる若い人々の核……」のままでとどまるだろう。
 1924年シュルレアリスム*9より以上に解放をめざす運動──ブルトンはもしそのような運動が現れたらそれに参加することを約束した──は、容易に生まれうるものではない。というのも、その解放運動としての性格は、いまや、現代世界のより優れた物質的手段の掌握に依拠しているからである。しかし、1958年のシュルレアリストたちは、そのような運動に参加する能力を失っており、そのような運動に反対して闘う決意さえしている。それゆえ、文化における革命運動が、シュルレアリスムによって主張された精神の自由、風俗習慣=暮し方の具体的な自由を、より効果的に自らのものにする必要性は、少しも減っていないのである。
 われわれにとって、シュルレアリスムは、文化における革命的実験の端緒にすぎなかった。その実験は、実践的にも理論的にも、ほとんど即座に頓挫してしまった。さらに先に進む必要がある。なぜ人はもはやシュルレアリストになりえないのか。それは、常に「前衛」に対してなされる、シュルレアリスムのスキャンダルとは快を分かてという警告に従うためではない(誰しも、われわれが不断の斬新さを取り入れるのを見たいとは思わない。それもそのはずだ。いったい、われわれにどんな新たな方向を提示できるというのか。逆に、ブルジョワジーは、われわれが選びたくなるような退行を、拍手喝采で迎えるつもりである)。人がシュルレアリストでないのは、退屈したくないからである。
 退屈は、廃れかけているシュルレアリスムと、情報に乏しい怒れる若者たちと、気楽な青少年の展望はないが理由なしとは言えない反乱とに、共通の現実である。シチュアシオニストは、今日の余暇が彼らに対して言い渡す判決を執行するであろう。

*1:サン・ジェルマン・デ・プレ パリ6区の地名。1950年代、この界隈のカフェは実存主義者や不良たちのたまり場として有名だった。

*2:フランソワーズ・サガン=ドルーエ フランスの小説家フランソワーズ・サガン(1935-)のこと。1954年にパリ大学在学中に発表した『悲しみよこんにちは』でデビュー。これはフランスで84万部、合衆国で130万部のベストセラーになり、東欧圏も含めて世界中で翻訳されて読まれた。1957年には、ハリウッドでオットー・プレミンジャー監督、ジーン・セバーグ主演によって映画化され好評を博した。ドルー工は、マスコミによって作られた作家サガンを、ヴィクトール・ユゴーが偏愛した女優ジュリエット・ドルー工になぞらえた言い方かもしれない。

*3:アラン・ロブ=グリエ(1922-) フランスの作家。1953年に発表した『消しゴム』によってヌーヴォー・ロマンの推進者となる。1961年にはアラン・レネの映画『去年、マリエンバートで』の脚本を書くが、これはシチュアシオニストからレネの映画の革新性を後退させたと激しく非難された。その後、映画作家として『不滅の女』(63年)などの作品を制作した。

*4:ロジェ・ヴァディム (1928-)フランスの映画監督。そのデビュー作『素直な悪女』(1956年、ブリジッド・バルドー主演)は、ステレオタイプの恋愛物語だったが、バルドーの小悪魔的魅力で興行的には大ヒットした。他に代表作『危険な関係』(59年)がある。ブリジッド・バルドーやジェーン・フォンダらと結婚したことでも有名。

*5:コリン・ウィルソン (1931-)イギリスの作家、批評家。1951年刊の『アウトサイダー』は「怒れる若者たち」を代弁するものとして話題を呼んだ。

*6:ケネス・タイナン (1927-80年)イギリスの劇評家。

*7:ジエラール・ルグラン (1927-)戦後、シュルレアリスムに参加し、1950年代から60年代末まで、戦後のシュルレアリスムの最も積極酌な活動家として『クピュール』、『ビエフ』(1958-60年)などの雑誌の編集をする。ブルトンと共著で『魔術的芸術』(1957年)を著したことで有名。1963年以降、映画批評誌『ポジティフ』の発行にも深く関わっている。

*8:シュルレアリスム・メーム』 1956年から59年まで発行されたシュルレアリストの雑誌。全5号。編集者はブルトンシュステル

*9:1924年シュルレアリスム 1924年は、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が発表され、『シュルレアリスム革命』誌が創刊、グルネル街15番地に「シュルレアリスム研究所」が開設された年で、この年を機に、ブルトンらは、ダダからシュルレアリスムヘと公式に移行した。