あるフランスの内乱

訳者改題

 「私達の戸口にいるのはカティリナ*1ではなく死である。」

P・J・プルードン、ヘルツェン宛て、1849年

 この雑誌が印刷されようとしていた間に、重大な事件がフランスで突発した(5月13日〜6月2日)。今後の展開次第ではこの事件はヨーロッパにおける生活の他の多くの様相に対しても、前衛文化の諸条件に対しても、重くのしかかることになるかもしれない。
 歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある*2というのが本当だとすれば、第4共和政末期の喜劇の中でたった今、繰り返されたのはスペイン戦争である。第4共和政の政治の基本は、ずっとこれまでその非現実性にあったが、今度のように流血を見ることなく迎えた共和政の死それ自体も非現実的だ。第四共和政は植民地に対するいつ終わるとも知れない戦争と不可分だった。フランス国民の利害・関心は戦争を停止することにあり、植民地主義を掲げる産業部門の利害・関心は戦争に勝つことにあった。議会はこのどちらの利害・関心に対しても無能であるように見えたが、実際は、まさしく植民地主義者たちと彼らに仕える軍隊との側に立って、ここ数年来いろいろ譲歩を重ね解散を繰り返してきたのであり、今また、その彼らの権力に対して席を譲る覚悟をしていたのだ。
 アルジェリア駐留軍が反乱をくわだてたとき、誰もが予期したように、共和国政府はほとんど犠牲をはらうこともなく、彼らをもとの規律に服させることができたはずで、月末には抵抗もまだ必要かつ容易だった。ところが、政府は当初、議会内左翼多数派を通じて国民に頼らねばならなかった。コルシカ島を征服され空艇部隊によるパリ攻撃の脅威に晒されるに及んで、政府は最後には、(かつて武装民兵を率いたカップによるベルリン暴動*3の当初の成功を無に帰せしめたのが、政府によるあのゼネスト組織であったように、今回もそのようなゼネストを組織することによって)動員された人民の実効力に頼るべきなのに、そうはしなかった。そうした革命過程には、召集兵や戦艦乗組員に対して、自分たちの反乱上官に反対して決起するよう訴えること、そしてとりわけアルジェリアの独立を承認することが含まれていたが、それは[政府には]ファシズムよりもずっと危険に思えたのだ。
 共産党はこの危機において議会体制の最上の擁護者以外の何ものでもなかった。ところが、当の体制は左翼多数派の中に共産党の票数を数えいれることをまさしく拒否することによって、崩壊点に達していたのである。相変わらず体制は、右翼少数派がこれまで自らの政策を押しつけるときに使ってきた無類の威嚇手法、すなわち、権力奪取にいそしむ共産党という神話の、徹底した犠牲者であった。権力奪取に全くいそしんでいなかった共産党はこうして、議会でただ1つの作戦も成功させることなく、大衆を失望させ、武装解除させていたのだった。それに議会のほうもまた、当の右翼少数派であるブルジョワジーの責任者たちに申入れを受け入れてもらうように、徹底して努めたのである。これらの責任者は彼らなりに石のように断固たる態度のままであったため、共産党員たちは議会で最初の成功を記すことができなかった。体制はその前に瓦解するだろうというわけだ。5月28日には、議会ではなく国全体を反ファシズム闘争に引き入れることが可能であるように見えた。ところが、5月29日の夕方、CGT(労働総同盟)は主な武器である無期限のゼネストに打って出ずに、6月1日のデモは純粋に形ばかりのものでしかなかった。
 大衆にしてみれば、どうでもよかった、なぜなら、大衆はこれまで久しく、議会内で右翼穏健派を支持するか、それとも、一種の穏健な人民戦線、といっても、非共産党議員から絶対に拒否されていたのでユートピアに等しいような人民戦線を支持するか、という誤った二者択一しか提供されてこなかったからである。政治に関心を示さない分子たちは大新聞とラジオによって眠り込まされていた。これらの情報手段をコントロールしてそれを最も上手に利用するような政府であったなら、充分な猶予期間を駆使して国に事態の重大さを知らせていただろうが、資本主義的な情報提供様式は、生来の傾向をなぞって、国民の大部分に対して体制の断末魔を隠しおおせたのである。政治に関心を示す分子たちは1945年以来、敗北の習慣を身につけていて、彼らがこのような「共和政擁護」の機会に対して懐疑的であったのは無理もない。しかしながら、何十万というデモ隊が5月28日パリにむけて一緒に行進していったことから分かるように、民衆の方こそ立派であり、土壇場で立ち上がったのだ。
 今までのところ、この嘆かわしい事態にはいかなる現代的な特徴も含まれていない。フランスでは、ファシズムは大衆党も綱領も持っていなかった。偏狭で人種差別主義的な植民地主義と、手に届く勝利としては他の勝利が見えなかった軍隊とから成る勢力だけが第1段階として国にド・ゴールを押しつけたわけだが、そのド・ゴールは17世紀フランスの国家的偉大さという、学校で習うような型にはまった観念を代表し、プジャード*4=軍事的な道徳的秩序への移行を保証しているのだ。工業化を強力に押し進めたこの国では、労働者階級の決定的な行動というものはなかった。ブルジョワジープロレタリアートとが政治的に不在であるような段階に陥ったのであって、この段階では権力を決めるのは軍部クーデターなのである。
 われわれはどのような現状にいるのだろうか。労働者の諸組織はこの場合、手つかずである。民衆の一部は事態の重大さを知らされている。アルジェリア駐留軍は相変わらず戦闘を行っている。公式に指名しないうちから既にパリの歴代政府を指揮していた植民者たちは、アルジェでの統治を続けるために、今や、反対されることもなくフランスを統治せざるをえない。相変わらず彼らの目的は、自分たちの利益に資するべくフランスが国を挙げて戦争努力を強化することにあり、それには、現時点でこの国の民主主義が清算されてファシズムの権威が勝利することが必要である。まだ流れを逆転できるとすれば、フランスの民主主義勢力は、自らの態度をとことんまで突き進めざるをえないだろう。つまり、アルジェリアとフランスにおける植民者たちの権力を清算すること、すなわち、FLN *5によるアルジェリア共和制実現を承認することにまで突き進まざるをえないだろう。したがって、短期間の激しい衝突は避けられない。将軍兼大統領の個人的役割について無気力な幻想を抱いたり、統一行動に障害を持ち込んだり、闘争を開始すべきときにあたって新たに躊躇したりすれば、民衆をさらに弱体化し、裏切ることにさえなるかもしれないが、結末を遅らせることにはならないだろう。

1958年6月8日

*1:力ティリナ 古代ローマの政治家で時の権力に反逆したルシウス・セルギウス・カティリナ(前108?−前62年)のこと。一種のクーデタをたくらんだ彼を激しく非難するキケロの弾劾演説は有名で、カティリナは内戦によって道徳的に堕落した青年の典型とされている。

*2:歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』第1章の冒頭の言葉。

*3:カップによるベルリン暴動 ドイツの偏狭なナショナリスト、ウォルフガング・カップ(1858?−1922年)が1920年、ワイマール体制の転覆を図って行ったクーデタ暴動。暴動はベルリン市民の果敢なゼネストによって失敗に帰した。

*4:プジャード 南仏の文房具店主ピエール・プジャード(1920−)が組織したプジャード運動(1953年、税制改革に反対する小売業者を組織してフランス商人職人防衛連合を創設して反税運動を展開し、翌年には、チュニジアを手放したマンデス・フランスから多国籍企業、哲学者・知識人、外国人まで祖国に背く者をすべて攻撃するファシスト的右派政党にまで発展し、56年の総選挙では52議席を獲得するまでに躍進した)にちなみ、プチブル層の生活保守意識に根ざした偏狭で排外主義的な感情的愛国主義意識をさして言う。

*5:FLN アルジェリアの「国民解放戦線」。フランス政府のアルジェリアに対する融和的な自治案に反発し、1954年11月、各地で独立を求めて武装蜂起を起こす。以来、アルジェリア独立を掲げ、フランス軍と植民者テロ組織の残虐な弾圧に抗して戦い、1962年の独立を勝ち取った。