CNTにおける裏切りについての詳細

 ブルジョワジースターリン主義者、その他の多くの者が、フランコの国家を、より合理的な形態の先進資本主義に継がせるために、ブルジョワ民主主義の神聖同盟(ユニオン・サクレ)を作ろうと試みていることに関して、われわれは、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号のスペインについての論文のなかで、「CNT*1ファランヘ党*2の組合のあいだで行われた最近の闇取引も、ブルジョワ的発展への従属という同じ流れの中に位置づけられる」(28ページ〔本書84ページ〕)と指摘しておいた。1966年6月の『ル・モンドリベルテール』誌は、プルードンを批判したことでシチュアシオニストをご立派にも非難してから(その際、女性を「位階秩序(ヒエラルキー)に基づいて分離すること」というプルードンの主張についてのわれわれの考えを引用しながら、その考えに反駁しようともしなかった)、このように叫んでいた。「スペインのCNTをファランへ党労働組合主義と同一視するなどというのは、あまりと言えばあまりだ! フランコ主義と『裏取引を交わした』グループはCNTではないということ、そのグループは国際アナキズム運動の総体から力を込めて非難されたということを、SIが知らないわけはない。悪意かそれとも無知か? どちらにせよ、SIは失格である……」。このような奇妙な情熱(リリスム)には、いくつか説明が必要である。われわれ がCNTとファランヘ党を「同一化」していなかったことは明白である。というのも、われわれがこの醜悪な事件を引用したのは、逆に、反フランコ主義を掲げる反対派の意気を殺ぐ最上の例としてだったのである。亡命中のCNTの総体が、そのメンバーの命そのものだったものをすべて否定することになるような行為を正式に認めると、われわれが考えていたなどとは誰も想像していなかった。われわれの論文が考察していたのは、スペイン国内のものであった。内戦時の組織がすべて周知のようにほとんど力をなくし、何十年もの間ずっと追い回されてつづけてきた生き残りたちが、その意気を殺ぐ傾向の後を追って、あらゆる種類の「民主戦線」の方向に進むことになるかもしれない一段階においてスペインを考察したのである。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号の印刷中に、大新聞でちょうどあのスキャンダルが作裂したところだったが、それは、この試みに反対かその結果に失望したファランヘ党が秘密を漏らしたからだった。しかし、われわれは、その答えとして「力を込めて」紹介されている敬虔版アナキスト──ファランヘ党員におだてられたにすぎない一握りの裏切り者たち──が偽物であること、そして、これらの者が、不幸にも現実の流れを代表する者たちだということをすでに知っていた。
 『ル・モンド・リペルテール』誌の老練だが控えめな連中が3ヵ月後になっていくらか皮肉まじりで唱えた「悪意か無知か」という非難に対して、今から答えるために、われわれは、次のような詳細を与えることができる。裏切り者のロヤノ(別名ロメロ)は、CNTの「国内」書記の名で、アロンソ*3という将軍と接触した後、ファランヘ党最高権威筋と交渉した。CNTを解体して、条件付きストライキ権を享受できる合法的な「民主的」大労働組合に統合することが問題だったのである。ロヤノは、スペインの内外で自分の政策を推進するため、さらには、自らの計画に役立つ者なら誰でも来させようとして、警察からあらゆる庇護を獲得した。その後、彼は、国内でCNTの会議を組織した。その会議は、想像の通り、明らかに官僚主義的な選別によって方向付けられていたが、参加者はみなCNTの実際の活動家だったので、彼はそこで自分の政策を発表したのである。これ以上聞くことはないと言ってただちに聞くのを拒否した1、2人の代表を除いて、留保は数人で、大多数がロヤノに賛成した。それで、ロヤノは、1965年8月10日から16日までモンペリエで開かれたCNT大会にやって来た。CNTは、地理上の地域では「大陸をまたがって(インターコンチネンタル)」広がっていたのだ。彼は、その大会で自分の展望を正式に認めさせたいと思っていたのである。このような目的から、まず、彼は大会の外で秘密裏に、CNTの〈大陸間(インターコンチネンタル)書記局〉に反対する一派に自分のことを知ってもらう。そしてその一派に対して、自分の陰謀を一部始終あかし、大会の場で自らの考えを宣言するという自分の素朴な意図を説明した。この反対派のなかには、シプリアノ・メラ、ホセ・ペイラッツら、FIJL*4の責任者たちがいたが、彼らは彼の振る舞いがいかに突飛で危険かを彼に分からせ、どうしても彼が大会に出たいと言うのなら、こうした重大な誤りを犯したことについては何も言わないように彼を説得した。彼ら自身はといえば、重大な誤りを入念に隠しつづけたのだが(〔FILJのメンバー〕数名が、6ヵ月後、ローマで、1人のスペイン人司教を誘拐してそれを暴露した)。そのころ、CNTの〈大陸間書記局〉は、独自の密使の調査によって、スペインでのたくらみに疑惑を抱いていたが、関係者を正確に知るには至ってはいなかった。反対派は、書記局にはその関係者を隠して喜び、体制側の警察と危険な接触をしていることの判明している1人の男をそのままスペインに帰らせたのである。
 スペインのアナキズム運動の大部分にどれほど深く堕落が浸透しているかを示すには、この簡潔なレジュメで十分である。他の国々にいて、あらゆる点で丁寧なアナキストたち──すなわち、革命の点では半世紀前からずっと不在だった者たち──のわめき声にもかかわらず、その事情は変わらない。スペインの絶対自由主義運動の「直接行動主義者(アクティヴィスト)」たちが、あらゆる手を尽くしてCNT−FAIの「現状維持主義」とどれほど奇妙な仕方で闘いうるかということも、また分かるだろう。こうした現状維持主義は、一方で、スペインにおける労働者革命の壊滅的な敗北の産物であり、他方では、その敗北の歴史そのものについて、さらには、その時点でのさまざまな選択肢について深く批判しようとしてこなかった姿勢の産物なのである(この点は、アナキズムイデオロギー全般の問題に行き着くこどのようなイデオロギー的現状維持主義であれ、SIがそれを擁護したと言って容易に疑われることはないだろう。それだけにいっそう容易にわれわれには断言できるが、いかなる代価をはらっても清算しようというような刷新の企ては、はるかに有害なのである。

*1:CNT 全国労働連合 1936年からのスペイン革命の中核として活動したアナキスト労働組合。39年にフランコファランヘ党に敗北して以降、国外に亡命して反フランコ闘争を続けた。

*2:ファランヘ党  1933年にプリモ・デ・リベラによって創設されたスペインの愛国的政治的運動。内乱中の37年に王政復古を求める伝統主義派(カルリスタ)と合併し、フランコによる承認を受けた〈国民運動〉となり、以後、フランコ独裁体制を支え続けた。

*3:カミーロ・アロンソ・ベガ(1889−) スペイン内戦期のファランヘ党大佐。60年代半ばから、スペイン国内の学生・労働者の言論と結社の自由を求める民主化闘争の高揚にともない、フランコ政権はそれまでの合法的翼賛組合に民主的偽装を施すために、CNTの旧幹部を懐柔し、組合幹部に迎えたことが、この記述の背景にある。

*4:FIJL〔イベリア半島青年絶対自由主義者連盟〕 反フランコアナキストの組織。スペイン革命後の亡命者第二世代の青年アナキストの組織で、過激な武装行動で知られた。62年半ばから、ヨーロッパ各地でフランコ派外交機関へのゲリラ活動を行い、62年8月にはバスク青年分離主義者連盟(ETA)との共同行動としてサン=セバスチャンでフランコ暗殺を計画し、未遂に終わったが、それを契機にスペイン国内で激しい弾圧を受け、逮捕者30名、死刑1名を出す。その後も、ゲリラ活動を継続し、66年5月には、ローマでスペイン人司教を誘拐し、政治犯の釈放を訴えるなど、行動をエスカレートさせていった。