実践的真理を目的とすること

 新しい革命勢力に理論的かつ実践的一貫性のモデルを示そうとして、SIは、そのような一貫性を自分たちの共通のプロジェクトの最も進んだ実験段階としている──あるいはそう認識している──たちのまったくの不履行や不十分さや妥協を、除名や絶交によって、罰することを決定し、それを実行できる状態にある。新しい社会を築くことを決意して立ち上がった世代が、基本的で議論の余地のない諸原則に基づいて、あらゆる回収の試みを打ち破ることに配慮を怠らないのは、純粋さを好むからではまったくなく、単なる自己防衛的な反応にすぎない。その本質的特徴において将来の社会的組織の典型を先取りしている組織から生まれた最低限の要請とは、権力が完全に容認することに同意している者たちを容認しないことにあるのである。
 「除名」と「絶交」という反応は、その積極的な側面において、SIへの加入の問題と、自律した個人やグループとの同盟関係の問題を提起する。革命組織の最低限の定義について、(SI)第7回大会は特に次の点を強調した。「革命組織は、支配的世界の位階的な諸条件を自らの内で再生産することをすべて拒否する。この組織の完全な民主主義に参加するための唯一の限定条件は、その批判の一貫性をメンバー全員が認識し、自ら評価することである。この一貫性は、本来の意味での批判理論のなかにも、この理論と実践的活動との関係のなかにも存在しなければならない。それは、観念が持つ分離された権力であり分離された権力が持つ観念でもあるあらゆるイデオロギーを根底から批判するのである。」
 批判の一貫性と一貫性の欠如への批判とは同じ1つの運動であり、この運動は、1つの同盟のなかのさまざまなグループのあいだや一組織内の諸個人のあいだ、あるいはその組織のメンバーの理論と実践のあいだに分離が入り込んだ瞬間に、破壊され、イデオロギーとして固定してしまう。われわれが参加している全面的な闘争において、一貫性の前線でわずかでも譲歩することは、あらゆる戦線で分離が優勢になるのを黙って見ているのと同じである。それゆえ最大の注意深さが要求されるのである。われわれの一貫性を決して既得のものと見なさないこと、個人的行動と集団的行動の基本的統一におけるこの一貫性を脅かす危険に対して常に目を光らせ、この危険を予測し回避することが求められているのである。
 われわれのあいだに秘密の分派が形成されえたことのみならず、それが即座に暴露されたということは、個人間の関係の透明性に関してわれわれが示してきた厳密さと厳密さの欠如とを十分に示している。別の言い方をすれば、それは、SIの威光が本質的に次のことにあることを意味する。すなわち、SIは、その弱点を示した後に訂正するという否定的な意味でも、その誤りの訂正から新たな要請を引き出すという積極的な意味でも、手本になることができるということである。人物について間違わないことが重要だと、われわれはたびたび言ってきた。そのことをたえず証明し、それによって、〔他人が〕われわれについて間違うことがありえないようにいっそう努めなければならない。個人について当てはまることは、集団についても当てはまるのである。
 ソクラテスが若者の1人に語りかけた言葉はよく知られている。「君のことが解るように、少し話してみたまえ」と彼は言った。われわれの活動の模範的な性格によって、支配的なスペクタクルのなかで、それに対抗するわれわれの存在の伝播力が確実になるなら、われわれはこのソクラテスのような輩も若者のような輩も避けることができる。われわれを指導集団として紹介するために仲良く一緒にやろうとしている哀れな連中と回収の首領どもには、常にいっそう過激化した反位階的な手本を対置するのがよいだろう。われわれの経験はすべて包み隠さず示さねばならない。そして、われわれの方法とわれわれの批判テーゼ、われわれの扇動手法を普及させることによって、日常生活の解放という集団的プロジェクトの現実に関してあたうるかぎりの透明性を築き上げなければならないのである。
 SIは、全世界の革命的衝動からの運動を受けとめて、統一的なやり方で事態のラディカルな展開を加速する1つの中心軸として行動しなければならない。遅れた部門(セクター)の者たち(共同戦線や国民戦線や人民戦線)が何よりもまず戦術的統一をあくまで追求しようとするのとちがい、SIとSIと同盟した自律的な諸組織とは1つの有機的な統一を追求するなかでしか出会うことはできないだろう。戦術的統一が有効性を発揮するのは有機的統一が可能な場合だけであるからである。集団であれ個人であれ、それぞれが、事態の過激化の速さに合わせて生きなければならないが、それはそれらの事態を今度は自分から過激化するためである。革命的一貫性とはそれ以外の何物でもない。
 確かにわれわれはまだそのような調和のとれた前進からは程遠い、だが、われわれがその作業に取りかかったこともまったく確かなことである。最初の原則からその実現までには、さまざまなグループと個人の歴史があり、その歴史はまた実現の可能な遅れの歴史でもある。実際の参加における透明性だけが、一貫性に重くのしかかる脅威──遅れが分離に変形されること──を押しとどめることができる。シチュアシオニストのプロジェクトの実現からいまだになおわれわれを分離しているものはすべて、われわれが生きている古い世界の敵意によるものだが、この分離に対する意識のなかにはそれを解決することになるものがすでに含まれている。
 ところで、まさに分離に対してなされる闘争のなかにこそ、さまざまな度合いで遅れが出現してくる。そのなかでは、遅れについての無意識が分離の意識を曇らせ、一貫性の欠如を生み出すのである。意識が腐ると、イデオロギーが漏れ出てくるのだ。われわれは、それらを大事に抱え込んでいる者たちを目にしてきた。1人(コターニイ)は自分の分析の結果を抱え込み、時間よりも水時計の方が優れているとでも言うかのように、ちびりちびりと小出しにしていた。それ以外の者(つい最近、除名された者たち)は、あらゆる点での欠陥を抱え、尾っぽもないくせに孔雀のように威張り散らしていた。神秘主義的な待機主義と平等主義的な統合運動(エキュメニズム)は同じ悪臭を発していた。だから、不治の病の道化たちは、手品のようにあっという間にいなくなった!
 遅れの概念は遊びのやり方に属するものであり、遊びの進行係の概念とよく似ている。遅れの隠蔽、あるいは経験の隠蔽は、威信という概念を再び作り出し、遊びの進行係をボスに変えようとして、紋切り型の行動──神経症的な後遺症や苦悩する態度や非人間性などを伴った役割──を生み出す。それとまったく同様に、透明性は、〔フーリエの〕ファランステール*1で遊ぶ者たちのように、十分計算された無邪気さを持って共同のプロジェクトに参加することを可能にする。彼らは互いに競い合い(複合情念)、活動を変えながら(移り気情念)、最も進んだ過激さに達することを期待する(密謀(カバリスト)情念)*2のである。だが、軽さの精神は、重みのある関係の理解を経由するものである。軽さの精神には、各人の能力に関する明晰な洞察が内包されている。
 各人の能力について、われわれが知りたいと思うことは、それをどのようにして革命的に利用するかということ以外には何もない。その利用は日常生活のなかに意味を持つのである。問題は、ある者が他の者より上手に生き、思考し、セックスをし、銃を撃ち、話をするということではない。いかなる同志も、自分の遅れを隠し、虐げられた少数派を演じ、まさに自らの欠陥によって他の同志に付加価値を認めるという口実で、無能の民主主義──そこで彼らはもちろん自分たちの支配権を確立するだろう──を要求できるほど下手に生き、思考し、セックスをし、銃を撃ち、話すことはできないということこそが問題である。別の言い方をすれば、少なくとも、それぞれの革命家は自分の持っている最も貴重なもの──個人的な実現を達成しようとする意志、自分自身の日常生活を解放する欲望──を防衛する情熱を持たねばならないということである。
 もし誰かが自分の能力の全体を自らの創造性、夢、情熱のための戦いのなかに投入し──したがって発展させる──ことを断念し、そしてそれを断念することで、結果として自分自身を断念するなら、その者は自己の名において語ることも、いわんやあらゆる個人の実現の機会を抱えている集団の名において語ることも、自らに禁じることになってしまう。除名や絶交は、犠牲に対する彼の好みや彼の行った不正の選択を、彼に欠けていた透明性の論理に従って公的に具体化したものにすぎないのである。
 加入についても、同盟関係についても、革命的プロジェクトに実際に参加した例があるかどうかが決定的に重要である。遅れについての意識、分離との闘争、より徹底した一貫性に達したいという情熱、これらのものが、われわれの内でも、Slと自律的集団や未来の連盟との間でも、客観的な信頼の基礎とならねばならない。われわれの同盟者が革命的条件の過激化においてわれわれと競い合うことは、当然期待すべきことであり、それは、シチュアシオニストに合流することを選択した者たちがシチュアシオニストと競い合うのをわれわれが期待するのと同じことである。予想されることだが、ある程度まで革命意識が広まったときには、それぞれの集団が一定の一貫性にまで到達しているはずで、参加者全員の遊びの進行係としての資質や遅れという取るに足らない性格に規定されることなく、それぞれの個人がさまざまな選択肢から自分の道を選び、感情的な共通点に従って組織から組織へと移動する権利を持つことになるだろう。だが、SIの一時的優位はやはり考慮に入れなくてはならない事実であり、それは目に見えない革命の野生の猫(タイガーキャット)のあいまいな微笑みのように、幸運な不幸とでも言うべきものである。
 インターナショナルは今日、理論的かつ実践的な富を有しているが、それは革命家の全員によって共有され、自分のものとされ、変革されなくては成長することができない(SIと自律的グループの方が革命の富のなかに姿を消してしまうまで)。それゆえ、それが迎え入れなければならないのは、事情を心得た上で参加したいと望む者だけである。すなわち、誰であれ、自分のために話したり行動することが、他の多くの者のためであることを証明した者である。そのやり方は、自分の詩的実践(ビラ、暴動、映画、扇動、書物)によって体制転覆的な勢力を再編成させることであってもよいし、集団が過激化してゆく経験のなかでただひとり一貫性を持ち続けたりすることであってもよい。それゆえ、SIへの参加の適不適は、議論すべき戦術上の問題ということになる。つまり、遊びの進行係の1人を委譲できるほど集団が強いか、遊びの進行係しか決定権を持たないほど集団が破綻しているか、あるいは、避けがたい客観的な事情によって遊びの進行係が集団を形成するのに成功しなかったかということが議論の的となるだろう。
 新しいプロレタリアートが自己の解放を実験しているところではどこでも、革命的一貫性における自律性は全面的自主管理に向けた第一歩である。われわれがわれわれ自身についても世界についても保ち続けようと努めている明晰さは、組織の実践において、どんな正確さや警戒も余計ではないということを教えてくれる。自由の問題について、細部の誤りはすでに国家の真理なのである。

ラウル・ヴァネーゲム*3

*1:ファランステール シャルル・フーリェの唱えたユートピア的な生活・生産の協同社会単位。ファランジュ、ファランクスとも呼ばれ、農業を主とする農工の生産分配消費を共同に行う800人あるいはその倍数を収容する大施設を建設し、全世界がこの多数のファランステールの相互連合体によって構成されることをめざした。それぞれのファランステールでは本能の自発的発現、全体と個人の調和、愉快な労働、両性の解放、幸福と調和の実現が成し遂げられると考えられた。

*2:複合情念、移り気情念、密謀(カバリスト)情念 どれも、フーリエが「四運動の理論」のなかで述べている、人閻の12の基本情念の1つ。音階と同じく12から成るこれらの情念は、5つの感覚情念(「五感の十全かつ直接的な行使をめざす」もの)、4つの感情情念(「恋愛、家族愛、友愛、野心」という「集団への欲望」を含む情念)、3つの配分情念(系列への欲望を含む情念)に分かれ、「複合情念」、「移り気情念」、「密謀情念」はこの最後の配分情念を構成する。「移り気情念」とは「交替情念」とも呼ばれる。それらは、「ほとんど知られておらず、限りなく貴重であるにもかかわらず、最悪の肩書きしか持っていない」と、フーリエは述べている。

*3:ラウル・ヴァネーゲム(1934−) ベルギー生まれのシチュアシオニスト。1952年から56年までブリュッセル自由大学でロマンス語文献学を勉強。61年から70年までSIベルギー・セクションで活動。67年に出版した「若者用処世術慨論」は、ドゥボールの「スペクタクルの社会」とともにシチュアシオニストの書物として爆発的に読まれた。シチュアシオニスト以降の著作に「快楽の書」(79年)など。参照